ぼくは空を仰ぐ
 祖父の書庫を漁っていた彼は、一度その作業をやめて、動力の切れたロボットのようにぽとんと床に腰を下ろした。行儀悪く足を伸ばしても、それをとがめる人間はこの場にはいない。
 出入り口と、人がぎりぎり通れるほどの僅かな幅の床と、天井以外の全ての壁を本棚で封じられている書庫は、内部に書店のごとく飾り気のない木製の本棚が等間隔に置かれている。ただ書店と違うのは、全ての本が古めかしく、色あせていること、古書独特の年代を経た紙の匂いが室内に充満していることだった。つまり古書店風なのだ。
 彼は、この祖父の書庫が大好きだった。
 室内に充満する埃っぽい古紙の香り、最近の本では感じられない楮(こうぞ)や構(かじのき)・雁皮(がんぴ)の香り、古いインクの香り、唯一の窓から入る日光が、空気中の塵芥(ちり)をキラキラと照らす様子、色あせた書物の背表紙に綴られる呪文のような不思議な古めかしい文字。確かにこの部屋が、この本棚が、この書物が、重ねてきた年代をしっかりと感じることの出来る、まるで己の生まれる前の、遠く過去へ足を踏み入れるような不思議な感覚。
 そうして重ねられた年月を、人間のように偽ることもなく繕うこともなく、ただ淡々と月日の洗礼を受けて劣化した本を修正していく祖父の手は、医者のようにも魔術師のようにも見え、彼には神聖なもののように感じられた。
「人に読まれるためにあるのだからな」
 そう言って、初めて母に買ってもらった絵本に染みをつけてしまい、ページが捲れなくなって泣いてしまった彼を慰め、書庫の本と同じように年月を経て老いた手で撫でてくれ、絵本の染み抜きをしてくれた。魔法みたいです、と彼が言うと「表具屋の真似事だ」と祖父はおどけて言った。
 はがれかけた糊を、新しいボンドで丁寧に再生し、どうしようもない部分はカバーを全て剥がし、手馴れた手つきで祖父は上背製本の絵本を修正してみせた。
 本を治療している時にのみかけられる鼈甲の老眼鏡が、組み手で相手を叩きのめす老いた手の繊細に動くさまが、まるで魔法使いのもののように幼い彼の目には映った。書庫は魔法使いの部屋で、祖父は魔法使いのようだと思った。



→To Be Continued