今、跡部の唇には、甘い香りを伴った、すべらかでなめらかでしっとりとした、ふっくらと柔らかいものがくっついている。 テニス部の人間は、その様子を呆然と見ていた。 すぐ間近にいた日吉に、頬を染めるとかそういう反応はなく、全身の血を抜かれたかのように真っ青だった。 つまり、それほどありえない現象なのだ、これは。 白い繊手が跡部の胸倉を掴んでいたが、ぷは、と、なんとも色気の無い音を立てながら唇と手とを跡部から離した。 そして、御陵院=Damrosh=茜は鳳と同程度の身長を持つ、絶世の美青年に嫣然と微笑む。 しかし、その背からは、どすぐらい黒いオーラが噴出されている。 先ほどまでの晴天とは打って変わり、ごろごろと遠くで雷の音がしていた。 澄み切っていた空は、薄暗くなり、暗雲が垂れ込め始める。 そんな中で跡部は、跡部らしからぬ様子で恐る恐るといった様子で未だに何が起こったのかわかっていない様子で、自分の唇に触れた。 「私には景吾がいます」 茜は見せ付けるように跡部の腕を取り、うっとりと寄り添った。 が、背中から暗黒の流出は止められなかったらしい。 天気がどんどん悪くなっているのは茜の機嫌が悪くなっているからだろうか。 「そうっか。うーん、王子より一財閥の直系曾孫の跡部クンを選ぶんだね。王女になれるチャンスなのにさ」 「幸せというものは王族かそうでないかで決まるものではありません」 「ふぅむ。跡部君がすきなんだ?」 「ええ――(家族以外では樺地と鳳と日吉と友人とペットの猫とテニス部員の次くらいに――)――好きです」 ピシャーン! と雷が近くに落ちた。雨が降るのも時間の問題か。 「ふん……まあ、いいよ。今日は引く……跡部君、俺は 御陵院=Damrosh・弥永・Hildebrandtヒルデブラント= 絆って言う。長いけど覚えておいてよ。忘れたら後悔すると思うから」 絆は、にっこりと、艶のある、それでいて女性らしい線の一切無い、白く透く肌と形の良い引き締まった唇と、栗色の長い睫毛と、やはり栗色の蜂蜜でも垂らした様な艶のある髪と、形の良い鼻梁とを持って、笑った。 ちなみに、茜の母親の名前が最も長く、茜が父親に次いで短い名前だ。 ※ 母親 > 絆 > 祐 > 茜 > 父親 ←こんなかんじ。長いのはミドルネームだけ。 絆が帰り、騒然となったコート。 コートの中心で怒りを叫ぶ跡部。 「てめぇ! 何で俺を巻き込みやがった!?」 茜の切り返しは速やかだった。 「私だって樺地か日吉か鳳が良かったわよ!」 何とも跡部がかわいそうな台詞を本気で憤慨しながら叫んだ茜の瞳は潤んでおり、跡部はそれ以上強く言う気が失せてしまう。 俄然、断然、旺然、容姿で得をしまくる女、それが御陵院茜だ。 栗色の髪を揺らしながら涙を浮かべた瞳で跡部を睨みつける。 「ああ、ああ、もう! 何で跡部なんかにファーストキスをあげなきゃならなかったのかしら! そうよ! 全て絆お兄様の所為よ! 大体、日吉や樺地や鳳は可哀想で巻き込めないわよ! ああ、もう、跡部が中途半端に迷惑をかけても平気な立場にいるから悪いのよ! ああ、かわいそうな私! 可哀想な私のファーストキス……!」 言うが早いか、茜はぺたりと白く細く美しい足を折り、コートにしゃがみこみ、さめざめと泣いた。 なんだこいつ ぽろぽろとその瞳から零れ落ちる宝石のようなきらめく涙に、男子も女子も同情的な視線を茜へ向けた。 微妙に跡部に非難の視線が集まっているような気がしないでもない。 跡部は絶対的被害者であるのだが、泣いている絶世の目も眩むような美少女と比べられれば、それは怒っている跡部へ批難が集まろうというものだ。 跡部は実際全く少しも何も悪くは無いのだが、世の中と言うのは得てしてそういう物である。 「で、何で、あんなことになったんですか?」 日吉は、少しも悪びれず、妙にうんざりとした雰囲気で泣き崩れた茜にヤンキー座りでタオルを差し出しつつ問う。 そう、部員は全員何故あんな事になったのかわからなかった。 絆が現れて、茜が何かいい、練習中の跡部を引きずって、いきなりキスをぶちかましたのだ。 日吉のタオルを受け取り、それを顔に押し付けながら、くぐもった声で茜は言った。 「婚約者……を、お兄様が勝手に決めてきたのよ……王子だなんて……好きな人がいるとか、付き合ってる人がいなきゃ、断れるわけ無いじゃないの。断る時点で失礼だけれど……あったこともない男と……しかも言葉が通じない男と……しかも……35歳も年上なのよ!?」 ああ、そりゃ致命的だ。 とりあえず、日吉と鳳と樺地と加藤は、自分が茜に気に入られている事を知っていたので、 とりあえず、しゃがみこむ茜を宥め、 とりあえず、落ち着くよう促す。 加藤が、遠慮がちにスポーツドリンクを差し出すと、ひくっと喉を鳴らして茜はそれを受け取り、ごくっごくっごくっごくっごくっごくっごくっごく――と一気飲みした。 飲みきれなかった雫が白い喉を伝い、ユニフォームに染みを作る様は、幻想的なまでに美しく、どこか艶かしい。 が、本人はとりあえず子供泣きしているだけである。 「う、う、うううううううううう……っ」 元・女帝は、子供のように泣き喚く。 樺地は、自分のシャツが涙で濡れるのもお構いなしで華奢な身体を抱きとめた。 今更ながらに、茜が兄を苦手としていることがよく解る。 手法も言動も随分と強引な茜だが、おそらく、兄に鍛えられたのだろう。 だが、いつまでも泣いている女帝ではなかった。 急に立ち上がると 「ドリンク、おかわり」 と華奢な白い繊手を伸ばす。 図々しくも偉そうに。 赤い瞳で睨むように。 「あ、はい……っ」 鳳が従者のように慌てて未開封のペットボトルを差し出すと、仁王立ちで、再びごくっごくっごくっごくっごくっごくっごくっごくっ――と一気飲みした。 そして、空になったペットボトルを投げ捨てる。 空っぽになったそれが、かっこーん、といい音を響かせる。 それを慌てて拾う鳳。 勿論きちんとゴミ箱へ捨てたのも鳳だ。 そして、ずかずかと、それでも綺麗な歩みで跡部の元へ歩くと、その襟首を引っつかむ。 詩集のページをたおやかに捲るのが世界で一番似合いそうな白く美しい繊手だが、今日は跡部の襟首を掴む用途にばかり使用されている。 なんとも腕の持ち腐れというものだ。 そして、未だ呆然としているテニス部員&跡部に向って高らかに宣言した。 「誰が、ロリコン趣味の脂ぎった50歳の日本語もイタリア語もフランス語も英語もドイツ語も中国語も喋れない働きもしないすねかじりの第三王子になんか嫁ぐものですか! ――跡部! こうなったからには婚約の話が消えるまで私の恋人のふりをしてもらうわよ!! 失敗したらただじゃ置かないから、覚悟しておくのよ!」 ぽかん……と、跡部も部員もほうけた顔を浮かべたが、誰よりも早く 茜の言葉を処理した跡部は、心底嫌そうに顔をしかめた。 「だから!俺を巻き込むんじゃねぇよ!」 そして、茜の襟首を掴み返す。 「うるさいわね、今更じゃないの! もう遅いわよ! さっさと覚悟を決めなさい! 男でしょう?! 大体私がそんな獣の様な馬鹿に嫁がされていい女だとでも思っているの?! 思っているのだったらそんな役に立たない脳みそはくりぬいて忍足に食べさせるわよ!?!」 茜は跡部の胸倉を掴んで、咆えた。 とりあえず、同情の瞳は忍足がかっさらう。 そうして、公然と、秘密の似非カップルが誕生した―― ものの。 「邪魔よ跡部、消えなさい」 「あぁ? てめぇが消えろ」 より一層険悪になった二人に、テニス部の士気は下がりっぱなしである。 |