付き合う―― (1) 交際する。 (2) 義理で人といっしょに行動する。 (1) 交際する。 私は国語辞典の付き合うの項目に――特に交際するの部分――に筆記用具で何度も線を引いた。 それから、今度は“交際”の項目を引く。 〈スル〉 つきあい。 つまり、付き合い=交際=付き合う=交際。 手は繋いだ。 一緒に帰れる時は一緒に帰ってる。 登校は私がテニス部の若にあわせて毎朝一緒。 お昼も、まどかちゃんと食べることも多いけど、でも、教室とか、学食とかで、出来るだけ若とも一緒に食べてる。 たまにだけど、お互いの家にも行ったりしてる。 けど…… 私は机に顔を突っ伏して、左手で辞書を開いたまま右手の筆記用具を手放して、机の上に転がす。机がヒンヤリしてて気持良い。 エアコン嫌いの若に習って私もエアコンはあまり入れなくなったなー、と熱い中で思う。 頭部の髪が異常に暑苦しく感じられて髪を切ってしまおうかとぼんやり思いながら目を閉じる。 別に、特に自分がハレンチ? だとは思わないけど 私だって好きな人に触れたいと思うし。 私だって健全な女子中学生だし。 若はあんまりそういうことしないけど、でも、若も多分健全な男子中学生だし。 ていうか、皆は、ねだるのかな。 それとも、いきなりして、いいのかな。 私は答えの出ない問題に溜息を一つ。 パパとママに聞くには恥かしすぎる。 えーと、まあ、つまり、ぶっちゃけてしまいますと “ 若と ちゅーしたい。 ” と、言うコトなんですが。 どうやってすればいいんだろう…… もしくは、どうやってしてもらうんだろう…… 私は盛りのついた猫かー? 、と思って頭を抱える。 何となく自分がすっっごいえっちぃ子に思えてきた。 普通、みんなはどうなんだろう……わかんないよー…… ちょっと絶望的な気分で唸る。 机に突っ伏して頭を抱えて「うーんうーん」と唸っていたら、晩御飯を伝えに来たパパが病気と勘違いして危うく病院に連れて行かれそうになった。(親ばかだなぁ……) そういえば、私が食べ過ぎてお腹痛いって言った時も病院に連れて行かれたんだった。 ああ、もう、なんだかな、どうしようかな。 でも、したいんだもん! こうなったら直球勝負だ! 、と心に決めて黒鯛のカルパッチョを口に入れた。 ◇◆◇ 美術室でシンナーやペトロールやニスの染みたちょっと刺激的な匂いを嗅いでいるとなんだか懐かしい。最近は、ここに来ると自然にほっとしたりするほど、この匂いに慣れてきて、実力はないけど部活も楽しい。 アクリル絵の具でキャンパスにぺたぺた色を乗せていくと点描画のハズなのに、点というよりも円というか、大きな塊になってしまう。アクリルを水で薄めた感じが好きじゃなくて、つやつやになるのがお気に入りのグロスメディウムで色を少しだけ薄めて、またペタペタ。 アドバイスをくれる顧問の先生は、今日はお休みなので、みんな好き勝手に絵を描いている。と、言っても、私のほかにニ人しかいないけど。 ”小曾根さんはペンキを塗るみたいに塗っちゃうけど、それはダメよ。筆を立てて、こう、ね”と、顧問に言われた言葉を思い出してまた色を乗せていく。 (ああ、ちゅーしたいなあ……) はふ、と溜息を一つ。 ダイエットの事もあって何か食べた後は必ず歯磨きしてるし、エチケットスプレーもいつもポケットに入ってるし、べろを綺麗にするラムネみたいなおやつだって食べてるし、息リフレッシュなガムだって噛んでるし。 リップクリームだってこまめに塗ってるし、色の付かないべたつかないの選んでるし。 (若とちゅーしたい……) ああ、もう、ホント、悶々としちゃうよ。 若は、こういう気持とかないのかなあ。 私、が変なのかなあ。 不意に顔が近付いたときに、若はどきどきしたりしないのかな。 私はいつだって死にそうにドキドキしてるんですけど。 私だけなのかなー…… ぎゅう、と目を瞑って色々考えてみる。 家に来た若に、ママは「美術部の先輩さん?」と聞いた。 それほど、若は礼儀正しくて落ち着いていて私なんか比べ物にならないほど外見的にも内面的にも大人びているよーな気がする。 若は大人だから、だから、余裕があるのかな。 「……悔し」 私だけ若を好きみたいだ。私ばっかり若を好きみたいだ。 若が誰とでも付き合うような人間じゃない事は解ってる。いやもう女子との仲の良くなさを見ていると、不敵すぎるほどに素直な所を見ていると、大人以上に筋を通そうとする所を見ていると、馬鹿な私でも若をずっと見てたから、いい加減な人じゃないって、それくらいはわかる。 でも、お互いの「好き」に温度差があるのかもしれないって、思う。 私の好き、と、若の好きは違うのかもしれない。 例えば、私が百パーセントの愛を持っていて 十パーセントを美術に 四十パーセントを家族に 五十パーセントを若に 振り分けているとして――これは本当に喩えだから比べようもないけれど―― 若は 五十五パーセントをテニスに 二十パーセントを古武術に 二十パーセントを家族に 五パーセントを私に 振り分けているのかもしれない。 勝手な想像だけど。 若はきっと、こんな風に悶々としたりしないんだろうな。 私だけなんだ。 (なんか、すごい悔しいし虚しい……) 私だけ若とキスしたくてこんなに悩んで苦しむなんてずるい。 だって、付き合ってるんだよ? それって、一緒に学校に行く以上の事がしたいから、好きだから、じゃん。 したいものはしたいんだよー……若は思わないのかな。 若は浮気とか嫌いなタイプだってのは解ってる。 だから、私以上に好きな子が出来たら、きっと若は私に別れを切り出すんだろう。 いつか来るその日の前に、若の最初のキスくらい私にくれたっていいと思う。 (ふられるの前提で考えてる時点でどうなんだろう……) でも、若がそういう雰囲気を作った事はないし、ちょっと顔が近付いてもすぐに離してしまう。私が、ちょっと頑張って顔を近づけてみても、何でもないみたいに距離を置いてしまう。 元々身長差があるから、顔近づけるの大変なのに地味な努力に全く気付いてくれない若がたまにちょっとだけ嫌いだったりする。 私がどれだけどきどきしてやってると思ってるんだ! ……もしかして……私とキスするのが嫌なのかな。 だから、キスしてくれないのかな。 だから、顔を近づけると逃げるのかな。 そんな事を考えていたらすごく哀しくなってきて、瞑っていた瞼に更に力を入れる。 と、 トン、と一瞬だけ眉間に軽い衝撃。 何だろうと 「皺を寄せるな」 目を開けると 「癖になって跡が残る」 若がいた。 ビ ビ っ た ! 本気でビビったよ! どっきーんて心臓がしたよ! こ、こんな事考えてるときに急に来ないでよー…… 「部活は?」 どきどきしつつ、顔をカンバスに向けて、眉間を撫でながら、赤くなってるかもしれない頬を髪の毛で隠す。それから、なんでもないように聞いてみる。 「レギュラーと準レギュラー以外は終わった」 「そか。今、道具片付けるから少し待ってて」 「いや、描いていていい」 そう言って、私から離れた若は美術室の長い作業机に鞄とテニスバッグを置いた。 それから背のない木製の椅子に腰掛けて、若にしては行儀悪く机に肘をついて、掌に頬を乗せて“描けよ”と視線で訴えてくる。 「でも、今日中には終わらないよ?」 「解ってる。いつも待ってもらってるからな。俺もたまには待つ。それ、香奈が文化祭で展示するんだろ」 「うん、展示するやつ――ありがとう。でも、熱いでしょ? この部屋、顧問の先生の意向で空調無いんだから」 絵を描いている二人の先輩たちは体操服の袖や裾をまくっているけれど、若を待っていた私も、部活の終わった若も制服で。特に長ズボンの若は熱いだろうなと思う。 けれど、若は、そんなに暑さを気していない様子で「別に」と答えて私の絵をじっと見ている。 そんな事を言っていて暑さを思い出した私は制服のシャツの裾をぱたぱたと摘まんで風を送りながらまたカンバスへ向かう。 黙々と手を動かしてカンバスに点を描いていたけれど、若の視線に、何だか落ち着かない。あんまり上手じゃないから見て欲しくないって言うのもあるけど…… 私がキスしたいとか思ってる事を見抜かれそうで。 そんな事を思ってる事がバレたら嫌がられそうで。 若は私とキスしたくないのかなとか考えちゃって。 パレットの上に何度も絵の具を出して色を作ろうとしても、綺麗な色が作れなくて。 溜息。 「ダメ。ちょっと行き詰まっちゃった……今日は終りにする。ちょっと待ってて」 パレットの絵の具をティッシュでふき取ってゴミバコに捨てて、まだ残ってる絵の具を水で洗い流して、筆も流水で丁寧に洗って、美術室の水バケツも適当に洗って流す。所定の場所にしまうと、私物を一式セットにしてロッカーに入れた。 片付けが終わると、私は、行こう? と若を促す。 「おつかれさまでした。お先に失礼しますー」 私が、ぺこ、と頭を下げると、若はゆっくり立ち上がって、鞄とテニスバッグを肩にかけて「失礼します」と声を掛けて、一緒に美術室を出た。 並んで廊下を歩く。 たまに、上履きのゴム底が廊下のタイルと擦れてキュ、と甲高い音を立てた。 昇降口で靴を履き替えて校門をくぐると私は意識して少し手の位置を上げて、こつ、と私の手の甲と若の手の甲が触れ合うと、手をその高さに保つ。 そうすれば、若が、そのうち握ってくれるから。 けれど、今日はいくら歩いても、手を握ってくれなかった。 仕方ないので、私から、若の手に指を絡める。 若の手が、少し驚いたようにピク、と動いた。 シャワーを浴びた後だからか、若から石鹸の匂いがした。 駅に着くまで、あと三分くらい。 「今、手、湿ってるぞ」 ちょっと嫌そうな感じで若が言うのに、私はちょっと笑ってしまった。 潔癖症じゃないけど、綺麗好きっぽいというか、若らしいな、なんて。 「私も湿ってると思う」 この熱さじゃ、誰だって汗が滲んでると思う。 あ、そっか、私は、若の手を握ってても嬉しいだけで何も思わないけど、若はべたべたするよね……ああ、気付かなかった。 「この暑いのに手とか繋ぐか、普通」 溜息と一緒に吐き出された言葉に、今更失敗したかなとか心配になってドキドキしながら聞いてみる。 「いや?」 「嫌だったら振り払ってる」 つっけんどんだったけど、私を見もしなかったけれど、それでもその言葉が嬉しくて、私は思わず笑ってしまう。 私は本当に若がすきだなあ、って。 若も、湿った手を繋いでくれるくらいには私のことを好きでいてくれてるんだ。 さっきまでうじうじ悩んでいたのに、今は何だか幸せを感じたりとか。単純だけど、嬉しいなって、思う。 今なら、作戦を実行できそうだ。 「若、寄り道して、い?」 「どこに?」 「公園」 「好きにすればいいだろ」 「ありがとう」 きゅう、と若の手を握って、いつもは曲がらない道を曲がって、住宅の中の小さな公園へ向う。 ああ、ドキドキする。 なんて言えばいいんだろう。 ちゅーしたいとか、そのまま言ったらはしたないとか怒られそうだな。 握った手から、私がドキドキしているのが伝わったらどうしよう。 顔が赤くなってないか心配になって、視線を地面に向ける。 結んでいない髪がさらりと肩から落ちて、顔を隠した。 今日も暑い。 今年は、一緒に、お祭に行きたいな。 若と一緒に。 じわりと滲んだ汗を手の甲で拭う。 坂道にあるせいで、少し高い場所にある公園。 その階段を、若の手を離して、恥ずかしさを隠す為に一段一段ジャンプするように勢いよく上った。 「見えるぞ」 それが何のことを言ってるのかすぐにわかった。 「嘘っ見えた!?」 ば、っとスカートの後ろを抑えると、若が少し困ったように私を見上げて、それから階段に足をかけて、段へ視線を降ろす。 「間違えた。見えそうなんだ。まだ見えてない。」 そう言って、それでも一応気を使って視線を落として階段を上ってくれる若。 私は念の為スカートを抑えて、足早に階段を駆け上る。 最上段で足を止めて、テニスバッグを担いで昇ってくる若の頭のつむじを眺めたりとか。 ああ、どきどきする。 成功するかな。 あと、二段で若が私と同じ段に足を掛けると言うところで、私は若を呼ぶ。 上手くいくかな。 「なんだ?」 呼ばれれば、律儀に尋ね返す若。 会話をするときはいつも人の目を見る。(これがちょっと怖いときもある) 私と若の身長差は、この階段二段分位だと、目測。 声をかけたタイミングもバッチリ。 私の目測もバッチリ。 顔を上げなくても、若の顔がすぐ近くにあった。 色々考えたけど、やっぱり、言うのは恥ずかしい。 なら 「……、……」 唇が、微かに触れるだけの。 唇が離れるか離れないか、そんな時。 「……苺?」 とりあえず疑問に思った事が口に出てしまったというような若の声が耳に入った。 そう、今日のリップクリームは苺の香り。 いつもなら笑っちゃう所だけど、心臓が痛いくらいばくばくしてて。 どくどくと血の流れる音が、聞こえるくらいで。 急に泣きそうになってきた。 ああ、どうしよう! 「わたし、かえる!」 呆然と立っている若を置き去りにして一気に階段を駆け下りた。 全力で逃げる。 さっきと違う意味で心臓が痛かったし、 美術室で水を飲んだ所為でわき腹も痛かったし、 酸素不足で頭がくらくらしたけど、 ぁぁぁああああああ! 叫びたい! よくわかんないけど! 恥ずかしい! ごめんなさい! すみません! ごめん若! こんなに走ったの、体育の授業でもないかも……! ◇◆◇ 駅の改札口まで辿り着くと今更ながらに自分の行動が恥かしくて泣けてきそうだった。 ああ、 でも、 わたし、 若とキスしちゃったんだ! どうしよう! (しかも若を放置してきてしまった!) 嬉しいやら恥ずかしいやらで、もたもたと定期入れを出していると、どす、と頭に重い感触。 しかもちょっと痛い。 「ッ、んで。逃げ、だよ……、」 振り返ると、何やら全力疾走したらしい若が、ゼーハー言いながら私の頭の上に重い重いテニスバッグを乗せていた。 頭が重い……顔、上げられない。 でも今は色んな意味で顔を上げられない。 「はず、恥ずかしいから……」 「なにが?」 もう息を整えた若がちょっと苛々した感じで言った。怖いよー。 「いろい、ろ……ていうか、怒ってないの?」 「何で怒るんだよ――まあ、いい。さっさと帰るぞ」 心配になって聞いたら、やっぱり苛々した感じで答えられた。 お、怒ってるじゃん……! それから若はどこか呆れたような溜息を吐いて、ポケットから定期入れを取り出して改札口を通ってしまう。 私は頭の上のテニスバッグを手に抱えると、急いで若の後を追った。 プラットホームへの階段を登った所で、若が手を伸ばしてきて、私が両腕で大事に抱いてるテニスバッグを掴んだ。そして、私のほうを見もしないで足早にどんどん先に行ってしまう。 慌てて追いかけて、テニスバッグを肩に掛けて電車を待つ若の隣まで歩いた。 心臓はドキドキしてるけど心のほうは大分落ち着いてきていた。ああ、でもやっぱり恥ずかしい…… ちらりと見やった若の顔が、少し赤いのは、走った所為なのか、他の何かの所為なのか。 「香奈」 「なんですか若くん」 「帰りにうちに来ないか?」 「いいですよ。でもなんでですか」 時間的には余裕があるけど、若が私を家に誘うのは珍しい。 不思議に思って尋ねると、若は隣に立つ私を見た。 その視線が、いつもより低い位置にあるなあ、と思っていると。 次の瞬間には若の指に唇を柔らかく押されていた。 その指は私が驚くよりも一瞬早く引かれる。 唇に触れた熱に、頭が白くなった。 「ぇ? ……ぁ……ぇえ?」 「言わせるな」 「……ぁ……はい」 「ほら、電車来るぞ」 「あ、うん……」 顔が赤いのは、多分お互い様。 色々悩んでたのが、全部吹っ飛んでしまった。 |