困っている。 香奈に告白されて、俺も嫌いではないと答えて、付き合う事になったのだけれど。 付き合あって――交際して――いる男女は、一体何をすればいいのか。 何となく、今まで通りではいけないような気がして、今までは遠慮していた事も遠慮しなくなったりはした。例えばそれは、手を握る事だったり、一緒に昼食を食べる事だったり、お互いを名前で呼ぶことだったりする。そんな些細な事で俺と香奈の距離が縮まったのだと実感して、それだけで何だか嬉しかった。 何だか嬉しくて、それ以外のことはあまり考えていなかった。 気分よくテニスが出来たし、道場では何度も稽古をつけてもらうほど無駄にやる気に満ちていて、香奈に見せることが増えたノートは小学校のときより断然きれいに取るようになった。 俺の生活はそんな風にほんの少しだけ変わったけれど、おおむね今まで通りだった。 今まで通りでいいのか。 という疑問は付き合い始めて三週間くらいで持ち始めたのだが、だからどうすればいいのかいまいちわからない。それに、聞くに聞けない。 小説などの男女の話は、本当に自分にはまったく関係ない異次元あるいは異種族の夢物語のように思えた。 小学校時代には、早すぎる初体験の話をする手合いも少なからずいたが、俺は今のところそういう気持ちはない。興味がないこととは違うけれど、自分の思考も身体もまだそういう事に追いついていないんだと思う。香奈と一緒にいるだけで、たぶん俺はいっぱいいっぱいなのだ。 でも、やはり、緊張しながらも、香奈と触れ合えれば、嬉しい。 どうすれば、いいのだろうか。 いや、大体、なんとなく、先にする事は予想できるけれど……どうしたらいいのか。 困っている。 ◇◆◇ 「若、寄り道して、い?」 いつものように香奈と一緒に下校しながら他愛ない会話をする。付き合う前には、待ち合わせて一緒に帰ることはなかった。それだけで、俺たちの関係が一歩前進していることを感じて、こそばゆいと言うか、面映いと言うか、そんな感じだ。 「どこに?」 まだ太陽が高めの位置に陣取って汗を流すように強要しているような明るい時間帯。少し寄り道したとしてもなんら問題ない。 一応どこに行くのかをたずねると「公園」と返され、珍しい行き先にほんの少し疑問が浮かぶ。それでも、もちろん断る理由はなかったし、一緒にいられる時間が延びることが嬉しく――恥ずかしいけれど。付き合い始めなんて、そんなものなんじゃないのか? ――肯定の返事を返した。 うつむき加減で歩いている香奈の髪がふわふわと揺れ、さらさらと香奈の顔を隠す。なんだか思いつめたような様子に悩みごとの相談でもあるのかと公園に行く理由を推理していると、公園前に着く。 香奈は俺の手を離して高い位置にある公園の階段を妙に足早に登る。こいつ結構元気あるなと思ってゆっくりと後を追い――自分の立ち位置が痴漢のそれと同じだと言うことに気づいた。というか香奈が気づけ。先に行くな。スカート翻ってる。俺は下にいるんだぞ。やばい。あいつ、ちゃんと下に何か履いてるのか? 「見えるぞ」 意を決して指摘してやる。 「嘘っ見えた!?」 香奈はそう言い、スカートを押さえ――ああ、やはりさっきちらりと見えたものは短パンなどではなかったんだな――赤い顔をして審判を待つ罪人のように眉を寄せて俺を見てくる。 「間違えた。見えそうなんだ。まだ見えてない」 そう答えてやると、香奈はほっとしたように息を吐いている。 これ位ならば嘘の内には入らない、正直に言ったら慌てるだろう香奈の為の方便だ。 それよりも、俺の顔が赤くなっていないかと言う事の方が問題だ。ポーカーフェイスには自信があるけれど、香奈は変な所で敏かったりするので、念のために視線を落として、ゆっくりと階段を上る。 「若」 もう少しで階段を上りきると言うところで香奈に声を掛けられ顔を上げる。少し人工的な甘い香りがした。 「……苺?」 そう、言葉に出してから何を言っているんだと自分の言葉に呆れた。今はそんな事よりも、ごく近いところにある香奈の顔と唇に触れた甘い香りの方が重大だろう。 というか、何でこんなに香奈の顔が近いのか。 唇に暖かい……甘い香りをした香奈の吐息を、感じる。 ――え? ちょっと待て、今どういう状況なんだ!? 思考に酷く手間取って、何をどう考えるべきか、今起こった事はなんなのかと、呆然とした頭でのろのろと思考していると急に香奈が泣きそうな声で帰ると言い出して俺の脇を通って階段を勢いよく下っていった。 公園の階段に一人立ち尽くしたまま、今の出来事を反芻する。 そう、階段を上っていて、香奈に呼び止められて、顔を上げたんだ。 そして、伏せられた香奈の、柔らかく弧を描く睫毛が視界に入った。 甘い人工的な偽ものの苺の香りがした。 あの時、もしかして 香奈の唇が触れた、の、か? …… …… …… ……香奈と、キス、した、んだよな? 理解した瞬間、駆け出した。 部活でもこんなに全速力に全速力をかけたような追い詰められたような気持ちで走ることは少ない。 なんでだか、わからないけれど、このまま香奈を一人で逃がしたくないという気持ちで焦りながら、まだ明るい空の下を走り抜けた。 駅前で、逃げた香奈に追いついた時は認めたくないが正直かなり息が切れていた。 追いつけた事にほっとすると、今度は何だか逃げられた事に少しムカついてきて、香奈の頭にテニスバッグを少し乱暴に乗せた。 よく見なくても香奈がひどく赤い顔をしていて、ああ俺も今こんな顔なのかなと思うと決まりが悪くてさっさと改札をくぐる。 ――なんで、女のお前が俺より先にこういう事するんだよ……! ああなんだか本当に決まりが悪い。 追いかけてきた香奈からテニスバッグを受け取って、いつものようにプラットホームで電車を待ちながら、決まりは悪いものの、それでも、何だかこのまま香奈と離れてしまうことが急に惜しく思えてくる。 だから、何も考えずに、自然に香奈を呼んでいた。 「香奈」 彼女の名前を呼ぶと、次に言いたい事が自然と頭の中に浮かんできた。 「なんですか若くん」 緊張した敬語で返されて、ふざけているつもりなのが、よくわかった。 「帰りにうちに来ないか?」 「いいですよ。でもなんでですか」 そういう事を聞くか、普通。 本当にわかっていなさそうで、溜息をぐっと噛み殺した。電車の来訪を告げるアナウンスを聞きながら香奈の唇を視界に入れる。さすがに、答えを口にするほど俺は世慣れていなかった。 香奈の唇へ指を伸ばして柔らかく触れると、すぐにその手を引いた。彼女の唇の熱に、また一つ心臓が高鳴った。 驚いたらしい香奈が顔を赤くさせて変な声を上げている。 そうして、なるべく香奈の方を見ないようにしながら一言。 「言わせるな」 と言うか、言えない。すでに、ここまでで、俺はいっぱいいっぱいなのだ。本当にそんな事は言わせないで欲しい。聞かないで欲しい。 香奈が緊張した様子で、でも頷いているのを見て安堵しながら、ホームへ進入してくる電車の音を聞いて、ぼうっとしている香奈に声をかけた。 ◇◆◇ あまり会話もないまま家に着く。多分、お互い緊張しているからだろう。俺も何を話していいのかわからなかった。 帰宅の声をかけながら香奈に室内履きを勧めて自分の部屋へ向う途中、廊下に顔を出した母に声をかけられた。 「おかえりなさい、今日は早かったのね若。お稽古はどうするの?」 道場のほうへ視線を向けながら母が割烹着の前で手を拭きつつ尋ねてきたので、緩く頷いて返す。 「いつもの時間に行きます。あと、小曾根さん来てるから」 稽古に出る事を伝えると母は「そう」と頷いて香奈に向って微笑んだ。 「いらっしゃい、小曾根さん。後でお部屋にお茶をお持ちしますね」 「あ……お、お邪魔します。えっと、すぐ帰るのでお手柔らかに……」 香奈はさっきの事で、酷く緊張しているらしく、もたもたと意味不明なことを言った。母がきょとんと香奈を見ている。 言い間違えた事に香奈は気付いていないらしいので仕方がなく俺が言い直した。 「“お気遣いなく”だから」 「あ、え? ……ああ! あ、あの、えっと……!」 香奈が軽くパニックになっているのを見て、母が面白そうに笑っている。 「丁度、お庭の山桃が食べ頃になったからさっきもいできたの。あしの早いものだからぜひ食べていってくださいな」 母の言葉に、少しは落ち着いたらしい香奈は、照れたように笑って「はい」と小さく頷いた。母はそんな香奈を見て微笑んだ。 部屋について鞄を適当な場所に置いて、押入れから座布団を取り出して卓袱台の前に置く。 「鞄、適当に置いていいから」 「、ん」 香奈が緊張気味にぎくしゃくと頷いて、鞄を畳の上に置いた。 俺の部屋に初めて入った時、伊草の香りに感動していたけれど、今はもう、そんな余裕もないようだった。それは俺も同じで。 まだ電灯を点けなくても明るい室内でブレザーを脱いでハンガーにかけながら、今更のように、香奈をつれてきてどうするんだと自問した。 いや、どうしたいかは決まっているのだけれど。 どうすればいいのか、が解らない。 ハンガーにブレザーをかけ終えて、数秒してから香奈の対面より、少しだけ彼女に近い位置に腰を下ろす。 なんで、こんな時にかぎってこいつはこんなに無言なんだ。なんか喋れよと他力本願に思いつつ畳の上に置かれている香奈の手を見ると、自分の手をそっと重ねた。 すると香奈の手が大げさなほどびくりと震えて、思わず触れていた手を浮かせた。 「ちが……っ」 咄嗟に零れたらしい、香奈の声。 その顔を見ると香奈は酸素を求めてあえぐ呼吸困難の金魚のように口を何度か声を出さずにぱくぱくと動かした。 香奈の焦っているのか、照れているのか、そんな様子を見て、俺は徐々に冷静さを取り戻す。とうとう口をつぐんで俯いてしまった様子が、どうしようもなく――解らない、なんだこの気持ちは。なんなんだ、この感情は。 とにかく、俺はどうしようもなく、香奈を抱き締めたくなって、浮かせていた手を、もう一度香奈の手に重ねる。今度はかすかに痙攣したような香奈の手の震えが俺の手のひらに伝わってきた。 ああ、ダメだ。我慢できない。 強く、香奈の手を握る。 「……香奈」 呼びかけると香奈が顔を上げて、髪に隠されていた赤い頬がよく見えた。 握っていた手を解くと、少しだけ頬にかかっているその髪を耳にかけてやりながら目を伏せた香奈に誘われる。 「若。入りますよ」 ……そうだった。 そうだった、母がさっき山桃を持ってくると言っていたじゃないか。いや、でも、もう少し遅くても、というか、遅くしてくれてもよかったんじゃないだろうか。なんで今この時に……理不尽な憤りを母に向けつつ、それでも吐息が触れ合うほどの距離にあった顔を離し「はい」と襖一枚隔てた空間にいる母へ答えて香奈から少しはなれた。 香奈はまた俯いて、俺は喪失感にも似た脱力感と、飢餓感にも似た焦燥感に小さく息を吐く。 入室した母がてきぱきと茶を入れ「もう、今の子は山桃なんてもがないのかしらね」と香奈に声をかけ、香奈は「初めて食べます。桃だから大きいのかと思ったら小さいんですね」等と興味津々といった様子で赤く小さな実を見て感想を言い「お口に合うかしら」と母は俺の連れてきた香奈に興味があるらしい様子で山桃を勧め、香奈は赤い実を一つ口に含み「種に気をつけてねと」と母が言い――ああ、もう、どうでもいいから、早くこの会話が終われと歓談している様子に心の中で願う。 「甘酸っぱくて、美味しいです」 という、香奈の返事に満足したのか、母は俺にも山桃を食べるように言い、部屋を出て行った。 なんというか、俺にとっては台風がやって来たような感じのひと時だった。 直前で母が入ってきた為に、タイミングを見失い苛々としながら、もう、強引にいく事に決めた。 けれど、香奈が美味しそうに山桃を食べている様子を見ると、香奈がアレを食べ終えたあと声をかけるところから始めよう、と思い直して赤い実を一つつまんだ。 種に気をつけながら甘味と酸味の混じった、どこか野性味のあるふくよかな味を楽しむ。母が漬ける山桃酒は小さな頃から好きなものの一つだった。特別な席でだけ食前酒として小さなグラスに一口だけ注いでもらえるのだが、兄と二人で勝手に漬けてあるそれを母に隠れて飲み尽くして叱られたのは今では笑い話だ。 そんな事を思い出しながら、香奈の方を向くと、いまだに口をもごもごさせたまま、次の山桃に手を伸ばしていた。いつもより落ち着かなくせわしい様子だった。気持ちは解らないでもないけれど糸目なく食べ続けられては堪らない。 止めようとした俺は、けれど自分が思うより余裕がなかったらしく、思わず山桃の種を思いっきり飲み込んでしまい、少し喉が痛かった。 落ち着け、と思っても、主人の動揺を隠す気のない心臓はでたらめな拍子で存在を主張している。 とにかく、山桃をつまんだ香奈の手を抑える。そして、香奈の顔を窺うと、今まで見た中で三番目くらいに赤くなっていた。俺のしたい事を香奈はわかっているんだと、察する。 山桃から指を放し「種はいってる」と口をもごもごさせて香奈が言ってきた。 じゃあ、さっさと出せよと思ったけれど、それを言う事も、それを待つ事もなぜか我慢できなくて半ば無理やり唇を重ねた。香奈のやわらかさと熱を感じて……衝動的な自分の行動に自分でも驚いて、すぐに離れる。 心臓が強く脈打っていた。 また香奈の顔を見ると耳まで赤くして顔を俯けている。 何を言うべきか迷っていると、山桃の種を出す為の小鉢を手にした香奈は口の中の山桃の種をそこに出してから肩を大きく上下させながら深呼吸しているようだった。 俺は俺で制服のシャツの胸の辺りを汗ばんでいるような錯角さえする手で握っていた。 キスをした事への満足感もあるけれど、今は、それよりも酷く動揺している。なんだか罪悪感みたいなものもこみ上げてきた。きっと香奈も、公園の階段でこんな気持ちになって逃げたんだと思った。 しばらく口を開かずに、俺は心臓を落ち着けて、香奈は俺に背を向けて小鉢を両手で抱いていた。 大分落ち着いてくると日が落ちた所為で室内が暗くなり始めている事に今更気付いて、立ち上がって明かりを点ける。そうしながら、なんだかわからないが、さっきからずっと、やばい、を連呼している心を落ち着けるようにゆっくり息を吐いた。 ことん、と言う小さな音に、ちらりと視線をむけると小鉢を卓袱台に置いた香奈が、 俺を、見ていた。 どちらからともなく口付け合う。 少し触れて、少し離れて、香奈が照れ笑いをして、また、少しだけ、掠めるように触れて。 恐る恐るそれを繰り返す。 慣れないそれに、たまに歯が当たって、痛がって声を上げたりしながら、けれどまた唇を触れ合わせる。触れる以上はない、触れるだけの、触れる為のキスを何度もした。何度もした。多分、初めての感触に酔っていたんだと思う。でも、そんな事を考える余裕もなかった。 キスをすると、お互いの睫毛が柔らかく触れ合う事を知った。そして、お互いの鼻先が触れ合う事を知った。 手を握る事とは違う、何だか、本当に付き合っているという感じがした。 口付けの合間に、香奈が緊張で震えた、熱のこもった、熱に浮かされたような声で俺の名を呼ぶ。 その声に、ああこいつはこんなに俺が好きなのかと、その想いを感じて唾を飲んだ。 応えるように「香奈」とその名前を呼べば、俺の声も緊張で掠れていた。それを聞いた香奈が恥ずかしそうに口付けてくる。香奈の唇の熱さに俺だけではなく彼女も俺を求めてくれているのだと熱に眩みそうになりながら思い知った。 唇が触れ合うたびにどくどくと心臓が高鳴り、幼い子供が母親の手を求めるようにもっともっとと次を求めてしまう。 緊張もある。興奮もある。よく解らないけれど、もしかすると欲望みたいなものもあるのかもしれない。けれど、幸せもあって、嬉しさもあって、こうやって触れ合える事に、心が、身体が、震えるほど喜んでいると、脳だけでも心だけでもなく身体で感じる。香奈の熱が、俺に染み込んでくるようだった。 一緒にいる事が、そして、こうやって触れ合う事が、言葉にするよりもずっと気持ちを通じ合わせてくれている気がした。下手で稚拙なキスだけれど、触れた唇から直接、香奈の気持ちが流れ込んでくるような、温かすぎるほどの触れ合いに、俺の気持ちも彼女に届けばいいと、また口付ける。 ただ何度もお互いの唇を触れ合わせて。その感触を覚えるように。この感触を覚えさせるように。飽きることなく、慣れることなく触れるだけのキスを繰り返した。 「若、そろそろ稽古の時間だけど――」 時刻の経過も忘れて何度も触れ合う事を繰り返していると、廊下から母の声が聞こえた。ゆっくりと香奈から離れる。 「……用意して、すぐ行きます。小曾根さんも、もう帰るから」 答えた声が、自分で思ったよりもずっと平静で驚いた。二言三言話してから遠のく母の足音を聞きながらいつの間にか握っていた香奈の手を離す。香奈は赤い顔をして、はにかんで笑った。 「じゃあ、私帰るね。稽古、頑張って……」 「玄関まで送る」 「稽古、あるんでしょ……私はいいから支度して? 玄関までなら道とか迷わないし」 鞄を手に、香奈は立ち上がった。俺は「迷われてたまるか」と軽く笑って立ち上がり、歩き出した香奈の背を見送る。 「――えっと、また……明日?」 部屋を出ようとして、けれど俺を振り返った香奈は、どこかぎこちなく笑う。 それを見ると、さっきのように意気込むことなく、とても自然に、香奈に触れたいと思った。旬を迎えた桜桃のようになってしまっている香奈の頬に手を添えて、もう一度だけ、軽く唇と唇を触れさせる。 人工的な甘い苺の香りではなく、僅かに酸味が勝っている瑞々しい山桃の香りがした。 「また明日、な。気をつけて帰れよ」 「ぅ、ん……」 夕焼けだってもう少し慎み深い朱色をするだろう。 ばいばい、と小さく手を振った香奈を見送ってから、支度のために制服のシャツのボタンを外し始めると、今更手が震えてきて、強く握りこんだ。 ――恥ずかしい事をした。やばい。 今更、また、心臓が暴れだし、思わずボタンを外していた手で、自分の唇に触れた。一瞬、唇に冷やりとした指の温度が伝わったけれど、次の瞬間には皮膚を通して、指と唇がお互いの体温を感じあう。 それに触発されて先ほどの香奈との口付けが鮮明に脳の奥で閃き、眩暈にも似たものを感じて、強く目蓋を閉じた。 どうして、こんなに好きなんだろうか。 本当に、本当に、好きだ。 どうしようもないほど。 とめられないほど。 たまらなく。 香奈が好きだ。 香奈を好きだ。 好きだ。 熱い身体と、恥ずかしい思考をもてあまし、半ば腹立たしい気持ちで、香奈も今の俺みたいな状態であればいいと八つ当たりのように思った。俺だけがこんなに香奈のことを好きだなんて不公平すぎるじゃないか。 |