After kiss

 帰宅一番、リビングに突入してきた妹は、驚くほど顔が赤かった。
「あぁぁああぁぁ……ど、どーしよう……」
「何がー? ポッキー食べる?」
 でもまあ、どうせ大した事ないだろうと食べていた粒々苺ポッキーと限定の山桃ポッキーを両方を両方右手で掴んで箱ごと香奈に向ける。
 けれども香奈はポッキーには目もくれなかった。
「わたし……っ……私、若が好き過ぎて死んじゃうかもしれな……し、心臓が痛……」
 帰宅早々泣き出したーっ?!
 いきなり、ひーひー泣き出してわけのわからない言葉を紡ぐ妹に超焦る。
「何だそれ……え? てか泣くなよ。え、何? マジ何? ねぇ何言ってんの? ちょっとキモいんだけど。つかマジなんで泣いてんの?」
 リビングのフローリングに鞄を投げ出して座り込んだ香奈が落ち着くまで背中を撫でたりとかしてやっても、泣き止むまで十分はかかった。ちなみに泣いている理由は聞かなかった。というか、言っている事の意味がわからなかった。
 さて、今度は何をやらかしたんでございましょうか、このアホい妹は。
 こいつ、馬鹿だしなぁ……

 ◇◆◇

 若とキスした……
 思い出すだけで心臓が死にそうです。
 ホントもうやばい!
 また、涙が出そうなんですけど……

 部屋に戻ってルームウェアに着替えて、ベッドの中にもぐって、またちょっと泣いた。
 なんか、ホントにドキドキした。

 気持ちいいとか、よく解らなくて、とにかくドキドキして頭の中までドキドキして、心臓が本当に口から出るんじゃないかってくらいドキドキして、若の唇が熱くて、若の吐息が唇を掠めるたびに、よくわかんないけど泣きそうだった。
 途中で、ちょっとだけ目を開けたら、若が私を見てて、すごい、なんか、恥ずかしくてやっぱり泣きそうになった。若はすぐに目を閉じて、今度は私がキスしてくれてる若を見て、でも恥ずかしくなって、やっぱり目を瞑ってしまった。若がぎゅっと手を握るから、少し痛かった。
 やばい。思い出すと脳みそが煮えてしまう。何かわかんないけど叫びたい。

 ずる、って鼻を啜って、これが嬉し泣きだってやっと気づいた。
 気づいて、ビックリした。

 (私、若のこと、すごい好きだ……)

 付き合う前もすごく好きだなって思ってたのに、触れ合うたびにもっと好きになっている気がする。
 ああ、心臓痛い。
 若と付き合ってたら、いつかドキドキしすぎて死んでしまうかもしれない。本当に。それくらいドキドキしてる。
「私は、若が好き」
 ベッドの中で布団に包まりながら呟いてみたら、また泣きそうになった。
 ああ、もう、ホント、好き過ぎて死んじゃう。
 きゅん死にする。

 次の朝、支度を終えて、透明なマスカラ――と言うか美容液? ――を塗ってたら、お兄ちゃんが洗面所に入って来て、何でだか頭を撫でられた。
「色気づいてますねー中学生が」
 ただからかってるだけだって解ってるのに、昨日の事を思い出して死ぬほど恥ずかしくなった。鏡の中の自分の顔が赤くなって、思わずうつむく。
 私ばっかり、若に振り回されてる気がする……

 今日、どんな顔して、若に会えば良いんだろう。

 そんな私の悩みも気にせずに普段どおりに時間は過ぎていく。
 朝食も終えて、歯も磨いてリビングのソファーで朝のニュースを見ながら表示されている時間をじっとながめて。
 ああっ! また一分過ぎた!
香奈? そろそろ時間でしょ。今日私もパパも遅いから、ちゃんと家の鍵持った?」
「あ、うん、鍵は、大丈夫――イッテキマス」
 ママの言葉に重い足取りで家を後にした。
 別に若に会うのが嫌な訳じゃないんだけど……ただ、なんかもう、ああ……

 電車はいつもと同じ混み込みで、若はいつものドア付近に居た。
「お……はよぅ」
 緊張して、声が尻すぼみになってしまった。聴こえたかな。
「ああ、おはよう。香奈
 声をかける前に、きちんと私を見つけ出してくれていた若は人波から私を庇いながら車両の中心の一番人の少ない所に誘導してくれる。たったそれだけの事が今日はなんだか、すごく照れくさい。
 若の後ろ頭を見ていると、若が私の方を振り返って「香奈、大丈夫か?」と聞いてくれて、いつも通りの若の様子に、私ばっかりドキドキしてるな、なんて悔しくなったりした。
「うん、若がいるから大丈夫」
 笑って頷いてみせると「そうか」って言って若が私から視線を逸らした。私は視線の逸れた若の横顔を、これ幸いとぼーっと眺めてみる。
 切れ長で涼しそうでちょっときつそうな目が、いつもより少しだけ細められてるな、なんて観察するみたいに見惚れてしまう。若って、ホントにかっこいいなあ。(好きな人だからか、私はとにかく若をかっこいいと思ってしまう。顔小さいし、背低くないし、キスした時にわかったけど睫毛も実は長いし……)
 私、ホントに、こんなにカッコイイ人と付き合ってるんだよね。だって、昨日……なんて事を考えていたら、若の唇が視界に入って、恥ずかしくなって思わず足元に視線を向けた。ああ、ドキドキする。恥ずかしい。でも――

 私、昨日、確かに、この人と、若と、ちゅー、したんだ……

 そう思っただけで、ドキドキが治まらない。
 ゆっくり視線だけを上げて、窺うようにじっと、若を見てしまう。あの唇が、私の唇に触れたんだ。
 夢じゃ、ないよね?
 私の視線に気づいたのか、急に若が私を見下ろしてきて、必然的に目が合って、思わず反射的に視線を逸らしてしまう。

香奈?」
 呼ばれて、下を向いたまま「何?」って聞くと聞きなれた声が上から降ってくる。
「具合悪いのか?」
 心配そうなその言葉に驚いて、ぱっと顔を上げて、でも、若の顔が目に入ると昨日の事を思い出してしまって、慌ててまた下を見る。
 恥ずかしくて若の顔が見れない……自分から見てるだけなら良いんだけど、若に見られるのは……ああ、恥ずかしい。っていうか、私がいきなり公園でしちゃったの、驚いたよね、きっと。あー、変に思われたかな。うー……でも、いつも通りだし、若。私だけこんなにドキドキしてるんだって思うとなんだか恥ずかしくなってきた。
「ううん? 元気だけど、なんで?」
 平常心平常心ネバーマインド! 、と心の中で唱えながら、でも顔は上げられなくてぎゅうっと鞄を握った自分の手を見る。
 私ばっかりこんなにドキドキしてるってわかったら、若は呆れるかな。それとも、変な女だって思うかな。普通、みんなはもっとさらっとかっこよくしてるのかな。ああ、ぐるぐるする。
 とにかく恥ずかしい……
「いや、何でもないなら、いい」
 めずらしく、歯切れの悪い若の言葉に何か変だな、と思っても何が変だか良くわからなくて、恥ずかしさを忘れるために顔を上げて電車の窓から外を見る。
 そしたら、私の恥ずかしさなんて全く気にしてない、爽やかな明るさのパステルブルーの綺麗な空と、しろくまみたいな雲が見えた。うん、いい天気だ。それだけでなんだか爽やかな気持ちになったりして。単純だなあ、私。
「若、すごくいいお天気だよー」
 なんて、お年寄りみたいな会話をして。私が笑うと若も少し表情を緩めてくれて、それがなんだか凄く嬉しい。
 私は、本当に、心の底から若が好き。大好き。こんなに若を好きになれたことが凄く嬉しくて、若が私を好きになってくれたことを神様に感謝したい。ああ、なんかもう“若大好き!!! ”って叫びたい。
 でも、それは何とか必死で我慢して、ちょっとだけ背伸びして、若の耳に唇を寄せると、若がいつもよりゆっくりだけどちょっと頭を下げてくれる。
「若、大好き」
 言わずにはいられなかった。

「馬鹿」
 私の告白に即座にそんな言葉が返ってくる。でも、その馬鹿の告白に応えてくれたのは賢い若くんなんだよ、なんて思ったり。ちゅって若のほっぺたにキスをすると、今度は溜息つきで「はしたないことするな、馬鹿」と叱られた。ほっぺにちゅーなんて初めてやるからすごく照れくさかったのに……でも、めげない。今の私の胸に宿るラブのパワーは、本当にもうあふれ出ちゃってる。
 つり革を掴んでいない、鞄を肩にかけてテニスバッグを網棚に乗せているせいで、手持ち無沙汰な若の手を勝手に握ってしまう。一瞬つながりを拒否するように若の手が動いたけれど、ぎゅうッと握って人には見えないように足元の方向に下げてしまうと、若ももう抵抗はしなかった。繋がってる手が暖かくて、昨日の事を思い出してドキドキしたりして、ああ、本当に若が好きだなって、実感する。
 停車駅でドアが開いて、人の流れにのまれないように、若がつり革を掴んでいた手を私の背中に回して庇ってくれる。それだけでもう、本当に心臓が爆発してしまうんじゃないかって、思う。
 大好きで、大好きで、死んじゃう。なんかもう、抱きつきたい。やらないけど。だって、うざいとか思われたらヤだし。
 でも、手を握っている間、ちょっと不機嫌そうな若が、それでも私の手をしっかり握り返してくれて、それだけで私は幸せで仕方ない。

香奈
 また呼ばれて、ん? って若を見上げると、私の背中に回されていた手が私の頬を撫でた。
 それにドキドキしていたら、むにっとほっぺたをつままれた。地味に痛い。
「いはい……」
 お願いだからほっぺた伸ばさないで下さい。
「バーカ」
 ……なんで若、こんなに素敵な笑顔で人の事馬鹿とか言うんだろう。サドですか。(若は私があんまり幸せそうにしてたからおかしくって笑ってしまった――というのは私には一生解らない)
 でも、なんだか若の機嫌が宜しいようなので、私も嬉しくなってきて笑ってしまう。
 若がほっぺたから手を離して、今度は優しくつままれた頬を撫でてくれた。それだけで胸がとくんと喜びを反映して脈打ってしまう。
「今日、朝練、見に来いよ。交友棟と外壁の間のところならコートも良く見えるし植木もあるし、香奈なら目立たないだろ」
 若がそんなお誘いをするのは珍しくて、撫でてくれる手にドキドキしながらほっぺたを寄せて、なんで? って気持ちをこめてちょっとだけ若を見上げる。
 私の思いは若に伝わったみたいで、若は私のほっぺたを、まだ男の人のものではないけれど、男の子の大きな手で包むようにしてくれる。でも、それはすぐに離れてしまって、若の体温が名残惜しくなって、ちょっと寂しくて、まだ繋がってる手をぎゅっと握る。
「今日は下剋上できそうな気がするから、香奈も見てろよ」
 不敵な笑みで言う若を頼もしく思ってしまったりして、私は笑って頷いた。
 都合のいい想像かもしれないけれど、若が、私が見ているといつもより頑張れるんだったら嬉しいな。
 若が私にかっこいいところを見せようとしてくれてるんなら、もっと嬉しいな。
 テニスでは役立たずだけど、見守る事くらいはできると思う。
「応援するね」
 そう言うと
香奈みたいなのがうろちょろしてたら他の部員の気が散るから目立たないようにしろよ」
 って釘を刺された。そんなに目障りですか……

 ◇◆◇

香奈、今日はすごく機嫌よくない?」
 まどかちゃんに不思議そうに言われて私は手ずから握ってきたおにぎりをはむはむと嚥下してから、上機嫌に笑ってみせる。そう、私は今日、朝から笑いが止まらないのだ。怪しいってわかってても、若に「香奈、お前笑いすぎ。気持ち悪い」とたしなめられても、嬉しくて仕方ない。
「今日ね、若が二年の先輩と練習試合して、勝ったんだよ」
 閉鎖された屋上のドアに寄りかかって一番上の踊り場でお昼ごはんタイム。今日はヤル気に満ち満ちている若が早飯というのをされまして、昼休みはテニスコートで自主練習をしていらっしゃるのでまどかちゃんと二人のランチタイム。
 私のにやけた顔が面白かったのか、まどかちゃんはちょっとだけ笑って「良かったね」と言ってくれた。
 二年の先輩と言ってもレギュラーでも準レギュラーでもないけど、氷帝のテニス部で丸一年はしっかりもまれて来た先輩に勝つなんて、私のことみたいに嬉しくて仕方ない。昨日、キスしたからかな、なんて妄想すると更ににやけてしまう。
「日吉君と同じテニス部の鳳君って、よくない?」
 にやけている私にまどかちゃんがいきなりそんなことを言ってきて、一瞬誰のことだかわからなかった。
 ――鳳君って、アレだよね、背の高い、前に若と練習試合してた、同じ学年の男の子だよね。記憶から鳳君の情報を引き出して、なんとかまどかちゃんの言葉にうなづく。
「ああ、うん、かっこ、いいよね……背とか凄い高いし……話したことないから、ちゃんとしたこと言えないけど……うん、優しそうな人だよね」
 急な話についていけなくて、ホットの緑茶の缶に口をつけて一息ついた。
「でも、急にどうして?」
 なんで急に鳳君の話なんだろうと思って聞いてみるとまどかちゃんは「ちょっと好きなのよね」と言って私を見て、笑った。
 もともと美人なまどかちゃんの笑顔が恋のせいでかいつもより綺麗で、私は「協力するよ」なんて言いながら、ちょっとクールな(少なくとも私よりは落ち着いてる)まどかちゃんも鳳君とキスしたら、私みたいにドキドキしたりするのかな、なんて想像すると、ちょっと面白かった。

 そのあと、鳳君の情報収集をする為に若に色々聞いたら「香奈……なんでそんなに鳳が気になるんだ?」なんて言われてしまったのはまた別のお話。