ハロウイヴと

 ハロウィン……といいましても。
 たしかに街中を彩るパンプキンのポップや黒いコウモリのジェムジェリーや店頭にならぶジャック・オ・ランタンのグッズに心が躍りますが、おやつをあげたって彼は別に喜びはしないでしょうから(というか疲れてる時以外は普通にうざがられます。でも、この間、本を見ながら必死で作った金柑の砂糖漬けは気に入ってくれたようです。ただ、部活中に差し入れると心底嫌そうなので、朝とか、一緒に帰るときとかに渡します)いつも通りのんびりするつもりだったんです。その時までは。
 ちょっとだけドタバタした私と若の初めてのハロウィンの、冒頭からゆっくりお話しようと思います。

 私はそのとき、両腕に社会科の授業で使う大きな世界地図を丸めたものを抱いて一年の教室が並ぶ廊下をてくりてくりと、まったり歩いていました。
 しばらく歩くと、正面からズカズカという音が聞こえてきそうな歩き方で向日先輩がやってきました。
「あ、小曾根だ!」
 すれ違う直前に、私に気づいた向日先輩が声をかけてくださいました。ちなみに、一応、挨拶する程度には顔を見知っています。
「こんにちは」
 頭を下げて向日先輩に挨拶しました。でも、一年以外はこの階に来ることは滅多にないので珍しいなと思いました。周りの一年生もみんな不思議そうに、そして一部女の子は顔を赤らめて向日先輩を見ているようです。
 向日先輩は――というか、上級生の男子テニス部レギュラー陣は、この学校ではアイドルと同義ですので、その反応も納得のいくものでした。
「日吉が来ないって言うんだよ!」
 やるかたないご様子で急に向日先輩がおっしゃいました。強い調子でおっしゃられたので、私はまるで自分が責められているような気持ちになってしまいます。しかも、話が全く見えません。
「え、と……部活に、ですか?」
 日吉という苗字は、この学年に私とお付き合いしている日吉若くんの他にもうお一方いらっしゃいますが、その方は女性で、私と彼女たちは名前を知っている程度の知り合いでしたから、この場合は私とお付き合いしている日吉若くんのことだと判断しました。
 向日先輩は、日吉若くん……面倒なので……若、の一つ上のテニス部の先輩で三年生が引退した現在、レギュラーの地位にいらっしゃるお方です。
 ちなみに若は現在テニス部の平部員です。平部員ですが限りなく準レギュラーっぽい扱いをされています。
 多分、来春の部内戦で準レギュラーになるのではないかと私は勝手にふんでいます。
 おそらく、向日先輩もそう思っているのでしょう。よく若に声をかけてくれているようです。
 そして、よく若と口ゲンカしているようです。
 原因は若の物言いがほとんどだと伝え聞きました。
 先日のケンカの原因は、平部員からレギュラーまで分け隔てなく色んな方とダブルスをやる練習中に、向日先輩と組んだ若が「向日さん、前衛にカエルみたいにとばれると邪魔です。ボールで撃墜して欲しいんですか?」と言っちゃったことが原因でした。その時、たまたまコートのそばを歩いていた私は、胃がキリキリしました。先輩であるので、一応敬語を使っていましたが、なんかもう、慇懃無礼(いんぎんぶれい)の見本と言うか……正直、あの態度はちょっといただけないと思われます。が、諫言(かんげん)するにも、若は“いただけないこと”を理解して自ら口にしているので、どうしようもありません。それについて、問題が起これば自分で解決できるという自信の表れなんでしょうけれど……。

 さて、どうでもいいことですが、氷帝テニス部レギュラーは絶大な人気を誇(ほこ)ります。氷帝を一国としたら、男子テニス部レギュラーは、生徒会役員に並んで王侯貴族みたいなものでしょうか。理事長を皇帝、校長を王として考えても、特に二年の跡部先輩は一部の教師(伯爵くらい?)より上の地位にいそうです。(侯爵とか公爵とか大公とか……いやでも大公は言いすぎかな)
 ウソだと思われるかもしれませんが、氷帝に入学した女子も男子もほとんど全員が“すごい先輩がいる”とか“すごい後輩が入った”というあまりの噂に、一度は跡部先輩のクラスを訪れるのです。跡部先輩の姿を見るために。これは有名な女優やアイドルが通ったといわれるアレと一緒です。
 私は、校門の外で跡部先輩の、いわゆる“出待ち”をしている方々をほとんど毎日のように見かけます。テニス部と、跡部先輩の絶大なる人気は少し怖いものがあります。それゆえ、若は跡部先輩と帰宅時間をずらすこともあります。若はミーハーなのは嫌いなようです。
 とにかく、男子テニス部自体が、もともと人気のある部活なのですが、跡部先輩の部長就任で更にその人気はヒートアップ中で、レギュラー陣の人気は現在、右肩うなぎのぼりなのです。
 私の目の前にいらっしゃる向日先輩も、身長百五十三センチだということを私が知っている程に有名な方です。
(ちなみに若は百六十五センチだそうです。出会った頃は百五十八センチだったそうですから半年で七センチ伸びてます。髪の毛が伸びる速さに匹敵します。鳳君に追いつきたいっぽい若はまだまだ自分の身長に不満があるようですが、ウチは長身の家系ではないので、あんまり高くならないで欲しいなと言うのが私の本音です)
 えぇと――つまり、廊下でこうやって学年の違う、部活や選択授業での接点もない私が話をするにはちょっと恐れ多いお相手なのです。向日先輩は。
 若は、それなりにテニス部の先輩方に目をかけられているようで、特に忍足先輩と芥川先輩は若を可愛がってくれているようです。
 若自身はそれをありがたく思っていないようですが……確かに、忍足先輩は私達の関係をあからさまにからかっていますし、付き合うきっかけも、忍足先輩の意地悪なウソに踊らされた感じがします。
(……って、さっきから話が横にそれっ放しですね、すみません)
 とにかく、若は先輩方に目をかけてもらっていて、その若と付き合っている私にも何かと声をかけて下さるのです。
(と言ってもすれ違う時に挨拶するくらいですし、特に親しいというわけではありません)
「ちげぇーよ。十月三十一日! 跡部んちでハロウィンパーティーするから来いっつったら、日吉なんて言ったか当ててみそ?」
 私の見当違いな言葉に向日先輩は面白そうに笑われました。確かに、若が部活に出ないと言うなんて、夏に雪が降るくらいの珍事です。
(ところで私は敬語が苦手なので間違っている部分があっても気になさらないでくださいね)
 向日先輩の言葉に、私は若が何と言って断ったか想像してみました。そして、答え合わせの為に思いついた台詞を口に出します。
「『何で俺が行かないといけないんですか?』とか『行きません』とか……です?」
 向日先輩は、私の言葉を聞いて「すっげぇ!」とおっしゃりました。どうやら、若の台詞を完璧に当てることができたようです。そして向日先輩は、こうおっしゃいました。
「日吉の変わりに小曾根が来いよ」

 ……

「え、ぇと……遠慮します」
 私は、若を通して間接的にテニス部を知っているだけです。何せ私は美術部で、文化祭も油絵を展示したくらいの文化系です。テニスラケットよりもテレピン油の方が馴染み深いです。テしかあってません。
(と言っても実際は油絵の具よりも手軽に描けるアクリラで描くことが多いのですが)
 私は仲の良い友達がテニス部にいるわけでもありませんし、男性ばかりの場所に行くと言うのも少し怖いような気がします。若にも悪いことのような気もします。私は考えることなく断る方向に意思を固めたのでした。
 大変恐縮ながら、その後のお誘いの言葉もお断りしました。

 なのに。

小曾根、拉致してきたーっ!」
 そう。拉致です。読めない方の為に【拉致(らち):[名](スル)むりやりに連れていくこと。らっち。】(参照:大辞泉)
 私の言葉はまったく聞き入れられず、破願する向日先輩に半ば引きずるようにこの場に連れられたのです。それは、跡部先輩のご自宅に向うリムジンというヤツでした。黒く長いそれは私が初めて間近に目にするものでした。氷帝学園の、自動車が出入りできる教員用裏門に鎮座するそれは、おそらく威圧感のようなものでもって私を追い詰めにかかっていたのです。
「私、あの……若と一緒に帰る約束してるんで……」
 と、いっても、もう若を待ちぼうけさせることは確定してしまっています。若は約束を破ることも破られることも嫌う性質(たち)ですから、私は若の不機嫌をひどく恐れました。
 私は、若が大好きなのです。
 できれば、少しも嫌われたくないのです。
 それなのに、私の手をつかんではなさない向日先輩とリムジンのドアをうやうやしく開ける忍足先輩が早く早くと私を急かすのです。
 途方にくれて少し泣きそうになりましたが、そこでふと気付きました。
「あ、の、他の部員さんは?」
 ここには向日先輩と忍足先輩しかいらっしゃいません。
 私が問うと、忍足先輩は微笑まれました。
「もうみんな会場に行っとる。そんなに緊張せんでええよ。女テニもおるし、テニス部じゃないヤツらも結構行ってるし」
 なるほど、と思いましたが、そんな悠長に思っている場合ではありません。だって、誰が行っていようとも、私にとっては若と一緒に帰る方が何よりも大事で幸せな時間なのです。知り合いのいない場所に一人で行っても寂しいだけです。
 私がお断りの言葉を重ねると忍足先輩は、こうおっしゃったのです。
「将を射んと欲すればまず馬を射よ……って言うやろ。日吉に来てほしいんや。観念してついといで」
「ヤ、ですっ」
 私は馬ほど若に頼りにされてはいないでしょうけれど、即答できるほどには若が好きなのです。射られて将の足手まといになりたい馬はいません。小さな小さな小さな頃のほとんど無自覚の初恋とは違い、私が自分ではっきりと意識して実ったこの恋は今の私にはかけがえもなく大切なものですし、若は私にとって、とてもとてもとっても大事な人なのです。たとえこの恋が実っていなくとも、きっと一生、思い出しては話のたねにするような人になったと思います。
(やっぱり尊敬語も謙譲語も苦手なので、突っ込みはしないでくださいね。むしろ添削してやるぞ、という方がいらっしゃいましたら大歓迎です。なにせ私は本を読むことは好きですが、特に国語の成績が秀でているというわけでもないのです)

 それに、認めるのはちょっと悲しいのですが、私達は友達のようなケンカができるような仲ではないのです。翌日、ごめんねと謝って、ううんいいよ、なんて返せるようなケンカはできないのです。
 むしろケンカらしいケンカをしたことがありません。小さな言い合いはしょっちゅうですが、本能的にと言えばいいのでしょうか私達がまだそういうケンカができる仲ではないということがわかるのです。
 私は、きっと若に怒られたら、ほんの少しでも嫌われたら、泣いてしまいます。そのまま、お互いよそよそしくなってしまうかもしれません。そんなことを想像するととても怖いです。
 まだ、私達のお付き合いはその程度なのです。先日、若が知らない女性と歩いていたところを見止めても、私は責めることも問い詰めることも尋ねることもできなかったのです。
 もっともっと仲良くなって、お互いの距離が縮まれば、本当に思っていることを伝えて、傷つき傷つけられても、その言葉を受け入れられるような、許しあえるような関係になるのかもしれませんが、今はまだ無理です。
(無理だと思っているだけなのかもしれませんが、私は若に嫌われたらと考えるだけで泣けてくるのです)
(ところで、敬語を使っているというだけで何だか自分が大人っぽくなったような気がしてちょっと面白いです)

「私、若と約束してるんで……失礼します」
 先輩方の誘いを断るのには心が痛みましたが、若との約束を破る方が私の心は痛みます。若に迷惑をかけるほうが怖いです。
 頭を下げて若との待ち合わせ場所である図書室(帰りに本を借りようと話していたのです)へ向おうと校舎に向かって歩き出します。
 が。
 向日先輩はまだ私の手を離してくれていません。
「わ、若に怒られちゃうんで……ほんと、無理です。いけません……」
 私は亭主関白な家庭のお嫁さんでしょうか。
 でも、二人で図書室で本を選んだりするのも結構オツなものです。楽しいです。若と一緒なら楽しいです。楽しいと言うか、幸せです。うれしいと言うのが一番かもしれません。
 別に一緒に選ぶわけではないですが「決まった? なに借りるの?」とか「司馬と太宰と研究用の原子力の本」とか「あ、若、原子力にしたんだ」とか「原子力発電所って日本に結構あるからちょうどいいだろ」とか「結構あるんだ? 知らない。ていうか、太宰さん、メロスしか読んだことないかも……」とか「女生徒とか、香奈なら共感できる部分も多いと思うけどな。で、香奈はなに借りるんだ?」とか「江本さんの水の研究の本。結晶がね、綺麗なんだよ」とか「へぇ……」とか、そんな会話だけでも私は幸せなんです。この最後の「へぇ……」がすごいどうでもよさそうな感じでも。
 私の幸せの邪魔をする権利が向日先輩と忍足先輩にあるというのでしょうか?
 いいえ、ありません。あってはなりません。あってはいけません。
 もしかしたら、あるのかもしれませんが、とりあえず無いということにしておいてください。
「手、離してくださいー……っ」
 手を上下に振った私の姿はさぞワガママな子供が駄々をこねるようだったのでしょう。忍足先輩がとても笑ってらっしゃいます。

 いーやー! はーなーしーてー!!

 と、心の中で絶叫です。超絶叫。口にできない小心者です。
 ハロウィンのメインカラー、オレンジと黒の混ざった空の下で私は半ば泣きそうになりながら「行けません」と言いました。私は一応とは言え若の彼女です。彼の望んでいないことなどできるはずもありません。
(でも、実はこの間うっかり忘れていた宿題を丸写しさせてくれと頼みました。若がすっごい不機嫌な顔になったので、ちょっと泣きそうでした。でも写させてくれました)
 すると、先輩方は困った顔をされました。
「あのな、小曾根ちゃん、日吉は多分来年準レギュになると思うんや」
 いきなり、そんな話をされて、半分以上パニックになっていた頭に、その言葉はすんなり落ちてきませんでした。でも、真剣なそのご様子に、抵抗を止めて、もう一度、忍足先輩の言葉を頭の中で確認して、私も思っていたことだったので、頷きました。
 そうしたら、忍足先輩は私に言いました。
「日吉なぁ、ちょっと他の部員とうまくいってへんやんか」
 ……さすがにそこまでは知りません。
 若は、私にあまり部活内の込み入ったことは話さないですし、私はあまりテニス部の内情を探ろうという気がないのです。興味がないわけではないですが、そんなことをして、若にうざったく思われたくないのです。なので、ちょっとだけ首を傾げます。
 よくわからない、というジェスチャーです。
「跡部も去年、日吉みたいな感じやったんけどな、準レギュんなった時やら、レギュラーんなった時やら――まぁ、色々あったんや。いざこざっちゅうか……生意気な癖して実力だけはあったしな」
 その話を聞いて、色々と想像した私の心は痛くなりましたが……その話が何の関係があるんだろうかとクエスチョンマークが誘蛾灯(ゆうがとう)の周りを飛ぶ羽虫(はむし)のように私の頭の上を飛び交っています。
(誘蛾灯という名前は今年の夏に覚えました。それまで“青く光ってバチってなるやつ”って言っていましたが、コンビニでそれを見つけて、『あの青く光ってバチって音がなるヤツなんのタメにつけてるんだろう?』と言ったら、一緒にいたお兄ちゃんが微妙な顔で名称を教えてくれました。ちなみに、なんでバチってなってたのかもその時に説明してもらうまでわかっていませんでした。その話を若にしたらおにいちゃんと同じく微妙な顔をしました――ところで、私、横道にそれ易すぎですね。気をつけます。えーと、どこまで話したかな――)

「特に俺らの学年で日吉が気にくわねーって奴多いんだ。ま、俺も日吉きら……ぁ。き、嫌いじゃないぞ?」
 向日先輩の言葉で、余計よくわからなくなりつつ、でも、向日先輩が若をあんまり好きじゃないことと若があんまり今の二年生の先輩方と仲がよくないことはわかりました。
 でも、私にはどうしようもないことです。私は若を応援して、励まして、慰めて、見守って、できるだけバックアップしてあげたいとは思いますが、やっぱり、若のことは若が解決するしかないような気がします。それに、私に若をどうこうできる能力があるとは思えません。
「ま、小曾根ちゃんとは逆やな」
 なぜか逆と言われましたが意味がわかりません。私の大量のクエスチョンマーク召還に向日先輩が「侑士っ!」とたしなめるように言いました。忍足先輩はその声に肩を竦めて見せました。おお、外国人さんのようです。
「とにかく、せっかくのパーティなんやから日吉も俺らの学年と触れ合っといてもらお思ってな。小曾根ちゃんも協力してくれへん? 正直、跡部の時みたいなん見るのはもう嫌やし」
 すごくシリアスなシーンなのですが、言葉はシリアスな感じなんですが、私には、なぜハロウィンパーティが若と先輩方との仲を取り持つのかよくわかりませんでした。
「でも私、若に怒られるのは嫌です……あの、そういうのは部活の時とかに、直接若に……」
 そう、先輩方の言葉に従ってハロウィンパーティに行ってしまったら、私は約束を破ることになります。若は怒るでしょう。そして、私が行ったからと言って若がパーティへ来るかはわからないのです。
 もしかしたら放置されてしまうかもしれません。そうしたら、私は泣きます。
 想像しただけで泣けそうです。
 一所懸命断っている私に、向日先輩がケロっと言いました。
「まー、もう、日吉に脅迫メール送ったし! このまま小曾根が来ないんだったら、先に日吉のが跡部んちに着くかもだな」

 流されやすい自分をどうにかしたいです。

 そうして、結局、(ムリヤリに)合意させられて私は、地元ではとても有名なアトベッキンガム宮殿につれていかれたのです。(どう考えてもダジャレです)
 リムジン内のクッションがどんなに手触りが良くても、私の心は“若に叱られる……! ”ばかりでした。平謝りして許してもらうほかありません。
 私は調子に乗りやすくて、すぐに馴れ馴れしい態度をしてしまって、若は引いてることがよくあります。私が手を繋いだりとかすると若の手のひらとかが強張って、ハァと溜息をつかれてしまうこともあります。そういう時はあわてて手を離してしまいます。すぐに若が握り直してくれることもありますが、私があからさまに凹んだ顔になってしまうので子供をあやすような感覚なのでしょう。
 二人きりの時は、私に合わせて少しだけイチャイチャしてくれてる気がするんですが、若が忙しくてあまり二人きりにはなれません。
 付き合う前は宿題を見せるときにも“仕方ないな”って感じだったのですが、最近は“またか。お前いい加減にしろ”という感じです。(これは私が悪いのですが……)
 ただ、若は私と付き合ってくれる程度には私のことを好きになってくれているようで、ああすればきっと若の機嫌は治るだろう、こうすれば若は嫌々(いやいや)でも私のお願いを聞いてくれるだろうなんていうのが、私にもわかりかけています。でも、なるべくなら嫌々っていうのは減らしたいです。
 アトベッキンガム宮殿は、思ったよりも宮殿ではありませんでした。私がなぜかギリシャ神話を思い浮かべていたせいだと思いますが……とにかく、とてもセレブな大豪邸でした。
 自動で開いた門扉の中をリムジンに乗ったまま進んでいきます。運転手さんが、速度を落としてくれたので、広大な前庭がよくながめられました。
 前庭は、庭と言うより林と思えるほどの広さで、高さのそろえられた綺麗なグリーンの芝生が地面を贅沢に覆っています。その上に、大きいものはバランスボールほど小さなものはテニスボールほどのジャック・オ・ランタンが――本当に、全部きちんとカボチャでした――点々と夕闇に侵食され始めた暗い庭先を照らしています。時折、ジャック・オ・ランタンの中のキャンドルがゆらゆら動いて芝生に落ちる影もそれにともなってふわふわと動きました。
 なんだか、思ったよりも幻想的、というか、まるで魔法の国に紛れ込んだかのようでした。ひとつひとつのランタンの顔が違うのが、芸が細かいです。
 思わず「きれい」と呟くと、忍足先輩が「金持ちの酔狂やな。こんくらい大きいとカボチャもまずいんやって」と答えてくれました。そのあと、忍足先輩は捨てるなんてもったいない……と呟いていました。
 いろいろな顔にくりぬかれたカボチャたちがちょっと面白くて、これを自分で作ってみたいと思ってしまった私は根っから創作系です。これだけ大きいカボチャだと、小刀やノコギリやスコップが必要でしょう。

 私は、テニス部員でもありませんから、リムジンから降りると裏口からこそっと連れて行かれました。変な噂が立ったらいけないと言う配慮らしいですが、変な噂が立つようなことをさせているのが一番いけないんじゃないかと思いましたが、チキンなので口には出来ませんでした。
 屋敷内もハロウィンカラーで、国内最大遊園地にあるホーンテッドマンションにも負けず劣らずの内装でした。ダークパープルとブラックのペンキも最近塗られたのか、壁に近付くとまだ少し独特の香りがしましたが、室内に焚かれた甘い香りでほとんど気づけませんでした。
 本物のコウモリが(ハムスターにはねが生えたみたいな可愛いコウモリでした。泣き声もチーチーという感じでした)綺麗な、一目で特注とわかる鳥かごに入れられて、端っこでみんなで固まって寝ていました。ときおり大きな犬や狐みたいな顔のコウモリもいて、桃みたいなものを食べていてちょっとビックリしました。
 廊下のいたるところでジャック・オ・ランタンが笑っていて、忍足先輩が「消防法とかってどうなってるんやろ……」とまた呟いていました。
 特に会話もなく――共通の話題は若以外にありませんし、私の持っている若の話題は彼女としての私が見た彼氏としての若のもののみです――私は大人しく案内されました。
 ときおり仮装した方々とすれ違いましたが、誰が誰やら全くわかりませんし、どう見ても成人している方も多く、テニス部のハロウィンパーティーではなくて、跡部家としてのパーティーなのだと、ここでやっと理解しました。
 案内された部屋に入ると――えーっと、パッとみてかなり変わった襟元を尖らせた意匠の、仮装とすぐにわかるブラックストライプのスーツを着ていた跡部先輩が携帯電話を手にしていました。この部屋はハロウィンには染まっていなくて、仮装をした跡部先輩だけが妙に浮いて見えます。
「跡部ー。日吉来た?」
 向日先輩が言いながら、部屋の中央の白い大理石のローテーブルの前に据え付けられている、気持ちのよさそうなソファにぼふっと座りました。
「まだだな」
 携帯電話をパチンと閉じて、跡部先輩が私へ視線を向けました。ちょっと、なんか、跡部先輩は美形ですし、オーラみたいなのがありますし、恐れ多いしで後ずさってしまいました。
「けどさーなんで平部員の日吉をそんなに気にすんだ?」
 向日先輩はそのソファにあった四つの紙袋の一つを手にしてガサガサと中を覗きながら世間話のように跡部先輩に聞きました。
 そこで、やっと私は挨拶をしていないことに気づいて、今更感の強い「えっと、おじゃましています。こんばんは……」を言って頭を下げました。
「ああ、悪いな小曾根。日吉の野郎、学校だと教師に用事を言いつけられたとか、稽古があるとか、話を聞きやしねぇからな」
 跡部先輩は言いながら、紙袋をごそごそしている忍足先輩と向日先輩をちらっと見ました。それから、さっきの質問のことはどうでもよかったのでしょう「着替えるなら奥の部屋行けよ」と注意しました。
「部屋の中に部屋があるとかわけわからんわ」「よっし、じゃあ着替えようぜ!」
 お二方は紙袋を一つずつもって右奥にある白と金の繊細なドアをくぐっていきましたが、つまりそれは、私は跡部先輩とこの部屋で二人っきりと言うわけで、なんだかもう、色んな意味で泣きそうです。
 跡部先輩は、そんな私を気にもせず、ソファの上の紙袋を一つ手にすると(よく見ると、誰でも知っているハイブランドのショップ袋でした。うわぁ……)私に差し出したのです。

 意味がわかりません。

 とりあえず、差し出された袋を眺めてみました。それから、とにかく、よくわからなくて、とにかく、跡部先輩の首元あたりを見てました。
「……さっさと着替えろよ。めんどくせぇヤツだな」
 しばらく、じっと見ていると、そう言われました。
「すみませんムリです」
 めずらしく私は即答しました。遠慮とか、そういうのでも、着替えるのがイヤとか、そういうのでもなく、ただひたすら怖かったのです。
 ええと、わかりますでしょうか、あまりの高額が予想されるもの、高額とわかるものなんて、見ているだけで動悸がします。うちは貧乏ではありませんが私にとって十万円以上のものは超高額なのです。
(宝石の展示会にママのお付き合いで行った時、マイスター・ムーンシュタイナーのカットした大体二千万円のパライバトルマリンを直(じか)に触りました。本気で動悸(どうき)がしてオロオロしてパニックになってしまいました。“このカラーとインクルージョンの少なさとムーンシュタイナーのカットということを考えれば二千万円は安い”とか、そんなことを言っていて、月のおこづかい五千円でとっても満足していて両親に感謝すらしている女子中学生な私は、思わず手に持っていたパンフレットを取り落としたものです)
 真剣に首を横に振る私に、なんとなく私の思ってることがわかったのか跡部先輩は少し眉をひそめました。それだけで攻撃力は抜群で、私は途方にくれてしまいます。
「他のヤツ用にしつらえた物をお前のサイズに直しただけだ。参加者のほぼ全員に跡部家が衣装を提供してんだよ」
「なんで私のサイズなんて知ってるんですか……?」
「そんなもん見れば大体わかるだろ」
 いえ、わからないと思うんですけど!
 なんか、違う意味で泣けてきました。ちょっと……胸とか腰とか脚とか自信ありませんし……これが跡部先輩の噂の眼力(インサイト)ってやつですか? 素で赤外線カメラみたいな目を持ってるんですか?
「突貫で直させたから不都合はあるだろうが、気にすんな」
 いえ、気にします。跡部先輩の能力はすごいですが……本気で凹んでます。これがピッタリだったら私の体のサイズバレバレじゃないですか……。
 立ち尽くして絶望の波にさらわれて絶望の浜にザザーンと打ち寄せられていると「大体わかんだよ。日吉の身長が百六十五センチ。少し筋肉が足りてねぇ体重が五十四キロ。他にも胸周りや肩幅の記録もとってんだよ。テニス部でな」と、跡部先輩がおっしゃたのですが、意味がよくわかりません。
 意味がわかっていない私に、跡部先輩が言葉を続けてくださいました。
「お前らが並んでたら、大体わかるんだよ」
 ――ああ。なるほど。若の体型と比較して私の――ってどっちにしても恥ずかしい!
「制服のままじゃ目立つから早く着やがれ。本当に面倒な女だな」

 舌打ちつきで忌々しそうな口調で言われて、心底凹みました。
 うつむきそうになっていたら、跡部先輩が人を呼んで、その人たちにフィッティングルームに連れて行かれて結局、私は今日、流されっぱなしのままに着替えました。
 私ってなんでこう意思が弱いんでしょう。若と正反対なんでしょう。正反対だから、若に惹かれたのでしょうか……よく、わかんないですが。
 着替えは、三十分程度で終わりました。跡部先輩が読んだ人たちは使用人といわれる方々で、ヘアメイクとかお化粧とか、色々してくれました。フィッティングルームを出ると今度は滝先輩と宍戸先輩がいました。いました、というのは、つまり、私の着替えを待っていてくれたようなのです。
「やるねー。よく似合うよ」
 そう言った滝先輩はまるでパジャマのようなガイコツのつなぎを着ていました。顔にも何かのペイントがしてあります。おそらく透明人間の仮装なのでしょう包帯をグルグル巻きにした宍戸先輩は「今、跡部と日吉が話してんだよ。ちょっと待ってろ」と言ってくださいました。どうやら、若は私を迎えに来てくれたようです……が、少し釈然としません。若ならばきっと私を放っておくと思っていたのですから。ただ、もしかしたら来るかも、とも思ってしまったので、私は結局ここに来てしまったわけですが……その、“もし”が本当になるなんて――
 ちなみに、宍戸先輩と滝先輩のお二人とは、たぶん、今日、話したのが初めてのような気がします。お二人とも新レギュラーメンバーなので、私でもお顔とお名前は存じております。
 私はとても恐縮してしまって、なんだかよくわからないけれど「すみません」を連呼してしまいました。お二人は、そんな私を不思議そうに見ましたが、なんかもう、どうしていいのかわからない状態です。
 なんでこんなことになっているんでしょう。
 なんだか、全てが若のせいのようにすら思えてきました。
 伝言を伝え終わった滝先輩と宍戸先輩はパーティールームに案内するとおっしゃってくださいましたが「いいですすみません」を繰り返して、結局廊下のソファに座り込みました。となりで、ソファの上に飾り付けられた大きなジャック・オ・ランタンが笑っていました。
 ちなみに、衣装はほとんどぴったりでしたが、胸にいくぶんかの余裕(隙間……)がありました。着膨れていたのかな、と思いました。
 着てきた制服や荷物はクロークルームに預かってもらっています。本などもクロークに預けている鞄の中なので、私はすることもなく、なんでこんなことになっているのかをずっと考えながら、ただひたすらぼーっとソファに座っていました。
 ずーっとぼーっとしていると多分狼男な鳳君が廊下を通りがかりました。軽く会釈をしてから、またぼーっとしていると、全然知らない白人さんに声をかけられました。
 よくわからないのですが、飲み物を勧めてくれているようで、一瞬“知らない人から物をもらっちゃいけません”を思い出したものの、緊張の連続で喉も渇いていたし差し出されたグラスを受け取りました。
 それはブラッドオレンジのジュースでした。白人さんはいわゆるドラキュラっぽい仮装だったので、それに合わせたのでしょう。そのあとも色々話しかけてくださいましたが、単語単語が時おり聞き取れるだけで、ほとんどジェスチャーでした。ただ、ドレスと容姿を褒めて頂けたことは何となくわかりました。
 白人さんと意思疎通の出来ていない会話ですらない何かをしていると、鳳君がまたやってきました。そういえば、皆様、私の前を通って左側へ行き左側からまた右側へ戻っていきます。左方向にお手洗いでもあるのでしょうか。
 鳳君は、今度は「小曾根さん」と私に声をかけました。白人さんは鳳君と一言二言話してから、私に手を振ってやはり右の方へ向って歩き出しました。
「日吉、今、跡部先輩とバトル中だから、もうすこしかかると思うよ」
 わざわざ、それを伝えに来てくれたのでしょうか。ありがとう、と言うと鳳君はさっきの白人さんの位置に座って「さっきの人にクリスマスパーティー誘われてたけど、行くの?」と聞いてきました。
 誘われていることにすら気づいていなかったので首を振って「何言ってるのか、わからなかったから」と答えると「えっ……ほとんど授業で習ったような英語だったよ」と言われて、よほど私はパニクって疲れていたんだな、としみじみと思いました。
 日本人特有の曖昧な笑み、というヤツを浮かべてみると鳳君も少し笑ってくれた。
「向こうに行かないの?」
 向こう、というのはパーティルーム……大広間のことでしょう。日本の住宅にそんなものがあるなんて信じられませんが。
「んーん。疲れちゃったし。ここでジャックに相手してもらってるし」
 そう言って、かたわらのジャック・オ・ランタンを撫でると鳳君は笑いました。
「鳳君は? どうしたの?」
小曾根さんが暇そうだったから、これもってきたんだよ」
 そういえば、鳳君はさっきから手のひらで何かを包んでいました。それをひらくと、ハムスターみたいなコウモリがいました。つぶらなひとみで私を見上げて、やっぱりチーチー鳴きました。
「忍足先輩が、ここに来た時に小曾根さんがコウモリを触ろうとして檻に指を入れようとしてたって聞いたから」
 たしかに、私は間近に見るコウモリが珍しくて、かごに指を入れようとしましたが、忍足先輩にたしなめられてやめたのです。
「血とか吸われない?」
「これのエサは昆虫らしいよ。あと、向こうの大きいコウモリは果物しか食べないからフルーツバットって呼ばれてるんだって」
 そう言って鳳君の大きな手のひらの中でまるまっているおとなしいコウモリを見せてくれたので、わたしは、ソファのサイドにあった台にグラスを置いて、そっと指を伸ばしてふわふわの身体を撫でてみました。
 その時にコウモリが弱々しく“チー”と鳴いたので、びっくりして手を離してしまいましたが、またちょっとしてから撫でてみました。よく見ると、ハムスターよりも耳が大きいです。
「でも……すごいね、ハロウィンパーティーなんて、初めてだよ……」
 鳳君の手の中のハムスター……じゃなかったコウモリを撫でながら言うと鳳君は笑いました。笑顔が多いのは、きっといい人なんだろうなと感じました。
「日本じゃそんなでもないけど、欧米とかナイジェリアとかだと、クリスマスよりもハロウィンの方が盛り上がるらしいよ」
 コウモリを乗せていないもう片方の手で私の手を広げさせた鳳君は、そこにハムスターを……コウモリを、乗せてくれました。震えていて、大人しくて、なんだかとっても弱々しい感じです。
「そうなんだ……ね、この子大丈夫かな? 具合悪そうだよ」
 ちょっとコウモリがかわいそうになりながら言うと「跡部先輩が、『触るならコイツがいい』って言ってたから大丈夫じゃないかな? 心配ならそろそろ戻してこようか?」と聞かれて、私はうなずいて鳳君の手のひらに小さく震える黒い毛玉もといコウモリを乗せました。
 鳳君は、コウモリをかごに戻した後、また、私のところで色々と世話をやいてくれました。手を拭くためのタオルとか飲み物とか食べ物とか持ってきてくれて、本当に彼はいい人だなぁと思いました。これならまどかちゃんを任せられる、なんて考えてしまいました。しばらく、鳳君は色々と彼の事を質問する―― 一応、情報収集です。まどかちゃんに教えてあげられるように――私につきあってくれていたのですが、そこそこ長い間話しているのに意外なことに彼は若の話題をまったく出しませんでした。
 なので、私の方から、聞いてみました。さすがに、気になります。跡部先輩に、ここまでさせる、なんて。それとも、跡部先輩はここまでするのがデフォルトな性格を持ってらっしゃるのでしょうか。
 なんて面倒見のいい人でしょう。口は若並みに怖い感じですが……
「若ってテニス部内で浮いてるのかな?」
 さりげなく聞くつもりが、うまい言葉が見つからずに、直球になってしまいました。しかも声がとても心配そうな感じになって、ちょっと驚きました。鳳君はすぐに「そんなことないよ!」と言ってくれましたが、そのあと少しして「ちょっとだけ」と付け足されました。
「そっか……」
 なんででしょう。口調が慇懃無礼だからでしょうか。それでも、最近はクラスメイトとも衝突なくつつがなくやっているように見えます。部活でだけ、そうなんでしょうか。それとも、二年生にだけ、嫌われているのでしょうか。
「日吉は、部活中はテニスばっかりだし、結構、歯に衣着せないっていうのかな……はっきり言うし。それに、こういう友好を深めるみたいなイベントには絶対出ないから――別に馴れ合いでテニスしてるわけじゃないっていうのは俺もわかるけど、部活動に支障が出るほどだと、やっぱり跡部部長もね……」
 鳳君の言葉に私はとても驚きました。部活に支障が出るほど人間関係を上手く築けていないのでしょうか、若は。その理由がわからなくてショックを受けている私に鳳君が先を続けました。
「日吉は、ホラ、外部組だから、入ったときから目をつけられてたんだよね。それで、日吉も弱るタイプじゃないから、なんか、対立してる感じかな。でも、跡部部長とか忍足先輩とかは日吉のこと気に入ってるみたいだから、なんとかしたいんだろうね」
 しんみりと言った鳳君に、私はなんと言えば良いのかよくわかりませんでした。なぜなら、鳳君も若のライバルなのです。つまり若が気に入られている、などと、そんなにすんなりと認められるものでしょうか。でも、私にはその気持ちはわからないので、また「そっか……」としか返せませんでした。
 若は確かに負けず嫌いで、目には目を歯には歯を、な人です。ただ、目には歯を、歯には牙を、という人ではないので繰り返しになりますが、クラス内では最初に比べて、さほど浮いてはいません。若は仕事を任せると必ずこなしますから、大きなイベントでクラス内の実行委員長とかも推薦されたりします。まあ、いやがらせで推薦している人もいるでしょうけれど、若はそんなことを気にしませんし――もしかしたら、若の方で、二年生が苦手なのかもしれないと思ったりしました。
 そのあとも、鳳君はぽつぽつと部内の事を教えてくれましたが、けれど、私にできることがなさそうだということしかわかりませんでした。ただ、若は同学年の部員には最初は煙たがられていたけれど、今はすごいヤツと認められていると言ってくれたので、きっと、やはり、先輩に対する若の態度も原因ではあるのでしょう。
 会話が止まった時、海賊の仮装をした黒人の男の子が、スーパーマンの仮装をした男の子と一緒に廊下をバタバタと行ったり来たりしはじめました。それから、鳳君に近付いて、ハロウィンお決まりのセリフを二人で一緒に言いました。鳳君はにこやかに笑って、色とりどりのかわいい形のマシュマロのはいった袋をひとつずつ彼らに渡しました。
 不思議なことに、子供たちは、私にはそのセリフを言わないで、またばたばたと大きな声を上げながらパーティ会場と思われるほうへ走っていきました。
 不思議に思って首を傾げると、鳳君が私にもマシュマロの小さな袋をくれました。オレンジのジャック・オ・ランタンやコウモリやキャンディの形のカラフルなマシュマロがいっぱい入っていました。
「仮装パーティって、他の国だと基本的には女の子がお姫様になれる日だから、あの子達も遠慮したんじゃないかな。それに、小曾根さんはどう見てもお菓子持ってないしね」
 それは初耳でした。オバケの仮装をするものだと思っていたので、そもそも、なんでこんなシンデレラのようなドレスを着せられたのかも不思議でしたが、そういうわけだったのか……と一人で納得して、それから、ふと思い立ったことを鳳君に聞いてみました。
「テニス部のみなさんは何の仮装をしてるの?」
 鳳君はその時、廊下の奥を眺めていたので、私の声には気づかなかったようですが、すぐに「えっなに?」と聞き返してくれたので、もう一度同じ言葉を繰り返しました。
「跡部部長はジャック=スケルトンで、宍戸先輩がゾンビで、向日先輩がスパイダーマン。樺地がタイラント。滝先輩は骸骨。芥川先輩が跡部部長に合わせてゼロ。俺は適当に狼男で、忍足先輩はイカレ帽子屋。レギュラーはこんなところかな。日吉にはボロボロの裃(かみしも)を用意してるらしいよ、落ち武者だって言ってたけど、もしかしたら折れた矢の刺さったカツラとかも用意されてるかもね」
 なんて、冗談っぽく笑う鳳君に、落ち武者な若を想像して私も少し噴き出してしまいました。
 二人で笑っていると、知らない誰かがやってきて、鳳君に声をかけました。二人は少し喋ってから「ごめん。俺、広間に行かなきゃ」と鳳君が私に謝ってくれました。むしろ、こちらこそ色々とお話に付き合っていただいて感謝しているくらいなので、お礼を言うと、鳳君はやっぱり笑ってくれました。
 若も、鳳君みたいに沢山笑えば、もうちょっとウケがいいような気もします。
「あ、それから、俺のことは呼び捨てでいいよ」
 会場へと歩き出した鳳君は、私を振り向いて言い添えました。
「あ、うん。わかったー。私のことも呼び捨てでいいよー」
 そう答えると、鳳く……を迎えに来られた(呼びにいらっしゃった?)方が、彼にじゃれかかっていました。おおとり……(うーん、まだ呼びにくいです。今日はこのまま鳳君、で通すことにします)君が「そんなんじゃないって」などと仰っていらっしゃるのが良く聞こえました。
 また一人になった私は手持ち無沙汰で足をぶらぶらさせて見ました。
 けれど、このドレスにはそんなはしたない(まるで若のようなセリフです)仕草は似合わないなと思いなおして出来る限り背筋を伸ばして脚をそろえたお上品な座り方にしてみました。たまには、こういうものを着るのもいいかもしれません。
 なんだか、テニス部では色々あるようで、でも、やっぱり私は何もできません。何もする気がないというよりも、でしゃばりたくないのです。若は、そういうのは苦手っぽいのです。よく“黙れ”とか“頼むから何もするな”とか言われますし。
 私が若にできることはなんでしょうか。でも、ただの女子中学生が誰かに何か出来ることなんてあるのでしょうか。もちろん、オリンピックに出場してしまう女子中学生もいるにはいるようですが、私は普通の女子中学生です。
 おそらく、私にできることはと言えば、若を好きでいて、若の話を聞いて、若に差し入れを作って、若にお勧めの本を教えて、若の邪魔にならないように静かにしていることだけなのです。(と、今の私は思うのです。正しいかどうかはわかりませんが)
 とりあえず、またママに頼んで美味しい金柑を買ってもらって砂糖漬けを作ろうと思います。あとは自分の宿題は自分でしようと思います。
 となりのジャックを見ると、ロウソクが尽きかけているのか、弱々しい光をたたえた瞳で私を眺めていました。人間は難儀だなぁ、とでも思っているのでしょうか。
「生意気だー。カボチャのくせにー」
 ぺしぺしとジャックの頭を叩きます。ほんのり暖かくて、ロウソクの炎の熱がジャックを炙っていることがよくわかりました。
香奈……何やってるんだ」
 背後から声をかけられて、振り向くと、若でした。お話は終わったようで、残念ながら彼は仮装はしていませんでした。
 それから、なんて言おうかと考えていますと、若は眉を寄せて私を見てから「帰るぞ」と言いました。命令口調です。いつものことです。
「あ、うん、ちょっと待って。着替えてくるね」
「早くしろ」
 うーん、若はなんというか、傍若無人(と言うのでしょうか……)な感じで、とても偉そうです。私だって色々大変だったのに、とも思いましたが、とにかく着替えるために―― 一人では着替えられないのです。いわゆるコルセットというものが私の身体を締め付けていて、それは背中で紐で結ばれているのですから――人を呼んでこよう、と、しましたが少しだけ気になったので、ソファから立ち上がって目の前にいる若に聞いてみることにしました。
「こういうドレスってどう思う?」
 本当は、似合う? と聞きたかったのですが、急に臆病風に吹かれてしまいました。せっかく、産まれて初めてこんな格好をしたのですから、若に褒めてもらいたかったというのが本音です。けれど彼は「趣味を疑う」とだけ返してきました。地味にショックでした。
 とにかく、跡部先輩にお願いして着替えさせてもらいまして、さっさと跡部邸を後にすることになりました。
 若と跡部先輩がどんな話しをしたのかは私の想像力の及ぶ範囲ではありませんが、若がちょっと変な感じなので口論になっただろうことは簡単に想像できました。
 跡部邸の門までリムジンで送ってもらい――「若ー」さっさと車を降りるとスタスタと歩き始めてしまった若を慌てて追いかけながら、声をかけます。すると若はちょっとだけ歩調を緩めてくれました。それだけのことが、私はなんだかとっても嬉しくて、少し幸せな気分になります。今日はとても疲れたので、感動もひとしお? です。
 今日は色々あって、とても疲れましたし緊張しましたし何だか色々と泣きそうでしたが、これからも、若がテニスを頑張っていければいいなと思います。人間関係なんて、とても煩雑で難しいものは、私にはどうすればいいのかはよくわかりませんが、若が凹んでる時に一緒にいるくらいはできますし、邪魔だといわれれば大人しくしていることくらいは出来ます。
 若が好きなように、好きなことを頑張っていられればいいなと思います。
 跡部先輩の家は、私と若の家とは真逆の方向ですので、いつもより長い時間をかけて一緒に帰れるな、なんて気付くと、私はやっぱりとても嬉しくなって、一人でに顔がにやけてしまいました。
 このあたりは、閑静な高級住宅と言うのか、高そうな大きそうな家がいっぱいあります。道は、一応二車線といったところで、車の通りも少なく、なにより塀の続き方がちょっとおかしい感じなのです。遊園地とか動物園の周りのようです。
 そういえば、若の家も、道場と、道場の駐車場と、お庭と、母屋と、離れと、中庭と、家人用の駐車場とがあって、かなり大きいですが。
 さすがに十月も終わるこの時期は、風が冷たいですから、ブレザーの大きな襟元をぎゅっと掴んで、力強くアスファルトを蹴って、大きく足を踏み出しました。
 そうして、若のとなりに並び、少し首を傾げて下からちょっとその顔を覗き込んで、せっかくのハロウィンなのですから、あのセリフを言ってみました。
「ね、若。トリックオアトリート?」
 “馬鹿かお前”的な顔で見られてしまいました。私、一応彼女なのですが。
 めげずに「お菓子は?」と聞きますと、ノリの悪いというか、今は少し不機嫌そうな若が「あるか。馬鹿」と今にも舌打ちせんばかり答えました。なんだか、かなり苛々してる感じです。
 私のせいかもしれないと思うと、今度は、そんな傲慢な考えがよくできるな、ともう一人の私が頭の中で言いました。なんだか、私も次第に不機嫌なのか不愉快なのかわかりませんが、今日は若の部活の方々に引っ張り回されてとても大変だったのにって思ってしまいます。
 とにかく悔しかったので、若のブレザーの、肩のあたりをぎゅっと握って歩くのを止めさせました。それからちょっと爪先に力をいれて背伸びをして、彼の頬にぶつける感じでキスをしました。
 それに満足して、若の肩から手を離すと、若が空からミミズでも降ってきたような顔をしていました。その瞬間、私は自分の行動をひどく後悔して、ああ、またやってしまったと、本当に心底凹みました。跡部先輩に体型を看破されたときと同じくらい凹みました。
 歩みが止まっているのがとても居心地が悪くて「行こう?」と声をかけてさっさと歩き出すことにします。ああ、本当に決まりが悪いです。なんで、私は勢いでこんなことをしてしまうんでしょう。これはいわゆるセクハラに近いものがあったような気がします。本当は二人きりで、図書室でちょっとイチャイチャ(というか、会話でもいいのですが)できればよかったのに、今日はこんなことになってしまって私も少し――その、タマッテいたのかもしれません。(ちゃんとした意味はわからないのですが、タマッテってこういう使い方で大丈夫ですよね?)
「お前、何考えてるんだ?」
 そっちこそ、と反射的に口に出しそうになってしまいました。そもそも、若が跡部先輩方に心配をかけるから、こういうことになったのです。そうに違いないのです。巻き込まれたのは私のほうなのです――ただ、私がしっかりと断れていれば、こんなことには確かにならなかったかもしれませんが。
 なんだか、頭がグチャグチャしてきたのでスタスタと軽く走るように歩きながら「お菓子がないから悪戯しただけ!」と言い訳っぽくなってしまう言葉を若に叩きつけました。
 若は「どうでもいいけど、そのまま真っ直ぐ行くと余計時間がかかる。こっちのバス停の方が早い」と、淡々と説明してくれました。なので言われた道を曲がり、なんだか、情けないやら悔しいやらでとぼとぼと歩きました。
 バス停には誰もおらず、十〜二十分感覚で駅までのバスがあるようで、次のバスが来るのは七分後であることを確認して二人でバス待っていると、しばらく無言だった若が何かを私に尋ねました。
 聞き取れなかったので若を見上げて首を傾げると、若は急に私の手を握ったのです。なんだかドキドキしてきてしまい、それを隠すために「どうしたの?」となるべく平静を装って尋ねました。
 もう一度、若は同じセリフを言ってくれました。それは、今日だけ有効なあのセリフで、私はお菓子を持っていたけれど若には渡さなかったので、彼に小さなイタズラをされてしまいました。ついでに「別に悪くなかった」と時間差でドレス姿を褒めてもらえたので、天にも昇る気持ちです。
 そのせいで何だか、さっきよりも心臓がドキドキしてきて、今日、長い間私のかたわらにいてくれたジャック・オ・ランタンが私を嘲るように高笑いしながら頭の中をグルグル飛び回りました。
 来年は、二人きりでいちゃいちゃできたらいいと思います。でも、ジャックの目からだけは逃れられないような気もしますけれど。