can feel happy.
 十二月二十四日も十二月二十五日も、予定がある。

 俺のその一言に、香奈が付き合ってきた中で一番がっかりした表情をした。
 がっかりとした表情をするのは、こんな自分が可哀想でしょうと同情を誘うためのものだと何かで読んだことがあるが、香奈はとにかく酷くがっかりした、気落ちした様子で、それでも素直に「わかった」と頷いた。
 俺の予定をまず聞いてから、その返答が自分の望むものでなくても受け入れる我を通さない所が、香奈らしいし好きだけれど、あまりあっさりと引き下がられると何だか物足りなく感じる俺は、おそらく我が強いんだろう。
 ちなみに予定とは家の大掃除の事だ。けれど、予定と胸を張って言えるほどには、我が家の大掃除は予定であり予定だった。

 十二月二十三日から始まった冬休みは、部活やら古武術やら宿題やらだけではなく門下生・親戚への年賀状書きから、親戚へ歳暮を――これは十三日からそうだったのだけれど――手ずから届けに行かされたりと、大変に忙しかったし、大変で忙しかった。
 毎年のこととは言え、俺が率先して仕事をせずにいたら兄に蹴られるし、俺自身もさほど怠けようという気はなかった。
 少なくとも香奈の誘いを蹴るほどには掃除に従事するつもりだったし、しているつもりだった。
 家中の窓ガラスのサッシ部分を、意地と根性と熱意でもって綺麗に磨き上げてから、祖母に頼まれて換気扇の油汚れを落としていると「それが終わったら御節の材料を買ってきてね」と背後から母に声をかけられ了解の返事を返した。

 広大な土地とは言えないものの俺の家では母屋やら離れやら蔵やら道場やら庭やら掃除する場所が多すぎて、大掃除も短く見積もって一週間はかかる。掃除が終われば当たり前のように汗だくになってしまう。二十三日から始めて三十日にやっと終わらせて、息つく暇もなく大晦日は新年の準備。
 なるほど、確かに“大”掃除だなどとそんな事を思うと深く納得してしまった。

 祖母と母は、年賀やら寒中見舞いの品物やら年越しそばの手配やら、新年の挨拶に来るだろう親戚に振る舞う為の御節の下ごしらえやら、雑煮用の鶏を養鶏場で自ら見繕うやら――祖母が鶏を絞めるのだ。その様子を見ていると人間とはなんと業の深い生き物かと考えさせられる。――している。
 必然的に掃除やら簡単な買出しやらは兄と俺の仕事になり、祖父と父とはいつも通り門下生を鍛え、俺と兄は合間合間に稽古にいそしむという冬独特の日常になる。そして新年になると親戚がやってきて家族総出で持て成す。毎年の事だ。

 香奈は、冬休みが始まってもテニス部の自主練習をしている俺の様子を見に来た。と言ってもまだ始まって三日なのだけれど。
 気を使っているのか、なんなのか香奈はあまり声をかけてこないが休憩に入るとレモンの蜂蜜漬け――あまりのお約束な品物にお前はどこのマネージャーかと突っ込みを入れたくなる――なんかをいそいそと持ってきては他の部員に見つからないように、こそこそ鼠男みたいに人目につきづらい場所へ隠れる。
 しばらくすると図書室や美術室―― 一応は開門してあるのだが、冬休み中は保護者・関係者用入り口を使う用にと指示されている。図書室は当たり前に開いていないので職員室で鍵を借りるんだろう。 ――へ移動して宿題なんかで時間をつぶしているらしい。練習が終わった頃に携帯に連絡してやると、またいそいそとこそこそとテニスコートの傍で俺を待っていた。
 なんだか香奈のその姿を見ていると、香奈の誘いよりもテニスや大掃除を優先した事に罪悪感を感じてしまう。“今日はテニスの練習する? ”という香奈のメールに返信するときに、何だか心が圧迫されているような感じを覚えて、溜息が出てくる。
 もちろん香奈にそんな気はないのだろうし、俺を監視する為に練習を見に来ているわけでもない事を知っているけれど。
 けれど、どうしても香奈の誘いを断った負い目のようなものが俺の中にあるらしい。陰鬱とは言わないまでも、晴れ晴れとはしない気分で、“用事があるから、しない”と一言だけ返信した。

 香奈のメールを重荷のように感じてしまう事が嫌で、頭を軽く振って思考を追い出す。
 新品同様と自画自賛してしまうほどに磨き上げた換気扇の羽根を嵌め直し、手を洗い、母から買い出しのメモと買い物篭と財布を受け取って、家を出た。
 買い物篭には入りきらないだろうと言うほどの品物がメモには記載されていたけれど、恐らく往復して買って来いという意味だろう。まあ、自転車だし、いい運動だろう。恐らく。多分。嫌がらせではないと思う。嫌がらせ的な量だけれど。もしかしたらスーパーをニ、三軒はしごしなければならないかもしれないけれど。
 垂らしていたマフラーの裾が風に靡くのを鬱陶しく思って結んでしまってから、白い息を吐いて自転車のペダルを強く踏んだ。

 ◇◆◇

 手袋を、嵌めてくればよかった。
 五往復目の帰り道、かじかんで痛みを訴える指に後悔しても、これが最終便なので意味はない。遅すぎる。後悔先に立たずとはなるほどよく言ったものだ。
 空は地平の彼方にオレンジ色の爆弾を落としたような色合いで、恐らく天を仰げば毎年のよう俺を見ろと訴えかけてくるオリオンが居座っているんだろう。
 何度も家と店とを往復した所為で身体は温かいのだけれど、鼻先やら指先やらの末端には冷えによるピリピリした痛みと、脈動にあわせたズキズキとした痛み宿っていた。いつの間にこんなに寒くなっていたのだろうか。
 けれど、木蓮の蕾の和毛が灯り始めた街灯の光をキラキラと反射して、早くも三月頃の開花が楽しみだなどと思うと、痛む指先も気にならなくなった。
 冬産まれの多い家族内でも、俺は特にこの冷えた季節をとても気に入っている。
「あっ! ちょ……待って! ストップ!」
 知っているような感じの女の切羽詰った声が耳に届いたけれど、まさか俺の事ではなかろうと自転車のペダルを踏む。
「若ってば!」
 思いっきり名前を呼ばれて急停止した。
 俺を下の名前で呼ぶ人間は……しかも女は、祖母か母か幼馴染兼門下生か従姉妹か、香奈だ。
 急停止した俺に追いついた香奈が息を切らせて俺のマフラーを掴み、呼吸を落ち着かせようと肩を上下している。
「っはぁ……は、……今から、若の家に行こうと思ってたんだけど……っ、……すご……奇遇だね。運命かも」
 はー、と大きく息を吐いてから、寒さにか、それとも急激な運動にか、香奈は赤く染まった頬を手のひらで擦り、笑った。
「俺、今日は予定あるって言わなかったか?」
 それは大掃除だけれど。
 そして買出しだけれど。
「うー……言った。聞いた。 けど……」
 言いよどむ様子に少しばかり苛々としたけれど、言わない。
 運命かも、とふざけた事をぬかした香奈が本当に、この世にこれ以上嬉しいことは存在しないとでも言うようにとても幸せそうに笑ったので、それだけで俺は香奈をとても可愛く感じてしまっていた。そんな自分の単純さに呆れてしまいながらも、結果、多少の苛々は気にならなかった。
 女の笑顔を可愛く感じる日が来るなんて、小学生の頃は考えたことがなかったけれど、もしかしたら父も母にこんな感情を抱いたのかと思うと少しだけ気持ち悪くて少しだけ可笑しい。

 通行の邪魔にならないようにと自転車を道路脇に押すと、香奈もこつこつとついてくる。
 何か言おうと自分を鼓舞しているらしき香奈をよそに空を見上げると、いつの間にかオレンジ色の爆弾は消え失せて濃紺と紺と濃紫と漆黒が下地となっていた。
 ここにいるぞとうるさいくらいに主張するオリオン座の橙色をしたベテルギウスと、あまりの純白にギラギラとさえ感じる大犬座のシリウスと、太陽のような黄色をした仔犬座のプロキオンが、毎冬のことながら馬鹿でかい三角形を作っていた。
 そういえば、何故冬だと星がよく見えるのだったろうか。習った記憶があるのだけれど、思い出せない。

「えっとね、旅行じゃないのは知ってたから、若にこれだけ渡したくて」
 やっとのことで意を決したらしい香奈に声をかけられて視線を空から香奈へと落とす。
 香奈は、緊張気味に腕にかけていたトートバッグからごそごそと包みを取り出した。綺麗にリボンをかけられ、ラッピングされたそれを受け取る。
「これはなんだ?」
 受け取ったは良いものの、何故急にこんなものを渡されるのかが解らない。誕生日は過ぎたし、香奈香奈なりに一生懸命祝ってくれた。
 俺の心底理解不能だという訴えに、香奈が目を見開いてから「クリスマスだから」と言った。
「……クリスマスだから?」
 説明になっていない言葉を繰り返して尋ねる。クリスマスなのは俺でも知っている。神道の我が家には何の関係もないものだけれど知識くらいはある。香奈は何だか挙動不審になりつつも説明してくれた。
「むかしむかし、貧乏なために娘を結婚させられないお父さんが嘆いていました……」
 なんで子供に教えるみたいな日本昔話調になっているのかが不明で不快だが、我慢する事にして説明を聞く。
「たまたまそれを聞いていた聖ニコラウスという神父様がいました。聖ニコラウスは、そのお父さんを哀れに思って夜になってから三枚の金貨を窓から投げ入れました。それがたまたま靴下に入り、クリスマスにはサンタクロースが靴下にプレゼントを入れてくれ……「それくらいは知ってる」……」
 香奈、お前人のこと馬鹿にしすぎだ。聖ニコラウスの話は知らなかったが、いくら俺でもクリスマスにサンタクロースが煙突から不法侵入して靴下に何かをつっこんでいくという話くらいは知っている。
 俺の不機嫌が顔に出たのか、香奈は小さく唸る。
「だから、プレゼント」「だからなんで」「クリスマスだからプレゼント」「それはサンタクロースの仕事だろ」「……クリスマスにかこつけて若にプレゼントあげたかったの! ていうか世の中の恋人同士はクリスマスにはプレゼントを贈りあったりするの!」「実際にそんなことする奴いるのか?」「ここにいるじゃん!」
 確かに。
 俺の目の前にいた。
「いやだったらいいよ別に無理に――」
 お前、そんなふうにからかい甲斐のあるふてくされ方、やめろ。しかも顔が威嚇するハムスターみたいになってるぞ……と言っても威嚇するハムスターは小学校の頃に一度見ただけなので適当な喩えだが。威嚇する猿と表現するには凶暴さがなかった。
 自然と溜息が漏れたけれど、まあ、とにかく、プレゼントを贈ってきた理由はわかった。
「嫌じゃない。ただ、理由がわからないと不気味だから、気になっただけだ」
 素直にそう言うと、今度はキッと俺を睨んで「不気味って言うな……」と赤い顔で怒ってきた。少し前から発言と態度がおかしくなっている香奈に再び溜息が漏れる。

 けれど“若にプレゼントあげたかったの”という言葉は素直に嬉しかったので睨んでくる香奈に「ありがとう」と伝えてやる。
 単純にも、それで機嫌が直ったのか「どういたしまして」と香奈は笑った。それからまたトートバッグをあさると、キルティングに包んだ何かを差し出してくる。先に受け取った包みを自転車の籠に入れ、それを受け取る。
「皿?」
 布越しの感触に問うと、香奈が頷く。
「うん。クリスマスプディング作ってきた……って言っても日曜学校でだけど。あとね、コレがソース。冷えてたら蒸したりレンジでチンして食べて下さい。」
 香奈は自然な動作で小さなプラスティックの容器を勝手に俺の自転車のかごに入れた。さりげなく図々しかった。
 しかしそれよりも聞きたいことがある。
「ニチヨウガッコウ?」
 聞きなれない単語を問うと香奈は「うん」と頷いた。が、それ以上の説明がなかったので、なんとか脳内でニチヨウガッコウに漢字を当てはめ「日曜学校って何だ?」と更に問う。こういう時に察せられない香奈の馬鹿さ加減は面倒くさいけれど、おそらく香奈にとって“日曜学校”と言えば誰にでも通じるたぐいのものなんだろう。
 俺だって“氷帝? ”と問われれば“氷帝”と答えるし。これは例文としては成り立たないが。
「あれ? 知らない? 日曜学校って、ホラ、日曜日に教会に行ってキリスト教の事いろいろ教えてくれるやつ。私の家、親があんまり家にいないから学童保育がない日曜日はお兄ちゃんと一緒に日曜学校通ってたんだよね。今日は日曜日じゃないけどクリスマスだったからコーラス? 聖歌隊? とかの人も来たし、若も暇だったら一緒に行きたいなって思ってたんだけど」
 今度の説明は良くわかった。けれど、またしても疑問が浮かぶ。
香奈ってキリスト教徒だったか?」
「ううん、仏教徒だと思うよ」
 仏教徒のくせにキリスト教習ったのか、こいつ。だから聖なんとかがどうしたとか妙に詳しかったんだな。まあ、その辺はどうでもいいけれど。別にキリスト教にも仏教にも興味はないし、駅前で冊子を配って強引についてくる新興宗教の信者は不快で鬱陶しすぎる。
「いつもママもパパも年末は忙しいーって一緒にクリスマスできないんだけど、今年はお兄ちゃんまで彼女と一緒にどっか行っちゃって、一人で教会行ったよ」
 笑いながら世間話を開始した香奈の言葉を聞きつつ、最初に貰った包みを手にしてクリスマスプディングとやらをかごの中のたまごが割れないようにそっと置いた。手にした包みは、さほど大きいものでもないし、持った感じが軽いので、誕生日のときのように異常に大量のプレゼントだということはないだろう。わずかにラッピングの擦れる音をさせて、ラッピングのリボンを解く。
「ここで開けちゃダメ! 私が見てないとこであけて!」
 すると途端に懇願された。けれど即座に無視して手早くラッピングを解いていくと香奈の手が俺のそれを阻もうと伸ばされる。俺の前から逃げればいいのに、止めようとしてくる姿がなんだかおかしかった。
「恥ずかしいからやだってば!」
 一応屋外だと言う事を意識し、小さめに訴えてくる香奈を無視して抵抗を受け流して包装紙の全てを剥がすと、出てきたものは紺よりもほんの僅かに青に近い毛糸の手袋だった。
 これの何が恥ずかしいのかは疑問だけれど、オーソドックスでセオリー通りでハズレがない種類のものだった。シンプルで、なくてもいいが、あってもいい、というタイプのもの。
「へぇ……悪くないな」
 良いタイミングだと内心で感心しながらも、なぜか妙に恥ずかしがって耳まで赤くしている香奈が「あけないでって言ったのに!」とまたしても俺を睨んでくる。本日、二度目。
 悪くない、と言えば普段の香奈ならば喜ぶ所なのだけれど、今は異常に恥ずかしがっていた。照れていた。理由は解らないが、そんな香奈の様子に無駄に勝ち誇ったような気持ちになる俺はとても子供なんだろうと思う。
 いまだに俺の手からプレゼントである手袋を奪おうと本末転倒な行動をしている香奈を無視して手袋をはめてみる。と、なんとなく違和感を感じた。何が、とは言えないけれど、何か違う。
「これ、香奈が編んだのか?」
 ほとんど勘だった。

「お、重いって……思う?」
 俺の勘は当たっていたらしく、妙にびくびくした様子で、俺の反応を窺うように香奈が聞いてくる。そんなに不安ならば別のものにすれば良かっただろうと思ってしまった。
「いや、別に」
 即答。
「若、大好き」
 即答。
「馬鹿」
 即答。

 香奈がそれに可笑しそうに笑って「若、大好き」ともう一度言ってくる。こいつはこんなに簡単に言うけれど、言われるたびの俺の鼓動の速度なんて知らないんだろう。いまだに、好きだと言われる事に慣れない。
 それでも、この、慣れずにいる心臓の早い動きさえも嬉しく感じているなんて、香奈はきっと思いもしていないんだろう。どうしてだかわからないけれど、俺はなぜか香奈が好きで、だから香奈に好きだと言われるたびに、本当に、嬉しくなってしまう。馬鹿みたいに。
 軽軽しく好意を示す言葉を言う事は、浮薄な事だと思っていたし、思っている。けれど、香奈の「好き」だけは、何度言われても、軽く流してしまっても、何故だか疑いようもなく、本当に俺が好きだから言ってきているのだと、わかる。知れる。伝わる。感じる。想える。理解できる。
 これだけの事がこんなに嬉しいことだなんて、想像も出来なかった。

 そんな思いを気取られないようにと、俺は自分の身につけていたマフラーを乱暴に剥ぐと、厚手のコートを着ているもののそれ以外の防寒具は何も身につけていない香奈の首にかけてやる。戸惑いつつも香奈は大人しくされるがままになっていた。
 長さが余ったのでぐるぐると巻いてやると、途中から香奈がもう笑うことを止められないといった、わずかに興奮した嬉しそうな瞳をキラキラさせて俺を見てくる。
「クリスマスプレゼント?」
 弾んだ声で問われ、ここで違うと言えばきっと落胆するだろうなと思いながら、そう言いたがる唇を叱咤してどうでもない事のように言ってやる。
「贈り合ったりするんだろ?」
 俺の答えに、香奈は首に巻かれたその生地を撫でながら「うん」と、また笑い「大好き」と、また告白してきた。
 香奈は、付き合い始めてから、思い出したように何度も俺に好きだと言う。
 軽率で軽挙で軽薄で浅薄で浅慮で妄動で無思慮に、好きだという。
 香奈の愛情が余す所なく俺に伝わるように、香奈の好意が少しでも沢山俺に届くように、香奈の恋情が俺に欠片も伝わらないのではないかと怯えるように、好きだと言う。
 時折、少しだけ重たく感じられるその“好き”が、俺はそれでもとても嬉しい。

 遣いを頼まれてから随分と遅くなってしまったので、香奈を家まで送ってやることは出来ず、逆に俺が自宅まで香奈に送られるような形になってしまいながら、それでも二人で歩く。
 歩き出してから、香奈と俺の顔がいつもよりも近いことに気づいて原因を探すと、香奈は学校へは履いて来ない高めのかかとのブーツを履いているらしかった。普段はしないコツコツとした音が耳を打つ。
 香奈が少し顔を上げただけで、あと少し俺が顔を落とせば口付けられそうな近さは、とても新鮮だった。これだけ近ければ口付けやすいのに。そんな事も思いついていない香奈が無防備に見上げてくる。その笑顔を見るとキスしてやろうかと衝動めいたものが胸に生まれた。
 けれど、行動としては顔を少し落とすだけの簡単な行為なのに、そんなことは絶対に出来るはずがないと理性が妄想を侮蔑する。
 そんな事を考えているだけで顔が熱くなりそうで、軽く首を振った。

「金欠だから、家にあった一番若に似合いそうな毛糸で編んでみたんだけど、初めてにしては上手いでしょ? 家に若がいなかったら、手袋だけ郵便受けに入れるかおばさんに渡そうと思ってたんだよね。でも、直接渡せてホント良かった。なんか、もー、ホントに若大好き。ホントにすっごい好き」
 何が嬉しいのか、何が楽しいのか、本当に幸せそうに香奈は自分の指先に息を吹きかけながら赤い頬で笑う。
 一度立ち止まって香奈の編んだ手袋の片方を手渡して「嵌めろ」と命令すると、不思議そうに片手だけにはめた。俺の意思を問おうとする香奈の言葉は当たり前に無視して、皮膚を晒して冷たい空気に撫でられている香奈の華奢な片手を、やはり俺の冷たい素手で取る。
 そうして二人の手をジャケットのポケットにつっこむと香奈が照れ笑いをして、ぎゅっと一度だけ強く握ってきた。片手で自転車を押しながら、俺も一度だけ、強く握り返す。
 お互いの体温に暖められた手のひらを離すのが惜しくて仕方がなくなるまでは、直ぐだった。