| さて、小曾根香奈が若と付き合い始めてからよく言われる言葉がある。 「怖くないの?」 という大変に若に失礼な問いかけだった。 しかし、香奈とて最初は“ちょっと怖い感じ”という印象をもった若のこと、仕方がないかと思われた。 だから香奈は「怖くないよ」という返事を返すことにしている。 香奈は、今でも時折若を怖く思うこともあるけれど、口調がぶっきらぼうでストイックで努力家な彼が、それでも自分と一緒に昼食を摂り、電車の路線を変更してまで一緒に学校に通っていてくれていると言うことが彼なりの最大の愛情表現だと感じている。 未だに学校内での会話は極端に少ないものの、二人でいればそんなこともない。 若のことを全て理解は出来なくとも、少しでも彼を知り、余分な言葉を省く癖のある彼の言葉の本当に意味するところまで知りたいと香奈は常日頃思っていた。思っていただけで特に行動はしていなかったが。 それにしても色々言われた中でも「あの人キスとかできるの?」という質問は多大に失礼である。 香奈は彼の口付け一つで自分の世界が薔薇色になるくらい幸せになれるのに。 そんなことは恥ずかしくて伝えられなかったが。 「ね、若」 昼休み、本日は食堂でお互いに食事を終え、二人でそれぞれ紙パックのイチゴオレと烏龍茶を手に図書室に向っていた。 その廊下を歩む途中でかけられた声に、若は視線を向けて先を促がす。 「若ってさ――」 香奈は“私と付き合い始めて、誰かに何か言われた? ”と聴きそうになった唇を慌てて閉じる。 聞かなくてもわかっていることをわざわざ聞こうとするのは、きっと若にも迷惑だろうと香奈は思い直したのだった。付き合い始めてからと言うもの、彼は直接好きだなどと言ってはくれないけれど、だからってこんな答えが決まりきっている、解がわかっている問いを発する事は、少なくとも今の香奈には出来ない。 若は態度で好きだと示してくれているのに、言葉で聞きたがるなんて、若の好意を理解できていないようで、なんとも情けなくなることであるし、二人で連れ立って図書室へ向っている原因を思いついた問いと変更した。 「自由発表の、何にしたの?」 「原子炉とエネルギーについての環境問題」 「うっわ。難しそうだね……あーでも、日本は技術力あるんだから、もっと地熱とか水力とか風力とか太陽光とかエネルギーにすればいいのに……燃費悪いらしいけど」 香奈が理化の教師の受け売りを口にすると、若は「そうだな」と小さく肯定を返して香奈の歩調より少し速いまま、歩く。 若は学校内では極端に口数が少なくなる。香奈に対してのみ、だけれど。こうやって一緒に行動する事もあまり多くなく、昼食だけは予定が合えば一緒に摂るというのが二人の中で定着しているのみだった。香奈は有田と食事することもあれば、若は一人でどこかへ行ってしまうこともあった。 その、滅多にないことが今おこっている。今は、三年の引退で若が準レギュラーになるかならないかの瀬戸際で、また自由発表もあるものだから、登下校時しか二人きりでいられない。寂しさに負けて、香奈が今日の昼休みは一緒にいたいと言い出したのだった。それを、少し迷惑そうな顔をして、でも若は許容してくれる。 香奈は自由発表を、自作の絵本にする予定でいた。 自由発表と言うのは、生徒が授業以外で好きに研究をし、作品を作り、発表日の授業後に体育館にて、生徒自身で簡単なプレゼンテーションを行う――という自主学習を促進するものだった。最後には、誰の発表が良かったかを投票するが、どの発表を見るかは個人個人で好きに決められる。その他、政治や経済、早期出産や高齢者社会、携帯電話についてのディスカッションを、授業後や休みの日に行うこともあり、そう言った点で生徒の自主性を伸ばす――らしいが、香奈には良くわからなかった。 とにかく、香奈は絵本を作る気持ちでいる。飛び出す絵本――とまでは言わないが、多少そういった要素をもった、かわいい仕掛け絵本が作りたいと考えていた。 図書室内に入り、香奈は若と分かれて童話・児童書・昔話・絵本のコーナーを物色する。古い本の香り、新しいインクの香り、色々な紙の香り、それらを大きく呼吸して吸い込むと、香奈は一冊一冊の童話の背表紙を眺めた。 自分で話を考えても良かったが、どうせなら、他国の童話にして、発表時に外国や昔独特の表現に注釈をつければ、美術だけではなく歴史や英語の点ももらえるだろうと香奈は打算する。漫画好きの友人はその漫画についての何かを発表すると言っていたが、香奈は自分よりチャレンジャーな発表だなと感心したものである。 そうして、一冊一冊、メジャーなアンデルセン童話集やイソップ童話集、グリム童話集などに加えて、ポルトガルの昔話、韓国の昔話、日本の昔話などのタイトルの、気になる童話集を抱えて、図書室の奥にある円卓にどさりと重くなった本の山を載せた。揺れた円卓に、先に着席してノートにメモをしていた若がうるさそうに香奈を見た。 「あ、すごい、もうコピーもとっちゃったんだ?」 若が開いている本の他に、ファイルには新しいトナーの香りがするプリントが何枚か綴じられている。すぐに本を選び、資料をコピーする素早さに香奈は心底感心して、すごいな、と思う。しかし、若はそんな香奈の感嘆の吐息も無視して「昼休みは短いんだからさっさとしろよ」と叱るだけだった。 香奈は少しだけしゅんとして「はーい」と答えてからパラパラと本を捲る。 白雪姫、人魚姫、ジャックと豆の木、ごんぎつね、ヘンゼルとグレーテル、親指姫……読むとも言えない斜め読みで香奈はページをぱらぱらと捲る。その動作も若の集中力をそぐのか、とうとう彼は香奈の持ってきた本の山を、香奈と自分の間において、香奈が、香奈の行動が己の視界に入らないようにしてしまった。 そのことに気づいた香奈は、少しだけ叱られた柴犬のように眉を下げてから、ぷくりと頬を膨らませて、ゆっくりと息を吐いた。そしてまたペラペラと本を捲っていく。 その態度は少しひどいのではないかと言いたかったけれど、それでもし喧嘩になってしまったりしたら、と考えるということが出来なかった。もうちょっと仲良くなって、言いたいことが言えるようになればいいのに、と、今の自分と若の関係性に香奈は少しだけ落胆した。 付き合い始めのほうが、もう少し強引に出来たような気がする。 たぶん、きっと、付き合い始めて調子にのっていたのだろう、と香奈は思う。もしくははしゃいでしまっていたのか。 いつの間にか、強引に話を進めることが出来なくなった……もともと、さほどそう強引でもなかったのだが。それでも、今の消極的さよりはずっとよかっただろうと思う。若のテニスへ向けたひた向きな思いなどを知っていくうちに、彼が本当に気に食わないものをばっさばっさと切り落として行くことも知った。その所為かもしれない。 もちろん、ここで香奈に向って、その動作に対しての文句を言わないというのは若の最大限の譲歩だろうし、同じテーブルについていることだってそうだろう。若だって、香奈が好きだから、こうやって我慢してくれている。それはわかるのだけれども。 なんだか切ないような心持ちが、この童話にピッタリだな、と思って一話を選び出すと、残りの本を片付けにかかる。学校では、特に若は香奈に優しくない。それが彼の性格だけれど。腕にした重い本の山が、今の自分の心の重さを顕しているようで、少し悔しくなって、香奈はばたばたと大急ぎで童話集を片付けた。そして、決めた童話の訳本と、原本の二冊を借りて、円卓に戻る。 席を立てる準備をしていた若は、香奈が戻ると「行くぞ」とだけ言って歩き出した。 待っていてくれた。それだけで、少しだけ気持ちが浮上する香奈だった。単純な自分は嫌いだけれど、こういう単純さは悪くないかもしれない、と思えるほどに気分が浮上した。 「若、今日、発表に使う材料買いに行くから、一緒に帰れないや」 教室に戻りながら、香奈は言う。若は若干早足で、香奈は少しだけ大股でせかせかと足を踏み出した。 「わかった」 もうちょっと、何か欲しい。 自分を見もせずに言われた言葉に、香奈は即座にそう思った。そう思ったけれど、付き合う前の、若が同じ空間にいるだけで嬉しかった気持ちを思い出すことに何とか成功して「うん、ごめんね」と柔らかい声で言う。 付き合うというのは、今までよりも親密になりたい、コミュニケーションをとりたい、ということなのだと香奈は思っていたけれど、今でも思っているけれど、若にとってはどうなのだろうと疑問を持った。触れ合うコミュニケーションは増えたが、付き合う前に比べて会話が増えたと言うことはあまりない。もともと、若は言葉を弄することが好きではなく、会話自体も無駄なものは苦手なようだった。だから、仕方のないことかもしれない。 それでも、若の歩みに合わせて、菜種油色の彼の髪がさらさら揺れるのを見ていると、なんだか顔が勝手ににやにやとしてしまって、周りに誰もいないことをきょときょとと見回して確認すると「大好きだよ」と小さく呟いた。 それには「馬鹿か」という返答しか返ってこなかった。 その日香奈は本屋によって沢山の仕掛け絵本を見て勉強した。内部構造がわからないので、どうしても一冊分解用に欲しくなった。学校の蔵書に仕掛け絵本はなかったのだ。 しかけ絵本といえばロバート・サブダだが、デヴィッド・カーターの本も素晴らしい。サブダの本が楽しければ、カーターの本はかっこいい……と、香奈は思うし、バーバラ・クーニーのピーターとおおかみの舞台仕掛けを見たときには、そのまま使わせてもらおうかと思ってしまうほどだった。 結局香奈は、ペーパーアートの奇才、デヴィッド・カーターのポップアップカードを三枚ほど購入することで落ち着いた。しかし、サブダの絵本を買いもせず舐めるようにじっくりと観察していた香奈に、店員が壊されたらたまらないとハラハラと彼女の様子を伺っていたことは結局気づかなかった。 とりあえず、紙で出来るところまで表現しようと香奈は決めて帰宅した。その紙を物色するために明日は世界堂にでも行こうと予定を決めると、香奈は、昼間の悩みなど全く消え去ったような気がした。 気がしただけで、背中にきびに効くらしい入浴剤をいれた湯船につかると、自動的に、はあ、と香奈は溜息がでた。若のことはとても好きだ。二人でいる時はとても優しいし、ちょっとぶっきらぼうな言動にだって、なんというか、親しい感じがにじみ出ていて、だから、全然平気だ。若の“馬鹿”は、香奈に対する時だけ嘲りや侮蔑の感情が驚くほど少ない――と、香奈は自分で勝手にそう思っている。 けれど、今のように二人きりになる機会が少ないと「つまらない……」そう、つまらない。もっとかまって欲しいし、もっと優しくして欲しい。だって、若と香奈は付き合っているのだから。 けれど若の邪魔はしたくない。嫌われたくない。それに若はああいう性格だ。彼を好きになった自分に問題がある。優しくて構ってくれる人を好きにならなかった自分が悪い。 「でも……だって、好きなんだもん……」 優しくなくなって、構ってくれなくたって、好きだ。若が。 さらさらの髪の毛が好きだ。大人びているように見せて、その実とても子供っぽいところも好きだ。テニスをしているところも好きだ。ちゃんと好きだといってくれなくて“好きでもないやつ”と苦肉の策で言ってくるところが好きだ。キスの時に自分のことをすごく好きでいてくれているんだな、と感じられるところが好きだ。 好きだったら、好きになったんだから、寂しいのは我慢する。できる。と、思いたい。 一番怖いことは、若が好きなこの気持ちが消えてしまうことだった。若に嫌われることよりも怖い。 「すっごい、好き」 でも、なんだか色々考えたけど、でも。 やっぱり好きだ。で、優しくしてもらえたらすごく嬉しい。 優しくしてもらえるようにいい子でいよう。 いい子にしてたら、若もきっと喜んでくれる。 いい子にしよう、いい子にしよう。 いい子の基準は漠然として曖昧としていた。香奈のいい子の基準は、両親の教育によって培われたもので、その中に、我慢することと、頑張ることと、優しくすることがある。 だから、香奈は自分の考える“優しいこと”を若にしてみることにした。 自分の都合を彼に合わせること――これは毎日のように帰宅を待つというだけだった。また、若が嫌がるので昼食を二人で学食で摂ることは我慢した。人のいない場所でなら、若は了解をくれたので、母親に習って、夜に仕込みをして朝早くに起きて、頑張って二人分の弁当を作ってみたりもした。無駄にカラフルな弁当を作ろうとして失敗し、母親にたしなめられた。パプリカが一個いくらだと思っているのだと言われて、簡単に計算しただけで弁当一つに二,〇〇〇円もかかってしまい、結局簡単な弁当を作ることになった。 それから「大好き」と言うのも、若がちょっと困った様子になるので、言うのを我慢した。 香奈の基準で、香奈はいい子にした。宿題もちゃんとやったし、自由発表の絵本だって原文をカリグラフィで書き記し、死ぬかも……という弱音は友人や家族の前だけにとどめて若には言わなかった。 そんなふうに、香奈はいい子いい子と言い聞かせて、図書室からも美術室からも追い出されて、仕方なく部室棟のあまり使われない美術部部室で、若の練習が終わるのをそわそわと待っていた。 最近は便利なもので、製本とパソコンで検索するだけで、本の作り方が載ったページがいくつも見つかった。明日の発表までには本の形になるだろう。製本器具類は色々と高いので努力と根性と創意工夫でなんとかする予定の、絵本の、まだ本にはなっていないページを捲る。折り畳んだページを広げると雪の女王がすっくと立ち上がり、雪を模したラメのついた糸がくるくる回る――このあたりはカーターのポップアップカードを参考にした――、サブダを参考にし端の紙片を引くと少年が雪の女王の元に行ってしまった絵が現われるようにもした。 本当はもっといろいろなことがやりたかったのだが、香奈の実力が伴わなかった。 雪の女王でキャスティングするならば、若がカイで、自分はゲルダだと思う。若はいつもツンツンしていて香奈のことを見ていない。それなのに、香奈は若が好きだから追いかけてしまうし、自分を見て欲しいと思う。忘れられたら嫌だ。おいかけておいかけて、今はちょっと寂しいけれど、自分たちの最後もハッピーエンドであればいい。 そんなことを考えながら、部室の外で足音が響くたびに、若が来たのだろうかとそわそわとドアを開け、彼でないことに落胆してすごすごと部室に戻り、練習が終わったという連絡が携帯に届かないかと、それを眺める。 早く、部活を終えて迎えに来て欲しい。デートがあまりできないことは我慢する。けれど、一緒の帰宅くらいは彼女の特権でもいいだろう。香奈の想像していたお付き合いとは大分違うが、常に人といたくなってしまう香奈にしてはかなり我慢している方だ。 きっと、部活のときの若は、カイのように はあ、と溜息が出た。 頑張っている若は大好きだ。けれど、やっぱりちょっと寂しいなと思う。再来週の日曜日は空いていると言ってくれたので、その日は二人っきりでベタベタするんだ、と香奈は拳を握って――けれど、部活の先輩と帰りに寄る場所が出来たから先に帰ってくれと言う若のメールに、帰宅後もずっと不機嫌なまま、製本作業を開始した。 むすっとした香奈に、若が困っていることはわかった。 わかったけれど、でも何を言えばいいのか良くわからなかったので、香奈はふくれっつらのまま、学校に向う電車に揺られていた。 若は困惑して、けれど“昨日、香奈を先に帰らせたことで怒っているのだろう。自分を待っていてくれたのに申し訳ないな。”という予測はついたので「昨日は悪かった」と謝った。謝ったが、香奈はむくれたまま一言も発さなかった為、大きく溜息をついた。 好きだから、好きな分、適当にあしらわれれば寂しいものだ。 香奈はたしかにいい子でいようと思っていたけれど、腹が立つものは腹が立つ。若が来たかと思ってそわそわと部室のドアを開けていたときの自分を思い出すと泣けてきそうなくらい怒っていた。 けれど。 いい子にしないと。 そう思い直して、幼い子供が母親に抱きつくように、混んでいる電車内を隠れ蓑にして、大胆にも若にぎゅうっと抱きつくと「今度からはもっと早く言ってね」と、一所懸命物分りのいい、いい子の声で、言った。我慢のし過ぎで、少しだけ涙がにじんだ。本当はとても一緒に帰りたかった。できたてのページを見せて感想を聞きたかった。テニスのことはわからないけれど、部活の話を聞きたかった。若の声を聞きたかった。けれど、もう、怒っていても仕方がない。 若は、そんな香奈の態度に戸惑った様子で、けれどもう一度「悪かった。気をつける」と答えて、今は頭しか見えない香奈の背中をぽんぽんと叩いた。電車の中で、彼がこんなことをするのは破格の待遇だ。 この程度のことで、香奈はとてもドキドキして、若が本当に好きだなと思う。だから、若もそうであってほしいなと、思う。自分だけが好きだなんて悲しすぎるし寂しすぎる。片想いのときは、だからとても苦しくて辛くて、でもちょっとでも一緒にいられるとドキドキして。会話が出来れば幸せで。 人間ってむずかしい、と香奈は思う。 でも、とっても若が大好きだ。 と、制服に染みた彼の家の香りに包まれながら、思った。 ゲルダとカイは最後は幸せになるけれど、雪の女王は可哀想だと思う。 そんな感じで十分程度の発表を閉めた香奈は、クラスメイトの男子にからかわれて、次の若の発表は見に行けずに、少しだけ仲のいい別のクラスの女の子の発表を見に行った。若も、同じような目にあっていたのか、香奈の発表を見には行かなかった。 美術の教師にも売り物みたいに上手に出来ていると褒めてもらった――お世辞も多分にあったのだろうが――絵本を抱えて、今日は一緒に帰ろうね、と約束した若の部活が終わるまで、香奈は校内をうろちょろしていた。 結局は図書室に行って、司書教諭に出来上がった絵本を見せに行った。司書教諭は老爺と言いたくなる白髪の小枝のような教諭と、若くて眼鏡の似合う若い女性教諭がいた。特にどちらとも仲がいい訳ではなかったが、頑張って作ったそれを誰かに見せて褒めてもらいたかった。 香奈は、頑張って頑張って上手に出来たものを誰かに見せて褒めてもらうのが好きだ。けれど、氷帝幼稚舎に転入する前の小学校で、そういうことをするのは“生意気”で“自信家”で“うざく”て“むかつく”から“無視されても仕方ない”らしいということを覚えたので、そういうことをするのは大人の前でだけになった。 頑張ったら褒めてもらいたいというのは、あんまり良くないことらしいと、香奈はそのときやっと覚えて、仲間はずれにされたら寂しいということも覚えた。だから自慢の作品が出来たら、大人に見せに行く。良い点のテストがとれても、とても仲の良い友人か、大人にしか見せない。大人は、アドバイスもくれるし、褒めてくれるし、優しい。少なくとも香奈の前では、香奈に対しては。 二人の司書も、香奈の本をとても褒めてくれて、でもここをこうしたらもっといいねとアドバイスをくれた。 そんな話をしながら、香奈は色々と想像してみる。雪の女王は最後はどうなったんだろう、ずっと一人なのだろうか。でも、香奈はゲルダだから、カイはやっぱり取り戻したいし、女王が可哀想でもカイをあげることはできない。 やっぱり、ちょっと切ない話だ。 シンデレラにしたら、ドレスを作るのがとても楽しかっただろうにと思う。でも、あの時の気持ちは、若に嫌われたくなくて、彼を追いかけている気持ちは雪の女王に近かったのだから仕方ない。 そうして、司書らは一人が本の整理に、一人が司書室に行ってしまい、香奈はついでに借りていた童話を返して、本棚を物色していた。 その最中にマナーモードの携帯が震えて、香奈はそれが若からの電話であることに気づいて、口元に手を当てて、そっと通話ボタンを押した。 『今、どこだ?』 「図書室」 『今から行く』 それだけで通話は終わってしまった。クエスチョンマークが頭から噴出したが、若が来るなら待っていようと、先日も使った最奥の円卓に座って、今度はふしぎな玉という韓国の昔話を読んだ。 猫がとてもかわいい、というのが香奈の感想だ。でも、ちょっとだけ可哀想だとも、思う。失敗ばかりしているところや、怒られたくないという気持ちが自分に似ていて、ちょっとだけ寂しかった。 その本を読み終わって、本を手に立ち上がる。若が来るまでに何冊読めるか、などと思っていると、けれど若は来てしまった。来てくれたことは嫌なことではないが、なんだか中途半端な感じになってしまい、それを誤魔化すために「部活大丈夫? どうしたの?」と、首を傾げて若を見上げた。 若は男子テニス部のジャージ姿で、少しだけ肌に汗が浮かんでいた。練習中だったのだろう。やっぱり頑張っている若は好きだなぁと思う。クラスの中ではちょっと年上っぽいけれど、部活をしている時の若は、後輩、という感じがとてもして、それもなんだか好きだった。しかし、部活中に自分を訪ねてくるなど、何か大変なことが起こったのだろうか――そう、想像すると香奈はおろおろしてしまって「若?」と、不安になりながら近づいた。 次の瞬間には、世にも奇妙なことが起きて、香奈は不安など吹っ飛んでしまったけれど。 「いま、ちゅーした? ここ、がっこう、だよ?」 あまりに近い場所にある、若の顔に、いまだにドキドキするなあ、と香奈は頭のどこかで冷静に思っていた。 しかしまさか死角とはいえ、図書室で、こんな場所でキスをするなど香奈は思いも寄らなかった。勿論、若もそれは同じで、勢いだけの口付けは、若の少し乾いた唇が、香奈の柔らかいそれを軽く挟み込むようにして離れ、すぐに終わりを迎えた。 唇が離れる瞬間、ドキドキと高鳴る胸を抑えるように本を強く抱き「若」と香奈が震えた声で呟くと、それに対して「悪い」と即座に謝罪が返ってくる。 口にされた若の言葉に、香奈は本を抱き締めたまま視線を若の胸へ移し首を横に振る。 「悪いって、何、が……?」 香奈に問われ、若は軽く首を振る。横に。 その意味は香奈にはわからなかったが、熱に煽られた脳で場違いにも、さらさらと揺れる髪が柔らかそうで綺麗だな、と思った。 「……俺は、あまり恋愛ごとには聡くない」 若の言葉の意味はわからなかった。昨日のことならば、若はきちんと謝ってくれたし、寂しい思いがなくなったわけではないが、悲しかった思いがなくなったわけではないが、少なくとも表面上は許すという気持ちで区切りをつけた。なのに? 香奈の不思議を物質化したような眸に、若は小さく舌打ちをしてから「ごめん」と謝った。 ごめん。 悪かった、じゃなくて、ごめん? 香奈は本当にうろたえて「若、大丈夫? 私は大丈夫だよ? 若はだいじょうぶ?」と訳のわからない言葉をかけてしまった。若も若で何かがあるらしく、香奈のわけのわからない言葉を指摘もせず「俺はちゃんと――ちゃんとって言うか、当たり前なんだけど」と、若らしくもなくうろたえた言葉をつむぐ。 そして、小さく、くそ、と呟いて自分の髪をぐしゃりと握り――香奈は、せっかく綺麗なストレートなのにもったいないことを、と思った――言いづらくて言いづらくて仕方のないことを言おうとするように、小さく唇を動かし「香奈のことが……」と、ここまで言って、時間が止まった。 だから香奈は「大丈夫だよ、わかってるよ。大丈夫だよ。無理しなくていいよ」と、若を慰めるように言ってしまった。若の言いたいことはわかる。だって、若は猫のひげや耳や尻尾みたいに感情を表現してくれる。言葉以外で。眩しければ目を細める、暑ければ手で仰ぐ、うれしい時は微笑む、そんな当たり前のことで。 言葉は欲しい。もらえたら嬉しい。けれど無理はして欲しくない。 「うん――でも、本当、悪かった」「悪いことなんて何にもないよ?」 改行できないほどの速さで香奈が言い、若は少しだけ困ったように眉を寄せて「お前って本当に馬鹿」と呟いた。でも、その言い方があんまり優しかったので、香奈は嬉しくなって笑った。 寂しい寂しいと我慢している分、こうやってほんのちょっとのことがとても嬉しい。それをどうやったら若に伝えられるか考えた。とても必死に考えた。 けれど、必死に考えている間に、先に若が「俺は本当、軽い気持ちで先に帰れって言って」と、言葉を紡ぐ。香奈は素直に若の言葉を、彼の首下に視線を置いて、待った。けれど。 「なんか、あの日、忍足さんに、香奈が――」 そこまで言われて香奈は慌てて「大丈夫だから!」と、ここが図書室であることも忘れて言い募った。その声の大きさに――通常会話以上電車内で携帯電話を使う高校生未満――若は眉をひそめて「大声を出すな」とこんな時でも香奈を叱り付けた。 その言葉に、香奈はこくこくと頷いて軽く握った手を自分の胸元と若の胸元に置いて「一緒に帰るときに色々話そう? でも、忍足先輩の言ったことは、気にしないでいいから」と、全身が熱くなったように感じながら言う。ああ、恥ずかしいことを大変な人に愚痴として伝えてしまったのだと、自分の顔が赤くなっているだろうと確信しながら、香奈はうつむいた。 「とにかく……すげえ忍足さんに説教された」 「うん。あの、でも、ここじゃ恥ずかしいからやっぱり色々話すのは帰り道でにしようよ」 顔を上げることも出来ずに香奈は言い、小さく溜息をついてから軽く自分の頭を撫でて部活に戻っていった若の背中を眺めた。 緊張と恥ずかしさで早くなった鼓動に、本を円卓において、その上にかぶさるように伏せて、その冷たさを頬や額で感じる。 寂しくても、泣きたいほど悲しくても、部活中は忘れられていても、こうやって自分を思い出してくれるだけで、こんなにも振り回されてしまう。そのことが恥ずかしいと同時に、嬉しい。だから、帰路ではいっぱい彼に甘えよう、と香奈は勝手に決めた。 |