一月にもなるとバレンタインデー特集が雑誌で、何ページも組まれる。 お菓子作りの本も、チョコレート系のものがいっぱい出て、本屋さんの平積みには、そればっかり。見てるだけでわくわくする。 レストランガイドならぬチョコレートで有名なブランド店ガイドとか。ファッション雑誌にだって、簡単で可愛いチョコレートのお菓子の作り方や、やっぱり簡単で可愛いラッピングの仕方や、恋人と行くのに雰囲気のいいレストランなんかが特集されてる。職人の でも…… やっぱり、手作りにしようかな。うん。そういうチョコレートには敵わないけど、それでも、できるだけは、若が引かない程度には綺麗で可愛くて、せめて若が美味しいって思ってくれるのを作れるよう頑張ろう。 去年はママがエルヴェ・ティス教授の 私じゃ埒があかないところはお兄ちゃんとお父さんも引っ張り出されて「こんな苦労するならバレンタインにチョコなんかいらねぇ……買えばいいじゃん」と言ったお兄ちゃんはママと変な喧嘩をしてた。で、二人とも意地っ張りだから三日間口をきかなかった。気を使ってパパと私のほうが疲れたんだよね……。 それにしても、たしかにベジタリアンな人には、乳製品が入らないのはいいかもしれないけど、どうなんだろ。普通に生クリームとチョコ混ぜれば、ホイップだって楽なのに、なんでわざわざ水……? 料理人の考えることはよくわからない。あ、これは科学者の考えることなのか……。 まあ、ママは半熟卵を作るために二時間四十分もかけたりしなかったけど、バターでマヨネーズはやってた。調理じゃなくて実験としか私には思えなかったけど、実験の結果にできるのは料理で、過程が違うだけなんだなぁってなんかしみじみした。ダニエル・ガルシアの真似をして液体窒素で料理するとかは、まだ言い出してないけど、そのうち言い出しそうで怖い。 それにしても、本当に調理というより本当の意味での魔女の実験のようでした。テンパリングしすぎると舌触りがザラザラになるとか、きっちり温度を測りつつ溶かして冷やして溶かして保温してチョコレートの中にある一番良い形の結晶を引き出すとか、結晶云々の前に急激に冷やせば柔らかチョコがとか、糖分と脂肪分の結合だとか、とにかく、一応勉強にはなりました。 しかも朝からチョコレート三昧。 正確に言えばカカオ三昧。夕食はモレソースをかけたチキンとかだったし、デザートは、もちろんチョコレート系のお菓子。乳鉢とかでカカオからチョコレート作らさせられるし……ホント、料理って言うより錬金術だったなぁ……あれ、でも、料理って錬金術に近いのかも? でも、それだけいっぱい色々やっても、私は、女友達とパパとお兄ちゃんと幼馴染くらいにしかあげなかったので、ママはそれがつまならかったっぽい。その日から一週間くらいは、ちょっとした口論とかをすると“香奈なんて彼氏いないくせに! ”とかって、わけのわからない批難されたし……そんなママは仕事関係の人に配りまくってました。 でも、それはもう去年のこと! 今年は、若がいるから、張り切って作れそうだなって思うと、顔が勝手ににやけてしまう。バレンタインだから作るチョコじゃなくて、若が好きだから作るチョコ。 ママにだって、もう、文句言わせないんだから! どんなチョコにしようかな、とか、想像するだけで楽しい。ただ、心配なのは若がチョコレート食べてるのを、見たことがないってこと。 甘いものが嫌いなわけじゃないみたいだけど、あんまり食べているのを見たことがないから、そんなに甘いものは好きじゃないのかもしれない。 ちなみに、疲れたときの栄養補給はブドウ糖と水らしいです、若。あとは黒砂糖だそうです。 ……いつの時代の人だろう。 部活中はマネージャーさんの用意したドリンクらしいですが、自主練習の時は家に作り置いてあるブドウ糖と水と塩を混ぜた自作ドリンクらしいです。一口貰ったけど、ちょっと変わったスポーツドリンクな感じでした。美味しいとは言いがたかったけど……自然派なのかな。それとも、そっちの方が安いのかな。それとも、市販の味が嫌いなのかな。栄養や吸収率的には絶対に市販のドリンクの方がいいはずなのに、変なところで偏屈さんだ。 とにかく、若は、特に甘いものを好んでは食べないし、食べるときは ちなみにパパは三番目のタイプで、お外でご飯に行くと私の分のデザートを必ず一口食べちゃう。でも、自分じゃ頼まないんだよね、デザート。お兄ちゃんは甘いものよりお酒のおつまみみたいなしょっぱいものが好きっぽいけど、ホットケーキにはバターもメープルシロップも、見てるこっちが気持ち悪くなるくらいかける変なひと。 まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、チョコレートって、カカオって、アレルギーある人もいるから、一応食べられるか聞いた方がいいよね。カカオの、アナフィラキシーショックを起こしちゃっての死亡例もあるとかないとか、聞いたから、もし、若がそういう人なら、チョコ食べた後でちゅーするのも駄目だし…… でも、直接聞いたら、チョコ作ってるってバレちゃうよね……バレちゃったら、つまらないよね? 初めてのバレンタインデーだもん、サプライズって大事な気がする。付き合ってる時点でプレゼントするってバレバレなのかもしれないけど、渡し方も、ろまんちっく? ぽくしたいなぁ、って。 あとは、最近、若はテニスに集中してるみたいで、こんなことで煩わせたくないなっていうのもある。風のうわさでは若は最近とても調子が良いようで、正レギュラーになるのは、今年度か来年度か再来年度かはわからないけど、時間の問題っぽい。三年生が引退したこの時期でも、準もしくは正レギュラーの地位を手に入れている一年生は本当に少ないから、若はすごい人なんだなって思う。ただ、鳳や樺地くんには遅れをとっているから、若本人は、ちょっとイラついてる? 焦ってる? 感じは、ちょっとだけする。今は調子がいいから、今はできるだけ、可能なだけ、いっぱいいっぱい頑張っておきたいっていうのも、あるんだと思う。そんな集中してる若へ話題の振り方を間違えたらうんざりした顔をされてしまう。 ……どうしよ。 若と仲いいひとっているかな……チョコのこと知ってる人……うーん……そだ、鳳に聞いてみよー。それか樺地くんかな。若って必要があれば誰とでも会話するけど、なければ相槌も打たないこと多いし、誰と仲いいのかよくわからないんだよね。でも、少なくとも鳳と樺地くんは他の人たちとは別格のはず。樺地くんは若に輪をかけて輪をかけて寡黙だけど、鳳は結構喋るよね。 と、いう思考を一時間目からお昼休みまでしてたので、早速、鳳のクラスに突撃となりの昼ごはん。まどかちゃんは、終わったら一緒にご飯食べようって言ってくれて、それが、自分の好きな人へ会いに行くのでも、意味もなく理由もなくついてきたりしないところがまどかちゃんらしいなって思ったり。女子としてはちょっと寂しいなって思ったり。 ちなみに若は今日は食堂らしくて、お弁当の私とは昼ごはんは別々。言ってくれたら、若の分のお弁当作ったのに。でも、鳳にこうやって聞きにいけるから、今日は別々でよかったのかも。別々にしよう、とか、後で合流するって言ったら、若に不思議がられたかもしれないし。変なところは鈍くて、変なところは勘が鋭いんだよね、若。変なの。 とにかく、隣のクラスのドアをガラっと開けて、お邪魔しますと小声でひとこと。隣のクラスの子達が“あれ? ”みたいな視線を向けてくるけど、それは気にせず自分のクラスのように、すてすてすと歩いて、他のクラスメイトから頭一つ二つ分飛び出た銀髪を目指す。 どこにいても、鳳は目立つ人だ。人ごみの中でにょきっと出た銀髪は、かなり目を引く。探すのが楽で、とってもありがたいことです。若も、ちょっと高めだから、見つけやすいけど、鳳と樺地くんはちょっとどころじゃなくて、すっごく見つけやすい――あ、だから人の視線を集めやすくて、人の視界に入りやすくて、女の子に好きになられる確率が高いのかも? なら、若はこれ以上伸びないでほしいな。すごく高いわけじゃないけど、今でも若はクラスの中では普通に高い。 「あれ? 小曾根? どうしたの?」 突然尋ねてきた私に、鳳が不思議そうに聞いてくる。若なら、急な来訪者を睥睨して、不思議そうではなく鬱陶しげに、質問調じゃなく詰問調に、“なんだ”と威嚇するように聞くところだ。若ってクセがあるっていうか、他の人には性格悪いって思われちゃいそうな態度を、普通にする。……私、そんな若が好きって、けっこうすごいかも? なんて。そう思っちゃうほど鳳の対応は紳士的で柔らかい。でも、その手には握り締められたシンプルな外国製の、明るい色合いの皮のお財布。 あー、そっか、今からご飯食べに行くのか。じゃ、さっさと聞いちゃおう。 「あのさ、若てチョコレートやカカオにアレルギーがあるか知ってる?」 「知らないけど……」 「そっか。了解です、お邪魔しました」 という訳で、そそくさ撤退。うーん、本人に聞くしかないかな。サプライズとかではなくなっちゃうけど……ダメ元で樺地くんとか。 と思っていたら「聞いておこうか?」と鳳が、くるっとかかとを返そうとした私に聞いてくれた。めんどくさいはずなのに、なんでもないことみたいにそう言ってくれるのが、なんだかくすぐったいような気がする。いい人だなって。 「え、いいの?」 念を押して聞きながらあまえちゃう気満々です。 「うん。部活の後でいい? 日吉驚かせたいんでしょ? 確かめるくらいならできるから」 「部活のあとで全く大丈夫です。ありがとー」 結果報告どうする? ってことで、メルアドを交換して、わかったらメールをいれてくれるってことになりました。何度もまどかちゃんを通してやりとりするのも、まどかちゃんに迷惑だし。 意気揚々と自分の教室に戻りつつ、順番待ちのようにすぐに別の女の子に声をかけられてる鳳に驚く。モテモテだ……。よかった、若は女の子には怖がられてて、若がこんなにモテちゃったら、私は若が離れて行っちゃうんじゃないかって毎日ドキドキしなきゃいけない――なんて考えてると、誕生日って二月十四日だよね? とか聞かれてる。へぇー……鳳の誕生日は十四日か。よぉっし、まどかちゃんにも教えてあげよーっと。最近、鳳とまどかちゃんは、何だかいい感じ……とまでは言わないけど、普通に話して普通に笑って普通の友達っぽいかんじだから、うまくいくといいな、なんて。 まどかちゃんに言わせると私のことはどうでもいいから自分の方をしっかりしなさい、らしいけど。若と私ってそんなに危なっかしく見えるのかなぁ。 そんなこんなで教室に戻って、まどかちゃんと二人でお弁当をつつきつつ、ファッション雑誌のイケメンアイドル直伝の料理コーナーを見る。急に料理の得意なお母さんがいるのっていいね、とまどかちゃんに言われて、去年の錬金術の状態を話すと「それでも羨ましいわ」とちょっと呆れ声で言われました。 生チョコは結構簡単にできるし、見栄えもいいからそうする? とか、甘さを控えた生チョコって下手すると苦い粘土みたいなんだよね、とか、色々相談アンド情報交換。ダロワイヨやピエールマルコリーニのチョコレートが百貨店で限定販売とか、ジャンポールエヴァンのフランボワーズのケーキが可愛いとか、ショコラティエが来日してなんとか〜、とか雑誌のバレンタイン特集は読んでるだけで可愛いし綺麗だし楽しい。 男子がたまに雑誌を覗いて、たかがチョコレートの値段に驚愕したりしてた。もちろん、クラスの中の女の子たちも、私達のみてる雑誌を覗いて、色々話したり、読み終わったら貸してって言われたり。みんな色々考えてるんだなぁ。お菓子業界の陰謀でも何でも、素敵なイベントには違いないし。楽しいし。でも、さすがに逆チョコはどうなのかなぁ。少なくとも絶対に若はそんなことしないだろうって思う。というか逆チョコの意味もわからなさそうだ。 もし、あのまま、私と若が付き合わないでいたら、私はこのバレンタインデーに、どきどきしながらチョコレートを作って、告白したのかな、とか、思う。若はそれを受けてくれたのかな、それとも、断ったのかな、なんて、もう絶対に来ない 結局、まどかちゃんはエコールクリオロの中の、義理チョコのコーナーにあった一個だけ入ったのをチョイスしてた。高すぎない、安すぎもしない――むしろ私的には義理チョコの値段とは思えない――重くなりすぎずにでも、相手を意識しているっていう、そういう選び方もまどかちゃんらしいなぁと思う。鳳に渡すんだよね。うまく行くといいな、でも、ライバル多そうだな、とか、色々考えてたら、顔が鬱陶しいって、まどかちゃんにいきなりチョップされました。若とまどかちゃんてちょっと似てる。ウザいじゃなくて鬱陶しいを使うとことか。 「で、香奈は?」 急に話を振られて、雑誌から視線を上げる暇もない。実はあんまり考えてない――と言うか結論が出てないから、答え方もどうしても曖昧になってしまう。 「ん、手作り。……ケーキかな。考え中ー」 「手先器用よね、香奈。私の手作りって重い気がするし、やらないけど」 まどかちゃんは、とても物事をハキハキ言う。歯に衣着せぬ人。だけど、ちゃんと空気は読む。今の言葉だって、私が別に否定されてるととるわけじゃないことを理解して言ってるんだと思う……うーん、すごいなぁ。ちなみに私は、あんまり空気を読むのが得意じゃないので、余計に羨ましい。言いたいことも言えないし。ぽいずん? 「重いかなぁ……」 私は手作りのものをもらっても嬉しいだけだから何も感じないけど、重いって思う人がいるのも知ってる。うーん、悩む。でも、今まで差し入れのクッキーとか、金柑のはちみつ漬けとか、色々食べてくれてるし、若は大丈夫だと思うんだけど……うー。 「渡し方にもよるでしょ。それに、付き合ってるんだからいいんじゃない? この程度で重いって思って別れるような男なら香奈にふさわしくないし」 ……キッパリと言われて、曖昧に笑う。 まるで、私が若に許可を与えて付き合ってるみたいだ。でも、どっちかというと、私が若にふさわしくない女の子のような気がするのですがどうでしょうか。 そんな、色んな悩みで頭が飽和している状態に、鳳からの“日吉、変な顔しながらチロルチョコ食べてたよ(^^)v”メールが来るのは放課後でした。やった! さて、と言う訳で私はお母様にスパルタでケーキを作らされています。ちょっと作り方聞いただけなのに……。 美味しいものを食べると幸せになる、だから美味しい料理を作ることは幸せを作ることだと公言して憚らないママは、命を紡ぐどうたらとか演説をぶちかましつつ一緒にケーキを作ってくれてます。どれも美味しいんだけど、ママ的には、色々気になるところがあるみたい。ママ自身も十分美味しいとは言ってるんだけど――私や若のことに、ちょっと参加したいのかもしれない。上手く言えないけど、そんな気がする。 完成品は、ママが料理教室で配ったり、どうしようもない時はパパやお兄ちゃんに消化してもらったり、最近チョコレートが嫌いになりそうです。あと、板チョコの癖に数千円とか、溶かし方もすごく厳密で……クーベルチュールチョコレートのテンパリングは難しくて、最初は五十度で台の上に三分の二から半分くらいを流してパレットナイフで広げて練って二十七度くらいにして、ボウルに戻して全部綺麗に溶けて二十九度くらいになったら終わり……なんだけど、冷やしすぎちゃったり、台の上に全部のチョコレートをぶちまけちゃったり、それはもう散々な目にあってます……。コレは何の修行ですか? でも、若に少しでも美味しいチョコを食べてもらいたいので、苦しくったって悲しくったってキッチンの中では平気なの……ちょっと嘘だけど。深夜まで、我が家では甘ったるい香りが充満しています。正直に言うと、ここまで凝れるママが怖い。だって、今までの材料費で一万円は超えてるはず……って心配したら「領収書切ってるから大丈夫!」て返されたけど、領収書って何に使うんだろう。確定申告? 青紙ってなんだろ……。まあ、とにかく、美味しいチョコを作れるように頑張らなきゃ。 そんな訳で、いつも八時間の睡眠が六時間な感じで、それだけでも私にはちょっと辛い。睡眠時間は人によってベストな時間が違うと言うけれど、私は六時間睡眠が一週間も続くとへばってしまう。六時間睡眠って、たぶん普通に考えて足りてるはずなのに、眠くて、だるい。 こういうのを考えると、毎朝古武術、毎夕テニスな若って体力すごいなぁ、って実感する。睡眠時間、どれくらいなんだろう。でも、体調管理もしっかりしてるし、六から八時間は寝てるよね、きっと。 「香奈、最近調子悪いのか?」 電車で、普段よりも多めにぐらぐらしてる私に、若はちょっと眉を寄せて言葉を落とした。若には、いつもこんなこと言われてる気がする。若は心配性なのかな。それとも、私がすごく具合悪そうに見えるのかな。 「んー……めむい」 外は寒くて中はぎゅう詰めで蒸し蒸ししてる電車は、寝不足の私にはちょっと気持ち悪くもある。若がいなかったら、毎日、ママやパパに愚痴ってただろうな。でも、若と二人でゆっくり話せる数少ない機会だから、それにいつもはあんまり手を繋いだりぎゅうとかはしてくれない若がすごく近くにいてくれるから、そういう意味では、電車って大好き。それに、電車通学でなければ、私と若は、きっとこんなに早くお互いを好きにならなかったと思う。もしかしたら、好きになることすら、なかったかもしれない、そう思うと、ちょっと怖くなって、ちょっとだけバランスを崩したふりをして若にくっついた。 「夜更かしか」 最近だるだるしてる私に、若がそんなことを言う。ちょっと叱るみたいな口調でビビってしまいました。体調管理はしっかりしろってことなんだろうな。 「よふかしー」 でも、茶化すつもりで口にした“よふかし”という言葉がなぜかツボに入ってしまって、餌をねだる小鳥の雛みたいに、それか妖怪・ ちょっと拗ねた表情を作ってみてから、はーい、って答える。で、また電車に揺られて、ぐらっぐらしてたら、私を支えるみたいに若の腕が背中に回った。 それがちょっと、抱きしめてるっぽくて、急に心臓が口からバーンって。や、なってないけど。でも、それくらいびっくりして。若の腕から逃げるみたいに背中をそらせて一人で踏ん張った。 でも、すぐにまた、ぐらっときて若に倒れ掛かってしまって「香奈……お前、バランス感覚ないのか?」って呆れた声で言われて、でも、どっくんどっくんしてる心臓が口から出ようとしてるからぎゅって唇を噛んで、言い返せません。恥ずかしくて照れくさくて、がばって若の胸から逃げたら今度は後ろに行き過ぎちゃって転びそうになって「何やってるんだ」って呆れた声で若が抱きとめてくれて……心臓、壊れそうなんですけど。私だけ、いつも私だけドキドキしてる。なんか、悔しい。 バレンタインデーは、若をドキドキさせられればいいなぁ……、なんて思いながら、半ばヤケクソ気味に、ぺたって若の胸に寄りかかってくっついて、目蓋を落とす。寝不足だから、ちょっとだけ寝ようとしたのに、若の香りとか体温とか息遣いとかで、寝るどころじゃ、全然なかった。 こんなにドキドキしてるの、若は気づいてないんだろうな。あーぁ。そんなことないと思うけど、私だけ若を好きなのかもって思ってしまう。 なんとなく思い立って「若、大好き」ってちっちゃく口にしてみたら、余計ドキドキしてしまった。大失敗だ。 ああ、でも、なんか幸せだなって思ってたら「馬鹿か」って言われてしまった。聞こえていたようです。でも、好きって言ったのが嫌だったわけじゃないみたいで、声はそんなに意地悪じゃない。ちょっと呆れてる感じだけど、私を庇ってくれる手は、そのままで。 もうちょっとで、初めてのバレンタイン。大変だけど、チョコ作り頑張ろ。このドキドキを若にもおすそ分けしてやる。 若が少しでも私を意識して、ドキドキしてくれますように! ◇◆◇ 「誕生日おめでとう」 はい、って片手に乗っちゃうくらいのシンプルなラッピングのそれを、部室棟の中の、テニス部部室前の廊下で手渡すと、鳳はぽかんとした顔をしてた。 その顔に、私は慌ててしまう。え、あれ? 誕生日、だよね? え、私間違えた? ドキドキしつつ何を言おうかと思ったけど、先に鳳が笑ってくれてほっとした。 若はこんなときには片眉を歪めた、怪訝そうな表情しかしないし、なんだか、鳳は本当に人当たりのいい人だなって思う。人当たりと口当たりって似てるよね。じゃあ、若はガリガリの出汁昆布で鳳はふわふわのブラマンジェかも、なんておもったりして。でも、出汁昆布は噛めば噛むほど味が出るし、一つで長く楽しめるし、一番出汁と二番出汁をとった後に佃煮にすれば完璧に味わえる――って変なことを考えてると鳳が喋ってくれた。 「俺の誕生日、よく知ってたね」 「うん、噂で。キリスト教徒じゃないからこのチョコの意味は深く考えないよね?」 あー、良かった、合ってたんだ。ほっとして、私も笑いながら、ちょっとふざけて言ってみる。鳳は、樺地君と若と同じくらい一年の中でも有名な人だから、色んな気持ちをこめられたチョコをさぞたんと受け取ることになるだろう。 朝一番に、若よりも先に、男の子にチョコをあげちゃったのはちょっとまずいかな、って思うけど、でも、お昼休みなんて、絶対鳳は女の子に囲まれてるだろうし、チョコを渡すところを女の子たちに見られたら、絶対に誤解されちゃうと思ったから。 若なら、私は彼女なんだからいつ渡してもおかしくないし、帰りの電車も一緒だし、いつでも渡せるから。――っていうのもあるけど、どうやって渡そうかなぁって悩んでるのもあったりして。初めてのバレンタインなんだから、ちょっとロマンチックに渡したいよね。それにちょっとだけ、なんだろう、そわそわ? してくれたら嬉しいな、とか。 鳳に用事があるからってテニス部の部室まで若にお願いしてついてきちゃったけれど、お願いしたときの若の顔が、実はちょっと怖かった。けど、でも、そんな、ちょっとした嫉妬みたいなのがすごく嬉しくて、そんな想いをさせちゃってごめんねって心の中で思いながら『変な用事じゃないよ? いつでも変な用事があるのは、若だけだよ』って言ったら、『卑怯者が……』って呟かれてしまった。でも、お咎めはなし。 誕生日プレゼントを渡すなんて言ったら“渡さなくていい”って若が頭ごなしに否定しそうだったから、理由を言わなかったけど、それが余計に怪しまれたんだろうなって思う。 でも、テニスコートの周りにはすでにバレンタインチョコを渡そうと女の子達が集まってきてたから、部室まで若が案内してくれてよかった、本当に。 なんて思ってたら、鳳が、なんだか驚いた顔。あれ? 変なこと言ったかな? 「俺、今まで、キリスト教徒? って聞かれたことはあるけど――違うって小曾根に言ったことあったっけ?」 なんだ、そんなことかと思って思わず笑っちゃう。この言葉だけで、鳳が教徒の人じゃないってすぐにわかる。別に私もキリスト教に詳しいわけじゃないけど、ほんのちょっとだけなら知識はある。 「ううん。あのね、ロザリオってプロテスタントの人はあんまり使わないの。それで、カトリックの人がお祈りに使うロザリオは、数珠のだから――鳳のはロザリオじゃなくてネックレスかなって」 鳳の首元を覗こうと、ちょっと背伸びをすると、鳳はジャージの前のチャックを少し落ろして見せてくれた。 「あ、やっぱり。珠じゃない」って言いながら、ちょんって十字架の表面をつつく。それを纏っている鳳の首元が、若より全然逞しくて、体格が恵まれてる人ってこういうことを言うんだろうなって思う。喉仏もしっかりしてて、なんとなく自分のこりこりした喉仏に触れてみた。あとで、若の喉も触らせてもらおう。 「よく見てるね。小曾根はキリスト教徒なの?」 本当に感心したみたいに言われてしまって少し困る。うー、私も日曜学校の牧師さんにちょびっと聞いただけだから詳しくないし。正教とか東方とか、よくわかんないし。 「んん、違うけど―― そう言うと、鳳は可笑しそうに笑う。若のちょっと意地悪な感じのそれとは違う、爽やかで男の子らしいちょっと可愛い笑顔で、ああ、この人はモテるだろうなぁ、なんて、実感。まどかちゃん、倍率高そうですよ。でも、まどかちゃんが好きになるのもわかるような気がする。 さりげない気づかいができて、見た目も良くて、勉強もできる、スポーツも出来る上に優しくて真摯なんて――完璧すぎる。本当に、鳳って人間なのかな? なんて思っちゃったり。若は気づかい無用でするのもされるのも特に好きじゃないし、結構、すぐに怒るし、優しさなんて――私には、優しいけど、でも、やっぱりちょっと意地悪、だし、天邪鬼だし、色々わかり辛いし……でも、そんなところも、全部好きなんだけど。 鳳と話してても若のことを考えちゃうんだから、重症かも…… 「詳しいんだね。プレゼントもありがとう」 「いえいえ、このあいだ若がチョコ食べれる人って調べてくれてありがとうございました」 最敬礼よりももっと頭を下げたら、鳳も「いえいえこちらこそ」なんて、二人でお辞儀しちゃって、顔を上げて目があって――二人で笑ってしまった。 「本当にありがとう。俺のことは長太郎でいいよ。呼び難かったら適当に短くしてくれていいし」 「あ、じゃあ、私のことも名前でいいよ」 なんて、それからも、ちょっと話して、お姉さんには“ちょー”とか“ちょた”とか“ちょのすけ”とか、お願いがあるときは“ちょーさま”なんて呼ばれてるとか言うから、思わず笑ってしまう。ちょのすけはないよね、って言いあったりして。若とは、こんな会話で盛り上がることはないし、話題をふったりしたら鼻で笑って馬鹿にしそう。 本当に、長太郎君は若とは真逆の人だ。テニスにかける想いとか、努力家なところとかは似ているけれど。そうして、部活に向う寸前、けれど、長太郎君は私が思っていたのと同じ言葉を私に言った。言われなれてるけど、それがちょっと切ない。 バイバイって、部活頑張ってねって手を振りながら、そんなに私と若って似てないかな、なんて思って――全然似てないなって、ちょっと困った笑いが浮かびそうになってしまった。 ちなみに、長太郎君はそれから放課後まで、チョコレートの誕生日プレゼント攻撃で大変そうだった。 あと、廊下で会った芥川先輩にチョコ欲しいって言われて、女の子の友達用にいっぱい持ってきてたチョコを上げたら、すごく喜んでもらえた。若にも、こんなふうにじゃなくていいけど、喜んでもらえたら幸せだなって、そんな妄想をしてニヤニヤしてしまった。 私は、放課後のチャイムが鳴って、部活に向かう若に「美術室で終わるの待ってるから」と一言告げて美術室へゴー。準備室の先生に声をかけて、適当な石膏像をスケッチブックにがしがし鉛筆で描いていく。木炭だと銀紙でカバーしててもなぜか手が汚れちゃうから、本格的に描くとき以外は鉛筆でがしがし。 ちなみに今描いてるのは ちなみに、まだ若にはチョコを渡してない。一時間かけて焼いたふわふわでしっとりした感じのケーキで、なかなか良くできたって自画自賛しちゃったり。ママからも「美味しい」って太鼓判をもらったし。小さめのハートの形にくりぬいて、それを四つ葉のクローバーみたいに並べてラッピングした。食べてくれるといいなぁ……。なんか、ラッピングされたチョコを机の上に置いてみたら、今更ドキドキしてきた。これ、若に渡すんだよね、喜んでもらえるかな。どうやって渡そう。なんて言おうかな。 一人でにやにやしたりジタバタしたり楽しく不審人物ごっこをしてると、準備室にいた先生に「ごめん、小曾根さん、準備室のゴミ箱、ゴミ捨て場まで持っていってくれる?」なんて頼まれてしまった。けど、今は幸せ気分なので「はい」って笑顔で応えちゃったり。 でも、人生はそんなに甘くない。ゴミ箱を抱えて私は、ゴミ捨て場――鍵付きの大き目な部屋というか小屋みたいなところ。学校中のゴミが集まって、ゴミ収集車が定期的に回収に来る――のそばで告り告られ振り振られなバレンタインデー的乙女のドキドキイベントを、とても目撃中です。これ以上ないほど目撃中です。 この場から離れるのが当たり前なのでしょうけれども、告白劇の主演男優が私の彼氏・氷帝の誇るの風雲下剋上少年日吉若くんで、悲しいやら混乱するやらでゴミ箱を二人に向って投げつけたいような、なんだか声を出して泣きたいような……なんか説明できない。 息を吸って、吐いて、吸って、吐いて。 やっぱりこっそり逃げるべきだって結論に達する。ゴミ箱は置いてってほとぼりがさめたら戻ってこよう……。 鳳は、誕生日おめでとう! とか、誰が見てもモッテモテです的にチョコもらってて、だから、全然そんなののなかった若が告白されてるなんてびっくりした……。や、告白くらい若だってされるよね。私達、思春期だしって言うか私も若に告白したし。私が好きになるんだから、私以外の人が好きになることだって、十二分にありえる。 だけど、こっそりこっそり逃げるときに、聞こえてしまった若の言葉に、私はどんぞこに落ち込んだ。 「いらない。チョコレートは好きじゃないし、お前も好きじゃない」「なんで! 小曾根より私に日吉はふさわしいよ!」……若にあなたがふさわしいじゃなくて、あなたに若がふさわしいんですか、基準はアナタですか、そうですかそうですか。そうですか。ああ、もう、なんだろうこの気持ち。わかんない。今、テンション変だ。すごく混乱してる。 というか、気づいた。若はミーハー系な子よりも、真剣な子かちょっと変わってるぽい子に好かれるのかもしれないって、気づいた。私もよく変わってるって言われるしなぁ……変わってる自覚ないんだけど。 若がキッパリサッパリ断っていたのは、なんだか、さっきの子に悪いけど、ほっとした。ほっとしたけど、でも――…… チョコレートケーキ、どうしよ。 頑張って作ったんだけどな……でも、苦手なら仕方ないよね。もしかしたら若、苦手だからチロルチョコ食べるときに変な顔したのかな。 ちゃんと最初に相談して、若の好きな物作ればよかった。サプライズなんて、ただの自己満足だったんだよね。あーぁ。馬鹿みたい。勝手に頑張って。そんなの押し付けだって、気づくでしょ普通。馬鹿みたい……。 溜息混じりに、囚人の足についてる鉄球が嵌められたみたいな歩き方で美術室に戻る。頑張ったのにな。馬鹿みたい。 美術室に戻ると、先生はこれから会議だから、帰りに鍵閉めて帰ってねって美術室と美術準備室の鍵を渡された。はーい、って答えたら私に元気がないって思ったのか「もらったヤツだけど」って先生がチョコを一粒くれた。ありがとうございますって答えて、でも、今食べる気にはならなくて、ポケットにしまう。 そうして、誰も居なくなった美術室はしんとしてて寂しい感じで、だから、私は石膏像・勝子に話しかけはじめた。内容は「馬鹿みたい」「若の馬鹿」「あんな人、若にはふさわしくない」とか、愚痴と自分のことばっかり。ふさわしいかふさわしくないかなんて若が考えることなのに。私、今すごく嫌な子になってる。 勝子は白い目で虚空を見つめてて、じっくりとよく見ると怖い。黒目を描き足しちゃおうか。むしろお化粧させちゃおうか。床に視線を落とすと勝子の影はが伸びて、夕方なんだなってなんとなく実感する。テニス部の練習が終わる頃には暗くなっちゃうだろうな。 「……今からでも濡れせんべい買いに行こうかな……」 渡しても、嫌々食べられるチョコケーキなんて、可哀想だ。勝手に思い込んで勝手に頑張って、それで若に感謝を強要しようなんて、ヤクザ屋さんのすることだし。ぬれせんべ買ってこようリボンでもかけてプレゼントっぽくすればいいよね、と決めてお財布を握って美術室を出ようとしたら、ドアの開く音。お財布を両手で持ったまま振り返って“もう、閉めちゃうよ”って言おうと思ったのに「もう……」までしか言えなかった。 夕焼けに照らされた若の髪は、オレンジ色だった。すごくビックリした。自分の目が大きく見開かれてるのがわかる。 「お前、さっきの見てただろ」 なんだか、若は怒ってるみたいな口調で、びっくりしてた気持ちが、わけがわからなくて、困ってしまう気持ちにチェンジした。 「さっきの……?」 「さっきのだよ」 詰問と言う感じの、責める若の口調に意味がわからなくて首を傾げる。 「泣きそうな顔してたくせにしらばっくれるな」 ……ああ、告白劇のことですか。思い出した途端、なんか、頭の中が魔女の鍋のようにぐるぐるかき混ぜられる感じ。イメージはねるねるねるねのテレビの宣伝広告みたいな。いろいろ、ぐちゃぐちゃする。なにを喋ればいいのか、わからなくなってしまった。 正解の答えがわからない。若は、なんで、そんな怖い目をしてるんだろう。見ちゃったこと? でも、わざとじゃ、ないし。 「――あー……、うん。ごめん、ゴミ捨てに行ったんだけど。あの、あんまり、内容は聞いてないから……」 「そういうことじゃねぇよ」 怒ってる若の口調。 いつもなら、それにちょっと怯えてしまうけど、さっきのことで頭がぐるぐるしたままだったから、あんまり怖くなかった。アドレナリン? エンドルフィン? わからないけど、脳内ナントカみたいな、そういうの、出てるのかな。困った困った、って日本昔話のおじいさんが、私の頭の中で言ってる。 「で、何か気づかないか?」 「え、何かって?」 質問に即質問を返したら、若の眉間の皺が、南極のクレバスみたいに軋んで軋んで割れるみたいに音を立てて深くなった。え、え、なんで、若、こんなに機嫌悪いの? ていうか、むしろ私のほうが機嫌悪くなっていいシーンじゃないの? え、ホント、なんで? 目が勝手にウルトラマンの三分を知らせるみたいにピコンピコンと白黒点滅してしまう。若は、そんな私を見て、舌打ちした。 「俺は、今日一日、突きつけられたチョコレートを片っ端から断って、女に泣かれまくって鬱陶しい思いして……――香奈にとって、俺は何なんだ?」 え、え、なんでそんな質問? え、だって、若は私の彼氏でしょ? え、どうして? え、なんで若、こんなに怒ってるの? なんで? 私何かダメなことした? 「え、っと……?」 混乱でぐるぐるねるねるしてる頭の中は、ちゃんとした言葉を口にしてくれなかった。若の視線が、もっともっと険悪になって、なんだか、泣きそうだ。どうしてそんなに怒ってるの? 言ってくれなきゃわかんないよ。うっかり告白シーンを見ちゃったことじゃないよね。どうして、そんなに怒ってるの。 「わ、若は、私の……好きな人、だけど……」 愛の告白のような言葉だけど、でも、私の声は、怯えきった仔犬のものみたいだった。きゅーんきゅーんって鳴いてるみたいな、愛情よりも怯臆の色が強くって、無理やり言わされたみたいな感じになってしまった。若のこと、好きなのに…… 私の言葉に、つかつかと美術室の中を横断して、勝子の前で怯えてる私の前まで、若が来て、来て、それで―― 「俺は、俺なりに考えて行動してる。香奈はどうだ? 考えてるのか? 考えた結果がこれか?」 まくし立てられた。怒ってる声が、怖い。怒ってる理由が、全然わからなくて、だって、なんで? 部活中に、告白されて、私がそれを見ちゃって、それを知った若が私を追いかけてきて、それで、私は怒られてる。叱ってるんじゃない。若は怒ってる。 なんで? ってそればっかりがグルグルする。わけがわからなすぎて、若の目を見上げてても、怒ってる色しか見つけられなくて。どう、すればいいんだろう。 「なん、のこと?」 わからないから、聞いたのに、若が馬鹿がっていらついた口調で言って舌打ちする。なんで。なんで、そんなことするの。なんでそんな声を出すの。なんでそんな言葉をぶつけてくるの? 「渡せ」 渡せ、が、何のことなのか、すぐにわかった。わかったけどでも。わかったけど、でも。色々、色々、どうやって渡そうとか、若になんて言おうとか、すごくドキドキしながら考えたのに、こんな、理由もわからないまま、カツアゲみたいな怒ってる低い怖い声で要求をされて、私も、もう嫌だった。渡せ、ってなんなの。私こそ、若にとってどういう存在なの。好きで、好きだから、付き合ってるのに、若は本当に私が好きなの? なんで、こんな、怖い声で睨みながら、奪おうとするの。 もう、やだ。 若にあげたくなくて、絶対にあげたくなくて、机の上のチョコを掴むと、自分で一時間かけたラッピングをビリっと破って、あっという間に口の中に放り込む。ひとくちふたくちみくちよくち。ハムスターにでもなった気分でとりあえず全部口の中へ納めたら、なんだかちょっとやり遂げた気分になった。 「らんねん。もーはべひゃった」 ほっぺたをもぐもぐふくらませながら、ラッピングの残骸をひらひらさせて勝ち誇って言うと、眉を寄せた若の手が伸びてきた。驚いて逃げようとしたら、若に、親指で、私の唇の下と顎先の間を、人差指と中指で顎の下を乱暴に、つかまれた。痛い。バイキンマンみたいな、目にもとまらぬ早業で、次は、頭を押さえられた。 やばい、これは若、本当の本当にほんと怒ってる。だって、押さえられてるとこがちょっと痛い。 急に怖くなって、真剣に若から逃げようとしても、若の手は全然びくとも動かない。それどころか、私の抵抗なんてものともせず、どうしよう、こわい、って、どうしよう、って、それで、それで、吐息が触れた。 若に唇を舐められて、そんなの初めてで、身体が震えて、本当にビックリして、呆然として、そしたら若の舌が口の中に入ってきて、驚いて、泣きそうになって、背中に冷汗が流れて、鳥肌が立って、怖くてバンバンと若の胸とか肩を叩いて、やめてって伝える。 でも、若はやめてくれなくて、口の中で動くそれに、どうしていいかわからなくて、ああ、ああ、どうしよう。これは、何? わけがわからなくてパニックになってたら、若の舌が私の口の中のチョコレートを掬うようにして一欠けら奪って、唇が離れて、チョコレートの色の糸が若と私の唇の間で切れて、それが唇にくっついて、冷たくて、ああ、ああ、ホント、何、これ? 私の口から奪ったチョコレートを食べてる若は、それでも逃げようとした私の手を掴んで離さない。 ビックリしすぎて、勝手に涙が出そうになって、我慢して、ホント、今の何? チョコレートを食べおわったのか、口を動かすのを止めた若が、溜息をついた。 「むかつく」 ぼそっと言われて、手をもっとぎゅっと握られて痛かった。若は、まだ私を睨んでた。 でも、そんなことよりも、私は、なんかもう心臓がドキドキしすぎてて、今のが何だったのかわからなくて、ああ、もう、ホント、今の何なの? なんで、若は怒ってるの。なんで。 ワケわかんなくて、むかつくって言われても、なんでそんな事言われるのかわかんなくて、若を眺めてたら、若は、今日一番私を睨んで、今日一番怖い声を出した。 「……鳳には渡してんじゃねぇよ」 若の言葉で、チョコあげなかったのとか、長太郎君にはチョコ渡したのとかが、若は嫌だったんだなってわかった。でも、若が、テニスコートに行ってから渡したのに、なんで? 若には、変なことじゃないよって言ったのに、どうして? どうして、そんなに怒るの? それに、やっぱり、チョコ好きじゃないって言ってるの、聞いちゃったら、なんか、なんか、それであげるのって、ヤじゃん……だったら、ぬれせんべいあげる方がいいじゃん。 と、思っても、また“むかつく”って言われそうだから我慢する。全然、わからない。長太郎君にあげたことが、嫌だったの? でも、私、さっき、若のこと、好きな人だって言ったのに。どうして? ていうか、押さえつけられたのなんて初めてで、怖かった。力じゃ全然若に敵わないって、身をもって知らされて、それも怖かった。私が、どんなに必死で抵抗しても、若は私を、好きなようにできるんだって、気付いた。 涙が出てきた。びっくりしたし、あんなことされるなんて思わなかったから、すごく、怖かった……本当に怖かった…… 急に泣き出した私に、若がびっくりしたみたいで、悪かったとか泣くなとか言われて、そんな珍しい若の言葉に、そんなこと言うなら最初からやるなって気持ちになって、痛かったって言おうと思ったら、涙ですぎてて「い、いた」とかで詰まっちゃうし、怖かったって言おうと思ったら、喉震えてて「こ……ゎ、た」とかになっちゃうし、あれってドメスティック・バイオレンスの一種なんじゃないのとか思ったけど、言えなくて、若は悪かったがすまないに変わって、頭を撫でてくれようとしたけど、それも怖くて避けて、若はそれに傷ついたみたいに手を空中で止めて溜息をついて、どうしろって言うんだとか半ば逆ギレ気味で、それにムカっとして、鼻を啜りながらばかしと言って若のほっぺたを叩いた、てちって音がして、叩いてるというよりも、キスをねだってるみたいになっちゃって、あわてて手を引こうとしたら、若はその手を掴んで、絵の具を流したり絵筆を洗うためのステンレスでできた水道まで私を引っ張ってった。やっぱり、ちょっと怖かった。だって、抵抗しても、若のひっぱる力は強くて、痛くはないけど、でも、私の意志に関係なく、若は私を従わせられるんだって思って、怖い。 私の意思って、なんのためにあるの? 「顔洗え。目冷やせ」 そう言われて「め、めーれー、する、なぁ」って言ったら「鼻も、かめ」ってポケットティッシュを出して若が顔に突きつけてきた。それが交通安全週間に貰ったピーポ君ので、思わず笑っちゃって、とりあえず口の中がチョコケーキだらけなのでもぐもぐ食べてしまうことにした。 食べ終わって、顔を洗って、鼻をかんで、ちょっと落ち着いた。 ティッシュをゴミ箱に捨ててから、適当に美術室のイスに座って待ってた若を振り返って、落ち着け落ち着けって自分に言い聞かせながら聞いてみる。 「若、チョコ、きら、」 涙は止まったはずなのに、喉はまだ震えてて、ひくひくって痙攣して、言葉が変なところでぶつ切りになってしまう。かっこ悪い。 「好きじゃない。けど、別に食えないわけでもない」 変な答えだなって思って「無理に、食べ、なくても、いい、よ」って言ったら「食べたくなかったらあんなことするか!」ってキレ気味に言われて、びくって肩が震えてしまう。今日の若はなんでこんなに機嫌が悪いの? 「香奈からのだけは特別だってわかれよ。お前、俺の彼女なんだろ。なんで他のヤツと同列にするんだよ。違うだろ。朝会ったときにさっさと渡せよ。待ってた俺が馬鹿みたいだろうが。しかも鳳と仲良くしてんじゃねぇよ。触ってんじゃねぇよ。俺は鳳以下か? 本当、ふざけるな」 「ふ、ふざけて、な……だっ、て、恥ずか……ど、やって渡そ、か、とか……いろい、ろ、考えっ……なの、に、チョ、チョコきらい、とか……言う、し……急に、怒る、し……ヘン、な、こと、す……」 お互い文句ばっかりで責任転嫁ばっかりで私はまた泣いてるし、若はまた怒ってるし、バレンタインデーなのに最悪だ。でも、頭に血が上ってって言うか、なんかもう、落ち着けなくて、冷静になれなくて、ピーポ君のポケットティッシュを若投げつけて「好きなのに喧嘩なんかしたくない!」って大声で叫んだら「俺だってそうだ!」と大声で返された。 聞いたことのない男の子の、若の怒鳴り声が怖くて、言葉の内容とは関係はなくて「怖いから大声出さないで!」って言ったら「じゃあ、お前も声のトーン落とせ」て、静かに言われて、この若の豹変ぶりに、一人だけ興奮してるみたいで恥ずかしくなって、口をつぐむ。 急に静かになった美術室は、急に広くなったように感じる。どうしよう、やっぱり、私がちゃんと若にチョコ渡してればよかったんだ。大声出しちゃった。どうしよう。ああ、パニクるってこれだ。どうしよう……! お兄ちゃんだったらこのまま部屋に篭って、夕食の時に、なんかごめんとか言ったり言われたりでなんとなく仲直りするんだけど、でも、若と喧嘩したのって、初めてで、なんか、もう、どうしよう。 どうすればいいの?! 彼氏と仲直りって、お兄ちゃんやママやパパやまどかちゃんや幼馴染とは違うやり方だよね? 誰か助けて……! どうしていいのかわからないまま太ったトドのようにどでーんとででーんと図々しく静寂が私と若の間に横たわってる。トドにどいてって言っても、動くのだるい、って寝たまんまで、どうしよう。喋らないと。喋らないと。何か言わないと。トドは奥さんまで呼び出して、静寂が余計重くなった。 トドが夫婦でごろごろしてる間、私は何も言えなくて、若も何も言わなくて、最初に聞こえたのは溜息だった。次に、足音。気づいたらうつむいていた顔を上げて、美術室を出ようとする若を追いかけて、腕を掴んで「ごめんなさい!」って半分叫ぶみたいに言った。考える暇なんてなかった。衝動的な行動と言葉だった。だから、若を追いかけるときに避け切れなくて足に当たったイスが痛かった。 返ってきた言葉は「謝るな!」という声だった。 「ごめんなさい? 香奈、お前何が悪いことで俺にどんな悪いことをしたと思ってて、それをどうすれば治せるのかそこまで考えて謝ってるのか? 口先だけの反射で言った言葉に意味なんてない。泣けばいいと思ってるのか? 本当に香奈が悪かったのか? お前はもし俺が悪くても俺が怒ったらそうやって自分を悪者にして謝って問題を曖昧にして、逃げようとするのか。そんなことが長く続くと思うのか。自分を悪者にするってのは自己陶酔だ自己満足だこっちはそんなもん望んでない。可哀想な自分に酔いたいのか。俺は謝って欲しいんじゃない。言葉の意味をきちんと考えろ。俺は――」 一気に喋りつくした若の言葉が、怒ってて、すごく感情的で、言葉が全然わけわかんなくて、こんな意味の通らない言葉、若らしくなくて怖かったけどでも、ぎゅって腕を掴んだまま、出て行かないでって自己主張するのが精一杯だった。 若の溜息が聞こえた。 「――……怖がらせて、悪かった。香奈のごめんなさいの意味は何だ」 そう聞かれて、これはきっと仲直りするためのステップなんだとは思うけど、頭の中でぐるぐるしてて、ていうか涙出っ放しだし、なんか、もう、若の言葉の意味なんか全然わからなくて、よくわからなくて。 「す、すぐに、怒って、ごめ、なさ……勘、違、し、て……チョコ、すぐ、わたさ……」 ここまで言ったら、びっくりするくらい号泣してしまった。若を怒らせたかったわけじゃないのに、バレンタインデーのこと、色々想像して楽しみにしてたのに、なんで初めてのバレンタインなのに。恋人達の祭典なのに。ディズニーリゾートとかのイベントとか、すごく羨ましく思ってたのに、今の私はこんなので。若の腕に、溺れた人がすがるみたいに強く強く指をからませる。 よく考えれば、若、怒ってただけで別に悪いことしてないし、なのに私謝らせちゃってるし。でも、私もそんなに悪いこと、こんなに喧嘩しちゃうほど悪いこと、してない気がしてきた。頭ぐるぐるしすぎて言葉にできなくて、いっぱい泣いた。なんでこんなことで大泣きしてるのって思った。思ったけど、思ったけど、思ったけど、涙の馬鹿。出すぎ。出すぎ。鼻水も出てきた。涙出すぎだから。ホント誰か止めて。かっこわるい。かっこわるい。鼻水って、少女漫画じゃ出ないじゃん。最近鼻血だってバトル漫画でもでないって聞くのに。 急に、友達がマジ泣きしてるところを彼氏が見て“怖い”って呟いたって話が、頭にパッと浮かんできて、しがみついてた若の腕を離してやっぱり衝動的に逃げ出した。もうやだ。どうしよう。涙止まらないし。美術準備室にダッシュで逃げて、鍵をかけて立てこもる。泣いてるの、若に怖いって思われてたらヤダ。 落ち着いて、って呪文みたいに何度も自分に唱える。落ち着いて落ち着いてお願いだから心臓ゆっくりしてお願いだから落ち着いて落ち着いて涙止まって。そうやって唱えてる途中に、扉の向こうで『部活に戻る。終わったら迎えに来るから』って声をかけられた。急に逃げ出した私に、若だって何がなんだかわからないはずなのに、優しい声出さないでよ。なんだかもう色んな自己嫌悪で涙エンドレスで、うまく呼吸もできなくて苦しいよ。 泣き尽くして、疲れて、考えるのも、もう嫌で、もう先に帰ろうって。若ともっと喧嘩するのは嫌だったから、でも、部活のあとに一緒に……なんて、まだ、心構えが出来てない。こわい。 なんでこんなことになっちゃったんだろう。 帰る、ってメールだけ、なんとか送って、腫れた目のまま、美術室の鍵をかけて、駅へ向う道を歩く。思い出すとまだ泣けそうで、一所懸命別のことを考えた。たとえば、大嫌いな地理のこととか、今欲しいCDのこととか。でも――でも。大好きなのに。大好きなのに、なんでこんなことで大喧嘩しちゃうんだろう……こんな、理由もわからないほどちっちゃなことで。 ひく、と喉が震えて、鼻の奥がまたツンってして、目頭が熱くなった。 大好きなのに。大好きなのに、なんで若のこと怖いって思っちゃったんだろう……大好きなのに、あの時は本当にチョコレートを渡したくないって、若にムカついてた。せっかくの、せっかくのせっかくのバレンタインデーだったのに。なんでこんなことになっちゃったのか、全然わからない。 我慢しても、我慢しても、我慢したのに、ぽろりと涙がほっぺたをくすぐった。泣きながら道を歩いてる女子中学生……変な人だ……そう、客観的に自己評価しても、またぽろって涙が零れた。 せめて嗚咽だけは我慢しなきゃ、って喉を詰まらせながら必死で足を動かす。黙々と。 「香奈?」 急に聞き覚えのある声が、私を呼んだ。 いるはずのない人の声。 でも、誰の声か、すぐにわかる。今年の夏に会ったばっかりなのに、それでも、今は声が、ちょっとだけ、本当にちょっとだけだけど、違和感を感じるほどには、男の人のに、なりかけてて、でも、ちゃんと、わかる。 「ねぇ、香奈ってば。無視してる?」 もう一度、ちょっとむっとした感じで言われた。ああ、こんな時に会いたくなかったのに、って思う。ちゃんと、年上の顔を、お姉さんの顔をしてる時に会いたかった。 「な、なんで、に、日本に、いる、の……」 声が震えてて、なんだか悔しい。これじゃ、私あやしい人じゃん。 「春から、オヤジの母校に通うから、昨日着いて、こっちの家の掃除とか、書類の提出とか色々。香奈の通ってる学校も下見するつもりだったし」 「そ、か……」 「なんで泣いてるの?」 顔を上げないままでいたら、そう言われて。確かに声も震えてたから、泣いてるってばれても、しかたなかったんだけど。しかたなかったんだけど、でも、そう言われたら、ビックリで止まってた涙が、またじわじわ滲み出してしまった。 年下の前では泣きたくないのに。ママたちに、末っ子だから甘やかされちゃってって言われてて、でも、二人でいるときだけは、香奈はお姉ちゃんなんだからって言われるたびにちょっとだけ嬉しかった。 「……抱きついて、いい?」 「やだ」 即答で、断られた。でも、スッ、て私の手を握って、引っ張ってくれた。年下のくせに――これじゃ、どっちが年上かわからない。アメリカで、英語が全然わからない私を、いつも引っ張ってくれてた手。 日本のお友達用にお土産を買うときに、お店の人がいると緊張しちゃう私のかわりに、店員さんの相手をしてくれて、 温泉の元や、日本食を持っていくと、顔には出さないけど、その日はいつもより私の下手なテニスにも観光にも付き合ってくれた。夏休みに遊びに行くたびに、でも、最近は私は、昔ほど頼りきりにはならなくなってた。けど。やっぱり、喧嘩したあとの暗い暗い帰り道でも、こうやって手を握ってもらうと安心する。年下の癖に。 「掃除したから、結構綺麗だし、うち来れば?」 すぐに家に帰りたい気分じゃなかったから、うん、て頷いた。たまに意地悪だけど、基本的には、私のやなことはしない、って、知ってるから、素直に頷ける。 けど、でも、私を誘ったのが、私の学校を探していたら道に迷って、家への道がわからなかったからって言うのが、五割も混ざってるとは思わなかった。やっぱり、年下だな、なんて、可愛いななんて、思えた。 そうやって、おうちに送ってあげて、そしたら家に着くなりおばさんが、笑顔で迎えてくれる。 「香奈ちゃん、大きくなったわね。去年の夏以来?」 私の目が赤いのに、きっと気付いてるんだと思うけど、おばさんは何も言わなかった。私はこくんと頷いて頭を下げる。 「倫子さん、お久しぶりです」 「おひさしぶり。道に迷うなんて、もう、やぁねぇリョーマ。――そういえば、香奈ちゃん、中学校で 急激な話題の展開に、何かもう、頭を殴られたみたいになった。 目の前がチカチカする。いくら、ママとおばさんが親友同士だからって、なにもそこまで報告しなくなって……! ああ、とか、うう、とかしか言えなくて、結局、ニコニコしてるおばさんに、最後には「はい」ってうなづくしかなかった。 その瞬間、私の手は、今までよりちょっと強めに握られた。 ああ、そういえば、ちっちゃい頃にお兄ちゃんにからかわれて、手を握ったりとかしなくなったのに、今日は珍しいなあって思い出す。あ、でも、倫子さんに“香奈ちゃんはこのあたりを知らないんだから、リョーマがしっかりしなさいね”って言われたときとかは、こっちが嫌がっても手掴んでたけど。腕とか――あれって、なんだろう。ペットを鎖に繋ぐ感覚に近かった気がするけど。きっと、おばさんに頼まれて“俺がしっかりしなきゃ! ”て思ってたんだろうな……私が一人で外を歩こうとすると“日本じゃないんだから! ”って、怒ってくれた。子供が一人で歩ける国は多くないんだって、怒りながら、機嫌は悪くなさそうだった。でもきっと、みんなに年下扱いされてるのに、私とだけはたまに立場が逆転するから、新鮮だったのかもしれない。 「香奈、俺の部屋、こっち」 「あ、うん」 半分くらい、ずるずる引っ張られるようにして、歩く。部屋なんて、日本に滞在する時は、いつも同じなくせに。そういえば、夏に会った時は私のほうがまだギリギリ高かったのに、今は身長が同じだ。男の子にしては小さいけど、会っていなかった間に成長したんだなって、なんだかしんみりした。 「カルピンは?」 って聞くと、まだアメリカって返事が帰ってきた。 カルピンがいれば、ぎゅってして癒してもらうのに……。はぁ、ってため息をつくと、リョマが自分の部屋のドアを引いた。ぽてぽてと中に入って、まだ家具の揃ってないガランとした床に腰を落ち着けると、リョマが「ちょっと待ってて」って部屋を出て行った。 何にもない部屋の真ん中で、ぼーっとしてると、またさっきのことを思い出して、じわじわ涙が出てきた。何が原因なのか、全然わからないのに、喧嘩してしまった。どうしよう。大好きな人と、こんなことで喧嘩しちゃう私は変なんじゃないかって思う。 一人で、ぎゅって手を握って涙をこらえようとしてたら、ドアが開いて、トレイに炭酸のジュースが入った――きっとファンタだ――グラスを二つのせて戻ってきたリョマが濡れたタオルを差し出しながら「何うえうえしてんの?」って言ってきた。 うえうえってなんだろう……泣いてるって言いたいのかな。よくわからないけど、リョマが持ってきてくれた冷たいタオルを受け取ってぎゅって目に当てる。リョマは何も言わなくて、ファンタを飲んでるみたいだった。 目元を冷やしているうちにちょっと落ち着いてきた。タオルをそっとどけると、蛍光燈の光がまぶしくて、また反射的に目を瞑ってしまった。それから、溜息を一つ。泣くって、つかれるなぁ、とか。 「う、ひゃっ……つめたっ」 ほっぺたにぐいぐい押し付けられた冷たいグラスの感触にぞわっとする。もう一度目を開けてそれを受け取りながら、何も無理に押し付けなくたって……って、リョマを睨む。ちっちゃな頃から、悪がきで、生意気で、年下の癖にえらそうで、香奈ちゃんとか香奈おねーちゃんとか、倫子さんが呼ばせようとしても、かたくなに私のことを、香奈って呼ぶし。だから私もリョーマ君なんて呼んだことないけど。リョーちゃんって言ったら私の髪の毛引っ張ってきたし、痛かったし、抜けたし……――懐かしい、なぁ。 今年も、夏休みはアメリカに行って、リョマと遊んだり、したんだよね。若とも、ディズニーランド、行って、あの時は、こんな喧嘩するなんて、思わなかったな。一緒にいるだけで嬉しくてどきどきして。今でもそうだけど、でも、前の方が、どきどきして緊張してた気がする。 だから、こんなことで喧嘩、しちゃったのかな。 「春からこっちの中学校?」 「まあね」 う、この子、会話を続ける気がまったくない。ていうか、なんだか声がちょっと不機嫌? あーもう、若といいリョマといい、わけわかんない。なんですぐに不機嫌になるの、男の子って。全然わかんない。さっきの喧嘩だって、私が悪かったの? 若の機嫌が悪かったからなの? も、やだー。 「馬鹿リョマ」 唸りながら言うと「香奈、馬鹿って言ったほうが馬鹿だって知ってる?」「あ、リョマ今、馬鹿って言った」「香奈だって今馬鹿だって言ったじゃん」――言い返せなくなってしまった。だって、このままじゃ話題がエンドレスループしてしまう。はぁ、ってまた溜息。そしたら、またじわじわ涙出てきた。 だめだ、溜息つくと、涙でる。ぎゅっと、目を閉じて、冷たくて、氷が綺麗な音を立てるグラスに顔を寄せる。 「リョマー……」 「なに」 「男心、教えて」 「はぁ?」 すっごいすっごいすっごい“あんた馬鹿ぁ? ”みたいな感じで、はぁ? って言われた。ひどい、すごくすごくすごく真剣に聞いてるのに。今、頼れるのリョマだけなのに。いつもなら全然気にならないそれも、凹んでる今は涙を誘発させてしまう。 グラスは冷たいのに、涙が温かくて、アイスのてんぷらみたいだとかワケのわからないことを考えてしまう。 「――じゃあ、女心教えてよ」 急にリョマが、そんなことを言う。 おんなごころ? 目を閉じたまま、考える。おんなごころ、って、なんだろう。可愛いものが好き? 甘いものが好き? かっこいい人が好き? ……なんか、違う。私の、若を好きって、このきもちは、女心? 少なくとも、男心じゃないけど……女の子の本能が女心? 褒めてもらえたら嬉しいのって女心? 優しくされたら嬉しいのは女心? でも、普通の人は、優しくされたら嬉しいよね? わからなくって、困って顔を上げてグラスを持った手を下ろすと、リョマがねこじゃらしを見つめる猫みたいな目で私を見てた。 「わかる? 女心」 わからなくて、ぷるぷると首を振ると、リョマはグラスの中のファンタを一気飲みした。 「俺も、よくわからないんだよね。聞かれても」 「そっかぁ……落ち着いてよく考えてみるよ。女心がわかったら、教えるね」 そうやって答えたら、リョマはなんだか変な顔をして私を見てから「馬鹿じゃん」と言った。なんで、って訊くと「別に知りたかったわけじゃないし」と素っ気なく答えられてしまった。ちょっとムカっとして「女の子は、自分を受け止めてくれる人が好きなんだって、素の自分? を。よくわかんないけど」ってあてつけでテレビで仕入れた知識を披露してみた。女の人は素の自分を重要視するから、それを偽ってるぶりっ子が嫌いで、男の人はぶりっ子は恋愛努力の結果だし仕事でも変な格好をした人よりもきっちりした格好で発言がしっかりした人とかを選ぶからぶりっ子は気にしないしむしろそういう自分を良く見せようって言う努力を好ましく思うんだって、と全部テレビで恋愛マスターの人が言ってた知識をまくし立てると、リョマはなんだかぐでっとしてしまった。 リョマは生意気だから、ぐでっとしてるくらいの方がかわいいなって、思う。 「気、まぎれた?」 ふいに、そんなことを言われて、意味がわからなくて首を傾げてしまう。 「ま、いっか」 リョマは、そんな私になぜか満足そうにそう言って、瞬きが多くなってる私に「女ってめんどくさい」って言い出した。そんなの十二歳が言うセリフじゃないよ、なんて思ったけど、なんだか私もその言葉に共感して頷いてしまった。 「めんどくさいね」 もっと、素直だったら、喧嘩もしなかったのかな。なんて思って、ぎゅってグラスを握ると、リョマが「まあ、別にいいんじゃないの」って何に対してか良くわからないフォローをしてくれた。 それから、倫子さんが家まで送ってくれて、なぜかパパとママと倫子さんとお兄ちゃんとリョマと私で晩御飯を食べた。ママはリョマのリクエストの和食と、倫子さんの好きな洋食を作って、きっとこの残りが明日の私たちの晩御飯になるんだと思った。 ご飯の間はすごく賑やかで、ご飯が終わっても盛り上がってる大人たちをよそにお兄ちゃんやリョマとゲームで対戦したり、英語の宿題を、なぜかお兄ちゃんとリョマにからかわれながらやったりして、気付いたら教科書のすべての英文が訳されてて、慣用句なんかにチェックが入ってた。……ちょっとラッキーかも? びとうぃーんって歯磨き粉の名前だと思ってたけど 〜と〜の間 って意味だったのかぁ……。 途中で、思い出してリョマにバレンタインのチョコを渡した。誕生日プレゼントは送ったけど、さすがにバレンタインのチョコまでは送る予定がなかったから、女の子の友達に配る用のチョコの余ってるのしかなかったけど。冷蔵庫に入れっぱなしだったチョコは冷えてカチカチだ。 なんで、長太郎君やリョマやお兄ちゃんやパパや友達には簡単に渡せたのに、なんで、一番大事で一番大好きな若には、なんで、ちゃんと渡せなかったんだろうって、思い出して、泣きそうになって、けど、リョマが「 たぶん、文法とか、言い方とか、単語とか、簡単でわかりやすいのを選んでくれたんだろうけど、それでも、ネイティヴな発音だし、知らない単語も混ざってて、リョマの言葉を頭の中で何度か反芻した。それでやっとなんとか勘で言ってる意味にあたりをつけたけど、今度はなんて答えればいいのか、がわからない。やっぱり単語が全然思いつかない。文法もわからない。接続詞もわからない! ど、どうしよう……。 「……ゆ、ゆーあーうぇるかむ。ばっと あい どんとはぶ……うぉんと? ……あいむ はっぴー とぅ ゆあ はーと……?」 言ってる途中に、何度かおにいちゃんやリョマに助けを求めて視線を向けてみても、リョマは全然反応なしで、お兄ちゃんは私が喋るたびにニヤニヤ笑ってた。 「言いたいことはわかるけど、香奈、英語の成績良くないでしょ」 ……一応、赤点だけは免れてるけど、その通りだったので何も返せない。大体、ちっちゃい頃から英語やってる子が多すぎるんだよ。ずるいよ。跡部先輩だって樺地くんだって帰国子女で、そんな帰国子女が別に珍しくない学校なんて絶対変だ。私だってアメリカに住んでたら英語? 米語? わかんないけど、絶対上手くなったのに。リョマなんて、気を抜いたら、あちゅ? みたいなアメリカ式のくしゃみするくせに、生意気だ。ちっちゃい頃、私がクシャミしちゃった時には、いつも反射で「bless you」とか言ってくるほど、半分外国人のリョマに、英語で敵うわけないじゃん。最後に会った時、日本語が思い出せなくて変な喋り方してたくせに。 私がムッてしてるのに、お兄ちゃんがリョマに「ナイスタイミング」とか笑って言ってて、わけわかんない。男の人って本当にわけわかんない。 ◇◆◇ 朝の電車は、若に会うのが気まずくて、混んでない逆方向の電車に乗って、それから、始発のある駅でのりかえた。始発だと、座れるから、変なことされる心配も少ないかなって。本当は、始発駅までの料金は定期に入ってないから、こういうのは、やっちゃいけないらしいけど、今日だけは心の中でゴメンナサイをしておく。そのあとに、今日は違う電車だからって簡単なメールを若に送った。 そしてそのまま、携帯の電源を落としてしまう。若からの返信を読みたくない。若は、大抵メールに返事なんてくれないから、こんなの、過剰反応なんだけど、でも、電源を落としてしまった。 だって、若とどんな顔して逢えばいいのかわからない。そのこと、想像するだけで胸がどきどきと言うかどくどくと言うか胸の中で心臓の動きに合わせて紙風船が爆発してると言うか、そんな感じになってしまって。ああ、もう、ほんとうにどうしよう。 学校に行きたくないって言ったら、ママが、理由をちゃんと言って、ママが納得できるものだったら休んでいいよ、って。でも、素直に若と喧嘩したって言ったら、仲直りするまで帰ってくるなっぽい感じで言われてしまった。だって、何で喧嘩したのか本当にわからないんだもん! 若を避けに避けて昼休み。食堂の外の、いつもの 本校舎の屋上は開放されてるけど、けっこう人がいっぱいいるし、教室と食堂は却下。図書室は飲食禁止だし、美術室の刺激臭が嫌だとまどかちゃんに断られたのでそれもなし。結局、体育館のすみっこで食べることにした。このあと、休み時間にバスケとかする子たちがわいわいご飯食べてるのから、ちょっと離れて、壇上に座ってしまうことにしまう。 まどかちゃんともくもくとサンドイッチを半分ずっこにして食べてると、さっさと食べ終えてしまったらしき先輩たちが、制服の裾をまくって、セーターを脱いで、バスケットボールを開始してる。バスケットボールのコートが二面取れるから、壇上で食べてる私たちに気を使ってか、奥の方でプレイし始めた。それをぼーっと見ながら口を動かす。バスケットコート、バレーのコート、あとはなんだかわからないけれど、とにかく木の床の上を縦横無尽に走るカラフルなラインを、視線で辿る。赤とか青とか黄色とか緑とか、いっぱい。何かの神経みたいだと思った。体育館の血管みたいにも、見える。 まどかちゃんの頼んだ合鴨のマリネのサンドウィッチも私のも美味しくて、ちょっと元気になった。明日はお弁当がなかったらおにぎりにしよう。一個二百円、二個三百円、三個四百円、四個五百円のやつ。サンドウィッチとおにぎりは特に色んなメニューの中でも良心的な価格なのでありがたいもの。学食で食べるなら素うどんとか、そういうのも。でも、前菜からデザートのまでのコースは、いい値段がする。いくつかのコースは、毎日違うメニューが掲示されるから、その中でもセコンドピアットだけ、とか、ヴィアンドゥだけ、とか、選ぶ子もいる。フルコースや高い本膳料理や懐石料理を頼む子は、それは本当にお金持ちの家か、もしくはすでに自分で稼いでる子だけのような気がする。食堂も、時代の流れとともに二極化してるのかも。……氷帝の食堂って、よく考えると無国籍だなぁ。冬はボルシチにキャセロールに豚汁にって……ああ、うん、だから学費が高いんだよね。うん。私がお金を出すわけじゃないけど。 とか、無意味にご飯のことを考えていたら、もくもく食べて飲んでたら、まどかちゃんが「で、どうするのよ? ずっと逃げてるつもりなわけ?」って、いきなり私を楽しいご飯の世界から現実に引きずり落とした。 はぁ、って、溜息を一つ。 「どうしようねぇ……」 まどかちゃんには、若と喧嘩したから、今は一緒にいたくないとだけ言って、そしたら「ああ、そう」みたいな感じで何も聞かれなかったけど、さすがに、落ち込んでる私は鬱陶しいんだろうな。うん。 なんだか、目の前でバスケットをしてる先輩達が眩しく映る。若は、もう、ごはん食べ終わったかな。テニスしてるのかな。でも、今日、外寒いよ。 困って、まどかちゃんを見ると、なんか、困った顔してた。私と一緒だ。 「どうしたいの?」 聞かれて、ちょっと考えて。 「仲直り?」 答えたら、即座に。 「それって、相手から逃げてても出来るもの?」 そう言われて、はぁ、って溜息。 「わかってるんだけどね……」 って、答えたら。 「わかってない気がするけれどね?」 なんて、ちょっと意地悪な言い方された。 「どうせ何もわかってないですよーだ。馬鹿ですよーだ。若によく言われますよーだ」 って拗ねたら。 「感じわるッ。すぐにそうやって逃げるのよくない癖だよ」 なんて、確信を突かれてしまった。むっとするよりも先に、本当にそうだなぁと思って感じて、凹んでしまう。落ち込んでしまう。だって、まだ私はなんであんな喧嘩になったのか、全然、わからなくて。 うんうん考えてたら、ふいに思い出した。 「まどかちゃんは長太郎君にチョコ渡したんだよね? どうだった?」 なんて、わくわくしながら聞いてみたら。 「人のことはどうでもいいの」 ――あれ、叱られた? なんか、理不尽だ。 はぁ、って、もう一度、溜息。まず、どうして若が怒ってたのかから考えないといけないよね。チョコレートを長太郎君に渡したことと、それなのに、若に渡さなかったこと、それから、告白劇を見てしまったこと。これくらい、かな。 あの時の若は、喋ってることが変になっちゃうくらい怒ってた。付き合う前にも、あんなふうに若が怖かったことがあったなって思い出す。でも、あの時は、結局理由はわからないまま、なんだか仲直りしてて。あの時はすごく嬉しかったなぁ。 ……うん。ちゃんと、仲直りしよう。 だって、やっぱり私は若が好きだから。ちゃんと、昨日の自分のいけないとこ、探して、見つけて。ちゃんと、これからはそこを気をつけるようにして。そうしたら、仲直りしてくれるよね。してくれなかったらどうしよう。でも、さすがにそこまで悪いことはしてないと思うんだけどなぁ私。 まだ、不安だし、昨日の怖かった気持ちもあるし、悲しい気持ちも、ショックな気持ちも、色々あるけど、このまま、離れ離れみたいにさせちゃ駄目だって、思う。でも、どうしたらいいんだろう。 アドバイスをもらいたくてまどかちゃんに昨日のことを話そうとしたら「自分で考えて自分で気付かなきゃ駄目でしょ」と言われてしまった。そんな、突き放すみたいな言葉は、でも、私の為だってわかる。まあ、面倒くさいのもあるんだろうけど。他人の悩みまで背負えないって、まどかちゃんは昔言ってたっけ。 けど、ってちょっと不満な気持ちもある。ちょっとくらいアドバイスくれたって、って。話くらい聞いてくれたって、って。まどかちゃんは、そんな私の顔を見てちょっと笑ってから「どうしてもわからないときは日吉君に聞きなよ」って電源を落とされたまま、それでも、いつもみたいにポケットに入れてた携帯のストラップをつまんで、それを引っ張り出して、私の膝の上に置いた。 「絆だって深まってくよ?」 なんて、そんなことを言うまどかちゃんはすごく楽しそうで、からかわれてるんだろうな。 でも、キズナなんて言葉が、ちょっと素敵だなって思った。そっか、深まってくのか。……うん、仲直りも、原因探しも諦めないで頑張ろう。若って、付き合い始めた頃から、ちょっとわかりづらい性格だったしね。 嫌われてるのかなって、思ったことだって何度もあったし。学校で喋っても、返事とかしてくれなくて、なんでって思ってて。嫌われてはないかなって思ってたけど、まさか、好かれてるなんて全然予想もつかなくて。だから、きっと、若は心を隠すのが上手なんだ。見つけなきゃ。昨日の私の駄目なとこ。若が嫌だなって思ったところ。 絆深めなくちゃ。 「元気でた」 笑いながら言うと、まどかちゃんが「それはようございましたーあ」とかすごい気の抜けた声でバスケを見てた。私も脚をパタパタさせながらそっちを見たら、長太郎君と向日先輩がバスケに混ざってるのに気付く。 同じチームみたいで「ちょっ、俺、つき指出来ないんですよ? 向日先輩!」とか、向日先輩の上空――って言いたくなるほどのジャンプ力。足にバネが入ってるみたい――からのパスを手のひらで叩き落すみたいにしてドリブルでディフェンスの隙を縫っていく。でも、あんな大きな長太郎君にガードがつかないわけもなくて、上手く動けなくなってしまった。苦し紛れにパスも出せずに放った長太郎君のシュートはゴールボードにばいーん、とかそんな音で弾かれて。 私は、壇上から、ボールパワーで叩き落とされて、今、体育館の床に打ち倒されています。最初は衝撃で何が起こったのかわからなかったけど、痛くて、ゆっくり現状を把握した。痛いよ。痛い。痛いし、勢いよく擦れたから熱い。こすれた所が痛熱い。冬服で、まだましなのかな。 なんか、さっき元気出たのに急に凹んできた。泣きっ面に蜂だ。ゆっくり、立ち上がる。立ち上がると、体中がきしきしした。衝撃って本当に一瞬で体中を走るんだなぁって思った。最近はあんまり、勢いよく顔からとか、転んでなかったから、すごく久々の感覚。今回はいつもより高い位置からだったから、なんか、ちょっとだけ投身自殺のひとってこんなかなとか不謹慎なことを思った。 「怪我は?」 まどかちゃんは、私とは全然ちがくて、ふわって体重がないみたいに壇上から体育館の床に下りる。たまに、思うけど、まどかちゃんはたぶん、お姫様とかの生まれ変りで、私はきっと 「体中いたい……」 「そりゃあね。特に痛むところは?」 全部ってもう一度答えようとしたら、暗い影。ああ、うん、きっと今私の後ろにでっかい人がいるね。それはもちろん予想通りで「ごめん、香奈ちゃん」とか、すごく謝られた。まどかちゃんは「あの距離で避けられなかった香奈も悪い」とか、そんな。どうでもいいよ、もう、そんなの。痛いし。 長太郎君はごめんって何度も言った。私は、平気だよって言ってあげれる余裕も、心になくて「うん」とだけ答えてた。あーあ……私って、嫌な女の子だな。結局、長太郎君は、罪悪感からか私に何かしたかったみたいなので、まどかちゃんにランチボックスとか持ってもらって、おんぶしてもらって保健室に行って、こすれたところにクリームみたいな傷薬を塗ってもらってガーゼを当ててもらって、手首と足首は念のためにって長太郎君が何度も言うからテーピングしてもらった。 私はただ不貞寝したかっただけなんだけどな……。 保健室のベッドの一つに、私とまどかちゃんが腰かけて、備え付けのパイプ椅子に長太郎君が座って三人でまぐまぐと残りのサンドウィッチと、その付け合せのお野菜を食べる。養護教諭の先生に「誰か来たら帰りなさいよー」とか言われながら、まぐまぐ。三人で食べたからあっという間。長太郎君のおごりの紅茶を飲みながら世間話。長太郎君は向日先輩に人数合せで無理矢理バスケやらされてたみたいで、保健室はいい避難場所になってるみたいだった。ヴァイオリンを弾く長太郎君に、指の怪我はご法度らしい。一瞬そのために私にボールをぶつけたんじゃないのかって思っちゃうくらいほっとした顔をしてた。 「そういえば」 鳳君の言葉に、まどかちゃんが「どうしたの?」って、私が「んー?」って相槌を打つ。 「昨日、香奈ちゃんって、日吉と帰った?」 一瞬、心臓が口から出た。 や、でてないけど。でてないけど、でも! 「え、なんで?」 どういう意味なんだろうって、怖くなりながら、でも反射的にそう聞いてしまって。ぎゅって、手の中の紅茶の缶を握る。熱い。 「日吉、機嫌悪いから。なんかあったのかなって」 なんかは、あったけど。何があったのかは、自分でもよくわかってない。ただ、喧嘩したことだけは確かで。仲直りする前に私が逃げちゃったことも確かで。 「それだけじゃないでしょ?」 長太郎君の言葉に、まどかちゃんが嫌な感じで笑う。長太郎君はそれだけですぐにわかったみたいで、二人の中で、その話題に対する共通の基盤が出来てるみたいだった。わけわかんないよ。なんのこと? 「日吉君に言っちゃったんだ?」 「というか、俺の態度が変だったみたいで聞き出されちゃったんだ」 「はぁん。鳳君、もしかして勘違いしてるね」 「勘違い?」 「でも、そうっか。勘違いしてる鳳君から情報いったんじゃぁ、日吉君勘違うかしらね」 わけが、わからなすぎて、きっと、話題は私のことなのに、私には全然意味がわからない。長太郎君でさえ、今はちょっとわかってない、って顔だった。 長太郎君と二人で頭のてっぺんからクエスチョンマークを噴出させてると、まどかちゃんは、ほう、と溜息をついた。それが、なんか、色っぽいってこういう事なのかなぁって思わせられた。 それから、まどかちゃんは、やっぱり綺麗な睫毛を綺麗な弧にして、綺麗に笑った。 「ちょっとだけ、面倒かもね。障害が多いほど恋は燃えるものなのかもしれないけど、わからないね。早く仲直りした方がいいとだけ言っておくわ、うん」 そのつもりだけど? って答えたら、うんまあがんばれー、とか変な応援をされた。なんだって言うんだろう。もう。まどかちゃんはヒントばっかりだ。わかってるくせに。ちょっと、それ、意地悪だと思うよ。それも、魅力的にしちゃうまどかちゃんはずるい。 訳のわからない会話をしていたら、保健室のドアの開く音がした。反射的にそっちをみると、若だった。 こんなとこで逢うなんて思ってなかったから、ぽかんとしてしまった。若は、一瞬だけ私を見たけど、すぐに養護の先生のところへ行って、何かもらって、すぐに出て行ってしまった。 無視……された、のかな? ううん、でも付き合う前も後も、若は、あんまり学校で私に話しかけたりとかはしないから。気にしすぎなのかも。でも……。ううん。わかんない。 結局世間話は、長太郎君はもてるのに彼女作らないでいる上に、比較的によく若と喋ってて、若は女の子と付き合うタイプっぽく見えないから、私とは偽装カップルで、本当は二人ともゲイだっていう噂が一部の女の子の間ではあるんだよ、っていう話に落ち着いてしまった。長太郎君本人はすごいショックがってたけど、女子の間じゃそんなに新しい話題でもないから、それよりさっきの話の続きをして欲しいなって思った。 何の進展もないまま、最後のショートホームルームが終わって、教室を出て行く若の背中を必死で追いかけた。 授業中も、いっぱいいっぱい考えたけど、どうしても、若が、どこが嫌だったのかわからなくて、でも、早く仲直りしたいと思った。今日の朝、若から逃げちゃったこと、昨日の放課後、先に帰っちゃったこと、もう、後悔してて。だから早く謝りたかった。私は、なんでだかわからないけど、謝ったら許してもらえるって確信してて、でも、今まで謝ったら許してくれてたのはパパとかママとかお兄ちゃんとかで、だから、確信してるくせに若に謝るのが怖い。謝って、許してもらえなかったらどうしようって。 「若」 声をかける。でも、若は振り向きもしないで「時間がない。話なら後にしろ」って切り捨てた。無視はしないでくれたけど、声が冷たくて、昨日とは違う意味で怖くなった。けど、ショートホームルームが終わった時間、なんて、廊下は人でいっぱいで、こんなところで若と落ち着いて話せるわけもなくて。 「わかった……美術室で待ってるから、一緒に帰ってくれると、嬉しい……」 そう言った私の声は、昨日ほどじゃないけどちょっとだけ震えてた。ちゃんと話したかったなって思う。もたもたして、電車とか、若を避けてた私が悪いんだけど――若は、私の言葉には何も答えないで、そのまま部室棟へ向ってしまった。もう、項垂れるしかない。あーあ。私って、いつも、いつも考えて行動しても失敗ばっかりで後悔ばっかりで。帰り道では、ちゃんと若と話せますようにって、誰だかわからないけど、神様にお祈りしてみた。 けど、その願いは聞き届けられなかった。今朝の私がしたことを、若がしたから。うぅん、若は、一応、たぶん部活が始まる前ギリギリくらいに“今日は一緒に帰れない”とだけ、メールを送ってきてくれた。ショートホームルーム直後じゃないってことは、きっと、一緒に帰るかどうか考えてくれてたんだと思う。 考えた結果が、今日は一緒に帰りたくないっていう、気持ちになったんだなって、思う。 避けられるって、こんなに辛いものなんだって、今更知った。学校の中では、泣けないって、我慢して、でも、これって、ほんとにつらい……。私、今朝、若にこんな思いを味わわせたの? そんなの、やだ。 やだって、思ってもどうしようもないけど、どうしようもないけど、ちゃんと、考えて行動すればよかった。若を避けたって何の解決にもならなかったのに。なんで。 そうだよ。付き合う前ですら、若に避けられてすごく辛かったのに、なんで自分が辛かったことをしちゃったんだろう。ああ、どうしよう、若はまだ怒ってるんだ……どうしよう。どうしたらいいんだろう。 “わかった。ごめんね”とメールした。返事は、ない。 ぎゅう、って縋るみたいに携帯電話を握って、でも携帯は鳴りもしなくて。震えもしなくて。我慢したけど、若に避けられたって、嫌われてるのかもって思うと、怖くて涙がひとつぶ零れてしまった。零れた涙を、中指と薬指で、目尻に伸ばすように拭く。軽く鼻を啜って、美術室の机に伏せる。 なんで、昨日、若はあんなに怒っていたんだろう? チョコレートを渡すのが遅かったとか、たぶん、そういうことじゃないと、思う。でも、わからない。まどかちゃんは何か知ってるみたいだったけど、教えてくれるつもりはないみたいだった。 「も、やだ……」 つかれた。若のこと考えると、疲れる。いっぱいいっぱい考えても、疲れるだけで、解決策も原因もわからない。私が馬鹿だからだって言うのはわかってるけど、でも、もうやだよ。怖くて、悲しくて、辛くて。心だけじゃない、泣いて、ドキドキして、考えて、身体も疲れて。 でも、疲れたのに負けて、このまま何も考えないでいてもいいのか、って思うと、駄目なような気がする。きっと、まどかちゃんなら、馬鹿の考え休むに似たりってそんなふうに思うんだろうけど。何も考えないなんて、逆に難しい。そして、今考えることは、勝手に思い浮かんでしまうことは、もちろん、喧嘩したときのことで。どうして、若はあんなに怒ったの? 今も怒っているの? だから避けてるの? もう一度涙が滲みそうになったとき、私の気持ちなんか気にしてくれない携帯が、急に震えだした。若かと思って慌てて届いたメールを開くと、ママからで、ママは全然悪くないのに、思わずママの馬鹿とつぶやいてしまった。どきんってなった胸の鼓動を返して欲しい。 メールの内容は、リョマに春から通う学校のあたりを案内してあげて、という命令系の簡単なものだった。はあ、と溜息をついてから、荷物を纏めて気合を入れなおして、校門を出る。 校門を出ると、すぐ、昨日もいたはずの幼馴染が、また声をかけてきた。メールでは、一度うちで合流する感じのニュアンスだったのに、あれ? って思う。私のそんな視線に気がついたのかもしれないけど、リョマは「電車の乗り方、ちゃんと覚えておこうと思って」と言う。 「迷子にならないように?」 なんて、ちょっとお姉さんぶって、 まどかちゃんをイメージして聞いてみたら「今日は泣いてないの?」って、反撃されてしまった。リョマって本当に、なまいき。でも、昨日もそうだけど、一緒にいると、ちょっと元気出るって言うか、お姉さんしなくちゃなって思って頑張ろうって思える。 若の前では、こういうの足りなかったかもしれない。明日からは、若の前でもお姉さんになったつもりでいようかな。あんなに、なんで若が怒ってたのかわからないけど、でも、わからないままにしちゃ駄目だよね、きっと。確かにあの時の若は怖くて、私の力って何の役にも立たないんだって、私の意志は若が尊重してくれてないと意味のないものなんだって怖くて。だけど、一緒にいるとやっぱり幸せなのもホントで。だから、頑張ろう。 「じゃ、行こっか」 なんて、二人で青春学園に向う。明日は、若とちゃんと話せるといいな。話せますようにって、誰だかわからないけど、神様にお祈りしてみた。 ◆◇◆ そわそわしながら電車に乗る。今日は遅延も何もなくて、普段通りの混み方だった。芋洗いってこういうことかなって思っちゃうくらいには混んでいたけれど。きょろきょろと周りをうかがうとなんとか若を見つけられた。若がいる。そのことに本当にほっとして、でも、ほっとしたすぐあとにどうやって彼のそばに行こうか考えて、心臓が勝手に緊張で激しく脈打つ。握った手を、胸に当てて、ぎゅっと目を瞑って小さく深呼吸。若の所に行こう。ちゃんと、話して、聞いて、謝らなきゃ。 決意を新たに目を開く。明るさに、黒と白の斑紋が視界の中をちかちか飛んで、目の前にいる若にびっくりした。驚きながら、緊張しながら「おはよう……」って言うと「ん」とだけ返してくれた。 仲直りのステップの一段目は、上れたかな? こっそりと若の顔を窺っても、私のほうを見てはいなかった。それだけで、心臓がズキッてする。駄目だ、こんなことでへこたれてちゃ。 言葉を交わした。 手を繋いだ。 抱きしめられた。 キスをした。 もう一度、ちゃんとできるようになりたい。 だから、今は泣いたら、駄目。 「若、あのね……」 話し掛けて、でも、返事はなかった。ああ、目が熱くなってきた……駄目、泣いたら。そっと手を伸ばして、破裂しそうな胸を無視して、若の手をぎゅっと握る。握り返してはくれない。だから、駄目だってば! 泣くな! 私! ここは電車の中なんだから。大丈夫、ふりほどかれてはいない。 「私、ね……」 震えるな、声。大丈夫、若が私を嫌いになってたら、若は、ここにいない。ここにいるっていうことは、若も仲直りする気のはず。まだ、大丈夫。この手は繋がってる。暖かい体温が染み込んでくる。まだ大丈夫。いつ駄目になるかはわからないけれど。今はまだ大丈夫なはず。 たった一言で、きっとステップを踏み外してしまう。間違わないように、気をつけて、言葉を、選ばないと。駄目。 若の手を強く、握る。まだ、若の手に、私の手は届く。まだ。この手の届く位置に、ちゃんと若がいる。これからも、いてほしい。大好きだから。大好きだって、手を握っただけで嬉しくなっちゃうから。この間は怖かったけど、でもやっぱり、好きだ。色々、いろいろ、思い出して、怖くなって。頑張って、私。 「私……馬鹿だから……なんで若が怒ったのか、まだ、わかってない、んだ」 そっとそっと、間違えないように、言いたいことを間違えないように。ちゃんとこの気持ちを伝えられる言葉を、選ぶ。すごく、難しいことだけど。 「だから、教えて……欲しい、です」 我慢しきれなくなって、とうとう鼻を啜ってしまった。怖い。この言葉で間違いだったらどうしよう。嫌われてしまったらどうしよう。そう考えてる間に若がうんざりしたような面倒そうな動きで、私の手から逃れて「駅ついた」と言って、テニスバッグを金網から下ろし始めた。 うそ、間違えちゃった? なんて言えばよかったんだろう。ごめんなさいって、先に謝っておけばよかったの? うそ。どうしよう。どうしていいかわからなくなって、頭の中が……ああ、パニックってこういうことを言うのかも知れない。 「降りるぞ」 動かない私の背中を、若がグイっと強めに押して、それで、何とかよろよろと足を動かしてホームに降りた。ホームがものすごく傾いでるみたいに感じて、立ち尽くしそうになる。でも、人の波に押されて、なんとか足を踏み出すことが出来た。 私のこと、嫌いになった? そんなこと、怖くて聞けない。 謝りたい。けど、意味のない謝罪は、理解のない謝罪は、それはもう、謝罪じゃない。どうすればいいんだろう。私、本当にいつも若に振り回されてばっかりいる。でも、振り回されてもいいから、付き合っていたいって、思う。 私が若にとって邪魔になるとしたら? もしかして、若にとって私はいないほうがいいのかもしれない。そう思ったら、怖くて。泣いたら、駄目だ……泣くなら誰もいないところで。せめて、若のいないところで。 人波にもまれて、若の後ろをとぼとぼ歩く。もう、何て言っていいかわからない。また、喧嘩になったらどうしようって思うと、怖くて、舌が固まる。駅の改札口へ向う階段に足をかけて踏み出す。前を見ていなかった所為で立ち止まった若の背中に思いっきりぶつかって、さすがにこんな不安定な場所でぶつかられた若は、なんだか焦った感じで「前見ろよ。危ないな」と舌打ち付きで言って、ああ、なんか、わたし、駄目だなぁ。泣きそう。 「ご、ごめんなさい」 慌てて謝る。けど、若は溜息をついただけだった。何も話してくれなくて、すごく居心地が悪い。足を踏み出す若のブレザーの背中を咄嗟に掴んでしまって、本当に咄嗟に何も考えないで掴んでしまって「なんだよ」と不機嫌そうな若の声に、手を離してしまう。 「怒って、る?」 答えは溜息だった。 嫌わないで、怒らないで、頑張るから。でも、何を頑張ればいいの? 泣きそう。若と付き合ってると、いつも泣きそう。嬉しすぎて泣きそうになって、恥ずかしすぎて泣きそうになって、怖くて泣きそうになって、悲しくて泣きそうになって、不安で泣きそうになって、辛くて泣きそうになって。人を好きになるってすごく大変だって、思う。 ねえ、若は、私の半分くらいでも、こんなふうに感情が高まって、揺さぶられて、泣きそうになっちゃったりしてくれてる? 聞きたい。でも、怒ってる若にそんなこと、聞けない。ねえ、私とつきあってて、幸せ? 良かった? 後悔していない? 後悔しているの? 「とにかく、学校に行くぞ」 黙りこんで立ち尽くしてしまった私に、若がそう言って、ゆっくり歩き出した。慌ててついていく。 学校に着くと、若は迷わず美術室に歩き出した。どうして? 朝練は? って聞いた。若は休む、と言った。愕然とする。私が、若の重荷になっていると気付いて、愕然とした。だって、そんな、私と話すために朝練を休むなんて。ダメだよ、そんな。そんなことしちゃ、いけない。駄目だ。 「ごめんなさい。部活には出て。私と話すのは後でもいいから。お願いだから」 私の所為で若の練習が進まないなんて嫌だ。若はすごく、すごく頑張っているのに。お荷物なんかになりたくない。必死に部活に出て、って、我が侭言ってごめんなさい、って謝っていたら、美術室の窓際に歩きながら、若は私の言葉なんて聞いていないみたいだった。朝の太陽の日差しが切り取られて、寒い時期の瑞々しくて爽やかな光が若を照らしてて、こんな時でも、若はかっこいい、と思ってしまう。インプリンティングみたいに。そう思う。 「今日は自主練習だし、コーチも監督もいない。二月は寒くて朝練の参加率は最低だから、部活のことは今はいい」 そう言った若に、でも……と言い募ると、若は不機嫌そうに顔を歪めた。どうしよう、怖い。 「それよりも、お前は、本当に、考えても俺の気持ちを想像も出来ないのか?」 怒ってる感じじゃないけど、不機嫌そうな声。頷くに頷けなくて、また泣きそうだった。鞄を、のろのろと美術室用の大きなテーブルにおいてから「ごめんなさい……」とうつむく。 乱暴な足音が聞こえて、余計に怖くて顔を上げられない。どうしよう、若、怒ってる。何に対して? 若はおこりんぼすぎるよ、って言いたかった。私ばっかり、若の機嫌を取って、そんなのズルイよって言いたかった。でも言えなかった。若の刺々しい声が降って来たから。 「あまり、人を舐めるな」 怒ってる声が怖くて、キスされたと思ったら、こないだみたいに、若の舌が私の口の中に入って、どうしようもできなくて、仲直りしたかったのにって悲しくなってくる。怖くて、悲しくて、なんで若は私にこんな事をするんだろう。 頭がグチャグチャになって、もう、こんなのイヤだって思って、思ったから、なんか、なんか、なんかもう、赤ちゃんみたいに顎が外れるんじゃないかってくらいの勢いで、大声で泣いた。うわあああああって。そんな声出して泣いたの、ホント、赤ちゃんの時以来なくらい久々で、もう、若に引かれたっていいやって、泣いた。 なんで、若が怒ってたのかわからない。 なんで、若は私の怖いことをするのか、全然わからない。 なんで、私は若のことが好きなのに、こういうことされると怖くなっちゃうのか、全然わからない。 でも、とにかくなんだかもう嫌で嫌で、わーわー泣いてたら、若の大きな大きな溜息が聞こえて「いい加減にしろよ」と脅すように低い声で言われた。違う、脅す気じゃなくて、すごく不機嫌なんだ。苛々してるんだ。 思わず、ひくって喉を震わせて、大きな声で泣き叫ぶのを止めてしまった。身体が勝手に止めてしまった。そうしたら、大きな声を出していた時の勢いが、私の胸の中でシュンと音を立てて消えてしまって、今はただ、ひたすら怖いだけだった。 夏場の犬の呼吸音みたいな音が短く漏れる、ひゃくりあげてる喉は呼吸が苦しくて、心臓と肺が、胸が、その所為で痛くて、必死で手のひらで涙を拭う。好きなのに。今だって若のこと、好きなのに、でも同じくらい怖いって思う。なんで? なんで若は私の嫌なことをするんだろう。若はこれが好きなの? じゃあ、私は我慢しなきゃいけないの? こんなに、こんなに怖いのに。若は、若が、いつもと違うのは、本当に怖いのに。手を繋いで、私の言葉に適当な返事をしてくれる時の若は、こんなに好きな人はいないって一緒にいるだけで幸せになれるのに、今の若はとても怖い。なんで? 「お前に優しくしてやっても、意味はないんだな」 一所懸命涙を拭ってたら、そんな声が突然降ってきた。それは、もう、諦めたみたいな、どうでもいいみたいな、わからないけど、私のことなんて興味がないみたいな冷たい声音で、じわって涙がまた滲む。 なんで若がそんなことを言うのか、本当に全然わからない。わかるように言って欲しい。酷いよ。わかんないよ。若は私の初めての彼氏だもん! 男の子の考えてることなんて全然わからないよ! 言ってくれなきゃわからないよ! 言わないで解かれとか酷すぎるよ! 意味がないって、なんなの? 私は若に優しくしてもらえたら、これが生まれてきた意味だって思えるほど幸せになれるのに! なんでこの間から私のこと虐めるの! 夜も眠らないで一所懸命どうやって仲直りしようかとかずっとずっと考えてるのに! わからないものはわからないよ! 若のはげ! 私なんて毎日若のことばっか考えてるのに! 若はいつもテニステニス古武術テニス勉強勉強テニスとかって! 若の方こそ私のことわかってないよ! 解かってなくてもいいって思ってたけど! 思ってたけどなんで虐めるの! 虐められるほど悪いことしたなら、虐める前に叱ってよ! 怒ってよ! 言葉でいってくれなきゃわかんないよ! 私はサトラレじゃないんだから! 若のばか! 「……それ、サトラレじゃなくて 途中で何度もべろ噛んじゃったり、しゃくりあげたり、泣いちゃったりしたけど、そんなこと気にしないで一気にわーって喋って、そうしたらさっきの勢いがまたちょっとだけ戻ってきた感じがした。勢いがあると、ちょっとだけ、若のことが怖くなくなる。何でだろう。 「香奈、お前物凄く鬱陶しい」 「へんた……っに、言わ、言われたくな……ぃっ! な、で……変、な、こ……と、する……っ!」 喋ってるのに全然涙が止まらない。悔しくて、若を睨んだら、なんか、若が、なんか変な顔をした。 「……一つ聞く。本はそれなりに読むよな?」 なんでそんな質問? とかって、思ったけど、若が結構真剣っぽいから、涙でぐしゅぐしゅの目をこすりながら頷く。若は、そんな私の手を取って「腫れるから擦るな」と叱った。ママみたいだ。きっと、若が泣いた時に、若のお母さんが若に言った言葉なんだって、思った。こんな時でも、そんなことを考えてしまう。ああ、やっぱり、私、若のこと、好きだ。 「お前、どういう類の本を読むんだ?」 なんか、さっきまでの私を怖がらせてた事なんてすっかり忘れてるみたいな質問に、ムカムカして、私の手を握る若の手を振り払った。何で怒ってるんだろうって、私はずっとずっと悩んでいたのに、若は、そんなこと気にもしていなかったのかもしれないって思うと、悔しくなってくる。 「そんなことっ! 今、は……どうでも、いい……っでしょ!」 そんなことまでは一気に言えたけど、その後はしゃくりあげてしまう。どうでもいいよそんなこと。そんなことより、なんで怒ってるのか教えて欲しい。なんであんなへんなことするの? 私は嫌なのに! また、涙がぱたぱた音を立てて落ちてく。壊れた水道みたいに。ああ、なんか、地面にできる水の痕が、ああ、なんだか、涙が雨みたいだ。なんで、涙っていつもいつもこんなふうにいっぱい出てくるんだろう。涙の材料ってなんなんだろう。なんで私はこんなに泣き虫なんだろう。 「わかった。質問を変える。本で読めない漢字があったら、自己流読みするタイプか?」 なんで今そんな話なの? 誤魔化そうとしてるの? なんで? クエスチョンマークはずっと飛んでたけど、でも、さっきに比べると若が怒ってないってことは、わかった。だから。 「な、で……おこっ、……るの?」 やっと、一番聞きたかったことが聞けた。声はぶつ切りになってしまったけど、きっと、若は、わかったと思う。 けど、若は、私が逆に全然違う質問をした事が不愉快だったみたいで、チッ、って小さな舌打ちをした。 「本当に、わからないんだな」 「わかん、な……けど、わるっ、と、こ……な、なお、し、した、ぃ、か、ら」 最後の方はもう鼻を啜るのと喋るのと呼吸するので、声にするのもいっぱいいっぱいだった。涙が勝手に落ちてきて、喉から唸るみたいな音が、勝手に漏れてしまう。 若は、わからないけど、なんだか、仕方なさそうに喋ってくれた。 「鳳と親しくするな。男に物をやるな。男と二人でいるな。男と喋るな。近づくな関わるな触るな。なんで男と一緒に歩いてた? 芥川さんには近づくなって言っただろう!」 若は、一気にそこまで言うと深い溜息をついた。二回。それから、今度はゆっくり「とりあえず言いたいところは今のところそれだけだ。香奈の行動は無神経すぎるんだよ。少しは人の気持ち考えろ。馬鹿にされてるとしか思えない」って、言って、更に「大馬鹿が」と付け足された。 びっくりした。だって、若以外の男の子となんて、この間の長太郎君と芥川先輩とリョマとくらいしか二人になってないし、リョマ以外とは、二人きりになった時間もほんのちょっとだし、チョコをあげたのだって長太郎君とリョマと家族と若だけだし……ああ、でも、不安にさせちゃったんだ。不快にさせちゃったんだ。無神経の一言が、すごく胸に痛い。 大きく息を吸って、吐いて。 「説明、する、から……聞いて」 うん、大丈夫、声になってる。はぁ、って息を吐いて、大きく吸って。若の返事は待たなかった。 「長太郎君には――」「名前」 しゃべりだした途端、急に鋭い刃物みたいな尖った声で言葉を刈り取られてしまって「え」て若を見上げてしまう。 「いつから、鳳を名前で呼ぶようになった?」 名前って、そういうことか……そっか。それも嫌だったんだね。うん、解かった。申し訳ないって言う気持ちもあるけど、若の怒ってた理由がわかって、すごく嬉しい。解からなかった時はどうしようもなかったから。 「全部、話す、から。……バレンタインにね、若にチョコあげたかったの。――でも、カカオアレルギーの人もいるから、鳳君に」今はそう呼んだ方がいいかなって、苗字で言う。「若はチョコ食べられるか教えてもらって、それで、そのお礼に、若のついでに」こんな言い方良くないけど、でも事実だし、長太郎君もそれはわかってると思う。若を、これ以上不機嫌にさせたくないって言うのも、あったけど。「チョコあげたの。その時になんとなく名前で呼ぶようになったの。それから、友達が鳳君のこと好きだから、情報収集しようって確かに他の男の子よりも多めに喋ってたかもしれない。それは気をつける」 若は言葉を挟まないで、だから、私はまたゆっくり呼吸して言葉を紡ぐ。震えている声は、でも、さっきよりは落ち着いてる。 「若が嫌なら、鳳君のこと、名前で呼ばないようにする。男の子とは、なるべく二人きりにならないように気をつける。完全に排除するのは難しいと思うけど、努力は、する」それくらいのことなら、簡単だけど。でも――「男の子と歩いてた、っていうのは、外国に住んでた幼馴染――ママの親友の息子さんが春から東京の学校に通うから、その下見に付き合って案内してあげてって、ママから頼まれたの」――これは、若は嫌かもしれないって、思った。 「香奈は、幼馴染と手を繋ぐのか?」 ああ、やっぱり、すごく声が刺々しい。でも、頷かなくちゃ、仕方ない。 「うん。繋ぐの――お兄ちゃんともパパともママとも繋ぐから、だから、たまに他の人にベタベタしてて気持ち悪いって、言われるのも、知ってる」 大きな溜息。私の前髪が軽く揺れるくらいの、若の大きな大きな溜息に、また肩を竦めてしまう。 「でも、もうしない、から……」 「わかった。でも、あの日、なんで俺じゃなく鳳に先に渡した? 芥川さんにまで?」 「それは――なんか、印象に残る渡し方したくって、色々考えてて、美術室でどきどきしてて……渡すの、遅かったら、若にもそわそわしてもらえるかな、とか……きっと、いい日になるとか、そんな変なこと、考えてて……」 初めてのバレンタインなのに、あんな結果に終わってしまった事を思い出したら涙が出てきた。また。 「た、大切に渡したかったんだけどっ……」 声が、唇が、喉が、喋らせるか! っていうくらい震え始めた。痙攣って、こういうのなのかもしれない。初めてのバレンタインだったのに。あんな、喧嘩で終わっちゃって、本当に悔しい。悲しい。若にとってはそんなに大事な日じゃなかったかもだけど、私にとっては彼氏と一緒の初めてのバレンタインデーで、誕生日よりもずっとずっと楽しみで、すごく、思い出に残る、凄くいい日にしたかったのに。喧嘩しか、出来なかった。生まれて始めての、大事な人にチョコレートを贈る日だったのに。 「わかった。今度から男と二人きりで会う時は連絡しろ。それから、鳳にキスできるほど近づくな。交友関係にまで口を出して悪かった――でも、俺は本当にお前が……香奈が、他の男と一緒にいて喋っているだけでも、一緒に笑ってるだけでも、むかつくってことを覚えておいてくれ」 「そん……」 さすがに、共学で、部活の先輩にも男の人はいるし、先生だっているし、そんなの無理だよって言おうと思ったら、それを遮るように、私の言葉にかぶせるように、若が喋る。 「覚えるだけでいい。これは俺の我が侭だ。何かを行動しろってことじゃない。俺も出来る限りは我慢する。その代わり、俺はテニスでも古武術でも手は抜かないし、場合によっては香奈よりそっちを優先する。我慢しろ」 それは、私にとっては当たり前のことで、若は何を言っているんだろうって、思わずぽかんとして見上げてしまう。私の表情をどう思ったのかはわからないけど、若はじって私の目を見た。 「妥協点としては妥当だと思う。他に何かあるか?」 私にとっては、妥協というよりも、本当に当たり前のことで。一所懸命に古武術やテニスや勉強や、そんなことをやってる若がとても好きだから、うなづくのもなんだか違うなって思ったけど、うなづかないと嫌だって言ってるみたいだから、うんって首を縦に振る。全然、そんなこと、我慢ではあるけど、当たり前のことで、むしろ私は。 「若は、私だけに、ならないでほしいから、テニスも古武術も、いっぱいしてほしいって思う。私の所為で、練習とか稽古とか、休まれたらやだし、若が……友達より私を完全にとったら、なんか、ヤだ、から、私だけにならないで」 そう、それが一番やだ。私のせいで、若がテニスに集中できなかったり、そんなふうになったら絶対にやだ。部活を休んだり、成績が落ちたり、そんなの絶対にやだ。私のことを好きでいて欲しいって思う気持ちも、好きだから一緒にいたいって思う気持ちもいっぱいあるけど、でも、もし、私が泣いているから慰めるために部活を休むなんて言われたら、別れたい。そんな、若にとって重荷にしかならない女の子でいたくない。今日の、今の、若の時間を奪っているのは私だ。もし、そんな女の子でしかいられないなら、別れたい。若は大好きだけど、大好きだから。こわい。別れたくない。別れたくないけど、でも、そんなふうになるなら、別れなきゃって、絶対に思う。 きっと、こんな私の考えを言ったら、まどかちゃんや長太郎君や若やお兄ちゃんは間違ってるって言うと思う。私も、合っているとは思わないし、若が、もし泣いてたら、塾とか部活とか学校とかよりも、若の側にいたいって思うに決まってる。でもそれは、私が頭も良くなくて、部活もただ楽しんでやってるからなだけで。わかんないけど、若には、私を優先して欲しくない。でも、大事にはして欲しい。すっごく、わがままだ。 「……なんだそれ。理解できない。そもそも、香奈だけを取るなんて不可能だろう」 若は本当に意味がわからないって感じであきれた声で言う。私も自分の言葉や、この気持ちを理解できていないから、仕方ないと思う。 「うん……わかんないけどね。なんか、やなの。だから、私は男の子に近づかないようにするから、若は、無理して私に合わせないで。大事なことより、私をとらないで。わかんないけど、なんかヤなんだもん」 ずっと一緒にいれたら、それは素敵で嬉しいことだけど、どうしてだか、こわい。なんでだろう。もしかしたら、私が、私にそんな価値がないって思ってるのかもしれない。その気持ちがあるのは何でだかわからないけど、でも、それよりも仲直りできたんだなって嬉しくなって、ほっとして、ちょっと泣きそうになった。 ぎゅって、若のブレザーの裾を掴んだら、ぽんって頭を撫でられた。とうとう、また泣いてしまって、いっぱいいっぱいごめんなさいって言ってしまった。若はぽんぽんってずっと頭を撫で続けてくれて、ごめんなさいのかわりに抱きついたら、若も私の背中に手を回してくれて、またポンポンって撫で叩かれる。ああ、もう、ほんと、私、若のこと好きだ。なんだかわからないけど、なんだかわからないのに、本当に好きだって思う。恋に恋してるなんてよく言うけど、若に恋してて、その恋にも恋してるから、二倍になってるのかもしれない。 「香奈は他人との線引きが下手すぎる」 「ごめん……なさい……」 「でも、俺も、短気すぎた。説明されなきゃ俺の気持ちがわからないのかと思って、すげえ苛々してた」 わかる人なら、きっとわかるんだろうけれど、私は、わからなかった。だって、若に見られてるとか、知られてるとかも知らなかったし、知られても、そんなに怒られることじゃないと思ってた。好きなのは若だけだから。 でも、好きな人は若だけだから、長太郎君にあげたり、芥川先輩に上げたり、リョマと手を繋いだりしちゃ、いけなかったんだ。だって、若は、私の気持ちなんて、見えないんだから。ちゃんと、言わないといけなかった。態度で示さないといけなかったんだと、思う。私だって、若がそんなことをしていたら、絶対胸がチクチクするのに決まってる。なのに、そんなこと、考えもしないで、なんで怒ってるのかって、そんなことばっかり考えていた。でも、私だけじゃない。きっと二人とも我が侭だったんだ。 「言わなきゃわからないし、言われなきゃわからないのにな……あの時ちゃんと話さなくて悪かった」 「うん……私も、サプライズとか、勝手に考えて……不安にさせて、ごめんね」 「不安になんかなってねぇよ」 不機嫌そうな若の声。でも、怖くない。さっきみたいに怒ってない。照れ隠しの、不機嫌な声。わたしは、これがちょっとだけ好きだ。なんかもう、なんかもう、嬉しいって言う気持ちを煮詰めて煮詰めて固形化したら、こんな気持ちになるんじゃないかって、思う。 「来年は、一番最初に、若にチョコ、渡すね」 この関係が来年もその先もずっと続きますようにって、神様にお願いするみたいに、そう言ったら「でも濡れ煎餅の方が好きだ」と言われてしまった。あんまりな言葉にちょっと笑ってしまったら、若も少しだけ笑ったような気配がした。 仲直りできただけで、嬉しくて泣きそうになる。なんでこんなに好きなのかは、やっぱりわからない。でも、抱きしめられる距離に若がいる。とりあえず、今はそれ以上の難しいことは考えないことにした。 |