雪が降っていたので、ランニングを断念した。完全防寒装備で走りに出ても良かったが、そこまでの気力がなく、夕方に雪がやめば、その時走ろうと決めた。やまなかったら、もしくは積もっていたら、その時はその時だ。 その代りと言うのもおかしいが、道場でいつもより長めの自主稽古をして、家族で朝食を摂ってから、綿入りの半纏を着込んで居間の掘りごたつで祖父と取り留めなく話していた。祖父は、長男である兄に跡取りとして執着している分、次男の俺には、基本的に優しく甘い。 また、三歳の頃から下剋上下剋上と言っていた俺に、同じ次男としての愛着もあったように思う。沖縄本家は祖父の兄が継いだし、下剋上と言いながら、兄に闇雲に殴りかかっていた俺を、祖父は微笑ましく見ていたように思う。練習後に菓子を俺に渡して、母に「ご飯が食べられなくなっちゃうからやめてください」と叱られていた祖父は、けれど、指導やら、躾やら、仕置きやらになると、子供心に鬼のように怖かった。 ともかく朝九時。あと一時間もすればうちの男衆は、休日も開いている道場へと向かう。 この時期、道場では、昔の小学校にでも据え付けられていたような大型の石油ストーブを焚き、空気が悪くならないためにと窓を開けるのだから、エアコンでも設置してしまえばいいのにと思う。ただ空気の乾燥を考えると控えたい気持ちもわからないでもない。 屋内テニスコートに行くべきか、家で勉強するべきか。屋外の寒さに反比例して暖かい室内で、だらだらと考える。考えていると母に掃除機をかけろだの埃をとれだの畳んだ洗濯物を自室へ持っていけだの言われ、兄と一緒に言われるまま独楽鼠のように歩き回るが、兄は要領が良いので、俺の方が一・五倍は多く動き回っている。 こんな日は、道場の練習生も少ないと思われそうだが、そうでもない。合同練習も自主練習も、休日しか来れない人間もいるし、雪が降っているから人が少ないだろうと予想して足を運ぶ人間が増えるからだ。あとは、この天気では遠くに車を走らせるのも億劫だろうし、屋外では遊べないだろうしで、他に行くところも無いからだろう。 息の白くなる廊下を歩き、天気が悪くて干せない布団を、母に渡された変なスプレーをかけてから、椅子にかぶせるようにかける。机の脇のラケットバッグを見て、道場に行くか、テニスコートへ向うか、図書館にでも行くかと、また優柔不断に考える。けれど、この、何をしてもいいという、なんでもできるという自由で余裕のある現状は悪くない。 しかし、結局はもたもたと思考していたために「若、用事がないんだったら、留守番してちょうだい」と言われ、母と祖母が歌舞伎へ――海老蔵様、とか言っていた――そして祖父と父と兄が道場へ、それぞれ行ってしまったので、俺は仕方なく居間の掘りごたつで、猫のようにぬくぬくと、溜めていた本を読むことにした。小型の、やはり俺と兄が給油しなければならない石油ストーブの独特の匂いも、慣れてしまえば気にならない。祖母を真似て水を入れたヤカンをストーブの上に置いた。氷帝にあるような加湿器などシャレたものは我が家にはない。そういえば、香奈の部屋にも丸い加湿器があったなと、ぼんやりと思い出す。 道場は、父が師範で、兄が準師範(師範代)で道場生を教えている。祖父は、父に師範を譲っているので別にいかなくてもいいのだろうが、兄が準師範として道場へ行く場合は、孫の成長を見るためか必ずついていっているようだ。父よりも祖父の方が俺たち兄弟には甘い。初孫の兄は特に執着しているらしい。けれど、別に次男の俺もそれなりの待遇はされているので気にした事は、少ししかない。 まあ、正直、俺の産まれる前の話など、どうでもいい。 こんなふうに、ゆったりと過ごすのも久しぶりだ。中庭に降り注ぐ白い雪の所為で、曇っているはずなのに仄明るい。窓ガラスは結露に曇り、掘りごたつの中の俺だけが怠惰な時間を貪っている。小説の中の登場人物でさえ、冤罪から逃れるために現場不在証明作りに勤しんでいるというのに、俺の飼い猫並みの怠惰っぷりはどういうことか。 しばらく読みふけり、主人公は無理矢理作った不在証明によって冤罪とは違う危険にさらされたところで、小腹が空き、掘りごたつを名残惜しく思いながら立ち上がる。茶棚からせんべいを取り出し、番茶と玄米を炒って、ストーブの上のヤカンの湯で、ほうじ茶を淹れ、また掘りごたつに入るとゆっくりと本を読み進める。予習をしても構わないが、まあ、こうゆっくりするのもいいだろう。 障子を閉めればもっと温かいのだろうが、せっかくの雪景色を見ずにいるのももったいない気がして障子を開け放ったまま、結露が涙か汗のように伝うガラスの引き戸とその向こうの雪景色を視界に納めたままにしている。掘りごたつで、読書しつつぬくもっていると、念のためにと傍に置いておいた携帯が震えた。自分の時間に無遠慮に侵略してくるそれにイラつきながら誰だと思って通知を見れば香奈からで、内容は“雪が降ってるよ”とか、そんなようなものだった。 確かに、俺の記憶の中では、都内では年に一度積もればいいような状態なので、最近の雪の多さに香奈が興奮するのもわかるような気がした。今流行の異常気象と言う奴なのだろうか。エルニーニョ現象は異常気象ではないと教わったが、こうやって雪が降るだの夏が暑いだのしなければ、フェーン現象だのダイポールモード現象だのヒートアイランドだの、普段考えているわけではない。このままでは子々孫々に迷惑をかけるのは何となくわかるので、必要以上のエネルギーを使わないようには気をつけているけれど、環境問題と言うよりも、ただの節約のような気がする。 まあ、ともかく、先の文面に続く“今日は練習する? ”で締められている文章への返事を打つのが、先ほどまで小説の世界に居た俺には少々面倒で億劫だった。雪が降ったので、今日は俺が練習を休むかもしれないと思ったんだろう。 普段なら無視しかねないそれも、けれども、ちらつく雪と、怠惰な時間とに、普段より、普段よりは鷹揚な心持ちでそれに返信した。“しない”とだけ。もちろん、その後は予想通り、電話がかかってきた。そして香奈がいそいそと手土産を持ってやって来る。家には俺しか居ないため、居間以外に暖房を施していない我が家の寒さに、香奈は外と同じくらい寒いと感想を漏らした。 耳も頬も、寒さの為か赤く染まっている香奈は、椿のように真っ赤な子供じみた傘に、粉砂糖のごとく降りかかっている雪を払い、コートをちまちまと無駄に丁寧に畳みつつ「おじゃまします」と頭を下げた。香奈の動作はいかにも子供っぽく、その所為で己も子供なのだと強く感じさせられる。 俺が居間に案内すると、香奈はいそいそと掘りごたつに入り、幸せそうに溜息をついた。八人掛けのそれは来客が多くなると、掘りの部分に畳板を敷き、襖を開けて隣室の机と繋げるが、今日は必要ないだろう。 「あったか〜。生き返るーっ……外、もうすごいよ。雪だよ雪。さくさくふかふかだよ。いつもみたいにべちゃべちゃじゃないし……あったかい……こういうストーブの匂いいいね。よくわかんないけど懐かしい感じ……」 よほど寒かったのか、香奈はこたつの上に頬を乗せている。普段、居間は俺の家族が誰かしらいるため、我が家の居間にいる時の香奈は常に緊張している。なので、こんなにまったりした姿でこたつに入る姿は初めて見る。しかし、客だからといって、だれ過ぎだ。 「何か飲むか?」 「ううん。お気遣いなさらないで下さいー。あと、これどうぞ」 香奈は横着にも掘りごたつに入ったまま、己の鞄の中からなにやら漁り、渡された……風呂敷包みかよ。別に風呂敷を使うなとは言わないが、うちの祖母と母くらいしか率先して風呂敷など使わないので、珍しく思う。が、そういえば昔、香奈が俺の母親に風呂敷での包み方を興味津々で聞いていたことを思い出した。折り紙だとか、絵だとか、香奈は本当にちまちましたものが好きだなと思う。とにかく渡された風呂敷をそのまま開けると箱が入っており、その蓋を開けると、薄桃色の丸い菓子が入っていた。中央に花芯を模した黄色い餡が、小さく乗っている。 「それね玉椿、ママと作ったんだ。いっぱい。だからおすそ分けもかねて。若はあんまり好きじゃないかもだけど」 そう言うと、香奈が掘りごたつの上に持参したらしき、コンビニで売っている濡れせんべいとチョコレートという食い合わせの悪い菓子を並べていた。おそらく俺の好きなものと香奈の好きなものだ。とりあえず、俺と同じほうじ茶を入れてやって、一人分空けて香奈の横に座ると、香奈は次々と鞄から本を出した。数学と英語の教科書と、次いでバインダーまで出てくる。 「宿題か」 「宿題だ」 深刻さを装った香奈のわざとらしいセリフに嘆息する。俺は昨日のうちに終わらせていたが、手伝う気はない。しばらくは降り積もる雪に音を奪われ、本を読み進める俺のページを捲くる音と、香奈の筆記用具を滑らせる音だけが、いやに室内に響いた。 呼吸音や、心音まで響いてしまうのではないかと、ぼんやりと思いながら、読書に集中できていないことに気づき、何だか悔しくなる。付き合い始めて、もうそろそろで十ヶ月になろうかというのに、香奈が家に来るのは、もうすでに珍しいことではないのに。そんな俺の思考など気付きもしない香奈が、ルーズリーフと教科書を交互に、綺麗な弧を描いている睫毛にくまどられた瞳で睨みつけながら言う。 「若の側だと、なんか、サボれないって感じがして宿題とかはかどるんだよね。頭よくなる」 その言葉に脱力しそうになる。俺は、お前にとってなんなんだ。アン・サリバンか。確かにサボっていれば俺は口を出してしまうが。 なんだか、俺だけもやもやしているのも癪なので、物語の中の主人公が“お前はどれだけ馬鹿なのか”と言いたくなるほど不幸な展開へ身を突っ込んでいるのを、侮蔑と軽蔑の気持ちで眺め続けた。 しばらくすると、ストーブの上に置いたヤカン内の湯が全て、空気中の蒸気にか窓の結露にか姿を変えていた。俺は再びヤカンに水を注いでストーブの上に乗せる。香奈は俺の行動に、筆記用具を動かしていた手を止め、仔猫のように背をしならせて伸びをした。 「終わったか?」 「わんないー」 何語だ。 「ちょっと休憩!」 そう、偉そうに宣言すると、無精者らしく膝と手とで、仔猫そのもののようにガラスの引き戸際まで四足歩行した。そして、勝手にからりとガラスの引き戸を引き、縁側に足をぶらぶらさせながら座りこんだ。 前のめりになっているのか、香奈の背中が普段の三分の二程度に縮まっている。「雪やまないねー」だの「冷たくて気持ちいい」だの言いながら一人でもぞもぞやっているようだ。 香奈一人分空いた引き戸から吹雪いたそれを、室内の暖まった空気でぬくんでいたところに浴びてしまい、とろとろとした眠気さえ誘うほどの怠惰な体が無理矢理引き締められてしまった。 少々不愉快になりながら「寒い」と一言告げ、前のめりになって雪をすくっている香奈の背中を軽く小突く。 それに押されたように、やじろべえのようにバランスを崩した香奈は「ぁ」とか「ぅ」とか「ぇ」とかなんとか言いながらぐらりと傾いで無様に顔から雪面につっこんだ。 突然のことに、思わず呆けて、なんとも間抜けに半身を雪に埋めた香奈を眺める。 雪に頭から倒れて突っ込んだ香奈は、そのまま、驚いたのかなんなのか反応もなく、雪に漬かり続けていた。厚みがあるというほどの雪は積もっていなかったので、その無反応に、飛び石に頭でもぶつけたかと、少々焦りつつ香奈を抱き上げるために身をかがめて、手を伸ばす。 その瞬間、香奈の雪にまみれたちいさな手が、白い蛇のようにするりと伸びて俺の手捕らえ、思いっきり引っぱってきた。 「……この……馬鹿が……!」 まず真っ先に俺は毒づいた。 咄嗟についた手のひらが、雪の冷たさとと衝撃とに、じんじんと傷む。香奈と同じく雪の上に倒れこんだ俺に、彼女は酷くうれしそうに声を上げて笑う。半ば反射で、このやろう、と苦々しく呟けば、香奈は、キラキラと光を反射する雪を纏いながらも「人を落っことした若が悪いんですー」などと楽しそうに微笑んでくる。 顔が近かった。香奈の吐息は空気に冷やされて、白い。 「あー、でも、ちべたい……」 すぐに細い肩をふるりと震わせて、俺の頬についている溶けかけの雪の塊を払った香奈の手は冷たかった。 「当たり前だ! 雪だぞ! くそ……っ」 とりあえず、ムカついたので香奈を睨む。地面についた手が、酷く冷たい。ズボンの膝の部分も、体温で溶けた雪と、一点にかかった体重とによって、たっぷりと濡れてしまっている。香奈も、このままでは背中が、それはそれはぐっしょりと濡れることだろう。 香奈は今更、俺に睨まれて「ご、ごめん」などと言いつつ、おどおどと自分のしたことを後悔し始めたようだった。今更、半泣きの瞳で許しを請うように見つめられても許す気はない。というか行動の後先くらい考えろ。俺が怒ると、すぐ凹むくせに何で学習しないんだ。 とりあえず、立ち上がろうとした瞬間、最悪のタイミングで居間にやって来た兄に「女の子を雪の上に押し倒すのは良くないと思うよ」と声をかけられて「違う!」と怒鳴り返した。 しかし、何とか、室内に戻った直後に、一時休憩に来た――三時から五時が道場の休憩時間だ――祖父と父に、雪まみれで何やってるんだという目で見られ、香奈は居心地悪そうに、むしろこの場から逃げ出したそうに「お邪魔してます」と頭を下げた。その背景の中庭には人型に押し固められた雪が、俺たちが馬鹿だという事を、明々白々伝えていた。それからまず、お互いに自分の身体を光らせている雪の結晶を叩き落とすところから始めた。 |