休日の過ごし方
 香奈が、人の部屋で言語化することの難しい変な声を上げていた。
 少なくとも日本語にはそれに相当する音はない。五十音では人間の声帯で出せるすべての音をフォローするのはもちろん無理だろうが、どこの国の言葉ならば正確に表記可能な文字を持っているのかと悩みたくなるような変な音だった。
「若ー……アイスがー……」
 アイスがどうした。
 渋々、宿題を解くためにノート紙面に落としていた視線を上げると、何をどうすればそうなるのか、香奈は強く目を瞑っている状態だった。
 粒餡を施した抹茶アイスを収めている曙の小さな鉢に、添えられていた木製の匙が、香奈の腹部に乗っている。香奈の頬から首筋までには、抹茶アイスの黄緑色が、エイリアンの血のように滴っていた。ちいさな両手には抹茶アイスのかけらが乗っている。
「アイスがー」
 同じ言葉で訴えられた。こいつは幼児なのだろうか。アイスクリームくらい一人で普通に食べてくれ。
 おそらく、アイスクリームを掬うときに勢い余ってそのかけらを飛ばし、咄嗟に両手で床に落下しそうだったアイスのかけらを捕獲しようとしたものの、アイスのかけらを顔面に思いっきりぶち当てたのだろう。
 一瞬どころかたっぷり三十秒はアイスクリームだらけになっている香奈の姿に推理力を使う羽目になった。
 本当に香奈は甘やかされて育ったんだろうなと思う。俺がもし、万に一つもありえないが、同じ失態を犯したら、一番最初に謝罪するか、何事もなかったかのように自分で処理するだろう。
「ごめん。垂れる……」
 手のひらで捕まえたアイスが香奈の体温で溶け落ちそうになっているのを見とめ、これ見よがしにため息をついてやる。
 まずは香奈の腹部に落ちている匙で、彼女の手のひらの中にあるアイスのかけらを掬い、匙をそのまま小鉢に戻す。
 それからボックスティッシュから何枚か抜き取り、手のひらを適当にぬぐってやる。その後、手を開くように指示して、指の付け根一本一本まで丁寧に拭いてやった。
 ふと顔を上げると、香奈はいまだに必死に目を瞑っていた。目の上にでもアイスのかけらが飛んだのかと思い、まじまじ見てみたが、そんな様子もない。ビビって目を閉じたまま開けるのを忘れている、というのが予想の中の有力候補だ。
 ふと、からかいたい欲が胸の中に現れていることに気づく。先ほどまではまったく考えもつかなかったのに、一瞬の内に、抗いがたい魅力を持った思考が、どこからか瞬間移動でもしたかのように心の中に鎮座していた。少し自分の発想がふしだらだと思って、少々不愉快な気持ちにもなった。
 右手を拭き終えて、左手へ移ると、それまでされるがままに動きもしなかった香奈は、拭き終わったその手を何度か握って「べたべたする」と呟いた。
 両方の手のひらを綺麗に拭ってやってから、汚れたティッシュを座卓の上に置き、新しいものを引き出して、頬から垂れているアイスクリームを拭う。
 顎先まで辿ると、香奈が拭きやすいようにと「ん」と言いながら顔を上に向けて喉を伸ばす。恥じらいはなかったが、それはそのまま、普段彼女が口付けをねだるときのポーズとほとんど一緒だった。
 無防備だの、信頼されているだのの思いをいくつか浮かべながら、こいつはやはり馬鹿だなと思う。からかいたいという気持ちがげんなりと萎んでしまう程度には、馬鹿だった。
 首筋まで辿り、シャツの襟のさらに内側までこぼれてしまっている雫に手を伸ばすと、香奈は少し震えて「そこは自分でやる」と牽制してくる。
「わかった」
 素直にそう答えてティッシュを渡してやると、香奈が「もう目、開けてもいい?」と訊いてくる。質問があまりに意味不明すぎて少しだけ混乱したが、先ほど萎えた悪戯心がまた沸いてくる。
「もう少し瞑ってろ」
 そう命じると、香奈は素直に咽喉をそらしたまま小さく顎を引いてうなづいた。
 それと同時に彼女の頬に手を添えて、先ほどまでアイスクリームの雫が滴っていた箇所に軽く舌で触れると「               !!!」香奈がまた五十音では表現できない言葉を上げて後ろに仰け反って、倒れた。語尾にエクスクラメーションマークがつく以外には表現不能な声だった。
 それでも頑なに目を瞑ったままだった香奈に、少し呆れながら「目、開けろ」と命令すると、半分泣きながら、おそるおそるゆっくりとまぶたを押し上げていく。
 そもそも、最初に驚いた後は、別になんともなっていなかったのに、勝手に瞑っていたのは香奈だ。泣きそうになる訳もわからない。
 からかうことは成功したものの、あまり達成感もなく涙目で倒れたままの香奈を見つめてみる。
「いま、今、なんか、変なこと、した?」
 畳に転がったまま、香奈は瞬きもせずに、俺をじっと見つめ、震える声で聞いてきた。俺がものすごく悪いことをしたような錯覚に陥りそうになる、怯えた顔だ。この顔は結構好きかもしれない。
 ただ、たまに見るからそう感じるだけで、毎日こんな顔をされていたら鬱陶しいかもしれないなとも思う。ただでさえ香奈は面倒くさいのだから。
「変なことって?」
「へんなこと……」
「変なことって?」
「……うぅー……」
「いい加減起きろ」
 手のひらを差し向けると、香奈は「変なことしない?」とびくびく訊いてきた。ここで俺が「しない」と言った所で、信用しなさそうな顔だ。意味のない問いに少し苛立ちながら「起きなかったら、する」と答えた。香奈は飛び起きた。香奈の珍しく素早い行動に、彼女の髪が遅れてふわりとなびく。
 お前、そんなに自分の彼氏に触られるのが嫌か。
 小さくため息をつくと、香奈は反射で「ごめん」と謝ってくる。今回については、俺は特に謝るほど悪いことはしていないし、勝手にアイスで遊んだ上に人に介助までさせた香奈の方が謝るべきだが、こうやってすぐに謝ってしまうのも問題だろう。
 しばらく、静寂が室内を闊歩していたが、その歩みを止めたのは香奈の一言だった。
「……若、あの、えっと、ちゅーする?」
 なんなんだ。
 俺がこのままでは不機嫌になるとでも思ったのか――確かに機嫌が良いとは言いづらいが――わけのわからない懐柔策に打って出た香奈は、困ったように首をかしげていた。その顔やめろ。俺が駄々をこねてるみたいに見えるだろうが。
「しない」
「アイス、溶けるよ?」
 じゃあさっさと食えよ。そう思ったが言わないでおいた。今言うと、香奈が怯えそうだと判断する。
「……えっと、ちょっと、ベタベタするところ拭いてくるね」
 しっしっと犬を追い払う手つきで香奈の言葉に答えると、香奈は小走りで洗面所へ向かったようだった。
 しばらく一人で宿題を解いていたが、香奈が来訪する前から作業していた為にすぐに終わってしまい、冷えた緑茶を飲んでいるところで、香奈が部屋に戻ってきた。
 しかも、意味もなく俺の真横に腰を下ろし、触れるか触れないかの距離を守ってくる。距離的には盲導犬に近いかもしれない。しかし、主人に寄り添うというよりは、まとわりつくと表現したほうが正しそうだ。
 なんとなく、無言のまま、液状化したアイスの入った小鉢を香奈の前に置いてやると、彼女はそれを受け取って餡と元アイスをぐるぐるとかき混ぜて口に運んでいた。
 この雰囲気はなんだろうかと思いながら、もうほぼ粒餡と言っていいそれを口に運んでいる香奈を眺める。食べ終わった香奈は「ごちそうさま」と言った後、びくびくしながら「怒ってる?」と聞いてくる。
「怒ってはいない」
 それは真実だったし、微妙な空気になってしまってどうしようかと思っていたくらいだった。これが、香奈以外の人間ならば、微妙な空気だろうがなんだろうが気にならないが、仕方ない。
 おそらく、香奈よりも、俺のほうが、彼女を好きになったのは早いだろう。出会ってすぐに、好意を持ったのは、俺の方なのだろう。香奈は、たまに俺に嫌われるのではないかと、自分の方が好きになったのだと、思っている節があるけれど。
 香奈を見ると、お互い、少し困ったような顔で目が合う。
「今、ちゅーしたらもれなく餡子の味の甘いキスができます」
 困った顔のまま、少しふざけて言った香奈の頬の上部が、まるで寒風にさらされたかのように赤みを帯びていた。恥ずかしいというよりは、自分の言葉に自分で照れているのかもしれない。
「俺はそんなに餡子は好きじゃない」
 即座に切り捨てると、香奈は困ったような顔を、しょんぼりとした表情に変えた。餡子がさほど好きではないのは事実だ。けれどもちろん、香奈との口付けは嫌いではない。
 それでも。
 このまま口付けたら香奈の勝利のような気がして、今日は意地でも口づけなどするものかと心に決め、ホラー映画のDVDを取り出し始めた俺に、半泣きの香奈がしがみつく。
 いつもの空気が戻ったことに安堵しているなんて、あんまり香奈に悪戯をしないようにしようと反省していることなんて、彼女が気づかないように願いながら、香奈がDVDの代替案を必死で上げているのに耳を傾けた。