全国大会、青春学園戦前日。 天気はとてもよく、青い空が突き抜けるようだった。キラキラと落ちてくる日差しが眩しく、俺は目を細める。 同じ円卓についている向日さんは、先刻の手塚さんと沖縄の木手さんの試合を見てからというもの暗い表情で卓の表面を指で叩いている。天気はこんなにも晴れているのに、向日さんの周りには暗雲が垂れ込めているような様子だった。 しばらくトントンと指先で円卓の表面を叩いてから、面倒くさい奴が戻ってきたと、大きな瞳を伏せがちに円卓の表面を見つめる向日さんに、思わずため息が出た。 問い掛けてくるような視線を感じて「なんだよ?」と聞かれればわざとらしく頬杖をついて見せてから、煽るように、挑発するように視線を向けて答える。 「もしかしてビビってるんですか? 向日さん」 俺の台詞に、向日さんは盛大に反応して両手でバンと円卓を叩き「違ぇーよ!」と腰を浮かす。 しかし、すぐに先ほどのような暗雲を纏った様子でどこか恐れるような表情で、手塚さんが跡部さんよりも実力があるのではないかというようなことを呟いた。 普段明るい向日さんらしくもない様子になんと声をかければいいのか迷う。 けれど、香奈ならばともかくも向日さんを励まそうなどという気持ちは微塵もなかったので、わざとらしいほど大げさな動作で頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに体重をかけ、足を組む。そして馬鹿にするような調子で言ってやる。 「俺はむしろ歓迎ですね。手塚さんが強ければ強いほど俺の下剋上は完成されますから」 それは正直な気持ちだ。 今、俺は手塚さんや跡部さんのような圧倒的な力はないけれど、壁は大きければ大きいほど、乗り越えたときに手に入れるものも大きいだろう。 乗り越えられないなどとは考えない。乗り越えられると信じている。前向きは俺の長所の一つだし、下剋上は俺の座右の銘だ。 俺のプレッシャーのない言葉に、向日さんはいつもの調子に戻って「いちいちムカつく野郎だぜ」とか呟いている。その姿に、さっきまでの沈痛そうな様子はない。 過度のプレッシャーは疲れるだけだと知っているので、向日さんのそれが薄れた事に少しばかり安堵もする。明日の俺のパートナーはこの人なのだ。試合前に思いつめられても困る。 パートナーである向日さんと俺は相性はよくなさそうだったが、俺はそれでもこの人が嫌いではない。 なので、少しからかう意図を込めて向日さんに声をかける。 向日さんは「んぁ?」と気の抜けた声を発して俺に視線を当ててくる。 「なんで俺、向日さんとこんなとこにいるんですかね?」 やはりわざとらしく視線をめぐらせて周囲の様子をうかがう。 こんなとこ、というのは、夏休みの遊園地。 俺と向日さんは男二人で家族連れや恋人同士が我が物顔で闊歩するデートスポットにいるのだ。周りを見回せばカップルばかりだ。 向日さんは今更周囲の様子を理解したようで、香奈並に顔を赤くさせて「う、うるせぇ!」とどもり叫びながら、立ち上がり円卓を両手で叩いた。 「ここで明日の作戦会議しようって言ったのはお前のほうだろ!」 周りの迷惑も考えずに大声で照れ隠しをする向日さんの様子に、俺はやっぱりこの人のことを嫌いではないなと、そう確認した。 ここのペアチケットを香奈がくれたのだという事実は言わないでおいていいだろう。今日限定のチケットだったのだが、全国大会の前日だと告げると「じゃあ、若にあげる」と少し落ち込んだのだか拗ねたのだかな様子で、必勝と書かれたお守りと一緒に押し付けられた。 勿体無いのでつかってしまおうという意図しかないのだが、やはり会議には向かない場所だったなと確認する。 それでも、俺と向日さんは明日の打ち合わせや、お互いの動きの対応の仕方やサインの確認などを、意地になったようにそこでやってのけた。 そうやって打ち合わせが終わると、すでに辺りは暗くなっていた。 熱中してしまったものだと、向日さんと二人で呆れて笑う。 この季節特有の湿気た空気と気温の高さにべたついた自分の身体に気づいて、向日さんに言う。 「今日は湯船入らないでくださいよ」 俺の言葉に向日さんが不思議そうに大きな目を開いて問いかけてくる。 「体力削られますから。本職の格闘家とかは、試合の前日はシャワーだけで体力温存するんですよ」 ハードな練習をしている場合は、試合前の三日ほどは――最低でも丸一日は――完全に休んだほうが試合の結果が良い事が多い。身体には休養も必要だという事は、身に染みて理解している。 青学の海堂のような人間離れしたスタミナの持ち主ならば問題はないのかもしれないが、俺は鍛えているだけで身体自体は普通の人間の構造をしているし、向日さんもそうだろう。 「へー……アレと一緒か? 試合前の二週間は彼女とヤるなってヤツ」 ……確かに俺も跡部さんにわざわざ香奈の名前を挙げられてそう釘を刺されたが。 大体、中学生の、しかも後輩に向ってそんな事に対しての釘を刺す跡部さんの思考回路が理解できない。おそらく、何かしらの医学的、もしくは経験的な理由があるのだろうけれど。 こんな、何の意図もない向日さんの言葉に揺さぶられる自分が、純情とかいう言葉に当てはめられそうな気がして「さあ……」とポーカーフェイスを装う。 「んじゃ、そろそろ解散すっか。俺、行きたいとこあるから日吉、先帰れよ」 立ち上がりながら、向日さんが言った。 行きたい所がどこかなんて、聞かなくても解かった。 青学との再戦の前日に、行きたい場所など、あそこしか、ない。 「奇遇ですね。俺もこれから行きたい場所があるんですよ」 んじゃ一緒に行くかと向日先輩が笑い、そうしましょうかと返す。わざとらしいほど軽い会話だった。そうして、俺はパートナーとなった向日さんと一緒に遊園地を後にした。 向日さんは俺の目的地を聞くことはしなかった。 俺が、向日さんが行きたい場所なんてすぐにわかったように、きっと向日さんもそうだったんだろう。その程度には、俺と向日さんはパートナーになれているのだと思うと、それは悪くない気分だった。 遊園地から直行したものの、辺りは随分と暗くなっていた。 ここへ向う途中、明日香奈は応援に来るのかとか、そんな話ばかり振られた。向日さんはどうなんですかと聞き返すと、よくぞ聞いてくれましたといわんばかりに惚気話が始まり、それなりに生返事をしていたら途中で向日さんが機嫌を悪くして面倒な事になった。 しかし、この中へ入る頃には向日さんから機嫌の悪さはなくなり「ここだよな……」と軽く靴のそこで地面を蹴るようにしている。確めるような仕草と感慨深そうな向日さんの表情に、俺も悔恨の滲む声で「そうですね」と返す。 そう、ここだ。 俺も、向日さんも。 ここで…… 悔しさが表情に出てしまっている事を自覚した瞬間「ん〜っふわぁ〜あー、よく寝たー」と聞き覚えのある声が頭上から聞こえてきた。 向日さんと一緒になって、思わずその声の元へと振り向く。芥川さんが観客席のベンチから少し驚いたように俺たちを見下ろしていた。 というか驚いたのはこちらだ。 芥川さんの何で居るのかという質問になんで寝ているんだと返した向日さんのやりとりに、苦笑してしまう。 こんな所で寝られるなんて、さすが芥川さんだ。固いベンチでよくも寝られるものだと感心してしまう。いつからこの場所にいたのだろうか。 そんな事を思っていると、鳳と宍戸さんの二人が現れ、その直後に忍足さんまでもがここへやって来た。 結局、みんな考えることは一緒だったのだろう。 俺たちレギュラーメンバーは全員が特別仲がいいと言うことはないけれど、こうやって、同じ場所に集まってしまうほどには、似ているのだと思う。 テニスが好きだということ、青学に負けた悔しさ、明日の青学戦への思い。 気持ちは一つなんて陳腐な台詞ではあるけれど、俺たち氷帝テニス部員は、全員同じ目標に向っているのだと再確認する。 「忘れもしない関東大会一回戦、俺たちはこのコートで青学に負けたんだよな……」 向日さんの言葉に、あの時の悔しさを思い出す。 チビ助に負けた、あの時の悔しさを思い出す。 噛締めた歯が、軋む。 ああ、でも、俺は、氷帝は、おこぼれのような、そんな幸運ではあったけれど、オマケのような扱いで全国大会へ参戦する事が出来た。 もう、二度と負けたくない。同じ相手に、負けてたまるか。 こんな幸運は二度はない。 ならば、今のこの幸運を逃がさないようにしなければならない。 あいつらを倒すチャンスが巡ってきたのだ。 こんな幸運。 俺が負けて、氷帝は全国への道を閉ざされた。 それが、この幸運によって再び道が開かれた。 今度こそ、負けたくない。 勝ってみせる。 「下剋上だ」 その為のパートナーもいる。 明日の試合への気持ちを高めていると、突然頭上から跡部部長の声が聞こえた。驚く間もなくライトに照らされたコートに薔薇の花びらが舞い散る。 観客席に立っていた跡部さんがコートに佇んでいた俺たちレギュラーに向って薔薇の花束を投げつけた。高く投げられたそれは芳香を撒き散らしながらフラワーシャワーとなって振り落ちてくる。 紅い雨のようだ。 なんとも跡部さんらしい激励で、呆れながらも感心してしまう。この人は本当に人の想像出来ないことをする。 跡部さんなりの気合の入れ方。儀式のようなものだったんだろう。 あの跡部さんですら、明日の試合へ向けて、敗北を味わったこの場所に足を向けたのだ。 そのことに、あの日の敗北の味を、また思い出した。 ひらひらと舞い落ちる真紅の花弁を視界に入れながら、必ず勝つと、そう心に決める。 俺が負けたときの、あの時の香奈の痛々しい様子。 次は必ず、勝つから。 勝ちたい。 今しかいないこのメンバーで全国を制覇したい。 もちろん来年以降だって負けるつもりはない。 何に変えても勝ちたい。 もう、負けたくない。 次こそは勝ちたい。 下剋上だ。 俺は勝つ。 勝つ。 ◇◆◇ 香奈と二人で試合会場へ向う電車に揺られていた。 少し前に“来るな”と“行きたい”のやりとりをして、香奈に折れたのは俺だった。 俺たちが、氷帝が勝つことが、すなわち香奈の幼馴染であるチビ助が負けることになると知っているので、やはり青学戦へ応援に来られるのは抵抗がある。 香奈は関東大会で俺を心から応援できなかった事を気にしていて、試合の後、しばらくは負けた俺が大丈夫かと問いたくなるような沈痛な顔をしていたのだ。 けれど、まれに香奈は驚くほど、普段から考えると信じられないほど頑固になる。俺が折れるなどと本当に珍しいことが、こうやってたまに発生する。 ため息が自然と出た。 香奈はそれを何と勘違いしたのか「いい試合が出来るといいね」と言って来た。 勝利の話題に触れられないことに、ちょっとした不快感が生まれる。それを顔に出すと、香奈はぽんぽんと背中を叩いてくる。子供を宥めるような仕草だった。 「大丈夫だよ。勝てるよ。勝てる作戦、あるんでしょ?」 香奈が首を傾げて俺の顔を覗き込んできた。俺は見上げてくる香奈の瞳を見下ろしながら「ああ」と答える。監督の考えた、作戦。 恐らく俺と向日さんは乾さんと海堂に当たる。 一球一球を決め球とし、超攻撃的なテニスをして反撃される前に彼らに不利な短期で決着をつける。合宿で、乾さんには個人的に思うところも出来たし――俺が余所見をしていたときのことを言っている訳ではない――ある程度ならあの人のプレイスタイルは知っている。その為にサインも簡単に理解されないよう緻密に決め、何度も向日さんと合わせて練習をした。 向日さんの癖を覚えて、向日さんも俺の癖を覚えて、有効的なプレイスタイルを築き上げた。ダブルスを組んだ期間は短い上、俺は今までシングルスばかりだった。 だからこそ、パートナーである向日さんと練習に練習を重ねた。人の二倍も三倍も練習をした。 思い通りの、狙いどおりのプレイができれば負けるはずがない。 そう、負けるはずがない。 目を瞑り、乾さんがこう来たらこう返す。海堂がこう来たらこう返す。向日さんがこう動いたらこう動く。そう、イメージトレーニングを重ねる。 隅々まで現実的に、グリップを握る指先の感触、打球を返すときの感触、乾さんのパワー、予測を裏切るためにフェイクを多く使い、動きはトリッキーに、不規則に。向日さんのムーンサルト。そのときの俺の立ち位置。ボールの処理の仕方。足の踏み出し方―― アリーナ最寄駅で香奈が「降りよ?」と手を引いてくるまで何度も何度も頭の中でそれを繰り返した。 会場へ向いながらも気持ちを試合へと向けて集中を煮詰めていく。 道順や人波などの煩雑なものはあまり気にせずにすんだ。香奈が俺より半歩前を足早に歩いて氷帝レギュラーのいる場所へと案内してくれているからだ。そんな事をしてもらわなくても大体の場所はわかるけれど、試合前は出来るだけ試合そのものに集中したかったのでありがたいのと、俺の前を歩く小さな背中が新鮮なのとで少し気がそれてしまった。 俺が試合に集中している事を理解しているのか、香奈は一言も声をかけては来ない。 そんな事を気にもせず、俺は頭の中でイメージと確認を繰り返す。 機械的に反射で足を踏み出していると「若」と控えめに名前を呼ばれる。視線を上げると二十メートルほど先に既に跡部さんと樺地がその場所に居た。 「悪いな。行って来る」 それだけ言い跡部さんの方へと足を踏み出すと「若」とまた呼ばれ、香奈を振り返る。香奈は軽く手を上げた。 「いってらっしゃい」 微笑んで言われたその言葉。俺に比べればかなり白い華奢な、小さく上げられたその手に、俺は自分の右手を音をさせて軽く打ち合わせた。 「勝つから」 「うん」 笑ってうなずく香奈と、今度は軽く拳を合わせた。 あんな気持ちは二度と味あわない。あんな屈辱はもういらない。あんなに悲しいことは、悔しいことはあれきりで充分だ。 香奈にも、関東大会のときのような気持ちを強いたりはしない。 「香奈、俺は、必ず、勝つから」 自分に言い聞かせるように口に出した。 そう、俺は絶対に、青学に、もう二度と負けない。 誇りも、自信も、栄光も、全て捨てても、負けない。 何を捨ててでも、必ず、勝つ。 俺は必ず勝つ。 |