欲張りなキミ
 兄と喧嘩した。
 久しぶりだった。
 稽古ではなく、喧嘩。
 道場の後継ぎである兄は、俺にはない……安い言葉だが、苦悩や葛藤があるのだろう。それは俺にはわからない。
 けれど、俺の気持だって兄にはわからないはずだ。
 すれ違って、意見が合わなくて、お互い口論から苛々としだして、先に手を出したのがどちらだったのかは解らない。
 俺は俺なりに必死に生きていて、家族だからといって、それは兄が否定できることではないし、
 兄は兄なりに必死に生きていて、家族だからといって、それは俺が否定できることではない。
 そもそも否定するほどの、無理矢理矯正させなければいけないほどのこと柄なんて、なかった。
 結局、端的に言ってしまえば、お互い、虫の居所が悪かったんだろう。
 言わなくてもいいようなことを言ってしまったし、謂れのないことを言われてしまった。
 お互い、頭に血が上っていた。
 冷静でなかった。
 父に三発ずつ、俺も兄も殴られて、兄は説教の為に道場へと引っ張られ、俺は頭を冷やして来いと放り出された。

 遠くにオレンジ色の光が見える。太陽は沈みきっていて、公園のベンチは冷たく、街灯は煌々と光っていた。
 俺の頭は喧嘩が終わった瞬間から即座に冷却されて、今回の喧嘩のことを処理しようと高速稼働していたのだけれど、それでも、すこぶる悪い気分を、この頬を撫でる風がすべてどこかへ運んでいってくれればと、くだらないことも考えていた。なんて空想的な想像なんだ。笑う気も起きない。
 空を見上げて、溜息を吐く。時計を持ってこなかったことは失敗か。
 両親の兄への説教は二時間はかかるだろうから、時間が計れないときつい。両親は俺にそんなことはしない。俺は次男だから。長男とは違う。兄とは違う。期待も手間隙も愛情も、なにもかも兄の次だ。それを拗ねる気はない。拗ねているつもりではない。それはそれで良いこともあるのだから。けれど、喧嘩となるとそんなどうでもいいことを引っ張り出しては相手を攻撃し傷つけるナイフにしようとしてしまう。ペーパーナイフ以下の、ネズミの牙のような、そんな些細な武器に。する必要は、本当はないのに。少なくとも今日の喧嘩では、なかったのに。
 自然、没頭するように、ただただ、愚痴愚痴と思考を整理する。

 そう。
 俺は俺なりに、頑張っていて。兄には甘えていると思われてしまっていたけれど。俺は俺なりに努力していた。せめて、今まで頑張った自分を、自分で認めてやらなければ惨めで仕方がない。
 明日からはもっと。もっと。もっと。もっと。
 強くなりたい。
 テニスも、古武術も。
 負けたくない。
 兄にも、父にも、跡部さんにも。
 負けたくない。負けたくない。負けたくない。負けたくないんだ。

 解ってる。心の隅では、認めている。兄の言葉を。
 現状に甘えていた自分のことを。
 道場の息子で、跡取ではないものの、父は厳しかったものの周りには甘やかされていたし、努力をすれば、何でも手に入っていた。成績だって、テニス部での地位だって。道場での立場だって。全部。

 だが、俺は諦める努力をしていただろうか。
 諦めない為の努力は惜しまなかったけれど。
 でも、諦めたくない。全部諦めたくない。全部手にしたい。そう思って努力するのが悪いことなのか。
 ――ちがう、多分、俺は多分、自分の容量を知らない。
 自分に何ができるかを知らない。
 自分がどこまで手に入れられるのかを知らない。
 それでいて、兄のように、したくもない愛想笑いをしたことがあっただろうか。
 誇りを折るようなことをしただろうか。
 ああ、きっと、きっと、こんなぐちゃぐちゃした思考はそのうち消えてしまうのだろうけれど。
 こんなくだらない思考……こんな、まとまりのない妄言。
 ああ、でも、悔しい。
 俺は兄に負けた。
 悔しい。






「若」

 幻聴、じゃ、ないな。

 顔を上げる。軽そうなコンビニのビニール袋を手にした香奈が驚いたように俺の方へと駆け寄って来ているのが見えた。
 デートの時とは違う、飾らない私服姿で、それが、とても自然体で似合っていて、口には出さないけれど新鮮だなと思った。
 無意識に香奈の家の方へと歩いていたらしい。
 いや、香奈の寄ったコンビニが俺の家の方面だったのか、どちらだろう。
 俺と香奈の自宅は駅で数駅分は離れているのだが。最寄駅の路線も違う。まあ、いいけれど。この偶然は喜んでいいのか悪いのか。縁があるということなのか。
「どうしたの?!」

 近くまで来て、俺の怪我を見止めたらしい香奈の心配そうな高い声に、煩わしく手を振る。
 香奈は俺の行動に一瞬たじろいだけれど、手にもっていたコンビニ袋から250ミリリットルの小さなペットボトルを取り出し赤くなっているだろう俺の頬に押し当ててくる。冷たくて、思わず体が一瞬震えた。
「どうしたの? 稽古、とか?」
「稽古……いや、喧嘩」
 何で、お前が泣きそうな顔になるんだか。本当に変な奴。この痛みも感情も全て俺のものなのだから、お前には関係ないだろうに。
 苦笑しようとして、だが、あまりにも疲労していた身体は、それを実行してはくれなかった。
 俺の隣に座った香奈は心配そうな視線を送ってくる。それが、とても居心地悪く感じて、視線を落とす。別に香奈は俺を責めているわけではないとわかっているけれど。居心地が、悪い。

 私服のまま取っ組み合ったのだから、喧嘩、なんだろう。
 やはり、兄は強い。強すぎる。
 跡取としての自覚が、そうさせているのだろうか。覚悟が、違うのだろうか。
 悔しい。 単純に。 悔しい。
 けれど、年下の弟に全力で技をかける所だけは、兄も多分に子供だ。ま、世の成人式を見てみると成人というのも恐ろしく子供のようだし。兄は冷静という仮面を被っているだけで、その実激情家だ。俺の悔し紛れの厭味に、我慢できなくなるほどの。
 深く息を吐く。

「が、がんばって」

 何をだよ。

 喧嘩の理由を尋ねることもせず、激励してくるのに笑うと、腹部に痛みが走って咳き込んでしまう。香奈が泣きそうになりながらせわしい仕草で隣に腰掛けて、俺の様子を見ていた。
 咳すると腹が痛いので、それを噛んで堪えていると小さな手の感触を背に感じて、それだけで愛しさというのか、言葉にすると赤面しそうなものが胸を満たす。何と言うのか、ああ、俺は、本当に香奈が好きなんだな、と思う。実感する。ぐちゃぐちゃの思考の糸が、縺れあっていたそれがゆっくり解けていく。小さな掌の熱に、冷静さが、引き戻されて、落ち着いた、の、だと思う。

「頑張る」
 今日は飯は喰えないなと感じながら、香奈の訳の解らない言葉に返答をやる。
 うん、でも、ああ、頑張ろう。答えた瞬間に、そう思った。思えた。
 頑張っていたけれど、今まで見ていなかったことを頑張ろう。今まで気付けなかったことを頑張ろう。そんな、やる気みたいなものが湧いてきて、胸がすっとした。風が全て運び去ったような、清々しいような、そんな気持だけが残る。
 頑張れという言葉が無責任だと、有田は余り好きではないようだったし、俺自身も、一部の人間のように他人に努力を押し付ける言葉だと毛嫌いするほどではないが、特に好感情も持っていなかったけれど。俺は、今日、がんばれ、という言葉が好きになったかもしれない。なんというか、そう、頑張ってやろうじゃないか、と。
 落としていた視線を香奈に向ける。
香奈
 俺の人生初の彼女の香奈を見る。
 呼ばれた香奈は、おそらく人生初の彼氏だろう俺を見る。
 俺たちは恋愛に疎い。大胆にいかなければ、相手に伝わらない。
 周りに人っ子一人いないことを視認してから香奈の手を握る。

香奈、俺は今から目を瞑る、がっかりさせるなよ」
 言って、目蓋を落とす間際に、何かを言いたくて、でも言えない、顔を赤くした香奈の表情が目に入った。理解できたようで何よりだ。伝わっていなかったら恥をかく所だった。……いや、これで通じなかった場合は香奈が恥をかく所だったのか。どっちでもいいけれど。いや、よくないな。
 凄いことを言っている自覚はあったけれど不思議と恥ずかしくはない。そして視界は闇一色。見えるのは目蓋の裏。そんな状況が暫らく続いてから、俺の隣に座っていた香奈の動く気配がし、そっと、唇に柔らかい感触が降ってきた。すぐに離れようとするそれを留める為に、少しばかり強引に顎を掴むと、小さく驚いた声を漏らされる。握っていた手に力が込められたことに気付く。

 そのまま、強引に唇を合わせ、噛締められた唇を懐柔する為に舌先で慰撫すると、開けるものかと更にきつく唇を閉じるので、こちらも強引にねじ込んだ。しかし、食いしばった歯に阻まれて思うように動けない。一度唇を離して、顎を捕らえていた手を離して、香奈を見る。
「こ、ここ、外だよ……外なのに! なにかんがえてんの……!」
 真っ赤な顔で睨まれても怖くも何とも無いけれど。
 必死に訴えてくる頬を撫でていると少しからかってやろうと言う悪戯心が湧く。

「先にしてきたのはそっちだろ?」
 揚げ足を取るように少し意地悪気に言いながら人差し指でそっと唇を撫でてやる。香奈は、物凄く恥ずかしそうに俺を睨んできた。今日の俺はいつもより大胆だな、と自分で思ってしまった。喧嘩したあとの恋愛事は、こんなふうに大胆になってしまうのだろうか。わからない。けれど、まあ、悪くない。
「だっ……それ、若、が……!」
「俺はキスしろなんて言ってない」
 似たようなことは言ったけれど、考えて行動に移したのは香奈だ。なんて、まるで子供のような屁理屈。
 それでも、香奈は言い返せないらしい。きちんと正解を選び取ったのに、俺にからかわれて、可哀想に。いや、俺は楽しいけれど。まあ、俺はマセガキらしいし、香奈は年齢並に子供だし、仕方ないといえば仕方ないということにしておこう。
「……で、でも……ッ〜〜……!」
 ぎゅう、と先ほど俺の頬を冷やしていたペットボトルを握り締めて肩を怒らせ、それでも俺の手を振り解かない香奈を見て、思わず顔が綻ぶ。

「ぅ  ゎ らぅ なぁ ぁあ ぁあ ぁぁ〜〜……っ」

 興奮か、恥ずかしさか、香奈の声がひっくり返っていた。その様子に喉を潰して笑うと、香奈が本気で泣きそうになっていた。これ以上からかって泣かれるのも困るなと手を離してやる。キスをしてくれなくなったら困る。自分からする方が好きだけれど、されるのも悪くないな等と俺が考えていることがばれたら、なんだか解らないが香奈が怒りそうな予感がするので、無言。
 先に少し笑ってしまった所為で、また腹に痛みが走った。ゆっくりと息を吐いていると、それを見た香奈が、怒ることも忘れたのか、また心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「大丈夫? 怪我したの?」
「いや……腹を蹴られただけだ」
「け、蹴ら……?」
「喧嘩したって言っただろ」
 香奈は喧嘩といっても、多分、俺と兄のような肉弾戦はしないのだろう。馬鹿正直に驚いた顔をしている。
 まあ、確かに、俺と同程度に身長のある香奈の御兄さんが香奈を蹴ったら、それは喧嘩ではなく虐待だ。通報と保護が必須だろう。
 兄も、あれで手加減をしないので、香奈位だったら内臓破裂とか骨折とかさせられるんじゃないだろうか、と想像して頭が痛くなった。
 腹部の打撲に、どうしていいのか解らないのだろう香奈。そっと手を伸ばしてくるが、触れるのを躊躇って困ったように見つめてくるその仕草に、笑みを堪える。
「平気だから」
 飯は喰えないだろうけどな、と心の中で続け、そのまま香奈の手を掴んで俺の身体から離させる。
 そうされると、何を考えたのか、香奈

「痛いの痛いの飛んでいけ〜……あっちらへんに!」

 と、訳の解らないことを言いだした。あっちらへん、と何やら力強く言いつつ上空を指差していて、一瞬言葉の意味が解らなかった。二瞬目に”あの辺り”という意味だと理解した。その姿に自然と溜息が漏れてしまう。本当に馬鹿だ……馬鹿なのに、可愛いんだよな。俺ももうどうしようもない。勿論というか、この場合は残念ながらというべきか腹部の痛みはあっちらへん(左斜め上空)に飛んではくれなかった。
 俺の哀れみを多分に含んだ視線をどう思ったのか慌てて言い繕う香奈
「あ、うちに湿布あるよ? 来る?」
「いや、大丈夫だ」
 即座に断ると、香奈は小さく頷いて、それ以上何をするでもなく隣に座っている。
 しばらく無言のままでいたのだけれど。

「帰らないのか?」
 聞くと。

「若が帰るまで一緒にいる」
 言われた。

「馬鹿、遅くなるぞ」
 兄の説教が終わるまで、まだ一時間はあるだろう。
「ん、でも一緒にいる。……――! や……ん、か、える。やっぱり帰るね。また明日」
 慌てて先の言を取り消して立ちあがる香奈の手を反射的に掴む。
 考えていることが、何となく解ってしまったから。馬鹿だな、本当。
「邪魔じゃない」
 邪魔な訳がないのに、何を心配しているんだか。
 邪魔な時は、俺はいつもはっきり言うだろう。
 誤解させて帰らせるのは嫌で、思わず引き止めてしまったけれど。
 きょとんと見開かれた瞳が俺を見ている。

「居たければ、いればいい。送ってやるし」
 香奈は、俺の言葉に、嬉しそうに少し笑った。
 これじゃ、一緒にいて欲しいみたいじゃないか。恥ずかしすぎるだろ。馬鹿だ、俺。夜でよかった。たぶん、これ、顔に出てるだろうから。若は照れると耳が赤くなるよねと、何だか幸せそうに言われたことを思い出した。
 自分の言動の恥ずかしさに頭を抱えたい気分になっていると何の脈絡もなく抱きつかれ、軋む身体で受け止める。今日は香奈も大胆だ。香奈は素直だから、いつも俺の感情や雰囲気に引き摺られている。
 なぜか抱きついている香奈に頭を撫でられた。そして

「がんばれ、若」
 なぜか激励。
 俺も何故か
「ああ、頑張る」
 なんて頷いてしまう。

 本当に、何のことなんだか。
 けれど、香奈に会えたことは俺にとって良かったことのようだ。
 兄のことを、自分のことを、一つ理解した日に半ば強引だったとは言え思いがけないキスを一つ貰えたのだから。
 いや、
香奈、俺、また目瞑るから」
「え、わか、ちょ、まっ、えっえぇぇぇっ?」
 二つ、か。
 目を閉じてしまったので、見えはしないが、手を握られて逃げられない香奈はきっと今、赤い顔をして慌てふためいているのだろう。
 そんなことを想像しながら、帰ったら、兄に「言い過ぎてすみませんでした」と「指摘してくれてありがとう」を、誠心誠意伝えようと心に決める。
 けれど、今は、やっとのことで決意したらしき可愛い彼女のやわらかい唇と、恥ずかしそうにキスをしてくる愛らしい仕草を堪能することにした。
 思いがけないキスは、もう少し増えそうだ。