現実感のないお話
 若は、私の手を小さいと言う。
 でも、私にとって私の手は普通で、でも、みんなが小さい小さいというから、小さいんだなって納得した。

 でも、私は小さな手は嫌いだ。

 他の子はもっと沢山のものをつかめる。それは、幸せなことだ。私は、だから、人より少ない幸せしかつかめない、ということだと思う。
 足が長ければ速く走れる。速く走れれば、みんながすごいと言うし、たとえば同じチームだったら、期待もされるし、喜ばれる。でも、私は脚も短い。だから速く走れないのに、それに、運動も得意じゃないからもっと速く走れない。
 面白いことも喋れない。だから、私には、まどかちゃんくらいしか良く話す友達が、そんなにいない。別に虐められて無視されてるわけじゃないけど、あんまり、そんなには話さない。まどかちゃんがいないときには、みんな、普通に誘ってくれたりもする。

 私のいいところってどこだろう。

 料理だって、普通だし。別に上手ではない。
 絵だって、特にうまいわけじゃない。
 スタイルが良いわけでも、顔が良いわけでもない――や、別に悪いとは思ってないけど。普通だと思う。少なくとも、私はそんなに私の顔は嫌いじゃないし、まどかちゃんみたいに綺麗だったらいいなって、たまに思うけど、でも、嫌いじゃない。
 勉強だって、普通だし――本当に普通だし。
 何かに一所懸命な頑張りやさんでもない。
 優しいわけでも面倒見が良いわけでもない。
 明るいわけでもない。暗いわけでもない。

 若は、私のどこが好きなのかな。

 部活は休みの水曜日なのに、テニススクールでがんがん練習した休憩時間に、ベンチに座った私の隣に座りながら、若が溜息をついた。
 私は、見学という名目で、コートの傍のベンチに案内されて、簡単に入会? 入門? 入学? の説明を受けたけど、週に二日の塾と、月に二回の美術教室で、もう無理無理な状態だから「色々考えてみます」って答えて終了。
 そう考えると、若は毎朝古武術して、ほとんど毎日部活かテニススクールでテニスして、帰ってまた古武術したりって、すごいなぁ……体力無尽蔵?
 テニススクールというか、室内コートは、大きな倉庫みたいで、天井が高くて、鉄骨みたいなのやコンクリートみたいなのが天井に見える。とても広くて、五面のコートがスッポリおさまっていて、なおかつ、下の階にも同じく五面のコートがあって、ロッカールームがあって、受け付けカウンターがあって、テニスグッズとか売ってて、外には八面のコートがあるそうだ。インストラクターも写真付きで煌びやかな経歴だった。さっきのパンフレット参照。
「おつかれさま。飲む?」
 タオルで汗を拭ってる若にスポーツドリンクを差し出すと、若は無言で受け取って一気に飲み下した。
 若は、スポーツドリンクのペットボトルを半分ほど空にすると、目を瞑った。私の言葉は完全に無視だ。いいけど。こうやって、私が見学をすることを許してくれたこと、こうやって休憩の時には隣に座ってくれること、それだけで、若が私を嫌ってないってことはわかる。
 でも、どうして、とも、思う。

 若は、集中していたいみたいで、呼吸をちょっと変わった感じで整えてる。こんなに打ち込めて、好きになれるものがあるのは、すごく素敵なことだと思う。それに、とても羨ましい。
 私には何もないなぁ、って思うと、凹んじゃうから、考えないように、目を瞑った若の横顔を眺める。
 かっこいいんだけど、でも、お兄ちゃんとか先生とかみたいに、男の人! って感じが、薄いというか――女の子っぽいわけではないけど。肌も綺麗で睫毛も長くて髪の毛は薄い茶色で、体型は、チョータや樺地くんみたいにガッシリはしていなくて、どっちかというと、たぶん若はコンプレックスに思っていそうな、ちょっと細い感じ。
 唇は全体的に薄いけど上唇の真ん中がちょっとふっくらしてるから、それが少し女の子っぽいかもしれない。(これを色っぽいと言うのかも知れないけど、それは、ちょっと恥ずかしいから)
 でも、顎はちょっと尖ってて可愛げとかはないし、ほっぺたもすっとしてて、つまもうとしてもあんまりちゃんとつまめないんだよね。まだ中学生なのに、幼さとか可愛げとかが、若にはすごく少ない気がする。でも、だから、それをたまに見つけるとすごく幸せなんだけど。
 汗で張り付いていた前髪は、若がタオルで適当に拭った所為で、ちょっとぐしゃぐしゃな感じで後頭部に向かって張り付いてる。それでも、ストレートなその髪は、パラパラと湿ったまま若の額にかかってくる。
 なんか、好きだなぁ、って思う。
 ほっとかれてても、それ自体は、別に何でもないって思えちゃう私は変なのかもしれないけど。一分ちょっとくらい、若はそうしてて、それから目を開けると、はぁって大きく呼吸した。
「暇だろ?」
 急に聞かれて「ううん」って反射で答えると「香奈って変な奴だよな」って言われた。下剋上が口癖の演武テニスが得意な人に言われたくないと思う。でも、そんな人が大好きな私は、うん、きっと変だ。
「今やってたの、なに?」
「脈と呼吸を整えてた。鼻で二秒吸って、一秒止めて、口で四秒で吐く」
「へええ……ヒッヒッフーとかはよく聞くけど」
「……それは違う」
 若は、また大きく溜息をついた。溜息と言うよりも、酸素を貪っている感じ。汗で湿った若の手に触れると、若が何か言おうとした。けど「気にしません」と先手を打って、言ってから、若の手のひらを観察する。
 手の甲の指の付け根は肌理(きめ)なんて知ったことかと言うような、格闘技をする人特有の平らな感じと、普通は拳を握ったときにできる第一関節の盛り上がりが、そのままで、かさぶたと割れた皮膚の上に乗っかってる。
 手のひらは、指の付け根には胼胝(たこ)とか肉刺(まめ)の潰れたのとかがあって、厚くなった皮膚の一部は黄色く変色している。それでなくても、他の人とは比べるべくもなく、指先から、手のひらまで、鍛えられた皮膚は、厚くて硬い。百度を超える熱い物でも、若なら五秒くらいは余裕で持てそうな感じ。

 努力家の手だと思う。

 若と同年代の二年の選手はチョータと樺地くんが突出しているけれど、その二人はどちらかと言えば、上背もあるから、パワーもあるし、若だって小さいわけじゃないけど、でも、質量の差というのは大きい。彼らのボールを打ち返すためには、こういう手じゃなきゃいけないんだろうな。
 もにもにと若の手を触っていると、若がまた「変な奴……」と呟いた。悔しいので、そのまま手のマッサージに移行。知らなかったけど、手も凝るらしくて、絵をいっぱい描いた次の日とか、手の中心から放射線状に痛みが走ったりする。適当に揉むと気持ちいいので、それを若にもやってみる。若はめずらしく嫌がらないで私にされるままに大人しくしてた。ちょっと不思議で、でも、他の人の練習をじっと見ている若の横顔は、ちょっと可愛い感じ。
 学校のテニスコートの横でだったら、絶対にこんなことさせてくれない。スクールだと、気にならないのかな。よくわからないや。若は、自分の練習の番になると何も言わないで手を振って私の手を払いのけた。テニスモードだ。
 プロ選手を何人も育てているというコーチに、順番で指導してもらっているようだけれど、教わっている子は、若も含めてみんなうまいと思う。欲目も入れれば、若が一番うまいと思う。

 練習が終わった若は、めずらしく電車の中でうとうとしてた。
 そういえば、若が照れなかった理由は、私の事を従姉妹だと説明してたからみたいだった。こういう時、怒るべきなのかな、とかも思うけど、でも、若のそういう、変なトコで照れやというかシャイというか、そんな感じが可愛くて、話を合わせてみたりした。
 若に抱きつきたいなぁ……。
 しないけど。怒られそうだし。
 若は座席に座るとき、私を端っこに座らせて、その隣に座る。不思議だけど、若が端っこに座ることは、すくなくとも私が一緒の時は、ない。なんでだか、よくわからないけど。よくわからないけど、好きだなぁっておもう。若がこうやってとなりにいると、幸せだなぁっておもう。
 なんだか、私も眠くなってしまった。
 電車の空調は、熱くも冷たくもなく、心地良い。

 苦あれば楽あり。

 天国地獄大地獄。地獄が多いような、気がする。ヒヨシワカシは大地獄だ。貧乏大臣大大臣だったら大大臣。王様姫様豚乞食だったら姫様。他のバージョンはしらないけど、もっといっぱいありそうな予感がする。
 うん、思考を逃がしても仕方ない。
 うん、ここは、千葉の海だ。
 うん、今は夜九時だ。
 うん、それが現実。
 若は、大嫌いな食べ物を胸焼けするまで食べさせられたような顔をしている。
 ママから携帯に電話がかかってきて、それで起きた私は、勝浦の海を見ている。や、勝浦の駅ではないけど。たぶん、そのあたり。
 携帯で風景を写メって、今から上りの電車に乗り換えるからって連絡すると、若も同じようなことをご両親に連絡してた。隠しても仕方ないので、正直にお互い一緒にいることも言った。あとでばれて、変な誤解をされるよりきちんと説明した方がいいって、若が言うから、素直にいうことを聞いてみた。

 上りの電車に乗ったけど、時間が時間だし、ガラガラだった。
 一つの車両にどころか、この電車に、私達しか乗っていないんじゃないかって、思うくらい、シンとしてる。蛍光灯は、真っ白なのに、いつもと一緒なのに、舞台上のライトみたいな、日常じゃないかんじがする。非日常? ――は、ちがうかも。ちがう。なんというか、現実感が、ないかんじ。眠いときの、けれど眠る寸前の、あの、意識と無意識の狭間が、ここにいるような気がした。
 四人が向かい合って座れる座席で、私の前に座った若はじっと窓の外を眺めてる。私も一緒に外を眺める。
 山の中とかは、ほとんど明かりがなくて、なんとなく、新鮮だ。暗い黒い闇の夜は、けれど、危ないから、私達の家の周りでは駆逐されかかってる。だから、新鮮。電車の外が暗いのも、普段とは違うから、まるで、人形劇の操り人形になったような、不思議な作り物のような感じがある。
 ああ、たしかに、ここはいつもの、私達の日常のいる場所じゃない。
 人間の服を着た黒猫や、白兎が、今にも車両と車両とを繋ぐドアを開けてひょっこり出てきそうな、そんな感じがする。
 唐突に、電車から降りて海に行きたくなった。
 それだけ。
「このまま、どこか行ってみたいね」
 そう言ったら。
「どこに?」
 って、意外な答えが返ってきた。馬鹿とか、何考えてるんだとか、言われるかと思ったのに。ちょっと嬉しい。こんな無意味な話に若がのってくれるなんて。
「どこがいいかなぁ……ていうか、この電車が空飛んだら面白いよね」
「銀河鉄道かよ」
 そうそう、って頷くと「香奈って本当に変だな。それに俺はあまりあの話は好きじゃない」と言われてしまった。
「んー、注文の多い料理店は?」
「変な話だ」
「ツェねずみは?」
「覚えてない」
 会話が終わってしまった。ガラーンとした電車の中は、がたんごとんと走る音以外のしないこの空間は、一言で言うと不思議空間。現実じゃないみたいな、不思議な感じがする。電車は動いているのに、空気が動いてないみたいな、不思議な感じ。ずっとずっと、このままなんじゃないかって、錯覚しそうになる、変な不思議空間。
 不思議空間に、若と二人。
 現実(リアル)現実感(リアリティ)は違うという。この場所は現実なのに、少しも現実感がない。私だけなのかな。若はどうなんだろう。真っ暗な、人語を喋るコウモリが張り付いてきそうな、真っ黒な窓の外を、若は眺めてる。電車の中が明るいから、鏡のように、その端整な顔が鏡面に映る。
 声を上げた私に、若が怪訝な、胡乱な瞳を向けてくる。
 私は、この状態にそっくりな状況を思い出して笑ってしまう。
 そうだ。これ、このかんじ。お昼ごはんの後の、数学や地理の授業の時の、ちょっとだけ眠い、周りのクラスメイトもぽつぽつと眠っている、暖かいお昼の、かんじ。右脳と左脳が仲たがいをして、片方が眠っているのに、もう片方でぼんやりと黒板を眺めてノートを取っているときのような、けだるい感じにそっくりだ。
 今の方が、ずっとずっと、不思議な感じが強いけど。

「ね、若は、私のどこが好き?」

 不思議空間の恩恵を受けて、聞きたかったことを聞いてみる。
 まだ、頭はちょっとぼんやりしてて、現実感は、やっぱりない。
 こんな夜遅くに、若と二人きりなんて、とても不思議。
「そういうのは、言葉にするとなくなる」
 照れた様子もなくって、若は淡々と答えた。それで、若も、私とは違うかもしれないけど、今の非日常的っぽい感じの不思議空間の中を漂っているんだとわかった。
「哲学的じゃないね」
「そう……口にしないで守る。まあ、呪いの一種だな。言霊だ」
「そっか。私にはわからないけど、一応、あるんだよね?」
 私の好きなところ、と言葉の中に含めて聞くと、窓の外を眺めていた若は、ちらりと私に瞳孔だけを向けた。そのまわりの薄い茶色の虹彩が綺麗だとおもう。
香奈は、どうしてそんな事を聞く?」
「わからないから、知りたいなって」
「知ってどうする?」
「私の心に平穏が訪れます」
「思い込みだ」
 バッサリ。言葉を切り捨てるのは、若はとても上手だ。でも、今の若の声は、いつもの硬質な感じが全然なくて、けだるそうな、ぽってりした感じさえする。昼寝中の猫のような。
「平穏の次に、また別の不安ができる。くり返しだ」
 若は、また窓の外を眺めた。月は、雲を照らしていて、その姿は見えない。若も、不安に思ったりすること、あるのかな。そう、思ったら「私は、若の好きなとこあるよ」って口が勝手に言ってた。
 若は、けれど私のその言葉を無視した。
 そうして私は、またうとうとしてしまって、けれど「香奈」と若に呼ばれて顔を上げる。若が、軽く自分の座席の隣に視線を落とした。
 なんだか嬉しくなって、若の隣に座る。寄りかかっても、若は何も言わなかった。外は、真っ暗。終電には、きっとぎりぎり間に合う。そう思ったら、なんだか、色んなことがどうでも良くなった。だって、今、隣に若がいる。とりあえずは、それで充分。
 人間の言葉を話す、お洋服を着た黒猫と白兎とこうもりが、夜の向こうで、みんな好き勝手に歌いながら永久のダンスしてるような気がした。