馬鹿犬と愛想の悪いハムスター    ※日吉があまりにも彼女に馬鹿連呼しすぎ注意。
 日本人は犬好きが多いらしい。
 確かに、それはペットショップを見れば一目瞭然だ。小部屋に仕切られたショーケースの中で小型犬の仔犬がわさわさと居り、猫は隅の縦長区画に数匹隔離されているのみだ。片手指で数える必要すらないことが多い。
 宍戸さんも、愛犬の写真を馬鹿みたいに撮っているらしく、朝は弱くとも犬の散歩の為に早起きを欠かさないらしい。
 どうでもいいけれど、忍足さんの言によればオタクと呼ばれるタイプの人には猫好きが多い。らしい。(ここからツンデレブームとやらと猫の関係について延々と話されたのだが右から左でよく覚えていない)
 犬は人に、猫は家につく、とよく聞くけれど。

 香奈は犬タイプだな、と思う。

 俺の部屋で、幸せそうに俺の隣に腰を下ろして笑う香奈は、今日はとても上機嫌なようだった。香奈の機嫌がいいのは俺にとってもとても好ましいことで、軽くその頭を撫でてやるとやはり幸せそうに笑う。香奈の背後にぶんぶんと風を切り音を立てて振られている尾が見えそうな気がする。
 どうして、この馬鹿はこんなに俺が好きなのだろうか。
香奈
 呼びかけると、机と箪笥と押入れしかない殺風景な部屋がまるで天国でもあるかのように、驚くほど嬉しそうに香奈は笑い「なに?」と期待に満ちた視線を向けてくる。興奮気味、と言って差し支えないほど、無駄に幸せそうだ。頭が悪そうな笑顔だ。
「お手」
 命令してみる。
 香奈は俺の言葉に不思議そうに首を傾げながら、それでも俺のかざした手のひらに、軽く握った手をちょこんと置いた。
 やはり、犬だ。
「おかわり」
 もう一度言えば、香奈は一瞬より長く俺の顔を見つめた後、おずおずと、俺の手のひらの上に置いた手を退け、もう片方の、やはり小さな手を、ちょんと触れる程度に乗せた。
 それ以上のアクションをしないでいると、香奈は傾げていた首の角度を更に急にして、再び「なに?」と聞いてきた。
 お手がきちんとできた犬には、何か褒美をやらないといけないのだったと思い出して「茶、貰ってくる。茶菓子は何がいい?」と聞くと「お茶いらないからここにいよ?」と媚びるように甘えながら、あぐらをかいた俺の脚の間に腰を落ち着け、俺の顔を見上げてきた香奈は、本当に何がここまで彼女を幸せにしているのだろうか、と思うほどの笑顔だった。
 可愛いと思うよりも、馬鹿だな、と感想が浮かんでしまう笑顔だ。

香奈
 呼びかけて。
「伏せ」
 言うと。
 今度はさすがに不思議そうな表情に寄せた眉もプラスされた。
「私、犬じゃないんですけど」
「犬みたいなもんだろ」
 不服そうな香奈の喉元を猫にするようにくすぐってやりながら言うと、香奈は「猫でもないです」と少しばかりむっとした声で言ってきた。
 けれど、撫でる手をとめることはしない。やめろと言われないので、俺も何となく面白くなって、その白い喉をなで続けていると香奈は「にゃあ?」などとふざけだした。
 その反応に少し冷めた俺は、撫でることを止めて、手を畳の上へと戻す。
 俺が、にゃあ、という言葉に冷めたことを悟った香奈は、今度は「わん?」と言い出した。ああ、香奈は本当に馬鹿だ、としみじみと思う。
 しばらく香奈がどうするかと無言でいると「きゅぅん?」と変化球で来た。次は鳩でも来るかと思ったのだけれど。
「うさぎの鳴き声は?」
 ふと思い立って俺が聞くと香奈は自信満々に言い放つ。
「きゃあああっ!」
 ……間違ってないか、それ。
 俺の訝しい視線に香奈は「飼育係でうさぎの世話をしてたときに、うさぎがきゃああって言ったんだよ。女の人の叫び声みたいに」と説明を始めた。
「――うさぎに声帯はないぞ?」
 突っ込む。
「でも、ホントにきゃああって言ったんだって!」
 うさぎが悲鳴を上げるなど聞いたこともない。そもそも、悲鳴を上げる動物であれば、動物実験に大量に使われて殺されたりなどしないし、鳴きうさぎには何の価値もなくなる。
 しかも、声帯のない動物の鳴き声を訊ねたことに、何も違和を感じていないようだった。

 ああ、こいつは馬鹿だな、と思う。

 テニス部内で理想の彼女とかそんなものを語っていた連中がいたが、女は馬鹿な方がいい、と結論がついていた。
 確かに女の馬鹿なところは程度こそあれ可愛いものなのかもしれないし、女に頭脳でも体力でも、とにかく何でもいいが、負けているというのは男としてはあまり好ましいものではないだろう。まあ、屹然とした女王に奉仕したいというタイプもいるようだが、多くはないだろう。
 俺は馬鹿な女よりも、馬鹿のふりが出来る賢く聡い女のほうが良いと思うけれど。実際の彼女とやらは、今俺の脚の間に腰を下ろして本気で頭が悪そうににこにこしている正真正銘の馬鹿だった。
 確かに、馬鹿な香奈は御しやすい。頭が悪い馬鹿ではなく頭が軽い馬鹿なのではないだろうか。若さ故の馬鹿さと、社会を知らないゆえの馬鹿さがある、と誰かが言っていたが、香奈はその二つを兼ね備えてなおかつ、性格上、馬鹿な気がする。

 香奈は、自己管理も自分なりにしているようだし、勉強も成績は普通とは言え、授業中に寝ることも少ない、美術も料理も飛びぬけてうまいわけではないが手先は器用で、細かい作業はそつなくこなす。それでも、馬鹿だと思う。
 性善説を心から信じていて、他人を傷つける意思を全く持っていないため、自衛しない。自分が他人を傷つける気がないから、他人が自分に対してそう思っていると考えつかない。そういう馬鹿さだ。自分の利益よりも、自身の信念めいたものを選んでしまう要領の悪さもある。女は同時に二つも三つものことをやれると言うが、香奈は慣れたことでなければ一つずつしか、できない。
 俺が、絶対に自分に危害を加えないと何の根拠もなく確信しきり、安心しきり、こうやって身を委ねてくるような、そういう馬鹿だ。
 それから――香奈は、自分が同学年の女子に好かれていないことに気付かないほどの、馬鹿だ。女子ならば、香奈の方が近いはずなのに。誰かを傷つけることが怖いのか八方美人で自罰的な香奈は、だから、女子には優等生ぶって男に媚びを売っているように見えるらしい。
 まあ、俺のことが好きらしい女子が、勝手に懇切丁寧に香奈がどれくらい嫌われているかを説いてくれただけなので、話半分にして聞きはしたが、たしかにな、と思うことは幾つかあった。しかし、本当に不思議なのだが、俺の選んだ人間を貶して、なぜ俺から好意を向けられると思うのだろうか。もしくは、その程度で、疑念の種を植え付けられるほど弱い人間に、俺は見えているのだろうか。
 香奈を盲信するつもりはないが、他人の言葉だけで、揺らがされるつもりはない。言葉はただの言葉でしかなく、一所懸命伝えようとしても、真実の五割が純粋に伝えられれば快挙だと思う。ニュースも、歴史書も、小説も、会話も、すべて、伝え手の視点や他人の視点や語彙への思い込みで、きちんと伝わっていないだろう。まあ、その程度の余裕は、揺らぎは、面白みの範疇だと思うけれど。だから、真実を正確に伝えたいと思うと、相手と自分の言葉のチューニングから始めなければならない。言葉一つで人を殺すこともできる生かすこともできる貶めることもできる救うこともできる、けれど、やはり、言葉はただの言葉だ。

 まあ、とにかく、香奈は日本人らしく問題を曖昧にする。返答も曖昧にする。他人の悪口には加わらない。誰にでも微笑んで対応する。面倒事は基本的に嫌がるが、最終的にどうしようもなくなれば引き受けるという曖昧な流され易さもある。なるほど、腹の中では何を考えているのかと思われても仕方ない。おそらく、他人には、イソップ童話のコウモリのような女に見えるのだろう。
 誰かと仲良くなりたかったら、そいつの嫌いなヤツの悪口を言え、という言葉は誰が言ったのだったか――香奈は、馬鹿だから、そんなことは出来ない。俺は、やりたくないから、それはしない。本人の前で言うタイプだからだ。
 けれど、香奈は、こんなにわかりやすいのに、とも、思う。
 じっと、香奈の瞳を見詰めると、それは上機嫌の色をして俺を見返していたが、そのうち、そわそわと、落ち着かなさげに浮遊し始める。きっと、次に香奈が口にする言葉は――「な、何ー? 何か着いてる?」――ほら。こんなにも、わかりやすいのに。
 なんでもない、と答えて、脚の間に座っているネコ目ネコ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属小曾根香奈をそのまま抱きしめた。香奈が嬉しさで頬を染めている。寒い時期は、なぜか普段よりは多く、こうやって触れ合っている気がする。人恋しいというのはこういうことなのだろうか。香奈は完全に俺に寄りかかって、己を抱く俺の手に、自分の小さな手のひらをかぶせていた。まるで、ぶんぶんと千切れんばかりに振っている尻尾の幻影が、再び見えそうなくらい、今日の香奈は幸せそうだ。
 本当に、何が彼女をこんなに幸せそうにしているのか。

「若」

 急に発せられた香奈の言葉に、まるで俺の物思いにたいして返答したかのようなそれに、一瞬ドキリとする。言葉ごときに、人の心臓を活発にさせる魔法がかかっているなどと言っても誰も信じないだろうけれど。事実なのだから仕方がない。言葉はただの言葉で、けれど、やはりこうやって俺の肉体を動かすぐらいには、威力があって、困る。
「なんだ?」
「大好きー♪」
 語尾に音譜を飛ばされた。と、思うと、大好きを連呼してぐりぐりと頭を俺の肩あたりに押し付けてきた。褒めろと、撫でろと、要求してくる犬のようだ。
香奈……何かあったか?」
 要求どおりにおざなりに頭を撫でてやりながら問うと「え、なんで?」とそれは普通に答えられた。
「今日、やけに機嫌よくないか? べたべたしてくるし」
「若も機嫌いいよね。私がべたべたしてるのに、嫌がらないじゃん」
 俺は機嫌がいいのではなく――いや、悪くもないが――香奈があまりに上機嫌なので、それに水を挿したくないだけなのだが、それは言わずに、ただ、香奈の頭を黙々と撫で続ける。惰性と言っても差し支えない。
 ここまで機嫌がいいと、怪しいというのか、おかしいというのか、変だというのか、とにかく、そういう感じではある。それに付き合える俺も、怪しくておかしくて変なのかもしれないが、すべて今更だ。もう、二十ヵ月近く付き合っているのだから。
 よく、お互い飽きないなとも、思う。脳内物質的な恋愛期間は終わった。肉体的な恋愛期間は、まだ終わっていない。けれど、科学の結果など、今こうやって一緒にいることを考えれば、瑣末過ぎる。
 未だに嬉しそうに「若ー」だの「大好きー」だのを思い出したように言っては頬を摺り寄せてくる香奈の頭を撫でながら、まあ、こんなにも無駄な時間があってもいいか、と許せてしまった。

 ちなみに、その後、香奈の上機嫌の理由を聞き出した。
 友人宅に、ハムスターが産まれたらしい。一匹を残して里子に出されたらしいが、里親がつかなかったハムスターを友人がそのまま継続して飼うことになり、香奈は友人のよしみで、そのハムスターの名付け親になったのだそうだ。一匹のこってしまった目つきが悪いハムスターは、手の上に乗せようとするとチィッと歯を剥いて威嚇してくるのに、向日葵の種を差し出すとえらそうにぶんどっていくその様から、あろうことか“わかし”と名づけたらしい。それが昨日の土曜だそうだ。ちなみに友人は、すでに“ちょた”と“きなこもち”というハムスターを飼ってるらしい。その程度のことで、天井知らずに幸せそうな香奈は、本当に……なんと言うか、馬鹿だ。
 しかも、友人と誤魔化したつもりかもしれないが、思いっきり有田じゃねぇか。香奈は本当に馬鹿だ。と言うか、有田はハムスターなんて飼ってたのか。
「俺を畜生と同レベルにするつもりか?」
「人間だって動物ですーほらほら見てみて。可愛いんだよ」
 香奈が携帯の画面を俺に向けてみせる。画面いっぱいに写った、黄な粉色のハムスターは、ものすごい勢いで携帯を威嚇しているようだった。これのどこが可愛いのか、俺には理解しかねる。

 きっと、それは、俺が香奈を可愛く思うのと、同じようなものなのだろうなと、悟ってしまったが。
 まあ、いい。香奈が誰に嫌われようとも、誰も香奈を可愛く思わなくとも、俺にとってはどうしようもなく――……馬鹿ささえ、長所だと、好ましいと、魅力だと、俺に思わせる、どうしようもない、女だ。
 溜息とともに抱きしめていた腕に力を入れると「若は、今日は甘えたさんだね」と言われた。香奈にだけは言われたくない。