痕跡

 日誌を書きながら、ふと、窓を見る。
 窓より手前、隣の席に座っている香奈を見る。
 盛りを終えた陽光に縁取られた髪と頬を見て、後光みたいだと思って忍び笑いをすると、本を読んでいた香奈の睫毛がゆっくりと持ち上がる。「ん?」と首を傾げながら香奈は鋭角的な睫毛の先端を向けてくる。親しげなその視線の向け方に、彼女と培ってきた関係を意識した。
「書き終わった?」
 その言葉には答えずに、紙面にペンを走らせる。それで返事になる事を知っている。
 小さな溜息が聞こえ、香奈が立ち上がったらしい音。
 授業の連絡は、休みごとに書いていたので、もう、すぐに日誌は書きあがる。
 それを、少しだけ勿体無いと思ってしまう自分が苛立たしい。
 普段は何とも思っていないと言えば嘘だが。普段は香奈へ対しての感情を強く意識しない。昔はそれに振り回されて日常生活すら危うかった。
 今は。慣れた筈なのに。
 たまにこうやって、脳と体が乖離するように。感情が、身体を動かそうとする。
 今は、少しでもこの教室で二人だけで。いたいと。
 情けない。先ほどの香奈のように小さく溜息をついてから、指先に力を入れて日誌を書いてしまう。明日の日直への連絡事項まできちんんと記入して立ち上がると、窓に寄りかかっていた香奈の瞳がこちらへ向く。
 俺と視線が合うと、柔らかく崩れて笑みの形になる。
 一瞥をくれるだけで、鞄を手にして廊下へ歩こうとすると、慌てて歩いてきたらしき香奈に何も持っていない右手を捕まれた。驚いて振り向くと同時。
「若、ちょっとだけ、手、貸して?」
 わくわくと楽しそうな様子の香奈は人の手を取ったまま後ろに歩いた。
 意味がわからないが、引かれるまま付き合ってやると、ガタンと、なかなかいい音をさせて、香奈の背中は大きな窓にぶつかる。先ほどは後光のようだと思った光はより淡くなっていた。
 少し痛そうにしながらも、香奈はそのまま俺の手を引き、窓ガラスに手のひらをつけさせた。ひやりと無機物の温度が手のひらを覆った。どうやら位置に拘りがあるらしく、香奈は己の顔の横のあたりに俺の手を置き直した。
 それから、にやにやとだらしない顔で俺を見上げる。
「こういうシチュエーション、漫画でよく見るから、ちょっと憧れてたんだよね!」
 やけに嬉しそうに言われた。
 ……意味を把握するのに五秒かかり、なるほど、壁際に追い込まれたかったのかと理解した。影響を受けやすい香奈らしいとある意味の納得もした。何も言わずにこうしてやってしまうことに、感情に流されやすい自分を意識せずにはいられない。言葉にするものではないけれど、俺はもっと、もっと、冷静で、女なんて、恋愛なんて、交際なんて、もっと簡単にこなせると思っていた。思い起こせば、経験値も何もないのに、そのように考えていた自分にあきれてしまう。
 唯一、こいつと付き合って良かったことといえば、好きだから『仕方ない』という、理屈も理論も理性も合理性も何も関係ない、ただ受け入れる。ただ流す。というほんの少しの器用さを手に入れられた事だと思う。
 そのまま、お互い固まったまま、不自然な沈黙が落ちてくる。教室の外から聞こえる車の音や、部活の奴らの声がどこか遠くに聞こえる。冷たい窓ガラスの所為か、この体勢の所為か。
 香奈は自分が起こした事態にも関わらず、照れているようだった。さて、この体勢。香奈がオーケーを出すまで続けなければいけないのだろうか。流石に部活もある。そんなに時間に余裕はないのだが。
 何も言わずに赤くなり始めた香奈に呆れ、窓ガラスについていた手を離そうとすると、香奈に押さえられる。
「どうしろって……」「ちゅう」「あ?」「こういう時は、若がちゅーすべきなの」
 先ほどまで、俺を見上げていた睫毛は今は、床に向けられている。香奈の耳朶が寒風にあたり続けた色味になっていた。
「でね、顎持って欲しいの」
 最初の要求を口に出したら、とまらなくなったらしい。
「顎?」
「あ、私のだからね」
 パッと顔を上げて、まるで叱るような口調で言ってくる。もう、頬の血色は恥ずかしさではなく興奮からのようだ。
 馬鹿だなと思う。何故俺がそんなことに付き合ってやらなければならないのかと思う。けれど、俺が断るなど微塵も思っていないようなその瞳を見ると、まあ、これくらいならいいか、と思えてしまえて、そんな自分に仕方ないとも思えてしまう。
 壁についた手はそのまま、もう片手で、香奈の顎に触れる。自分で言ったくせに、こちらが一瞬手を引いてしまうほどびくりと震えた香奈は、本当に馬鹿だ。
 その時、教室の外から音が聞こえた。同時に突き飛ばされた。器用な俺は苛立ちと可笑しさをその瞬間同時に感じた。
 走るような足音とともに、教室のドアが開かれ、入ってきた女子は、俺と香奈がいることに一瞬呆けた顔をした。名前すらはっきりとは覚えていないクラスメイトだ。
 硬直した女子の様子、腹のあたりで手を握ったり開いたりしている香奈の様子、そして、香奈から三歩ほど離れた場所で突っ立っている俺。
 なんだか、滑稽で、笑えてきた。
「気にするな。お前が出て行ってから、こいつと続きをするから」
「つ、続きって! 何もしてないよ!」
 その言葉の前に「まだ」とつけたくなってしまう。
 俺と香奈のやりとりに、女子は困ったように、遠慮がちに動き出した。部活で必要なものを教室に忘れてしまったらしい。言い訳がましく饒舌に捲くし立てる女子に対し、香奈に向けるようなものではなく、ただ心底から馬鹿だと思ったが、口にすることはしなかった。どちらかと言えば、俺たちの方が見られてはまずい場面ではある。
 クラスメイトの女子には、恋人同士が二人きりで教室にいたら驚くのは当たり前だと弁明されたが、香奈と俺が付き合っていることを、香奈とは違う教室の人間まで知っている事が、なんだか今更にあまりよくない事のように感じられた。だからといって何かできることもないけれど。今更に過ぎる。
 結局、そのまま、俺は部活に向かい、香奈も美術室へと向かった。
 最後に香奈は「若、跡部先輩の影響受けてない? 駄目だよ」と諫言してきたが、それは俺にも跡部部長にも少々失礼な言葉だった。

 ◆◇◆

 土曜日――午前中テニス部に参加して、午後は香奈の家へお邪魔した。
 香奈はいつものように、茶だの茶菓子だのを用意して、それから俺の隣に座る。少し悩んでから香奈は手を伸ばして机の上に置かれていた花の写真集を手にとった。横長の変形で、画像加工のようなものがされていることが一目でわかる鮮やかな色合いだった。
 紙の上の赤いチューリップへ伸ばされた香奈の手を取って、壁に押し付け、その顎に手を触れて彼女に覆い被さるように口付ける。色気もへったくれもなく何度もまばたきしているのが皮膚に睫毛が触れる感覚でわかった。
 触れるだけで満足した俺は、先ほど香奈が取り落とした写真集を拾って彼女の膝の上に置いた。それから今日は珍しい中国の龍井茶を飲む。何煎も飲めるからと、香奈はわざわざケトルと急須まで持ってきていた。
 まだ熱いそれを飲み下している時に「きゅ、急になに、何……するっ い、嫌な訳じゃないけど! じゃないけど! でも、若、いつも突然すぎて困る!」ワンテンポ遅れた香奈が吼えた。
 まあ、言われるだろうなと思っていたので「この間やりたがってたのに出来なかったから、埋め合わせしただけだ」と、何でもないことのように言ってみせる。何でもないわけなどないことを、多分今の香奈は気づかないだろう。
 ちらりと隣の香奈を視線だけで窺がうと、両腕で顔を覆い「ばかしー……」と唸っていた。
 それを無視してふと視線を上げると、画集が増えて、新しく画具の為だけに増やされたチェストに、纏められたキャンバス布、香奈は簡易的にキャンバスを張るのでそれに使うテープと、何度も使われている木枠に、最近はパソコンと画面に直接かけるペン型の液晶なんとかというもの。大分絵を描く道具が増えている。そしてよく香奈が手にしているスケッチブック。
 俺がうとうとしていた時にこっそりと描いたらしい一ページを、俺が気づいていることにも、気づいていないのかもしれないし、気づいていない振りをしているのかもしれない。
 出逢って、惚れて、付き合って、怒涛の二、三ヶ月から。口付けだけの関係が一年と半年弱。衣替えのたびに模様替えも行われる彼女の部屋。

「……なんだよ」
 急に人を壁に押し付けて口づけてきた香奈に、触れ合いが離れる前に問うと「若ばっかりズルい。いつも平気っぽい顔してるし」香奈は甘いシーンには似合わない少し険しい、けれど羞恥をたっぷりと含んだ顔で俺を睨んでいた。
 何かを答えるのも少し面倒だな、と思っている時に、後光でも何でもない蛍光灯の光の向こう。白木とスチールパイプの本棚の中に俺の痕跡を見つけた。
 前に来た時はなかった、解説BD付きのテニスのルールブック。
 思わず笑った俺に、香奈は自分の事を笑われたのだと不機嫌になった。悪かったと謝って、手を握る。許さない、と香奈は呟いて、手をはなそうとした俺の指を強く掴む。その手はそのままに片手で香奈を抱きしめて、何がおかしいのか二人で少し笑ってから、お兄さんの足音に声を潜めてゆっくりと離れる。それから二人で写真集を見て、穏やかな時間を過ごす。ただそれだけ。