桜の香り
 休日の午後特有の、のんびりした空気。
 勝手知ったる香奈の部屋で、ふと違和感を感じて読んでいた文庫本から顔を上げた。そうして隣で漫画を読んでいる香奈へと視線を落とす。
 ギャグのシーンでも読んでいるのか「ふっ」と笑いを堪える呼気が聞こえた。それを微笑ましく思いながら
香奈?」
 と、声をかける。
「――ん?」
 香奈が紙面から俺へと視線を移して、軽く首を傾げて見上げてくる。俺は開いた文庫本のページに栞代わりに指を挟みながら違和感の元を問う。
「何か変えたか?」
「……んん? 何かって?」
 香奈は意味が解らなかったらしく、先程とは逆側にかくんと頭を落とすように首を傾げる。
「いつもと香りが違う」
 それが何の香りなのか判然としないので、とりあえず”香り”とだけ伝えた。
 それだけで香奈は理解できたらしく、自分の頭を撫でる。
「ああ、シャンプーとかコンディショナーとかヘアケア全部変えちゃった――あ……変なにおい?」
 そう言われれば、確かに髪から柔らかく香ってくる事に気付いた。
 自分の髪に触れながら心配そうに見つめてくる香奈の様子に、軽く首を振って返してやる。
「いや」
「良かったー」
 俺の言葉に安堵し顔を綻ばせた香奈へと片手を伸ばして、彼女の頭にそっと触れる。
「桜餅みたいだ」
「山桜の香りなんだけど……若、お腹減ってる? もしかして」
 苦笑気味の香奈が尋ねてくる。さらさらとした彼女の髪を指で梳きながら、軽く顎を引いて小さく頷きを返した。
 俺が香奈の家を訪ねる途中で購入した、持ち帰りの料理で早めの昼食をとってから、もう随分と経っていた。香奈の家で夕食をご一緒させて頂く予定だけれど、それまでにはまだ時間がある。
「少し」
「じゃー香奈様が何か作ってあげましょう。何がいい?」
 ページを開いた漫画をベッドの上に置いて、香奈は立ち上がり、わざとらしく腕まくりをしながら笑って尋ねてくる。俺はフローリングに置かれたクッションへ腰を下ろしたまま、香奈を見上げて一言。
「桜餅」
「さくらもち? 初めて作るから味は保障しないけど、いいよね? ちょっと待って、ええっと……和菓子の本……材料は一緒に買いに行く? きっとスーパーで売ってるよね」
 断られると思っていたのに意気揚揚と棚から本を探し始める香奈。以前、俺が”洋菓子よりも和菓子が好きだ”と言った為に、本を購入していたのだろう。ラケットを握った事もない香奈の棚にはテニス関連の本も多かった。
 材料の事を真剣に考えている様子を見れば思わず「――はっ」と小さく噴出して、くく、と喉で笑う。
「……何で笑うの? え、ちょ、私何か変なことした?」
 俺の笑う気配に気付いたのか、それとも目当ての本を見つけたからなのか。
とにかく香奈は俺を振り返って、俺に笑われている事に気付くと焦ったように眉尻を下げた情けない表情を見せてくる。
「いや、まさか本当に作る気になるとは思わなかった」
 口元を手で押さえ、笑みを隠しながら逆の手を軽く振って見せる。香奈は俺の言葉に不満そうに仁王立ちしていた。
「なにそれー……この辞書のように重い和菓子の本を今まさに手にした私に対する当て付けですか?」
 重そうなハードカバーを手に口角を下げて睨んでくる香奈。そのわざとらしい敬語を耳にして、なんとか笑みを消そうとするものの、ナチュラルに桜餅を作ろうとした姿が可笑しくて、自然と表情が柔らかいものになってしまう。冗談のつもりで言ったので、尚更だ。
 香奈は、そんな俺の様子に眉を寄せながらも「もー……」と溜息混じりに呟いて、すぐに笑った。
「悪い。桜茶に、適当に茶請けでもつけてくれればいいから」
 謝罪しつつ桜の香りに急に欲しくなってしまったそれを請う。
 香奈は本を棚に戻して俺に向かい
「桜のフレーバーティー」と言いながら人差指を立て
「ペットボトルの桜茶」と続いて中指を
「八重桜の桜湯」そうして最後に薬指を立て、首を傾いで問うように俺を見てくる。
 薬指はしっかりと立てられないらしく他の二本に比べてかなり前のめりだった。
そんなちょっとしたことも俺には好ましく思えてしまう。
「――普通に八重桜の塩漬の桜茶で」
 というか、桜湯以外の種類が良く解らない。そんなに色々あるのかと思っていると香奈が軽く手を叩き、頷いた。
「了解。お茶請けは栗の砂糖漬けでもいい?甘いけどおいしいよ」
「太るぞ」
 にべもなく言い放てば、香奈が微妙な笑顔で俺を見ていた。
「……とっても おいしいので若様にも是非にと思ったのですけれども。じゃあ、甘露梅?」
「甘くないものの気分なんだ」
 香奈に問われて、俺は首を軽く横に振る。
「若が我儘っ子だー。秘蔵の濡れせんべい出してさしあげますから感謝して下さいませ」
 わざとらしい口調で言う香奈を見上げる。香奈は屈み、座ったまま文庫本すら手放さない俺の鼻を軽く抓んで「ちょっと待ってて」と告げてから部屋を出て行った。
急いでいるのだろうか。ぱたぱたとスリッパの奏でる速めの足音に、転ばないかと心配になり、慌てなくてもいいのにと心中で苦笑する。
 そのスリッパの音が遠ざかっていくのに耳を傾けながら俺は再び文庫本に目を落とした。



 八重桜が映えるように選ばれたらしい白い湯のみには、薄いピンク色の花弁のそれが浮かんでいて、優しい色合いだった。
 室内に香る香奈の髪と桜茶の、桜の香り。それらにゆったりとした心地の良い時間の流れを感じながら、ゆっくりと息を吐く。隣の香奈へと視線を向ければ、見ているこちらの顔が綻びそうになるほど、本当に美味そうに栗の砂糖漬けを咀嚼していた。
 こくん、と嚥下の為に、滑らかな皮膚に覆われた香奈の華奢な喉が動くのを艶っぽく感じて視線を外せないでいると、彼女が俺の視線に気付き「なに?」と少し怯えたように聞いてきた。それと同時に栗が乗った皿を手元に引き寄せる香奈。”若が食べたいと言ってきたらどうしよう”と懸念しているのだろう。一粒も譲らないぞという姿勢が見て取れて、呆れてしまう。ただ美味そうに幸せそうに食べている香奈の姿を可愛らしく感じて見つめていたのだと言ったらどんな反応をするだろうか。
 口に出しては言わないけれど、こういった何でもない二人だけの時間というのが、俺はとても好きだ。特に俺が部活で忙しい為、こんなのんびりとした時間がなかなか取れない。だからこそ、こんな時間を何より貴重に、大切に、感じるんだろう。勿論”何でもない”以上の事があればあったで俺は嬉しいけれど。
 香奈の問いへは無言のまま軽く口の端を上げて返してやる。
すると何を思ったのか香奈は両手で皿を持って「あげな…」と紡ぎはじめた。
 見当違いな釘を刺そうとしているその唇に、自身のそれを寄せて、舌先で柔らかく撫でる。舌先に甘味を感じてそのまま顔を引くと、何が起こったのか理解できていない香奈がぽかんと俺を見ていた。笑いそうになるけれど、とりあえず現状把握できていない香奈は放置する事にした。

 それにしても、とても甘い。
茶と一緒ならともかく単品で一気に食える香奈は俺と違う生物なのかもしれないと思う程に甘い。甘味が特に苦手と言うわけでもないが香奈の唇に残った甘みだけで”お腹いっぱい”と思うほどには甘い。それでも、まあキスくらいは甘くていいだろうと、桜の香りの中で自分勝手に考え、納得する。
 舌先に残った甘みを流すように塩味の利いた桜茶を飲んで、ぬれせんべいを齧り、また桜茶を飲む。
俺がやっと一息ついたところで遅まきながら何をされたのか理解したらしい香奈が唸った。照れを隠すために眉間にしわを寄せている。
「……味、わかんなくなったじゃん……」
 俯いて真っ赤になった香奈がそれでもぼそぼそと文句を言い、俺は
「いや、わかるだろ」
 と、突っ込む。
 香奈は「わかんなくなったの!」と小さな子供がふてくされるように両手で湯飲みを持ち桜茶を啜ってから栗を口に放った。普段は白い滑らかな頬が、ほんのりと桃色に染まっている。
 そうして、口内の栗を飲み込むと少し落ち着いたらしい香奈が自分の髪に触れながら
「キスとかする時は、ちゃんと言って」
 恥ずかしそうに視線を湯のみに向けて言う。
「解った。それで香奈
 俺が了承して香奈の名を呼ぶと、彼女は湯飲みから視線を上げて無防備に俺を見てくる。
「うん、何?」
「する」
 言うや否や、香奈が聞き取れたか取れていないか。即座に行動に移し、即座に行為を終わらせる。香奈の甘い唇から離れると、彼女は頬を染めていた。それを見れば勝ち誇ったように笑ってみせる。
 照れ隠しにか悔し紛れにか、赤い顔をした香奈が俺の髪を軽く引っ張った。