大人しく座布団に座って本を眺めていた香奈が、選択教科の宿題を解いている俺の背中に華奢な手のひらを置いて、軽く揺すってきた。億劫そうな表情になるのを取り繕わずに、首を動かして香奈を見やる。 「若さん、若さん」 香奈がやけに弾んだ声で話しかけてくる。しかも敬称付きだ。何か俺にして欲しい事がある時の解りやすい口調だった。 先ほどまで眺めていたその本を、俺の眼前に持ってきた香奈は、柔らかい赤で染まったページを開くと、何故だか知らないが嬉しそうに微笑む。香奈は無駄に良く笑うけれど、俺はあまり笑わないと指摘されたことがある。結局、香奈が笑うことで俺との釣り合いがとれているのかもしれない。 「綺麗だよね!」 「……そうだな」 寒さに頬を紅潮させるように赤く染まった紅葉。ちらほらと見える黄色。幾千幾万の赤ん坊の手のひらのような愛嬌のある形をした紅葉が、木を、境内を染め上げている。一瞬、強制的に視線を奪われるような迫力と風情のある、紅葉に染まった寺の写真。 香奈の言いたい事がわかると、視線を赤い紙面から香奈へと向けてやる。 「行きたいのか?」 「うん!」 本当に解りやすく嬉しそうな顔をした香奈に「そんな暇も金もない」と答えると一瞬にして空気が抜けたように小さくなった。 写真は光明寺の風景で、これ以上ないほど京都だ。そして、俺たちのいるここは偽りようもなく首都だ。 萎んだ香奈の姿が少し可哀想だったので、記憶を辿り辿り関東の紅葉で有名な場所を口に出してみる。 「紅葉なら、奥多摩……と、強羅、日光――でも、どこも交通の便が悪い」 本当に悪いかはともかく、悪そうな印象があるのでそう言うと、香奈は「そっかぁ……」としょぼくれて、それ以上は何も言わなかった。 残念ながら俺は普通の中学生で、そこまでの交通費を出すのは定期を使っても少し辛い。 跡部さんあたりは株の売買をして、そこそこ上手くいっているようだが、俺はまだそういう事をしていない。小学生でも証券口座を開くこの時代に時代遅れかとも思うけれど、今の所あまり興味が湧かない。その内そんな事も言っていられなくなるだろうと分かっているが。 とにかく、贅沢できるほどの金は俺にはない。 そんな訳で、会話はそこで終わり、途中からは二人で宿題をしたりして時間をすごしてから、香奈を自宅まで送ってやった。 ◇◆◇ 寒さの厳しくなる季節。俺はこの厳寒の空気に清廉さと潔さと厳粛さを感じていて、特に冬の朝は好きだ。冷えた空気が全てを清めてくれるような気さえする。 駅に向う途中で思い立って大きく息を吐いてみると白く染まって、雲のように風に流れていった。 けれど、通学の電車の中は押し合い圧し合いしていて、暖房も効いている。湿度も温度も高く、暑くて気持ち悪い。外との気温差が不快な程だった。 白いフードの付いた丈の短いコートを着た香奈も、ぐったりした様子で夏場の犬みたいになっている。たぶん、人酔いもしているんだろう。 「若……」 視線を上げるのも億劫なのか下を向いたまま話しかけてくる香奈に、どこか憐れな感じすらした。 「次の日曜日、覚えてる?」 「ああ」 一ヶ月も前から日曜を開けておいてくれと懇願され、練習生の参加する大会へ応援に行けと言う兄の命令も断って、予定を空けた。 「駅前に九時だからね」 念を押すように言う香奈に軽く頷いて、それから尋ねる。 「香奈がよければ家まで迎えに行ってやってもいい、どうする?」 「え、や、でも、駅のほうが若の家に近いでしょ。私の家に来たら、また駅まで戻らなきゃだよ?」 尋ねたのに、問い返される。俺は、それを鬱陶しく思って問い質す。と言っても電車内なので控えめに。 「嫌なのか嫌じゃないのか。どっちだ」 「嫌なわけないよ――でも、寒いでしょ?」 その言い方が、まるで香奈自身が今、厳寒の真っ只中にいるような実感の篭った口調だったので、思わず溜息が出る。 香奈に言った事はなかったが、寒さは嫌いではないし、雪が降ろうと毎朝ランニングしているし――距離は日によって変わるけれど――香奈が寒がりなのではないだろうか。まだまだこれから寒くなると言うのに、既にコートを着込んでいるところからも、寒さに弱いところが見てとれる。 「別に」 そう返すと香奈は「じゃ、お願いしようかな」と小さく呟いたきり口を閉ざした。 しばらくして本格的に具合が悪くなってきたらしい香奈が完全に俺に体重を預けてくる。 大丈夫かと声をかけようかと思ったけれど、どう見ても大丈夫ではなさそうだったので、ただ静かに身体を支えた。脂汗の浮かんだ顔が苦しそうだった。 休ませるために香奈を電車から降ろそうとすると「大丈夫だから」と、全然大丈夫ではない癖にのたまう。無理に降ろそうとすれば、弱々しくも抵抗してきたのでこちらも面倒になってしまった。 そうして結局、学校の最寄り駅までぐったりした香奈を支えて無言で暑さに耐えた。この十二月に。 先輩達が引退した今、後輩を引っ張っていかなければならない。 そんな訳で、俺が指示し、鳳がアドバイスし、樺地がフォローするという連携は跡部部長が引退してから、色々とありながらもそれなりに纏まってきている。 もちろん俺たちが弱くては話にならないので、練習時間を更に増やした。後輩へ時間を割かれる分、自分の練習開始時間が遅くなってしまうので、時間のやりくりが難しくなってくる。 朝起きてランニングして学校に行って部活をして授業に出て部活をして家に帰って寝る。家→学校→家のエンドレス。 たまの休みには香奈と過ごすこともあるけれど、鳳なんかと一緒に室内テニス場へ行くことも良くある。 肌寒さと暗さに時間を確かめると七時も半ばを過ぎていた。ナイターコートの電気を落とし、部室へ足を運ぶと、扉の前で香奈が座り込んでいた。 「チョータはもう三十分も前に帰ったよー? ……若、遅すぎだし」 なぜか、咎めるような口調で言われる。 「お前は俺のストーカーか?」 「待ってるってメール、した」 今度は明らかに責めてきた。 ……そういえば、今日は鞄に入れたまま携帯電話に触れた覚えがない。 ああいった機器は便利だとは思うけれど、もともと携帯電話と言うものが好きではなく、持っているのも面倒だと思うことが多々ある。 最近は特にテニスの事ばかり考えていて、携帯なんて鞄に入れっぱなしだった。記憶を辿ると、三日は充電すらしていない。 「――鳳が来た時に中に入って待ってれば良かっただろ」 話を逸らすと、単純な香奈は単純に意識をそちらへ向けた。 「……そっか。そうだね。思いつかなかったー。若あたまいいね。あ、でも、六時半までは図書室で宿題してたよ。ずっとここで待ってたわけじゃないからね。ホントだよ?」 感心したように立ち上がりながら、言い訳じみたことを口にする香奈に、思わず溜息が出る。今、俺はしみじみと感じた。 「お前、本当に馬鹿なんだな……」 流石に自分の頭の悪さを実感したらしい香奈は、苦々しそうな唸りだしそうな表情を浮かべたものの反論はして来ない。 部室の扉に鍵を差し入れて捻る。人のいない部室の空気は冷たかったけれど、外に比べればマシだ。香奈を招き入れて長机の周りにある椅子の一つに座らせ、俺は更に奥にある部屋へ向う。タオルで汗を拭い手早く着替えて戻る。 香奈が机につっぷして眠っていた。 どこからどう突っ込むべきか悩む。俺が着替えている間は十分程度だったのに、寝れるのか。というか、待つならしっかり待てよ。寝るな。 香奈に会ってから二度目の溜息を吐いて香奈の肩を揺する。眠そうに目蓋を瞬いて、のろのろと顔を上げる。何となく、その動作と部室の蛍光灯に照らされた顔を見て「具合悪いのか?」と聞くと「ちょっと頭痛い」と返ってきた。 前髪を払って、香奈の額に手のひらを置く。 「熱い?」 「――運動直後の俺の体温並に熱い」 香奈の額を冷たく感じなかったので、そう答える。すると香奈は「んー?」と手を伸ばして俺の額に手を置いてきた。冷たい。 「手は冷たいな」 「私は若の手、冷たくはないかな」 お互いがお互いの額に触れているという変な形を保ったまま香奈が首を傾げる。 きっと外で待っていた間に体の末端が冷えたのだろう。ひどく冷たいその手のひらを、香奈の額に押し当てていた自分の手で握り、そのまま額から離させる。 「やっぱり、手袋は必要だねー」 「マフラーもな。風邪引くなよ」 俺の言葉に「若もね」と香奈が笑う。 帰りの電車の中で、俺の体温が平熱を取り戻すと、やはり香奈の体温が高いことを知る。帰宅ラッシュよりは遅い時間だった事が幸いしたけれど、座席についた香奈は行きと同じようにぐったりとしていた。 「家まで送る」 心配になってそう言えば「へーき」と具合が悪そうに可愛くない返事を返してくる。 お前が平気でも俺は心配するんだと言えれば良いのだけれど、そんな事を口には出来なくて「いや、送る」ともう一度言う。 「いーよ。ヘーキヘーキ」 その台詞にムカついて、俺が心配なんだと言いそうになって、でも唇を開いた瞬間気恥ずかしくなる。苛々しながら「俺は送るって言ったんだ」と吐き捨てると、香奈はもう何も言わなかった。 そうして俺は、自分の判断が間違っていなかったことを少し後に確信することになる。 大きな荷物と化した香奈を、香奈のお兄さんに手渡すと、少し前から体調不良だったらしい事を告げられて、気付かなかった自分に呆れた。 自宅に帰ると「ごめんね。ありがと」とだけ書かれたメールが携帯に届いていた。一瞬返事を送るべきか迷ったけれど、きっと眠っているだろうと思い、メールを返さなかった。 ◇◆◇ 翌日、昼過ぎに香奈が肺炎と診断され入院したという、短い一文が俺の携帯電話を震わせた。 俺は過去、自分が肺炎だと気付かずに自然治癒させたのだが、何かの検査の折「肺炎を病院に行かないで治したでしょう」と言われて気づいた事がある。 あの時はなかなか苦しい思いをしたので、香奈も今、おそらく辛い思いをしているだろう。昨日、俺を待っていた所為で体調が悪化したのかと思うと切ない――と言う表現が自分の中では妥当なのだけれど、少し違うような気もする。悔しいとか情けないも違う。心臓が掴まれる、というような表現でもいいのかもしれないが、うまく伝えられない。少なくとも愉快な気分ではない――ような気持ちになるけれど、俺に出来ることは何もない。 さすがに死にはしないだろうと思いつつも、毎年何人もが亡くなっている病気なので心配ではある。けれど、連絡を取り合うことはしなかった。病院では携帯電話は使えないだろうし、具合が悪いときにまでメールを送られても困る。もちろん俺から連絡することもなかった。 数日間、言い方は悪くなってしまうけれど、香奈の事を気にせずに部活も打ち込めた。普段は香奈が俺を待っているので、いつも心のどこかで気にかけていた。と言っても練習を早く切り上げることは滅多になかったが。 俺を待っていたあの時に悪化したのかと思うと罪悪感が芽生えもしたが、ある意味では自業自得なので気に病むだけ馬鹿らしいと考えないことにしていた。 「ケースは一つ残してネットも一つだけ張っておけ。それ以外は片付け始めろ」 俺の指示に、鳳が苦笑して「この後、まだ練習するつもりなんだ、日吉」と言ってくる。六時を回った空はすでに暗く、照明は一時間前から点灯させていた。 口を開くのが面倒で頷いて返すと「俺も付き合っていい?」と来る。 「好きにしろよ」 そう答えてから、女子のマネージャーに、片付けは男子にやらせるから先に帰れと告げる。そうして部員たちを解散させた後、俺と鳳で打ち合う。 速く、威力のあるサーブ。全国大会で青学の乾さんのサーブを返せなかった時からパワーボール対策に力を入れていたけれど、四割以上狙った場所へボールが返らない。俺がどんなに速くとも鳳のサーブならば、なんとか返球できるように、鳳も俺の癖や咄嗟の判断を熟知しているのだろう。俺のアングルボレーは大抵は決まる――決められる自信があるが、鳳はそれをさらっと拾いやがる。鳳も、きっとネオスカッドを返球する俺に対して、同じように自信を挫かれ、より 長身でパワーがあり手足が長く、根性もある。 鳳は、男の俺から見ても腹立たしいほど位色々な物を持っていて、けれど、俺は鳳になりたいとは思わない。宍戸さんに笑われたけれど、俺だって自分なりのやり方で自分より身長が高かろうが、力が強かろうが、どんな相手だって倒してやりたい。 なるほど、球速、球威、守備範囲は断然に、悲しくなるほど鳳に分がある。けれど、制球や柔軟性、角度、それに 急角度で返した球は白線を噛んでから、コートの外にころころと転がった。六−四。 「やっぱ日吉は強いね」 「当たり前だ」 その為の努力をしているのだから。けれど、わかっている。俺と鳳とに、さほどの差はないのだと。 汗だくになり、部室へ戻って鞄の中で急に振動した携帯に、メールが届いているとライトの点灯で訴えられ、それを開く。文面に目を落とすと、あまりに短いそれは、読む必要もなかった。 「日吉?」 着替えながら声をかけてきた鳳に視線を返さずに聞き返す。 「なんだよ?」 「……いい事あった?」 訳のわからない問いに声だけで「なんでだよ」と答える。すると鳳は少し戸惑ったような、けれど少し嬉しそうな口調で、言う。 「携帯見て笑ったりする日吉って珍しいからさ」 笑っていた? 俺が? ……やばい。無意識だった。 俺は本当に香奈の事になると駄目だ。それに鳳の前だと特に気が緩むのかもしれない。教室の中ではメールを見てにやけるなんて絶対無いと断言できる。 けれど 若、お誕生日おめでとう たったそれだけの味気ない文章。それを見て、香奈の容態だとか部活のことだとかで思い出さずにいた自分の誕生日の事を思い出した。 思いださせてくれたのが香奈で、それが何だか嬉しくなってしまう。あいつ、具合悪いくせに。こんな、味気のないメールの、たった一文で、俺を嬉しくさせることができるなんて、ある意味特殊能力だ。 部活の練習が終わった時間を見計らってくれる。たったそれだけの事が、俺はとても嬉しくて、馬鹿だなと思うけれど、そんな自分が嫌いではない。 ◇◆◇ それからまた数日経って、約束の日曜日。香奈は残念ながら今も家で臥せっている。 学校のコートを借りて軽く練習してから共用のシャワーで汗を流して、香奈の自宅に電話をかけた。すると、すぐに『はい、小曾根です』とお兄さんの声が送話口から聞こえて来る。 「すみません、香奈さんのクラスメイトの日吉と申しますが、香奈さんはご在宅でしょうか」 今回ははっきりとお兄さんだとわかっているからいい。香奈と香奈の母親の声はそっくりなので、俺は誰が電話に出ても間違いのないようにいつも丁寧に尋ねるのだが、まれに香奈が出ると笑われる。携帯が苦手だ何だといいつつも、やはり家の電話よりも携帯にかける方が気が楽だなどと思っていると、お兄さんの声が先ほどの固いものではなく親しげな調子に替わる。 『ああ、若くん。ナイスタイミング。今点滴終わって帰ってきたトコだから。香奈に代わる?』 香奈が具合が悪かろうと思って家にかけたのだから、代わってもらう必要はなく、用件を伝えようと口を開く。 「いえ、いいです。これからお伺いし――『あ、じゃあ、コンビニでアロエヨーグルト買ってきてくんないかな?』――わかりました。それじゃコンビニによってからお伺いします」 ものすごくさらっと使いを頼むお兄さんの言葉に反射で答えてしまった。いや、断るつもりだったわけではないけれど。 『はい、じゃあ、待ってます』 明るい声でそう言われ、通話が終わる。……ナチュラルにパシられている、俺。 溜息を吐きつつ、身体のバランスをとる為に、下がっていると指摘された肩にテニスバッグをかけてコンビニへ向う。 普段は文具が必要にならない限りあまりコンビニへは寄らないけれど、生菓子のコーナーでアロエの絵がかかれたヨーグルトを探し出す。それから菓子類のコーナーに回って香奈が好きなチョコレートの箱を一つ手にしてから、チョコレートが刺激物だったことを思い出して、しばし悩む。こういう時は消化に良いものを買うべきだろうか。ならばお情け程度の生鮮食品のコーナーでバナナでも買った方がいいだろうか。 途中で悩むのが面倒になった俺は、とりあえずそのチョコレートを買うことにして、温かいジャスミン茶と緑茶のペットボトルも手にするとレジで精算を終え、香奈の家へ向う。 午後に入ったこの時間は、まだ温い日の暖かさが体に降りかかる、普段、教室で勉強していることが勿体無いと思えるくらい心地良い時間だ。 白い太陽の光が身体に触れるたびにその温かさを感じて、冷えた風が身体を撫でる感触が昂ぶった体温に快い。澄み切った空は夏のような空色ではなく、どこまでもどこまでも、白い月さえも見えてしまいそうな、迷いなく澄み切った美しい天色をしていた。 街路樹が風になぶられては、はらはらと、ひらひらと黄色い葉を身体に浴びせてくる。その落ちてゆく葉に太陽の光が当たると、まるで琥珀でも落ちてくるかのようで、均等な間隔で植えられているその幹は、何かの柱のようにも見える。 コンビニの袋を持った手が、指先からゆっくりと冷えていく。この冷たさが空気を澄み渡らせていると思うとそれすら快い。 靴が、枯れた、けれど色鮮やかな葉を踏むとくしゃりと乾いた音が響く。冷たい空気の中で唯一温もりを与える太陽の熱が、変な話だけれど、夏よりもずっと強く太陽が在ることを感じさせた。ただ呼吸をするだけで身体の中に冷たい空気が侵入して、身を清められるような気がしてくる。 街路樹の合間を縫った、陽の白い光がスポットライトのように落ち、木の葉を色鮮やかに光らせ、また宙に舞う塵さえもきらきらと、まるで宝石の粉が降っているように見せてくれる。この、何でもない場所の、けれどとても綺麗な風景を、香奈にも見せたいなと、そう思った。冷たい風に掃き集められた葉が、舞い散る。 俺は、冬がとても好きだ。 「あー、若くん、こんにちは。ヨーグルト、香奈の部屋持ってってくれればいいから。お茶とかいる?」 お邪魔するなり香奈のお兄さんに香奈の部屋を示される。確かにリビングでお兄さんと仲良く談笑する気は全くないのだけれど。 「いえ、買ってきたんで、大丈夫です」 コンビニの袋を軽く持ち上げてお兄さんに示す。 「オッケ。じゃーごゆっくりー。と、香奈凹んでるんで慰めてくれるとありがたいです」 俺を家に上げてから自室へ戻るお兄さんの言葉に「はい」と答えながらも、またあの馬鹿が凹んでいるのかと思うと、少しうんざりするような気持ちになった。 「帰りに声かけてくれたらヨーグルト代とお駄賃渡しますねと」 香奈の部屋へ向う俺の背中に、そんな声がかけられて「見舞いですから」とそれを辞退した。 そうして、香奈の部屋の扉にノックを数回。香奈が鼻声で『はいーなにー?』と扉の向こうから答えてきたので室内に足を踏み入れる。ベッドに腰掛けた香奈が、子供っぽい可愛らしいゴムで、けれど普段より適当に髪を縛って、パジャマのズボンを履いた状態で、上半身は小学生が着るような色気のないノースリーブの、タンクトップのような下着姿だった。片腕をパジャマの袖に通している所をみると着替えている途中だったらしい。 「――っ悪い!」 ばん、と扉を閉めてから(いや、俺は悪くないだろ?!)と混乱気味に思った。というか、着替えてるなら、ちょっと待てとか言えよ。良かった、色気のない下着で。いや、何が良かったんだ。お兄さんと間違えられたのか。というか、お兄さんの前であんな格好で平気なのか。いや、確かに俺も風呂上りとかは母の前ではかなり人前で出来ない格好をする事もあるけれど。そりゃ、家族なんだから多少の露出は気にならないのだろうが、それでも――いや、考えすぎだし。そんなとこまで考えるとか、俺今かなり混乱してないか。あんな下着よりも水着の方が露出するだろ。いやでも下着姿…… 動揺を示して激しく脈打つ心臓に、なんだか祖父の盆栽を割ってしまったときのような、拳骨を待つときのような気分になった。俺、悪くねぇのに。 「え、あれ? なんで? なん……なんで若?」 ガチャリと扉が十分の一くらい開いて、香奈が俺を覗き込んでいる。もう着替えは終えたようだけれど、肺炎の所為なのか、顔が赤かった。俺も少し赤いかもしれない。 香奈に悟られないように、溜息を装って息を落ち着ける。 「見舞い。お兄さんに連絡したけど」 機嫌の悪そうな声が出て、内心慌てながら「聞いてないか?」と柔らかい調子で言葉を付け足す。 「き、聞いてない……あ、ありがと。でも、移っちゃうから、ダメだよ。部活にも、支障とか、出る、かもだし」 そこまで言うと、香奈は胸に何か詰まっているかのように咳き込んだ。口に手を当てたかと思うと慌てて扉を閉める香奈。扉を隔てた向こう側で、苦しそうに咳をしている音が聞こえて来る。 それが止まるまで扉の外でじっと待つ。 『ごめ……ホント、移ったら大変だから。来てくれてありがとう。約束、ダメにしちゃってごめんね』 咳が止まると、扉越しにそう言われて、とにかくムカついたので強引に扉を開ける。扉に寄りかかっていたらしい香奈の抵抗に合うけれど、そこは腕力に物を言わせて力尽くで押し開ける。 「やっ ちょっと! ホントにダメだって……!」 「お前の為にコンビニまでパシらされたんだ、俺は」 荷物だけ渡してサヨウナラなんて都合が良すぎるだろう。俺は、香奈に、会いにきたのだ。 大体、香奈が今凹んでるんなら、ちゃんと話をしておかないとまた無駄に落ち込まれる。それはかなわない。それに、今日は香奈の為に全ての予定を空けていたのだ。今更フリーにされても困る。兄にどんな厭味を言われる事か。 床にぺたりと座り込んで、驚いている香奈に「あと、焦がしミルクのチョコ好きだったよな? それからジャスミン茶」と告げてベッドの横のサイドボードと呼ぶにも心もとないその台へコンビニの袋ごと全てを置く。 「ダ、ダメだって。移っちゃったら……」 慌てた所為か、掠れた声で香奈が訴えてくる。腕を組んでいまだに床に座っている香奈を傲然たる態度で見下ろした。 「そんなにやわじゃないし、肺炎なんて健康な奴はかからないんだよ」 俺の言葉に、それでも香奈は反論しようとする。 「でも、もしか――「うるさい。さっさと寝ろ」――で、でも……」 あ、泣く。 そう確信した瞬間、香奈の目が潤む。 俺は、別に香奈をいじめたいわけではなくて、けれど、上手く伝えられなくて、いつも、こんな感じになってしまう。 好きな女の涙を、しかも自分が泣かせたような形で見たくはなかった。床についている香奈の腕を強引に引っ張り、猫を抱くように縦に抱き上げる。その不安定な抱き方に、落ちそうになった猫がしがみつくように、反射で俺の首に腕を回した香奈に、その体温と行為とに、自分でも驚くほど、充足感が湧いてきた。 何でだかはわからないけれど、俺は、こうやって俺のことを気にしてくれる香奈に苛々して、よく泣くのが鬱陶しくて、けれど、そんな事を簡単に許容できるくらい、香奈が好きで。何でかなんて、説明は出来ない。 笑いたいような、何だか嬉しい気分で香奈を抱いたままベッドに腰掛ける。それから、香奈の身体をベッドの上へずらして、乗せる。ぼふっと落ちるように香奈がベッドに身を沈めて、ぱちぱちと瞬きが多くなっている様子がおかしい。 掛け布団に手を伸ばすと、香奈は慌てて俺の手からそれを引っ手繰って自分からベッドに横になった。経験上、もう俺には逆らえないと思っているんだろう。急に従順になった様子が、叱られた犬みたいだ。ああ、そういえば、香奈は具合が悪いんだった。 コンビニの袋からヨーグルトを取り出してアルミの蓋を剥がし、付けてもらったプラスチックスプーンの包装を破って、両方とも香奈に差し出すと、上半身だけ起き上がらせた香奈がおずおずと受け取る。 「調子は?」 「ん……大分、良くなったよ」 スプーンでヨーグルトを弄ぶだけで一向に食べようとしない。 溜息を吐いて「食欲は?」と聞くと「ごめんね」と返された。食欲がないという意味だろうかと思って、また溜息を吐いて、コンビニの袋を漁り、ペットボトルやら何やらを取り出す。チョコレートは保存がきくだろうけれど、ペットボトルのジャスミン茶はどうだろうか。温かいものだし、何だか菌とかが繁殖しやすそうな気がする。未開封なら大丈夫だろうかなどと思っていると、つん、とシャツを引っ張られた。 「ごめんね……カノジョなのに、誕生日とか、何も、出来なくて。今日だって、私が我侭言って、空けてもらったのに、ごめんね」 ああ、確かにコレはかなり凹んでいる。 ああ、また泣きそうになっている。 ああ、もう本当にいい加減にしろよ。 ああ、そんな掠れた苦しそうな鼻声でそんな事を言わないでくれ。 「気にしてない」 そんな事よりも、こんなことで凹まないで欲しい。それが香奈の性格だと知っているけれど。そんな女を好きになったのは自分だとわかっているけれど。 これじゃあまるで、誕生日を祝わなければ、デートは完遂しなければ、俺が香奈を嫌うとでも思われているようじゃないか。別に俺は、メールでの一文だっていいんだ。デートだって別に香奈と一緒にいられればそれでいいだけで。 俺が思っていることを全部、口に出したら香奈はどう思うだろうか。 そんな事はしないし、今はまだできないけれど。 「気にしてない。」 もう一度そう言って、申し訳なさそうに、悲しそうに顔をうつむけている香奈に顔を寄せ――「ダメ! それはホントにだめ! ちゅーは無理!」――ると、香奈が慌てて俺の唇に手のひらを当ててくる。 大きな声を急に出した所為か、また咳き込んだ香奈はヨーグルトをボードの上に置くと両手で口を押さえた。と思ったら、布団の中にもぐりこんだ。 ――そこまで気にするか? 普通。 呆れて、でも、何だか顔が綻ぶ事をとめられない。掛け布団ごしに背中を撫でさすってやる。あまり咳き込むともどす事もあるから、それが心配だ。 しばらくして、咳き込む苦しさからか半分泣いている香奈がぼさぼさの髪で、顔を出した。 「やっぱ、無理。ごめん、帰って」 申し訳なさそうに、涙目で訴えられる。俺はそれを無慈悲に、そしてあっさりと断った。 「嫌だ」 「ホント、お願いってば」 もう少し一緒にいたい、と言えればいいのだけれど、いえない俺は、香奈の懇願も無視して、ボードの上のヨーグルトを手にして香奈へ差し向ける。 それを受け取りながら、香奈が困ったように表情を歪めて、心配そうに不安そうに俺を見てくる。 「移っちゃうよ?」 「移らない」 「なんで?」 断言した俺に、首を傾げて問いかけてくる香奈の頬を撫でる。 「気合と根性で」 そう答えた俺の言葉に、香奈がおかしそうに笑う。 その笑顔に、俺は本当に馬鹿の一つ覚えみたいにこいつが好きだなと感じる。 最初から笑ってればいいんだよ。苦労させやがって。 笑って、少し落ち着いたのか「いただきます」と香奈はようやくヨーグルトに口をつけ始めた。 それをぼんやりと眺めていると、香奈が手にしていたスプーンを「あーん」と言って自分の口へ運び、そのまま訴えるように俺を見てくる。 俺に何をして欲しいのか、その意図を汲み取ることが残念ながら出来てしまった。 「さっさと食え」 そう、返した。 ◇◆◇ 上機嫌で俺の手を握った香奈は、自分の着ている暖かそうな、フードに毛皮――ファー、というらしい。なんだか気の抜けた音だ――のついたダウンジャケットのポケットに俺の手を招こうとする。俺はそれに反発して、自分のジャケットのポケットへ香奈の手を拉致した。 それだけの事がとても幸せだと言うように、単純にとても嬉しそうに、香奈が笑う。寒さから、鼻先や頬が紅潮していて、そんな顔で笑うと何だかとても幼く見えた。 『都内でね、十二月上旬まで紅葉がきれいな所、探したの。でね、若を連れて行ってあげたかったんだ』 それを誕生日のプレゼントにしようとしていたのだと打ち明けた香奈に、肺炎が治ったら一緒に行こうと、約束した。 休日の朝という、電車の空いた時間に俺たちはこうして遠出をして、十二月の中旬まで恐らく紅葉が望めるだろう千葉の寺まで足を向けている。 色々と、中々と、お互いに事情を説明して両親から小遣いは貰っていても――聞いてみると都内だったら香奈は俺の分の交通費を出すつもりだったそうだ――痛い出費ではある。 けれど香奈が一生懸命に考えてくれたそれをなかった事にするのが嫌で、今こんな事になっている。 散り際かもしれないけれど、風もさほど強くなく、天気も眩しいほどに良好で、外に出るだけで気持ちが良くなるほど良好な散歩日和だった。 目的地は、明らかに都内とは違う空気だった。風の冷たさに、香奈がびくっと震えて、俺は握っていた香奈の手を更に強く握る。けれど、山の空気はその場にいるだけで、呼吸をするだけで気持ちが良い。香奈もそれは同じようだった。 「マイナスイオンの味がするね!」 「マイナスイオンに味はない」 そんなふざけたやりとりをして笑い合う。 朱塗りの門を潜ると、薬師堂などは紅葉のついでに視線を向ける程度に、遊歩道へ向う。 遊歩道のある森は、なるほど自然環境保護区域に入っているだけあって都会の排気ガスにまみれた身体を癒してくれるような気さえした。確かに寒いのだけれど、木漏れ日が触れるたびに、暖かさを感じて、香奈と触れ合う手も暖かく、澄んだ空気と、腐葉土の懐かしい土の匂いと、木々のどこか青臭い香りとがない交ぜになって、とても心地よい。 ふと、香奈が繋いでいない手をポケットの中でごそごそと動かしているのを見つけて、どうかしたのかと尋ねると、香奈が俺の頬に手を伸ばして、触れた。人の体温ではありえない熱に一瞬身体が震えてしまう。 「ホッカイロでしたー♪」 なにやら、香奈は上機嫌らしい。 ぐいぐいと懐炉を俺の頬に当ててくる香奈の手を、繋いでいない手で押しのける。紅葉で有名なだけあってそこそこ人がいる場所で手を繋いでいるだけでも、俺はそれなりに恥ずかしいような気持ちなのに、こんな事をされてはかなわない。堂々としていればいい、とは思うのだけれど。まだ無理だ。それに節度は日本人の美徳だと思う。 紅葉は大分、地面にも落ちていたけれど、まだまだ残っているものも多く、池の周りの紅葉を見たところで「綺麗だな」と自然と感想が口をついて出た。 紅葉を透かして降り注ぐ蜜柑色の日差しと、清廉な寒さと、小川を流れる水の匂いと、白い太陽に照らされて宝石の粉のようにキラキラと光る細かなちりと、頭上を覆う赤い葉と。 俺の言葉にとても嬉しそうに笑う香奈と。 俺は、冬がとても好きだ。 |