思い出に残す
 香奈は、俺の中学最後の誕生日をとても楽しみにしているようで、かなり早い七月に「ほしいものはある?」と聞かれていた。気が早すぎるとたしなめると「だって、中学最後だよ。ローティーンからハイティーンだよ。もう大人の仲間入りだよ。出来るだけのことはしたいじゃん」と小さな手のひらをぐっと握って力説してきた。お前、人のばかりじゃなく自分の誕生日はどうした。
 ちなみに香奈は少し前に選挙権の勉強をしたためイランが十五歳から選挙権があることにいたく感動していた。
 それから、香奈はローティーンとハイティーンの違いを強く意識するようになったらしいが、ここは日本なのでどんなに香奈が訴えようと選挙権は十八歳にならなければ与えられないし成人年齢も同じくなので「もう大人だよ」という香奈の言葉はとてもおかしい。
 それにしても、十八歳以下で成人し選挙権が与えられる国が多いと、香奈がそれまで知らなかったことに衝撃を受けた。なるほど、日本での成人年齢が二十歳だった過去は香奈のような馬鹿がいるためかと深く納得したものである。

 そんな憐れなくらい馬鹿な香奈は、とにもかくにも俺の誕生日を祝いたくて祝いたくて仕方ないらしい。
 今年はどうするつもりなのか。香奈が一所懸命に俺の誕生日をどう祝おうか悩んでいる姿が面白くて、何かを問われてもわざと何も答えなかった。
 そもそも、香奈にしてほしいことは一つだけで、それは当たり前すぎて言えば逆に香奈から文句を言われそうだったし、特に香奈から欲しい物品はなかった。プレゼントされればなんでも嬉しいとは思うだろうけれど、香奈にこそ贈って欲しいというものは、今のところ思いつかない。
 もしかしたら、彼女があまりにも的を射ないプレゼント等はしないというちょっとした信頼もあるのかもしれない。
 まさか、今年も風邪でも引くつもりじゃないだろうな。体調管理くらいきちんとしてほしいものだ。

 ◇◆◇

 そして、その会話のこともすっかり忘れた十二月。
 香奈が明らかに浮き立った様子なので、サプライズなど何もなく“ああ、明日は誕生日だから香奈が何かするな”と簡単に予想してしまっていたが、何をしてくれるのだろうかは、楽しみだった。俺もとても、子供なようだ。祝ってもらえることが、それが好きな女のものであれば、なおさら心待ちにしてしまう。

 風も随分と冷たくなり、気温も、朝は吐息が白く翳るほどに冷たい。俺は冬が好きだけれど、香奈は嫌いでこそないものの寒さ冷たさが苦手なようで、すでに学生らしい紺色をしたハイウエストのピーコートに淡くピンクがかって見えるほど薄い灰色の滑らかなマフラーと、それと揃いの手袋をしていた。電車の中ではひどく暑そうだが、外で寒いよりはマシらしい。
 一応は引退した身であり、後輩が部長を引き継いでいるので、俺たち三年が部活へ頻繁に顔を出すのは好ましくない。けれど、高校へ進学した時に腕が鈍っていてはたまらないと、高等部に掛け合って希望者だけでもと練習できるようにしてもらえた。勿論毎日ではないけれど。
 高等部は徒歩で行ける程度の距離だけれど、それでも今まで通りとはいかない。俺に付き合っている香奈も十分程度早起きすることになった。
 毎晩遅くまで勉強している香奈は、ひどい時は手摺やドアや、あろうことか俺に寄りかかってうつらうつらとしていることも多い。一応は進級・進学テストで万が一があってはいけないと思っているのだろう。一般入試の受験生よろしく英単語カードを自作したり、変な語呂合わせで歴史を覚えるのに必死なようだ。しかも、語呂合わせを覚えたものの、語呂合わせの意味を忘れていることが多いのだからたちが悪い。肉を斬って骨を断たれている。
 今日も、電車に揺られ、半分以上目蓋を落としていた香奈だったが、急に力が抜けたようによろけたかと思うと、一瞬で驚きに目を見開いて俺の腕に掴まった。

 ――お前は疲れたサラリーマンか。

「ちゃんと勉強しておかないから、こんなことになる」
 溜息混じりに心底馬鹿にして言ってやると「先生には大丈夫だって言われたよ!」とムキになって、けれど、電車内だからと声を慎んで訴えてくる。香奈の言う大丈夫というのは、おそらく氷帝高等部への進学のことだ。
「じゃあ、こんなになるまで無理することないだろ」
 続けた俺の言葉に「ばかし」といきなり言ってくるので「馬鹿香奈に言われたくないな」と頬を少し強い力でつねってやる。予想通り痛い痛いと喚いたが、まさか目が潤むほど痛かったとは思わなくてすぐに手を離す。
 そこまで痛かっただろうか。内心、申し訳ないような気分で、けれど謝罪するべきか悩んでしまった。人を先に馬鹿にしたのは香奈なのだ。
「で、できれば同じクラスがいいから、頑張ってるのに……!」
 つねられた後に赤くなってしまった頬を押さえながら、痛みの所為で涙の滲んだ瞳で俺を責めて強く睨んでくる。
 高等部では学力を基準にクラス編成が行われるため、進級時のテストの点と得意教科が近ければ近いほど同じクラスになる確率が高い。しかし、学力的には有田がトップ。すぐ下に帰国子女の樺地、少し離れて俺と鳳。そのかなり下に香奈がいて、更にかなり下にデッドラインがある、という程度に学力の隔たりがある。
 しかし、樺地の純粋がゆえにというあの理由での学力は正直納得できない。努力は純粋に負けるのか。有田は、あれは要領がとてもいい。そういう意味で頭はいいが、おそらく俺や鳳とは別の回路を勉強に使っているに違いない。
 しかし、香奈は、確かに俺が言う程馬鹿ではないが、正直氷帝内では中の下か下の上程度でとても普通だ。
「無理だろ」
 即座に切り捨てると、香奈は平手で俺の胸の辺りをべしべしと叩いた。憤っているらしい。子供の駄々と全くかわらない。
「俺は全力を尽くす。逆にそれが簡単に香奈に追いつかれたらショックだ」
 そこまで言うと、今度は叩く手が拳にかわって腹の辺りを殴ってくる。おそらく、香奈としてはそれなりに力を入れているつもりなのだろうし、それなりのダメージを俺に与えてやろうという意図がわかる程度には力が入っていたが、残念ながら、かなり痛くない。
 そんなことで、ああ、俺にはちゃんと腹筋がついているのだなと感じてしまった。腹筋を鍛えるだの打たれ強くするだのと兄に腹を踏まれたのも無意味ではなかったようだ。ちなみに兄の身長は鳳並で体重は七十キログラム程度なので、練習生は俺たちのトレーニングを見て引いている。俺と兄の名誉の為に言うが、プロの格闘家ならこの程度はしている。ただ、加減をしないと手塚さんのようなことになるので、さすがに腹の上を跳んだりはしない。正直に、今の俺ではそれをされては死ぬと思う。
 とにかく、香奈の軽い拳は俺にはノーダメージだったけれど、慣れない動作をそれなりに力を入れて行ったために「手、痛い……」と呟いた香奈は、また俺を睨んだ。

 ちょっと待て、それは俺のせいじゃない。自業自得だ。

 どうしようもないことに、本当に疲れたのか香奈はそのままむっつりと黙り込んだ。電車の中であるし、大人しくしていようと思ったのかもしれない。
 けれど、しばらくは無言だった香奈が、急に突拍子もない言葉を発した。
「ね、若、サイレントモードにしてても結構うるさいんだよ、携帯って。寝るときはちゃんとバイブレーション切って音も消しておいたほうがいいんだよ」
 ――何をいまさら。
 確かに俺は香奈に教えられても携帯電話を理解する気のない――通話と連絡ができれば充分だ。まあ、自分で契約するまでには覚えておこうとは思っているけれど――ことは確かだが、音や振動の設定くらいは何とかできる。そもそも、振動がうるさいなど当たり前すぎる。
 相槌も面倒なので適当に喉から出た言葉で相槌の代わりにする。
 しかし、香奈が急に変な話題を振った理由は、誕生日当日の朝――つまり、翌日に解った。
 なぜなら、香奈が朝一番に問いかけてきたからだ。
「お誕生日おめでとう、おはよう若。あのね、あの……メッセージ、見た?」
 電車に乗り込み、俺の傍まで躾けられた犬の速さでやって来た香奈は、そわそわとした、けれど期待で紅潮した頬をして、やはり期待で輝いた瞳で、俺を見つめてくる。
 メッセージ?  いつからの話だ。昨日の夕方には一度見た。俺は筆まめなたちではないし、向日さんのように一日に何度もやりとりするような交流好きな性格でもないので届く連絡もさほど多くない。確認するのは夕方に一度程度で充分だ。
「見てない」
 昨日は香奈からの連絡は来ていなかったと、思い出す。何か言われる前に携帯を操作して新着連絡がないかを確認する。それと同時にメッセージが届いていることに気づいた。香奈も送ったからこそ、俺に聞いてきたのだろうし、届いている方が正常だ。
 内容は【15歳のお誕生日おめでとう】と、それだけ。顔文字を嫌う俺の性質を香奈は知っているから、過剰な装飾はしない。それだけの気遣いが、俺は嬉しい。
 しかし、内容自体はどうということもない。不思議に思って香奈の顔を見ると、香奈は携帯を掴む俺の手に、自分の手を添えて携帯画面を覗き込み「下のほう、見て」と言った。メッセージの送信時刻が0:00になっていた。珍しいぞろ目。偶然ではないだろう。
「勉強に集中してろよ」
 呆れた声が出てしまう。こんな形式ばかりのことに、どうして香奈は囚われるのだろうか。
 けれど、香奈がこうして自分なりに色々と考えて祝ってくれるのはうれしいことだ。
 昨日の言葉は、夜中に届けるはずのこのメールの着信音や振動のせいで俺が眠りから覚めることのないようにと香奈なりに気を使った結果らしい。
「一度やってみたかったんだ。世界で一番最初にお誕生日を祝うの。ホントはね、一緒にプレゼントもあげたかったんだけど、こんな時間に邪魔したらご迷惑だし呆れられるかなぁって」
 香奈は何を言っているのか。
 十三の時から、香奈は毎年世界で一番最初に俺の誕生日を祝っているのに。家族は、帰宅してからおざなりに祝いの言葉をかけ、母だけが気を使って夕食を俺の好物にするものの、プレゼントもない、普通の日だ。意識と戸籍や書類の上でしか違いがない。
 さてどう反応するべきかと悩む無反応の俺に、香奈は少し困った様子で、そろそろと俺の手に添えていた小さな手を離す。
「ちゃんと、他にプレゼントあるよ?」
 いや、別に俺はプレゼントがこれだけだったと思って凹んでいるとかではないのだが。何だその斜め右上の思考の展開は。

 ――……ああ、そうか。香奈はただ不安なだけか。

 けれど、嬉しいと素直に言葉に出せるほどの感動は正直なかった。ああ、香奈はどうしようもない馬鹿だけれど、俺はそれを可愛いと思ってしまうほどの馬鹿なのだな、と自分を判断する程度の感情の揺れしかない。別に嫌でもないけれど、義務的にありがとうと言えば良かったか。
 俺はかなり素直なので、世辞を言うのも、辛い。
「そっちは、期待してる」
 けれど、残念ながら俺は天邪鬼でもあるので、“そっちは”などという言い方で全てを無理矢理纏め上げた。おそらく天邪鬼と素直はニアリーイコールで結ばれるのだろう。
 氷帝中等部の学園前駅で下りる。中等部へ向かう香奈と、高等部へ向う俺とでは降り口が違うのでホームで別れることになる。「じゃあ」と降り口に向おうとしたその時「今日、授業全部終わったらすぐに交友棟の屋上の前の踊り場に来て」と俺の制服の裾を抓んで香奈が言い出した。
 屋上は、通常は生徒に解放されていない。馬鹿共が屋上で球技を行って色々面倒なことになり、生徒の保護者から文句が飛んだからだ。けれど、意味もなくそんな場所に来いとは言わないだろう、さすがの香奈も。
「わかった」
 うなずいてやると、裾を抓んでいた手を離して、香奈は両手を口元に添える。
 登頂時の“ヤッホー”だの、花火観覧時の“たまや”だの、歌舞伎の屋号だのを叫ぶ時のように。駅のホームで大声を出すなと叱る間もなく、けれど、普通の声量で香奈は言った。
「ホントに、すぐ来てね。ダッシュだからね!」
「……半分了解」
 香奈や、もう卒業してしまった向日さんではあるまいし、廊下を走れるか。
 とりあえず、香奈はその直後、俺に念を押しながら、降り口方向に後ずさっていたためホームの鉄柱に頭をぶつけた。痛かったようだ。

 ◇◆◇

 急にかけられた声に「なんですか」と返す。
「ヤケに機嫌いいじゃねぇか」
 跡部さんは、高等部一年で、三年の引退したこの時点で部長だ。なぜ跡部さんが海外留学しなかったのか不思議でならない。確かに、今の跡部さんを筆頭として、チビ助までは日本でもかなりレベルの高い選手が多いけれど、それだけだ。全体的な層の厚さを見れば諸外国に比べるべくもない。現在のATP(男子プロテニス協会)のシングルスランキング百位内に日本人がいないことからも、それはわかる。WTA(女子テニス協会)になれば幾人かはいるが、女子と男子ではそもそも違うのだから比べる意味すらないだろう。
 鳳などは跡部さんが氷帝を好きだから来てくれているのだと言っていたが、真偽の程はわからない。
 正直、どうでもいい。
 俺としては、跡部さんに下剋上するチャンスが再びめぐってきただけのことだ。
「そうでもありませんよ」
 年長者・中等部生徒問わずの指導を終えて、自分の練習に入った跡部さんはボール拾いに専念している俺の答えに笑う。腰を落としてコートに転がるボールを拾うだけでも、先輩らの練習風景を見るだけでもそれなりの練習にはなる。何もしないよりはずっとましだ。
 今日か明日あたり、中等部の後輩共がきちんとやっているかチェックにでも行こうかなどと考えて、膝をついてボールを拾っている俺の目の前に、跡部さんがボールを落とした。拾え、と無言で言っているのだ。
 まるで靴を舐めろと言わんばかりの素晴らしく偉ぶった態度に、正直かなりムカついて文句と厭味の一つも言おうとした瞬間、跡部さんが先を制した。
「バースディプレゼントにワンゲームだけくれてやるよ」
 覚えられていたことを、少しだけ嬉しく思ってしまうことが、何故か悔しい。
 この、無駄に帝王然とした、人を不快にするほど偉そうな態度に、イラつく。
 けれど、俺は無様にも、目の前に転がるボールを、掴んだ。

 それから、“ああ、そういえば誕生日だったのか”と、顔見知りの先輩方からワンゲームずつ、めぐまれた。プレゼントなどとは思えなかったが、正直、試合形式でラケットを振れたことは、挑む立場で振れたことは、嬉しかった。
 中等部最高学年になってからは、どうしても指導や指示に割かれる時間が必要だった上、今度は自分が挑まれる立場になったからだ。下剋上など許す気はないが、俺は下剋上する方が性に合っている。
 しかし、氷の世界とやらは、正直、腕が馬鹿になるんじゃないかと言うほど回転をかけるか、俺の死角を見抜かれる前に視線が追いつく前に返球するようなものでなければ破れないのではなかろうか。もしくは、こちらが跡部さんの死角へ打ち返すか。ある意味、卑怯なほど強力な技だ。跡部王国は少々名付けを疑うが、タンホイザーサーブといい、跡部さんが去年のこととは言えチビ助に負けたなど、信じられない気がしてしまう。
 あんな化け物ばかりの中、俺はこの二年間で、どれだけ成長できたのかと思うと、思わず拳を握った。
「若?」
 隣に居る香奈が、いきなり人の眉間をぐいぐいと突いてきた。何なんだ、一体。うっとうしくその手を払いのけると「かっこいいのに、眉間に皺寄せてたらもったいないよ」と、逆に香奈が眉間に皺を寄せてたしなめてくる。
 俺用の質素で量の多いシンプルな握り飯と唐揚げと簡単なサラダと漬物の弁当を作った香奈は――唐揚げにHappyBirthday! と自作したらしい旗がついていたのには呆れてしまった――自分用にはハムとレタスとトマトとバゲットをそれぞれ分けて持って来て食べる時に挟み込んでいた。握り飯が俺の手には随分と小さいのだが、それを言われた香奈が手で握るジェスチャーをしたので、納得した。
 人にからかわれる事を嫌った俺が音楽室や本館屋上への階段で食事を摂ろうと案を出したのだが「それ、七不思議でしょ」と嫌そうに言われてしまった。ただ、香奈も目立ったりからかわれたりが好きなタイプではなかったので折衷案とも言えないが香奈のテリトリーである美術室で弁当を食べている。
 画具の独特の香りはするが、それも残念ながら慣れてしまった。美術室は換気の関係で窓が大きい。とてもよく空が見えるし、少し窓辺に寄れば校庭の様子も良く見え、この時間は蛍光灯を点けずとも、とても明るい。ただ、光による作品の劣化を防ぐため暗幕だけではなく窓面にはシャッターまで備え付けられているので、これが下りるとかなり息苦しい空間になる。
 今は暗幕も引かれていなければシャッターも下りていないので、冬特有のどこか弱々しくまろやかな光とやわやわとした暖かさが美術室内に降り積もっている。
「お弁当、美味しくなかった?」
 心配げに尋ねられて、慰めるのが面倒なので「そうでもない」と答えると、香奈は安心したらしい。背凭れのないイスに腰を下ろしている香奈は、膝の上のチェックのナプキンにバゲットを置いて、先ほど作った俺の拳を指先でさらりと撫でてから、何故か「うん」と呟いてまたバゲットをぱくつき始めた。
 意味不明な女だ。
 意味は不明だけれど、何かに満足したらしく機嫌はよさそうだった。そんな香奈の様子を可愛いなと思ってしまう俺の脳みそはネジが抜けているか錆び付いているか何か重大な欠陥があるかしそうだ。
 そんな自分の脳に対する不信感を抱きながら、しばらく黙々と二人で食事をしていると、急に香奈が俺の手をぺたぺたと叩き、食べかけのバゲットを指差した。

 香奈、お前……自分の胃の大きさぐらい、食の量くらい把握しろよ。

 俺の視線に困ったような表情で、香奈はバゲットをしまおうとしたが、仕方ないのでそれを奪って問答無用で食ってやる。
「ありがと。あのね、ケーキも作ったんだけど、食べられそ?」
 香奈の言葉に、胃と相談する。食えるには食えるが腹八分目よりは少し多くなってしまいそうだと思案していると、清潔そうなハンカチで包まれた小さなそれを美術室の作業机の上に置いた。香奈の手のひらにすっぽりと納まる程度の小ささで、おそらく一口二口で完食出来そうなものだった。
「食べる」
 そう一言答えると、香奈は安堵して笑う。
 食後に食べた一口サイズのカップケーキは、ブラックチェリーが無駄にハートをかたどっていて、そんな暇があるなら勉強しろと言いたくなった。そうして、昼食を終え、お互いの教室に戻る寸前、香奈は俺を呼び止めた。
「若。プレゼントは放課後渡すから、絶ぇー――ッ対に!  交友棟の屋上前、すぐ来てね」
 いつになく真剣でしつこい香奈の様子に、わかったわかったとおざなりに返す。

 放課後は、すぐだった。
 有田から鳳、俺へと伝わったが、香奈の馬鹿は放課後のロングホームルームをサボったらしい。有田が、香奈にどうにか誤魔化してくれと泣きつかれたようだった。仕方なく教師には腹痛と偽ったらしいが。
 香奈は馬鹿ではあるが、実は授業やホームルームをサボるなど絶対にしなかった。根はとても真面目だったと言うよりも、普通だったのだ。とても一般的な日本人らしかった。そもそも、授業やホームルームをサボる方がどうかしているのだから。
 しかし、珍しく香奈も頭を使ったものだ。香奈がホームルームをサボるなど、俺はその態度を叱らねばなるまいと無駄な使命感に駆られる。香奈の馬鹿を、面倒だと、俺には関係ないと、放っておけるような関係は、おそらく一年の頃には脱していた。
 いくら俺の誕生日を祝いたいからと言ってもホームルームをサボられては素直に喜べないではないかと、言わなければならない。
 廊下を走りこそしなかったものの、交友棟の屋上前にいたる階段へ辿り着いた時には徒歩ではありえない短時間に驚いた。
 香奈は、階段の最上段に腰掛けたまま「若ー」と嬉しそうに笑った。この馬鹿が。
「お前、ホームルームサボるなよ」
 第一声で叱った俺に、香奈はすぐに、けれどあまり堪えていない様子で「ごめんね。うちの先生、話長いから」と謝った。それから、スカートを手で押さえて立ち上がるとせわしない様子で「早く早く」と俺を急かした。
香奈、お前……」「あとでいっぱい怒られるから、ちゃんと逃げないから、今じゃないとダメだから、ホント早く!」
 その態度に少々苛立った俺の言葉に、香奈は懇願と哀願と切願をミキサーにぶち込んだような表情をして訴えてくる。
 香奈の様子に渋々と口を閉ざしてしまう自分の甘さにうんざりしつつ、最上段に上ると、香奈は俺に、ドアを開けて、と言った。鍵は、と聞こうかと思ったけれど、馬鹿の香奈でも、そこまで愚かではないだろう。ただ言われたとおりに、無駄に豪奢な扉に手のひらを置く。
 先ほどの思考をまず切り替えて、それからじっくりと、手のひらに力を籠めた。

 ◇◆◇

 風の抵抗を振り切って押し開けた扉の向こうには、強く大地を舐める冷たい風の舌があり、目を細めてしまうほどの眩しすぎる力強い光があった。
 強い光の根元で、黒く影絵のような建造物が、絵本のように地平線を装飾している。
 遮るもののない空は一切の不純なく、一切のけれんもなく、大きく広がる自身を素晴らしく潔い夕焼けに染めていた。
 ただ、俺の目を奪ったのはそれらではなかった。

 金色の光を放ちながら橙に沈む炎の塊。
 それを真っ向から受け止めてなお屹立する高層ビル。

 太陽が、二つあった。

 中学最後だから、  と、その風景に目を奪われた俺を一歩先んじた香奈は照れたように言う。
 私が知ってる中等部(ここ)から見られる一番素敵な景色だから、  と香奈は少し自慢げに俺を振り返る。

「夕陽が二つある」
 そう言うと、香奈は落下防止の金網の前に設置された鉄柵に腕を乗せ、それをより近くで見ようと身体を乗り出した。冷たい風が彼女の髪をなぶる。香奈はそれを片手でまとめて押さえつけた。白い首が寒々しく晒され、後れ毛が風にされるがままに香奈の首筋をくすぐる様が良く見える。
 夕陽だけでもとても眩しいのに、それに対抗しているビルも負けじと反射するものだから、暖かさを感じてしまいそうなほど、朝陽だと勘違いしてしまいそうなほど美しく明るい。
 そして何よりも圧倒的に力強い。

 少し視線を落とせば、けれど下は暗い夜が侵し、蛍光灯の光がぽつぽつとささやかな自分の陣地を照らし出している。
「向こうの、背の高いビルってガラス張りだから、太陽の光をそのまんま反射するみたい。角度とか距離とか位置があるから、冬のこの時間、屋上のこの場所でしか見れないけど、すごくすごく本当に絶対にレアだよ。知ってるの、きっと私のほかに何人もいないよ」
 自慢げにそう言ってから、香奈は吹きつける風に小さく、さむ、と呟いた。
 その小さな体躯を風から少しでも守れるようにと抱きしめるようにして包む。香奈の後ろに立ち、鉄柵を握る小さな手の横に、自分の手を置いた。抱きしめたわけではないけれど、綺麗に俺の腕の中に納まってしまった香奈は、俺の行動に照れ隠しで変な声を上げてから「晴れて良かったー。もう、ホント毎日毎日まーいにち天気予報見たんですよ。昨日は照る照る坊主も作ったんですよ」とやはり照れ隠しで恩着せがましく言ってくる。
 はぁ、と吐いた香奈の吐息は、寒さに凍えた皮膚と同じく、白い。

「あのね。もう、来年の若の誕生日には中等部(ここ)にはいないんだって思ったら……今回が最後だって思ったら、絶対に、絶対に、学校の思い出になるようなプレゼントにしたくなったの。だからお弁当作ったり朝から頑張ったんだよ。少しでも、中等部時代の素敵な思い出になるといいなって」
 でも、ちょっと寂しい風景だね、と切なく言って香奈は俺の胸に後頭部を乗せた。叱る気を完全に殺がれてしまって、溜息を、香奈に聞こえるようについて見せた。
 そして、唐突に「ぎゅう」とねだるように命令されたけれど「牛か」と返すと、香奈は後頭部で人の胸を小突いてきた。「人に見える」と答えると「今も、人に見られたら恥ずかしいよ」と香奈はおかしそうに笑う。たしかにそうだと、香奈から一歩離れ、その隣に移動する。

 二つの太陽は刻一刻とその力を喪っていく。
 十分も経ってはいないのに、今一瞬一瞬全てが音を立てて崩れているのかと錯覚するほどに。なるほど、だから香奈は俺を急かさせたのかと気づく。圧倒的な最初の美しさはなく、今は綺麗な風景としか言いようのないものに変わっていく。ただ、今でも、とても綺麗だと素直にそう思える。それでも、あと数分の間ですら太陽は俺たちの鑑賞を許す気はなさそうだった。
 水平線か地平線かはこの位置からではわからないけれど、太陽はまるで切り絵の建造物を割るように、自然のままのそこにゆっくりと還ろうとしている。
 夕陽が力尽きるかのように光を弱くすると、ビルに反射したそれも弱々しくなっていく。紫が、黒が、紺が、闇が、地面からじわじわと湧き上がるように、空から降ってくるように、あっという間に夕陽を殺していく。
 夕陽が息絶える寸前に、香奈は俺の手に小さな自分の手のひらを重ねた。
 昼と夜の一瞬の狭間は、けれど、太陽が地に眠ることで終わり、その残滓だけが空気を満たした。そして、香奈の手のひらに力がこもる。
 蛍光の黄色味がかった小さな緑が、太陽の死を惜しむようにその上で瞬く。

 しばらく驚きに瞳を瞠っていた香奈は、俺の手を握って僅かに微笑んだ。
 何か言いたいようだったけれど、偶然にしても珍しすぎる出来事に、この余韻を壊したくないのだろう。何も言わずに、ただ、冷たい鉄柵を掴む俺の無骨な手をゆっくりとそれから引き剥がして、温かで華奢な両手のひらで、優しく抱きしめた。そして、やわらかな唇を手の甲に押し当ててくる。
 ふわりとした感触が、声にされなかった言葉を俺に伝える。
 ちらりと俺を覗い、伝わったかと不安そうな表情の香奈に、俺は彼女の手を乱暴に奪う。そうして香奈が俺にしたようにその滑らかに白い手の甲に唇を当て“ありがとう”と動かすと香奈は幸せそうに笑う。