St.Valentineday
「引越し?」
 パパが、少しだけ言いづらそうに口にした。その言葉を鸚鵡返しにした。
 氷帝の高等部に行くために勉強していた中三の寒い寒いこの日。
 オリオン座がくっきりと見えるほど外が直ぐ暗くなるから、ほとんど毎日、駅から若が送ってくれてた。ひっそりと繋いだ手があったかくて、来年も、再来年も、ずっと、こんな風に一緒にいるんだと、何の根拠もなく確信してた。
 神奈川に行く。 立海大付属を受験する。
 そう若に告げると「がんばれよ」と言ってくれた。私は馬鹿みたいに明るく笑って頷いた。

 灯かりを落とした部屋で、ベッドに寝そべって天井を見上げても、今は黒く染まった壁紙が私をじっと見下ろしているだけで、何だか怖くなって視線をそらす。
 先週からママは料理の勉強の為にフランスに行ってしまって、パパは今までよりずっと長距離の通勤になってしまったのでたまに会社の用意したホテルに泊まったりしていて、お兄ちゃんはいるけど、やっぱり、一人で居る時間が長くなって、三ヵ月後には若と会えなくなる、って、そう、思うと。
「寂しい……」
 ぽつん、と静寂に言葉を落とす。

 ああ、いま、わたしは、とても、さみしい。

 ……うわあ、恥ずかしい! なに、なにわたし! 中学三年生ですよ! さみしいって! なに!
 あまりの自分のキモさに引いてしまいながらベッドの上でじたばた暴れてみる。暴れて暴れてちょっと体が暖かくなってきた頃、疲れて動きを止める。
 やっぱり、寂しい。やっぱり、みんなと同じ学校に通いたかった。
 でも、あんまり寂しがると、きっと、若にも迷惑だ。ちゃんと、我慢しないと。

 ◇◆◇

 俺を待っている間に眠ってしまったらしく、香奈は自分の席に突っ伏して自分の鞄を枕に、静かに穏やかな寝息を立てていた。床に落ちた本はどうやら眠りにつく寸前まで香奈が読んでいたものらしい。膝を曲げて床に落ちた本を拾う。
 空は既に青く暗く、空気も温度も低く、暖房の止まった教室内では息が白くなるほど暗く冷えていた。
 寒いし暗いので待たなくていい、と言っているのに、立海を受験すると決まった日から、香奈は毎日、俺を待つ。引退した俺に部活はない。けれど、エスカレーターで氷帝高等部へ進学する、成績上位の俺や鳳は、身体が鈍らないようにと後輩の指導をしたり、高等部のテニス部員に誘われて自主練習をすることも多い。この時期に焦って勉強をしているような奴が、高等部に上がれる訳もない。返して言えば、普段それなりに勉強さえしていれば、受験生よりは格段に楽に氷帝の高等部へ上がれる。香奈も心細そうに不安そうに勉強はしていたけれど、教師からは今年進学が危うい生徒はほとんどいないと告げられていたし、きっと立海ならばきちんと合格してくれるだろう。
 そんなことを考えながら、手中の本をぺらぺらと捲り、それが俺の本だと言う事に気付く。そういえば都市伝説に近い学園七不思議の本を貸していたような気がするなと思いながら、こんなものを読んでいる余裕があるのかと少しばかり呆れた。
「っんー……」
 唸るような声が耳に入り顔を上げると、香奈が寒さにか、それとも机の硬さにか、鞄の寝心地の悪さにか、眉間に皺を寄せて寝苦しそうにしていた。香奈の寝顔を見た回数は、そう多くない。少しの間眺めていたかったけれど、風邪をひかれても困るので、パタンと本を閉じるとその眉間を指で突いてやる。香奈はくすぐったそうに身じろぎをして、俺の手を掴んだ。
 途端に目を覚ました。
 多分、前髪でも払うつもりだったのだろうが、くすぐったさの元凶が俺の手だと気付いて驚いたのだろう。香奈は目を瞬かせて俺を見る。よほど深く寝入っていたのだろう、まるで幻が本物だったかのような驚き方だ。
「わかし……」
 寝起きの僅かに掠れた声が、ぞくりと鼓膜を弄った。
「顔に跡が付いてる」
 ちいさく、ため息をつく。そして暗い中でもしっかりとわかる頬についた机の木目の跡に、自分の頬を示して指摘してやると、目を瞬かせていた香奈は、今度は頬を擦り始めた。
「かえろ?」
 頬を擦りながら、むにゃむにゃと眠そうに香奈が言ってくるので、軽くうなずいてやる。香奈は目やら頬やらを擦りながらゆっくりと立ち上がった。それを一瞥してから、先に教室を出る。俺を追って、小走りに香奈が「――っ!」ころんで突っ込んできやがった。
「あ……」
 不意の事だったので脚に力を入れる事も叶わず、バランスを崩しながら咄嗟に受身を取った。しかし、逃しきれなかった衝撃が背から腹へと走り、痛みに、それを逃すように息を吐く。鳩尾の辺りにある香奈の顔は、現状を理解し切れていないきょとんとした表情だった。
 上半身を起こしながら、怪我はないかと問うと香奈はのろのろと起き上がりながら首を横に振る。
「大丈夫か? 前見て歩けよ」
 寝起きなのだから、もう少し移動に配慮してやれば良かったかと思いながら言う。香奈は眠そうな、とろりとした目で俺を見上げて、ごめんね、とばつの悪そうな声で謝罪した。
 そして、もたもたとした動作で俺の上から退こうとする。
「んしょ」

 その時、香奈の膝が、俺の下腹部を擦った。

 思わず、息を詰める。
 香奈が退いた瞬間に立ち上がり即座に下駄箱目指して足早に歩く。
 ざあざあと勢いのいい自分の血流の音が、耳の中で反響して、心臓が無慈悲な警告の鐘を鳴らす。
 顔が熱いような気がして、落ち着くために“二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三、二十九、三十一、三十七……”と素数を小さい順に片っ端から頭の中で数える。

 今のは、本気でヤバかった……!

 一応、俺も男で、健康で、そういうところを香奈は解っているのだろうか。
 いや、意識していないはずはない。キスをする気がなくても、俺が顔を近づけると赤くなるし、多分、香奈だって、わかってはいるはずだ。俺たちは異性で、異性が好き合う最大の本能と欲望の理由を、知っているはずだ。
 ただ、無防備とでも言うのか、隙だらけとでも言うのか……あまり頓着していないと言うのがしっくり来るかもしれない。
 俺たちは中学生だ。
 キス以上のことなんて、してはいけない。まだ俺と香奈は、お互いの肌に触れれば、非行として補導の対象にされてしまう、あれは、そんな、行為だ。実際に補導されなくとも。だから、頓着していない香奈が正しい。出来るわけがないしてはいけない想像すら許されていない考えてはいけない。それなのに――ああ、もう、本気で勘弁してくれ。急激な欲望に目の前が明滅した。涙さえ滲みそうな、これはきっと、   ああ、だめだ。答えを出したら、逃げられなく、なる。
 ――何から?

 口を押さえたまま、下駄箱に着いた俺の背中が、正確には背中のブレザーが、つんと引かれた。ゆっくりと振り向くと、香奈が眉尻を下げた情けない表情で俺を見つめながら、肩で息をしている。火照った頬が、そして唇がやけに目についてしまう。
「お、こった……?」
 身長差の所為で、全力で早歩きした俺を、香奈は走って追ってきたらしい。不安気に俺を見上げてくる。
「怒ってない。……少し、驚いただけだ」
 なんとか平静を装って、香奈から視線をそらしながらそう応える。安心したらしき香奈は呼吸を整えるように大きく息をついた。
 柔らかい曲線を描く香奈の頬が今は赤く染まっていたことを思い出し、それだけの事に、見慣れているはずなのに、心臓が極端に反応する。とても強く触れたい、と思う。
「あし、はやかった、から……」
 肩で息をする香奈は、体育の授業がなくなり勉強しかしていない所為もあるだろうし、寝起きの所為もあるのだろうけれど、どうみても運動不足だった。
 香奈は今日は髪を結い、ピンで止めていて、いつもは隠されている白いなめらかなうなじが晒されている。走った所為か、そこが薄っすらと汗で滲み、蛍光灯の光をゆるく反射していた。後れ毛が、その細い首に妙に艶めかしく張り付いている。
 今、香奈を見ていると不埒な思考をしてしまいそうで、俺は咄嗟に視線を逸らす。
「悪い。今日、兄さんが稽古つけてくれるから、早く帰ろうと思ったんだ」
「そっか。じゃあ、早く帰ろう」
 俺のブレザーから手を離すと、納得したように香奈は頷く。この間に息は整ったようで、軽く駆けて自分の靴を取り出し、上履きを脱ぎ始める。俺もそれを追って、自分の下駄箱を開けた。
 香奈を家へ送る途中、彼女が俺の手を握ろうとする度に、自然に……と言っても意図的に避けているのだからある程度は不自然になってしまうけれど、出来るだけ自然に手を動かし、ポケットに入れるなり鞄を漁るなりして、握られないようにした。
 今は、香奈に接触してはいけないと、強く感じた。

 学校で過ってしまった不埒な思想に酷く落ち込む。
 汚く思ったり、恥じるようなものではないのかも知れない。たくさんの本を読んで、それが当たり前の人間の営みであり、授業さえ行われる重要な事であると知っている。けれど、自分が酷く厭らしく感じられて仕方がない。知識としては、知っている。授業の延長でHPVワクチンの接種を受けた時でさえ、自分がそういった行為をする将来が来るなど、一切の実感がなかった。けれど、それなのに、何の予兆もなく盲目を無理やり抉じ開けられた、こんな感情と衝動に、頭がついていかない。
 香奈を酷く裏切ってしまったような、酷く後ろめたい気持になる。香奈は絶対に俺に対してそんなことをしたいとか、思っていないのだから。香奈はただ、俺の側にいられればいいだけで、一緒にいて会話をして、たまに触れ合って、勉強をして――断言できるけれど、香奈はそれ以上のことを、少なくとも、今は、俺に望んでいない。純粋なまでの、幼いほどの恋情と愛情と信頼しか、今の 香奈にはない。一年の頃からずっと香奈を見てきた、俺にはそれが確信できてしまう。深い口付けでさえ、心の準備が出来ていないと怖がるような様子さえ見せるのだから。
 それなのに、俺は、その信頼を裏切るように、抱きしめた時の香奈の心地の良い柔らかさだとか、近付いた時の香奈のどこか懐かしい太陽のそれにも似た甘い香りだとか、深く口付けた時に香奈がひっそりとするささやかな吐息だとか、その皮膚のなめらかでしっとりと張り詰めた感触だとか、まだ触れたことのない制服の布地をささやかに押し上げている胸だとかを思い出して、そして――

 雑念を振り切るように稽古に打ち込むと、兄に、その体力をテニスには使わないのか? と茶化されてしまった。跡継ぎである兄は俺よりずっと強い。だから、稽古だけに集中できる。けれどどんなに粘ってみても、最後には身体を投げ出されて強かに背を打つ。手の甲で汗を拭いながら立ち上がろうとし、兄に額を押さえられた。立てない。
「これ以上やったら夕飯吐く。今日は終わりにしよう」
「……はい」
 子供の頃、稽古のし過ぎで、兄も俺も戻してしまったことがあるので、その言葉に素直に従う。確かに、昼食から今まで何も口にせずにテニスやら古武術で体力を使ったというのに食欲が全く湧いていない。
 兄は相手の疲労を見抜き、長時間かけてギリギリまで負荷をかけてくる。父は短時間で恐ろしく集中力を必要とする鍛錬を好む。
 兄は「体力が無ければ、一番悔しい負け方をする。実力を発揮するためには体力が必須だ」と言い、父は「だらだらとやっていても何も効果は無い。一瞬に極限まで集中出来る奴は強くなる」と言う。
 もちろん、門下生の殆どは型だけで、ここまで闘いを意識した稽古は俺以外にはほとんどいない。これだけ子供の頃から運動していれば代謝がよくなるし、少しの運動で汗をかくようになる。汗だくになって重みの増した胴着を不快に思っていると、兄が俺の額を押さえていた手を退け、俺の手首を掴んで強引に立たせる。
「ありがとうございました!」
 頭を下げる。
「どういたしまして。若、今日、何かあったね」
 可笑しそうに笑った兄は、立たせた俺から手を離し、細く長く息を吐いて、汗で額に張り付いた髪を、邪魔そうにかき上げる。
 わざわざ今日の事を思い出させる兄の意地の悪さに辟易しつつ「兄さんには関係ありません」と、自分でも不機嫌だと思う声で答えた。ここまで、色々と関係ないことを思い出して考えて香奈のことを思考から追いやっていたのに、兄のせいで俺の努力は全て水の泡だ。
 兄は、やはり可笑しそうに俺を見ると、道場の床を固く絞ったモップで拭き始めた。俺も次いで、使用した道具の汗を拭き、片付けていく。
「そういえば、香奈ちゃんのお兄さんが大学の同期なんだけど、彼が若の事を話していたよ。真面目でいい子だってさ。良かったね」
 反応に困る。だから、その言葉には応えなかったけれど――釘、を刺されたのかも、しれない。

 ◇◆◇

 この間一緒に帰った日から、若に避けられているような気がする。と言うか、結構あからさまに避けられている。若も多分、私にバレないようにとは思っていなくて、避けていることに気づかれてもいいと思っているんだと思う。
 登校だけは今まで通りだけれど、あまり手を握ってくれなくなったし、キスをしてくれなくなった。待っていなくていいから早く帰れと言われるし、私を避けるように若が先に一人で帰ってしまうこともある。受験勉強も一緒にしなくなった。してくれなくなった。
 最初は気のせいだと思っていたけれど、毎日のように一緒に帰っていたのに急に一緒に帰ってくれなくなるなんて、やっぱりおかしい。
 交友棟の自販機が沢山ある開けた場所で、設置してある椅子に座って眉間に皺を寄せていたら、たまたま通りがかった美術部の後輩に「小曾根先輩梅干しみたいな顔になってますよ」と言われてしまった。後輩の癖に先輩を敬ってない気がする。
 ――少なくとも、避けられるような事をした覚えはないし、こんな風に避けられると、なんか泣きそうだ。確かに、寝惚けて転んじゃったけど、自分で言うのもなんだけど、そんなの日常茶飯事だし、若が今更そんな事で怒る訳はない……と思う。それとも、そういうのが積もり積もって、若は私と関わるのにうんざりしてしまったのかな。
 ちょっとしたヤなことは、どんどん重なって、なんだか、どんどん不安になる。どんどん怖くなる。ヤな方向に考えちゃって、でも、そんなことないって無理に前向きに考えたりとかもして。
 今日もさっさと帰れとか、馬鹿の癖に余裕だなとか、若に言われて、正直へこんだけれど、このままじゃいけないような気がして、ちゃんと若と話さなきゃいけないような気がして、こうやって若を待ってる。
 じっと、見つめたテニスコートの中で、若は後任の部長になにか言っていた。別に私は、そんなに目はよくないんだけど、若だけは、遠くからでもそこだけ光ってるみたいにわかる。今まではそれが何だか嬉しくて誇らしい気持ちにさえなったのに、今日は心臓が怪我してるみたいに切なくなった。
 引退してしまったから毎日というわけじゃないけれど、若もチョータも樺地くんも、こうやってマメに後輩の指導にあたっていて、それが誇らしくもあり、ちょっとだけ寂しくもある。寂しいなんて、絶対言わないけど。

 どうやって若に話を切り出そうか、色々考えながらしばらくテニスコートを眺めていたら、若達が引き上げていくのが見えて椅子から立ち上がった。迎えに行こう。なんで避けてるのか、聞こう。
 もし、本当に、もし、だけど……別れ話とか切り出されたらどうしよう。でも、今の、何で避けられてるのか解らない状態も、すごく辛い。
 聞くにしても聞かないにしても“逃げ”だって気づいて、そんな後ろ向きな自分が最悪で、嫌だなって思う。

「若、おつかれさまー」
 部室棟の近くで着替え終えた若と鉢合わせて、いつもみたいに明るい感じでそう言うと、私が待っていたことに若は眉を寄せた。夕焼けの逆光でもしっかりとわかるほど、すごく、すごく嫌そうに。

 なんで、そんな顔をするの?

 チョータと樺地くんはそれぞれ私と若に挨拶して、私達の様子に首を傾げながら校門へと向かっていった。若も、私がいなかったら二人の後を追っていたんだろう。
 放課後の、一般生徒の帰った、部活動はまだやっているという、エアポケットのような時間。部室棟から、若は無言で離れて、後をついていくと、いつも人の少ない中庭とも呼べない横庭みたいな場所にでる。そこで若は私を眉を寄せて見下ろしていて、私は若を少し睨んで見上げているという状態で、若は「なんでいるんだよ」って、本当に本当に私を見るのも嫌そうな顔で、言った。
「何で、そんな顔するの」
 泣きそう。
 どうして。私のことが嫌いになったなら、言ってほしいのに。それは悲しいけど、苦しいけど、でも、わけもわからないまま、そんな辛そうな顔で、私を見ないでほしい。
 本当に、思い当たることがなくて、もう、若は私を本当に嫌いになってしまったんだろうか。もう、私たちは駄目なんだろうか。
 若は、私を嫌いになって、だから、もう、私の顔も見たくないのだろうか。声も聞きたくないのだろうか。
「……帰ってろって言っただろ」
 酷く忌々しそうに、舌打ちまでされて、どうして、こんなに嫌われちゃったのか、わからなくて、目の前が、本当に真っ暗になった。愕然とした。
 ……あ、だめだ。
 泣きたくないのに。きっと、泣いたらもっと嫌われちゃうって思うのに。勝手に視界が歪んでしまう。
 涙が、出る。

「泣くな!」

 その大声にビックリして、うつむきかけた顔をあげると、若が、私のほっぺたに両手を添えた。すごく近い場所で、追い詰められているような、上手く言えないけれど、切なそうな、けれど強い瞳と、目が合う。
「今、俺、おかしいんだよ。香奈といると、おかしくなる」
 本当に小さな、掠れた切羽詰った声で、言って、手を離した。
「だから、あまり俺に近づかないでくれ。――今日は送る」
 私に背を向けて歩き始めた若を、呆然としながら追った。
 おかしくなるってどういうこと?
 私のことは嫌いなの? 嫌いじゃないの?
 嫌いだから、私が近付くとおかしくなってしまうの?
 私の所為なら、直せるところは直すから、何でもするから、そんなに切ない目をしないで。私が寂しがりな所為なら、我慢するから、近付くななんて、言わないで。嫌いにならないで。勉強だっていっぱいするし、運動だって頑張るし、だから、近付くななんて言わないで。
 そう、思うのに、言葉に出したらすごく女々しくなりそうで、そうしたら、若にもっと嫌われそうで、怖くて言えなくて、もどかしくて、こんな自分が泣きそうな程情けない。
 こうやって、求めてばっかりだから、若は私といるとおかしくなるのかな。私が役立たずだからなのかな。わかんない。わかんないけど、やっぱり、若に近付くななんていわれると、こんなの、辛すぎる。こうやっていじいじしたところとか、すぐ泣いちゃうところとかに、若はうんざりしたのかな。
 それとも、引越しのせい? 側にいない私じゃあ、駄目なのかな。家が遠いと、学校が違うと、駄目なのかな。
 好きだって思ってたのは私だけなのかな。
 若は、ずっと前から、私のこと、嫌いになってたのかな。
 ずっと黙って若の後ろを歩いてたら「これは俺の問題だ。しばらく放っておいてくれ」って凄く苛々した調子で吐き捨てられた。
 なんで? 、と頭の中で疑問がぐるぐる飛び回る。でも、それを言葉に出したら、きっと若はもっと私にうんざりして、もっと私を嫌いになってしまう。
 私はどこでこんなにも若に嫌われてしまったんだろう。

 しばらくって、どれくらい?
 それは、私と別れたいって、意味なの?

 こんな形で、私がまだ、とてもとても若を好きなんだって自覚なんかしたくなかった。
 若に依存したくない何て言っておいて、若に嫌われてしまっただけで心が悲しくて悲しくて悲しい。呼吸さえ辛くて辛くて辛い。心臓が痛くて痛くて痛い。
 こんなに、若にべったりで、だから、嫌われちゃったのかな。
 若を好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きな分だけ、辛くて悲しくて苦しくて痛くて怖くて情けなくて恐ろしくて切なくて寂しい。こんなに好きなのに、でも、若はもう私が好きじゃなくて、私の気持ちは、もう若にとっては迷惑なもので――そう思うと涙がでてくる。
 こんなに若が好きで大事で若といると幸せで若が大切で……この気持ちはどこに捨てればいいんだろう。若に迷惑なだけのこんな感情なんて捨ててしまいたいのに、それなのに、諦めたくないって、別れたくないって、思って、しまう。

 ベッドでうずくまって動かない私の頭を、ご飯を持って来たお兄ちゃんが撫でてくれた。思ってることとか、若に言われたこととか、全部全部吐き出すみたいに喋って、そうしたら「日吉君は香奈を嫌いになってないから」って言ってくれて、また泣いてしまった。

 ◇◆◇

 ああ、まったく。
 こういうのは俺の役じゃないんだって。こういう時に抱きしめて涙を拭ってやるのは俺じゃないだろう。
「わ、私がいると……お、おかし、くなる、って……」
 しゃくりあげながら訴えられて、あーもー仕方ねぇなー、と香奈の背中を撫でてやる。
 話を聞いて、そこまでじゃないにしろ、自分が始めて異性を感じた時のことを思い出して、溜息が出た。そうそう、俺も初めて告られた時は、ビビって妙に意識して避けちゃったりしたんですが。
 したんですが、若君、キミはちょっと極端じゃないですか。
「泣ーくなって。彼は香奈の事を大事にしたいんだよ」
 あーもー、さっさと奪ってくれよ。いいよ、もう、アンタよく我慢したよ。驚異的だって。三年近くも、普通我慢できないだろ。確かに倫理的には微妙だけど親父や母さんや香奈や若君自身が許さなくても俺が許す。
 だから、この馬鹿な妹を泣かせないでやってくれ。

「弟クンどうにかしてよ。禁欲的ストイックすぎるんですけどー」
 翌日、即行で日吉に若君のことをチクってみた。意識はしてないけど俺はもしかしたら過保護かもしれない。いやでも、香奈は結構適当だから俺は少し過保護気味でいいはず。たぶん。
 日吉は郷土研の研究室で、我が物顔をして緑茶を飲みながらデスクに腰掛けている。その正面に立って腕組みをしている俺に、日吉は軽く首をかしげた。ちなみに日吉は郷土研究にかこつけて不思議な田舎の行事などのオカルトめいたことを探すのにご執心だ。
香奈ちゃんを大事にしたいんでしょ」
「それで泣かしてたら意味ないって。香奈チャンってば飯も食わないくらいの塞ぎ込みっぷりよ?」
 何でか知らないが、日吉は面白そうに笑っている。似ているようで似ていない兄弟だ。いや、顔はそっくりなんだけど。ちょっとクローン気味な位に似てるんですが。
 日吉も弟の生真面目な部分には思うところがあるのかハァと小さく溜息を吐いた。
「それで、俺にどうしろって?」
「もうそろそろバレンタインなので、仲直りしてもらおうと思います。で、うち、今両親いないわけ。俺もバレンタイン当日は彼女のとこにでも行こうかと思ってるんですよ。なので、若クンのほうのフォローよろしく。香奈はたきつけておいたから」
 俺の言葉に、日吉は呆れた顔をしてから、微笑ましげに笑う。
「過保護だね」
「うっせ」
 我が家は共働きで娘と息子を放置する分、一緒に過ごせる時にはめいっぱい愛情を注がれたような気がする。つーか、今思えば、自分たちが、俺らを嫌いで放っておいていると誤解されるのを酷く怖がっていたようにも思えるのだけれど。
 そんな訳で俺が多少香奈を大事にしてても問題はない。はず。
 とりあえず、きちんと若君と話して、せめてあんなふうに泣きじゃくらないようになればいいと思う。
 だから俺はシスコンじゃねっつの。黙れ日吉。

 ◇◆◇

 バレンタインデー当日は、正直気が滅入った。
 いらない、と断るのは簡単だ。けれどもし、俺自身がイベントに縋って贈るしかない立場だった場合、無碍に断られれば、程度はあるだろうが、傷ついたり、不快に思うだろう。俺が相手を不愉快にさせた場合、大抵は俺ではなく、俺が特別扱いしている弱者である香奈にその憤りが向けられる事を学んでいる。だから、俺は、それなりの誠意と、申し訳なさと、不快感と、倦怠感をもって、今日五人目の女子からのチョコレートを受け取り、交際の申し出を丁重に断った。
 最初は、そんなふうに曖昧にふってしまうことで変な噂が立つのではないかと思い、そして香奈にそれを聞かれてしまうことを心配していたけれど、若が思うようにしたらいいと、誰の言葉よりもそれを信じるからと微笑んだ香奈に、その心配もなくなった。あの頃は、俺もただ単純に幼いまでの誠実さで香奈が好きだった。
 それだけで、すむはずがないと、あの時は気付かなかった。知っていたはずなのに。

 放課後、香奈に捉まらないよう足早に下駄箱に向かい、中に一つだけ入っていたチョコの包みを鞄に押し込み――不衛生だと思うが、包装紙から何から、かなり高密度で地球に優しくないほどラッピングしてあった。恐らく贈った本人もその不衛生さに気づいているからだろう――靴を取り出して上履きを入れる。
 そういえば、今日は珍しく、香奈とは一度も顔を合わせていない。俺に近づくなと言われたことを忠実に守っているらしく、最近は香奈と会話することさえ稀だった。あの時の、泣きそうになった香奈に、じくじくと痛むように罪悪感が湧いてくるけれど、仕方のないことだったと溜息を吐く。
 あの時だって、柔らかい頬に触れたあの時だって、そのまま口付けてしまいたかった。抱きしめてしまいたかった。香奈は俺が悪いとは考えずに、自分ばかりを責めるから、過剰なほど自罰的で、そして酷く不安がるから、優しくしてやりたかった。けれど、逆に確信――違う本当はあれはそんな綺麗な言葉では、ない――もあって、下手にそんな事をしてしまえば香奈が求める以上のことをしてしまっただろう。そんな事を考えないように、どれだけテニスや古武術に打ち込んで体力を使い果たしても、駄目だった。ただの欲求不満であってくれれば、辛く苦しく食事さえ喉を通らないほどの運動で、発散出来たはずなのに。
 香奈にだけはそんな気持ちを向けまいと、己で処理してしまおうとした瞬間、瞼の裏に香奈の滑らかな白い肩と下着の紐のコントラストが閃いた。その瞬間、もう、どうしようも出来ないのだと、逃げることすらできずに、ただこの嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだと、悟った。
 どうしても、香奈に触れたいと思ってしまう。
 どうしても、口付けのその先を望んでしまう。
 そしてどうしても、香奈がそんな事を望んでいないことが、わかってしまう。
 俺にそんな目で見られていたと知ったら、香奈はどう思うだろうか。とても幼い彼女は、酷く傷つくかもしれないし、どこか聡い彼女は、俺を嫌うかもしれない。彼女が、俺に触れたいと望んでくれるのは、いつになるのだろうかと考えて、首筋が冷やりとした。いつまで俺は、香奈にあんな顔をさせなければならない? はやく、抑え込めるようになりたい。思春期なんて、俺には要らない。

 そんな事を考えながら、いつの間にか辿り着いた駅のホームで電車を待っていると“間もなく電車が到着します”のアナウンスと同時に、斜め後ろから俺の腕を引っ張る奴がいた。そんな奴は、俺の知る限り一人だけだ。
 顔は向けない。視線だけを向けて、腕を離させる。俺の、それだけの行為に香奈は傷ついたように瞳を揺らした。けれど、それを払拭するように明るく口を開く。
「チョコレートクッキー作ったの。うち、来て?」
 明るい口調であるのに、瞳だけが懇願の色をしていた。それを見て、悲しくなった。香奈はもっと素直に甘えて、外連なく希い、屈託なく笑っているのに。そうさせてしまっているのは俺なのだと自覚すれば、悲しい以外の何物でもなかった。
「この大荷物でか?」
 大きな紙袋に入った包みの山を見せる。香奈は悪びれずに頷いた。確かに、どうせ、甘いものが好きな香奈が全て食べてしまうのだから――それは、香奈から貰ったチョコレート以外は食べないという証拠のためでもあるけれど――香奈の家へ行きこれらをそのまま置いてくるのも悪くはないだろう。
 仕方がないなと了承したけれど、本当は香奈からチョコレートを貰えるのは、嫌ではなかった。一緒に帰るのも久しぶりで、避けているのは自分の方なのに、正直、嬉しかった。好きな女と会いたくない男なんて、いるだろうか。きっと、少し香奈の家に寄る位の間なら、この不埒な思いも、抑え込める。大丈夫だ。
 それは、確信と言うよりも、自分に言い聞かせるための言葉だった。

「クッキー、か?」
 香奈が必死でクッキーと言い張る、地面に落ちた泥のような物体を摘み上げる。一応、固形化はしているようだ。
 家人がいないからと言うことで、香奈の部屋ではなくリビングに通されてテーブルについている訳だが、滅多にないことなのでなんだかこそばゆいような感じがする。
「くっきーだってば! アメリカンクッキー!」
 たしかに、ココアの香りがするし、チョコチップも入っている。しかし、どうみてもアメリカンクッキーと言い張るには、表面が硬すぎる。そして、形が歪すぎる。
「あ、味は普通に甘いクッキーなんだよ?」
 知らず知らずにクッキーを睨みつけていた俺は、香奈の必死な声に、意を決してそれを口に含んだ。
 ――ああ、アメリカンクッキーではないが、ちょっと硬いだけの、形の歪なクッキーと言った所だろうか。予想外に、不味くはなかった。よく考えれば、今まで香奈の作った弁当やら何やらで食えないほど不味いものはなかった。詰めが甘いが、基本的に器用なんだろうと思う。
 ただ、作りすぎだ。パーティ用のサラダボウルに山になるほど作ってどうするんだ。さすがに食い切れる訳がない。それとも、お兄さんや小父さんにも渡すつもりなのだろうか。――それはそれで、少し面白くない。
「紅茶淹れたから……」
 俺の前にティーカップを置くと、香奈は対面の席について、両手でカップを持ってちびちびと紅茶をすすり始めた。
「ああ、ありがとう」
 何だか、こんなふうに自然に香奈の側にいられることが久々すぎて新鮮に感じた。受け取ったティーカップの湯気を眺めてから、カップに口をつける。なぜか、安堵した。良かった、と思う。俺の中で燻っているものがなくなった訳ではないが、それが焔になる前に帰宅してしまえばいい。香奈に悟られる前に、気づかれる前に。
 煙のように立ち上るそれを、思考を、黙々とクッキーを咀嚼し、紅茶を嚥下することで誤魔化す。そんな俺を、何が楽しいのか、香奈はじっと見つめてくる。意図がわからずに少し眉を寄せて香奈を見ると、今度は顔を赤くした。
 反応がおかしい。
「何だ?」
 訝しく思い問うと、香奈は、やましい事があると答えるようにすぐに目をそらす。
「何、企んでるんだ?」
 どうせ、ろくなことではないだろう。
「た、企んでると、言うか……あの、えっと……」
 もどかしげに言葉を紡ぐ香奈は、明らかに、うろたえている。俺を見ていた瞳は、落ち着かな気にふらふらとあちこちに視線を飛ばし、口に手をあて、無意味に髪をいじり、顔を赤くして、ああ、でも、こんな表情もとても久しぶりに見たような気がする。
 こんな、小さな子供のように変わる表情が、俺は少しだけ鬱陶しくて、けれど、それすら……――やばい。今更、この家に、俺と香奈は二人きりなのだと自覚した。
 途端、ギアチェンジがなされたように心臓の鼓動が胸を打ちはじめる。
 今までは、まだ、外だからとか学校だからとか、それが衝動の抑止になっていたのに、今、ここには、香奈と俺以外はいないのだと、理解して、思わず香奈を見る。
 あまりに急激な思考の展開に眩暈がした。
 ああ、本当に
香奈、俺、そろそろ帰……」 
 そこまで言った所で、香奈が大きく首を振って「うー!」とか言うわけの解らない言葉を発した。
 そんな意味不明の行動に驚く間もなく、浮遊していた香奈の瞳が、いきなり強い光を持って俺を睨みつけてくる。
 初めて見る瞳に思わずたじろぐと、その隙を逃さないとでも言うように、香奈は声を張り上げて訴えだした。
 それはもはや喚き声にも似た、八つ当たりに近いほどのまくし立てた早口だった。

「今回は絶対に若が悪い! 勝手に独りで抱え込んで! 確かに私はそういうの、恐いけど、あんまり、そーゆー若の気持ちはわかんないけど、別にいいんだよ! 若が悩むなら私だって悩むんだから……若が一人で考えてもダメなんだから。若一人じゃ駄目な事なんだから! 離れ離れになっちゃうのに、なんで、よそよそしくするの……そんなふうにされるくらいなら、怖くても若とえっちする方が、変に気を使われるよりも断然嬉しいよ! 怖いより寂しい方がつらいよ! もう、若ってホント馬鹿! 大馬鹿!

 ……なんで、えっちしたいって言わないの……言ってくれたら、私も一緒に考えられるのに」

 その内容に、唖然とする。
 というか、バレていたのか……いや、香奈が自分で気付くはずはない。となれば、香奈がきっとお兄さんにでもこの間の内容を相談したんだろう。という事はお兄さんにもばれているわけか。恐ろしい羞恥だぞそれは。
 有田あたり相談するかもしれないとは思っていたが――きっと、お兄さんには俺の考えていることなどお見通しだったのだろう。

 とても、みっともない。
 ああ、本当に俺は大馬鹿だ。

 やはり来るべきではなかったと思うと同時に、仕方がないかと思う部分もある。そもそも、これからも付き合っていくのならば、ずっとこのまま(プラトニック)でいられる訳がないのだから。情けないけれど、香奈に言われて、少しだけ安堵した部分がある。隠しつづけるよりも、ばれてしまった方が、楽なのだ。けれど、気づかれたくはなかったという気持ちももちろんあって、酷く情けない。
 溜息をついた俺をどう思ったのか、香奈は身を乗り出して、強引に口付けてきた。
 柔らかい感触に驚く間もなく、唇を舌でなぞられ、そして顔を離した香奈は、本当にいっぱいいっぱいで、今にも恥ずかしくて死にそうだと言わんばかりに首まで赤くして涙を浮かべていた。香奈からこんなことをされたのは片手の指の数さえ満たせないほどの珍事だ。けれど、ごく近い場所でしっかりと俺の目を見て、睨むようにしている。
 濡れた唇に、香奈の吐息が触れる。
 それだけで、心臓は更に脈動を強くし、このまま口づけてしまいたいと、思う。
 いや、思うどころではない。まるで衝動だ。
 それを、必死で拳を握って耐える。
 手のひらに短く切りそろえた爪が喰い込む。

「今日は――親は仕事で、お兄ちゃんも外泊するから、誰もいない」

 香奈は震える声で、けれど、睨むような瞳で“ここまでお膳立てしたんだから逃げるな”とでも言うように視線を逸らさない。
 でも、香奈は、身体も幼ければ、心も幼い。こんな行為なんて、香奈は全然望んでいない。それなのにどうして、俺が欲望のままに行動できるだろうか。
 それに、俺たちはまだ中学生だ。あと二ヶ月もすれば卒業するとは言え、倫理的に問題がある。香奈に、非行とされる行為を強要したくなんてない。
「俺は……待てる。――香奈は、その気なんかないだろ」
 それに。せめて香奈が、もっと成長するまで、待ちたい。香奈自身が望むまで、俺は待ってやりたい。倫理の問題よりも、そちらの方が大事だ。彼女が俺に触れられたいと、俺に触れたいと思ってくれるまでは。
 香奈が、神奈川へ行くのならば、それまでの、卒業までの間、接触を我慢すれば、耐えられる。
 けれど、そんなことを考えている俺に、香奈が乗り出していた身体を椅子に落ち着けて、言葉を紡ぐ。
「……えっちするとか、考えただけで今も怖いよ。痛いのかなとか、私なんかが若にそんな酷いことさせていいのかなって、思う――でも、もう、避けられるのはやだ……寂しいよ。怖いのより、寂しい方がやだよ。若に、“近付くな”って……言われた時の方が、もっともっともっと辛かった、よ……若に、き、嫌われ、ちゃったのかも、って……こわ、……し、しばらく、とか……どうっい、う……意味、か、すご、考、……――待って、て、もらえ、ても……わか、が……い、しょ  じゃ、……な・きゃ、う、うれし、しく、な……」
 震える声で、でも懸命に喋っていた香奈が、とうとう涙を溢してしゃくりあげ始める。うつむいて涙を拭く様子に俺は自分の不用意な発言を後悔した。どうして、香奈を大事にしたいと思っているのに、いつも俺は泣かせてしまうんだろうか。そして、俺はどうしてこんなにも俺のたった一言に考え込んで涙してしまう香奈を、鬱陶しいと思わずに、大切にしたいと思うのだろうか。理由はわからないけれど、少なくとも、香奈をを大切に思う気持ちだけは本物だと確信できる。
 申し訳なさに椅子から立ち上がって、座っている香奈を、抱きしめる。香奈は赤ん坊のように俺に抱きついていたが、そのうち体勢が辛くなって、二人で床に腰を下ろした。
 ひくりと肩を震わせながらも、香奈は大人しく俺の腕に収まっている。時折「嫌いになったらちゃんと言って」だの「隠し事しないで」だの、普段の香奈ならば言わないような言葉を漏らしながら強く抱きついてくる。まるで、力を緩めれば俺が逃げてしまうとでも思っているかのように、離すまいと縋ってくる。
 俺はここまで、香奈を不安にさせていたのかと心苦しくなって、自嘲の呼気が漏れた。
「結局俺は、香奈を待つとか、自己満足で。 馬鹿だな。ホント」
 悲しませたかったわけではないのに、と自分の不甲斐無さに苦笑すると「馬鹿だよ」と香奈は恨めしげに言ってきた。その様子が、先程よりは随分明るいもので少しばかり安堵する。
「悪い。もう、我慢できない」
 涙で貼り付いた髪を、剥がしてやりながら、許しを請うように額や目蓋に唇を落とす。
「いいよしなくて。今までいっぱい我慢したんでしょ? 次は私が我慢するから。じゅんばんこだよ」
 香奈はくすぐったそうに、涙で濡れた顔でそれでも幸せそうに笑った。
 その顔を見て、恥ずかしいけれど、愛しさみたいなものが胸に溢れて、力強くはないものの自分の脈が速くなっていくのが、わかる。
「できるだけ、優しくするから。大切にする」
 その言葉を聞いた香奈が、不安を押し殺して、いまだ涙の溜まった瞳で、綺麗に笑う。

 ◇◆◇

 香奈は、辛そうにしながら、けれど一言も苦痛や拒否の言葉を吐かなかった。
 それから、微笑んで、香奈は自分の腹部に手を添えて、薄く口を開いた。泣き出しそうな、掠れるような声で、香奈が呟く。

「一緒」

 それは香奈の内に入った俺を確かめるような、そんな仕草だった。
 俺達が繋がっている証拠が、そこに確かにあるような気がして、香奈の手の上に俺は自分の手のひらを重ねた。
 何だか、たまらなくなって、何と言って良いか解らない。
 そんな俺に香奈は痛みに脂汗を浮かべたまま、重なっている手とは逆の手で俺の頬を撫でた。痛みに涙を浮かべながらも、少しだけ眉を寄せながらも、香奈は俺を安心させるように微笑んでいる。
「平気だよ。すっごいずきずきするけど、でも、大丈夫だよ。かなり痛いけど。でも、平気なんだから。痛いけど、我慢できるの。我慢できるってコトは、痛くないのや恐くないのより、痛くても恐くても若と一緒に居るコトの方が、ずっと大事で、ずっと大切で、ずっと嬉しいって事なんだからね」
 ただ、俺は頷いた。
 香奈の唇からは確実に苦痛を示す呻き声が漏れる。
 思わず謝罪すると、怒ったような表情を作って香奈は言った。
「一緒にいられて、嬉しいんだから、謝っちゃダメ」
 俺は、ありがとう、と返した。
 香奈は、どういたしまして、と笑う。

 ◇◆◇

 明日は学校だからと、シャワーを浴びて柔らかそうなキャミソールとショートパンツにふわふわとした暖かそうな上着を羽織った香奈は、制服に着替えた俺を送り出して「また明日ね」と明るく言う。
「今日、ご家族いないんだろう? 一人で大丈夫なのか?」
 玄関先で、もう一度同じことを問う。
 少し困ったように首をかしげた香奈は手を伸ばしてペタペタと俺の頬に触れた。
「心配性」
 そう言い悪戯っぽく笑った香奈に、軽く頬をつままれる。
香奈にだけだ」
 俺の言葉に顔を赤くした香奈の頬をお返しに撫でてやる。
 一日くらいどうにでもなると言うと、香奈は笑顔を崩してゆっくりとうつむいた。
 赤く染まった香奈の耳を人差指で辿り、そこに口付けて、駄目か? とそっと聞くと弱々しい様子で香奈はゆるゆると首を動かし「明日は、一緒に帰れる?」とちらりを俺を見上げて問いかけてくる。
香奈がよければ」「いいにきまってるじゃないですか」
 何を今更と言った様子で香奈は軽く握った拳を俺の腹に当ててきた。それを甘んじて受け入れて、これを最後にしようと同じ台詞を口にする。
「本当に一人で大丈夫か? 身体、辛くないか?」
 俺のしつこい台詞に香奈は「身体、ちょっと辛いけど でも、今は、恥ずかしい方が、おっきい、から……」ぼそぼそと弱々しく答えた。
 それをとても可愛く感じて、俺に出せる限りの柔らかく優しい声音で、また明日、と応える。
 明日からは、もう香奈を避ける必要もないと思うと、とても嬉しくて最後にうつむく香奈を抱きしめた。

 ◇◆◇

 若が帰ってから、身体はだるくてご飯を作る気も起きなかった。
 シーツをかけかえても、どうしても自分のベッドで寝るのが恥ずかしくて、来客用の部屋のベッドに寝転ぶ。
 一人ぼっちの家。
 だけど、なんだか全然寂しくなくて、暖かいような気持ちさえして。
 今なら幸せな夢が見れそうだな、なんて思いながらゆっくり目蓋を落とした。