大きく、大きく息を吐いた。まるで深呼吸みたいに。 体育館は全校生徒と、卒業生の父兄、全教員を飲み込んでまだ、後ろの方に余裕があった。 在校生の、代表の後輩の送辞を聞きながら、今までの事を思い出して、涙が出そうだった。 ヤなことも、イイこともあった。 ぶっちゃけ、卒業式が面倒くさいって気持ちもあるし、早く卒業したいと思ってた時もあるし、卒業証書授与の時ちゃんと声でなかったな、とか、そんな事も考えてたけど。 みんなは、大抵エスカレータで氷帝高等部に行くけど、私は違う。 立海大付属高等学校へ行くんだ。 でも、それがなくても、きっと、泣きそうになったと思う。 私は、この校舎で、若と出会って、三年間を過ごした。色んな気持ちが混ざって、泣きそうになる。 今は泣いても、最後は笑顔で、またねって皆に、若に、チョータに、まどかちゃんに、言おう。神奈川と、東京は、近い。まだ。だから、きっと、またみんなで会える。 ママが、ハンカチは絶対忘れたら駄目だって、家を出る前に渡してくれたことに感謝する。頑張っても、涙の膜が眸を覆ってしまうから。寂しいのかな。悲しいのかな。切ないのかな。不安なのかな。よく、わからないけど。胸が、ぎゅううって、なる。 答辞は、若が固くない声で、なんだろう、ちょっとだけ役者さんみたいな抑揚をつけて、語りかけるように。何度も練習して、一所懸命答辞を暗記してた若の姿を思い出す。二人でふざけて卒業式ごっことかも、したりして。そんな若の声を聞いて、生徒よりも親御さんの方から鼻を啜る声が聞こえた。 私は、やっぱり若の声が好きだなって思った。 入学式のあの日、若の声で、ああ外部の人なんだ。名前覚えなくちゃ。仲良くなれるかな、って思って、あれから、三年近く経った。十二歳だった若は十五歳になって、近かった視線は、三年でどんどん遠ざかって。 今日が、中学生、最後。 後数時間で、私は氷帝学園中等部の生徒ではなくなってしまう。 後数時間で、私は何も肩書きのない、何も立場のない小曾根香奈になる。 ◆◇◆ 卒業式の後は、卒業アルバムを皆で見たりして、笑い合う。文集には生徒のランキングなんかもあって、バトルロワイヤルになってもうちのクラスは殺し合いなんかしないよね、って笑いながら話したことを思い出す。みんなで一緒に生きるか、みんなで一緒に死ぬよね、って、そんなありもしない話をしたことを思い出した。 氷帝学園中等部生活最後のロングホームルームもすぐに終わって、みんな、親と一緒に帰っていった。 廊下でチョータに会って、今までの事とか、ちょっとだけ話して、またね、って二人で笑う。あんまり二人で話してると若に怒られちゃうかもね、なんて、ふざけたりして。 きっと、今ごろ在校生が体育館を片付けているんだと思う。 校門の桜の木の近くでパパとママとお兄ちゃんと会って、写真を撮った。お兄ちゃんは春休みだから面倒くさそうだったけど――大学生の春休みってびっくりするくらい長い――ママとパパに無理につれて来られたみたい。 そろそろ帰ろうか、と言う直前、お兄ちゃんが私の肩をつつく。 「あっち」 って、指を指された方を振り向くと、若が親御さんと話をしていた。 それなのに、在校生の女の子に何度も何度も声を掛けられてて、若、モテモテだね、なんて心の中でこっそり笑ってしまった。 あ、ボタンむしられてる。第二ボタンとか、もう、なさそう。欲しかったんだけどな。きっと、若のことだから第二ボタンなんて何も気にしてなかったんだろうな、びっくりした顔してるもん。 あ、ネクタイも取られてる。顔が諦めたね。好きに持っていけって感じかな、アレは。ブレザーどころか、シャツのボタンもなくなってるみたいで、ちょっと怪しい人になってるよ、若。 袖のボタンも取られてるね、あれは。追い剥ぎにあったみたいになってる。チョータも似たようなものだし。あ、チョータ、ベルト取られそう。 女の子ってパワフルだなぁ……最後の最後だから、勇気、出したんだよね。真っ赤な顔の一年生が一所懸命若に話し掛けてて、最初のほうに女の子から借りた鋏でボタンを縫い付けている糸を切って、若がその子にシャツの袖のボタンを渡した。一年生の子は赤い顔をもっと真っ赤にして若にぺこぺこ頭を下げてどこかに行った。 ちょっと、悔しいな。若の、氷帝中等部にいたという思い出の記憶の欠片を、あの子たちは持ってて……ちょっと、ヤだな。でも、私は、そんな欠片じゃなくて、若自身と付き合っているから、そう思うと、何だか責められない。 もちろん、私が責めるなんてお門違いって事もあるけど。 あ、若、お兄さんに上着借りてる。 そんな観察をしながら、声をかけるかかけないか、悩んでいると、若のお兄さんが私たちに気付いたみたいで、ひらひらと手を振ってきた。お兄ちゃんは大きく手を振ってそれに応える。 それで、話し込んでいたパパとママが、若のお父さんとお母さんに気付いてご挨拶。 若君の答辞は素晴らしかったですね、とか。 いつも息子がお世話になっています、とか。 こちらこそ娘がお世話になっています、とか。 本日は本当におめでとうございます、とか。 すっごく普通のおじさんとおばさんの会話で、日吉家と小曾根家の両親は雑談開始。 変な言い方だけど、両親公認交際をしているので後ろめたいことは何もないというか、むしろ、おばさんとママは一緒にお茶をしたり、結構仲が良い。おばさんは、若が頓珍漢なことをしたらすぐに教えてね、なんてことまで言ってくれたりする。逆に私のママも、香奈が変なことしたら相談してね、なんて若に言ってて、若がこまったりもした。 「卒業おめでとうございます、香奈さん」 若のお父さんとお母さんに言われて、ありがとうございます、と頭を下げる。頭を上げて、ちらりと若を見ると、若はゆっくり瞬きした。 それから若は、パパとママに挨拶して 「香奈さんと寄りたい所があるので、一緒に帰っても――」 「いいですよ」 と応えたのはお兄ちゃんで、ぐいぐい、と私の背を押して若の方へと促される。 後ろは振り向いてないから、顔は見えないけど、今、絶対お兄ちゃん笑ってるよ。確信あるもん。若のお兄さんも笑ってるし。 おじさんが何かいう前に、おばさんが口を開いて 「お爺様とお婆様が待ってらっしゃるから、あまり遅くならないのよ」 と、若に言って、若は頷いた。 私にはパパが 「十八時にレストラン予約してあるから、お腹すかせておいて。いってらっしゃい」 と、手を振ってくれた。 私は若のご両親に、若はパパとママに、挨拶をして、さすがに手は繋がなかったけど一緒に歩いて校門を潜った。 心の中で、氷帝中等部の校舎に、先生に、クラスメイトに、後輩に、思い出に、ばいばいした。 潜り抜けるのは、たった一歩ですむ。 だけど。 私は、そのたった一歩で、中学生じゃなくなった。 ◆◇◆ 若が何も喋らないので、私はちょっと唾を飲んで、何か喋らなくちゃと頭をフル回転させた。 何も喋らないで歩いていると、だって、なんだかしんみりしてしまうから。 でも、何も思いつかなくて、歩いてる若の綺麗な横顔を眺めながら、光に透けるさらさらの淡い色の髪を見ながら、自然と口をついた言葉は。 「寂しいな……」 自分の口から出た言葉に驚いて、私は思わず右手で口を塞ぐ。 そう、確かに寂しい。 寂しいけど、そんなこと、言うつもりなかったのに。 ああ、泣くつもりないのに。 なんで、こんな言葉がこぼれたの。 若と氷帝で出会えたこと。 若と一緒に過ごしたこと。 全部、全部全部、嬉しくて楽しくて幸せな事なのに。 一生、逢えなくなる訳じゃないのに。 なんで、泣いちゃうんだろう。 ぐい、っと後頭部が押された。 若の手だ。 それから、小さな子供にするみたいに、ハンカチで顔をぐいぐい拭かれた。 いたいいたいいたい……乾いた布でそんなごしごしされたら肌が傷んじゃうよ。もう。若ってば乱暴だ。 でも、私を泣きやませたかったんだよね。鬱陶しいからなのかもしれないけど、そういうところ、好きだな。涙も引っ込むよ。寂しいのも、ちょっとだけどこかにいった。 「香奈、どこか行くか」 ハンカチをまたきっちり正四角形に折りたたんでポケットに戻す若。 え、て言うか、どこに行くの? むしろ、寄りたい所があるから私を誘ったんじゃないの? 私がわかっていないのを、若は解ったみたいで、小さく息を吐いた。 「卒業旅行。一緒に、どこか行くか?」 私は何も考えずに、もう、条件反射というか神経反射というかとにかく、一も二も無く頷いた。 若は少しだけ頬を緩める。 私たちは、迷いなく歩みながら、どこに行くかを話した。 私の手にはまどかちゃんの卒業証書があったから、若は聞かなくても解ってくれたんだと思う。 「若はどこがいい? 出来れば、まどかちゃんとも一緒に行きたいな」 「有田とは、また別に行けばいいだろ。俺は香奈と二人でどこかに行きたい」 別段、気負ったふうもないその言葉に、ちょっとほっぺたが熱くなるのが解った。 ちょっと自分のほっぺを押えてみる。 「うん、そだね。私も若と二人っきりでどこか行きたいな。若と一緒なら何処でもいいや」 さっきまで涙が出てたはずなのに、今は、顔が赤い。 さっきまで寂しかったのに、今は寂しくない。 若が、寂しくなくしてくれた。 いつも、若が私を支えてくれる。 私は、この三年間、若が私にくれたものの、半分でも返せただろうか。 三年間、若の愛情を勝手に想像したり、勝手に悩んで泣いちゃったり、プレゼントの為に奔走したり、若のファンからのいじめに耐えてみたり。 良いことなんだか悪いことなんだか解らないことがいっぱいあって。 でも、ずっと、若は私を支えてくれてた。 電車で死にそうになれば、若が庇ってくれた。 勝手に作ったお弁当を持っていけば、おばさんが作ったお弁当よりも私のお弁当を優先して食べてくれた。 宿題が終わらなかったら“馬鹿”と言いながらも手伝ってくれたり、答えを見せてくれたり。 転びそうになったら助けてくれて、泣いたら慰めてくれた。 私の面白くもない話に、相槌を打ってくれて、テニス部が忙しいのに、私と逢う時間を減らさない為に、自主練習もいっぱいしてた。 落ち込んでたら叱咤してくれて、哀しいときは黙って抱きしめてくれた。 私が私を嫌うとき、若は私を許して大事にしてくれた。 私は、この三年間、若に何か、与えられたのだろうか。 私は、若を幸せにできてたんだろうか。 若が私を好きだという気持ちに甘えて、胡坐をかいてなかっただろうか。 若が苦しんでいても、私は何も出来なかった。 若が部活を頑張っていても、私はただ見ているだけだった。 若が勉強を頑張っているのに、私は足を引っ張ってばかりだった。 ああ、今度は違う意味で泣きそうだ。 ぐし、と目をこすって鼻を啜ったら、またハンカチを出した若にぐいぐい顔を拭かれた。 だから、痛いんだってば…… ずる、と鼻を啜って 「はなかんでいい?」 って聞いたら 「ティッシュにしとけ」 って、臥薪嘗胆のロゴが入ったポケットティッシュを渡された。 ……若らしいというか、ポケットティッシュもハンカチも常備してる男子中学生って珍しい気がする。 今日は卒業式だったからハンカチはいいとして。 あんまり音を立てないように鼻をかんで、コンビニのゴミ箱に捨てた。 コンビニを通り過ぎながら、また若からハンカチを借りて涙を拭う。 自分のも持ってるけど、若の、お香っぽい匂いのするハンカチの方がなんだか落ち着く。 泣きやまない私を、公園とも言いづらい小さな広場にお情け程度に据え付けられてるブランコまで引き摺る若。 むりやりブランコに座らされた。 若は、ブランコを囲う柵に寄りかかって、私を見てる。 いつ泣き止むかなって。待ってる。 「私、氷帝で、若に逢えて幸せだったよ。三年間」 「そうか」 「若に、いっぱい助けて貰って。すごい、感謝してる」 「そうか」 「――ごめんね」 「は?」 「私、若に何も、ほんと、何もしてあげられなくてっ……め、迷惑ばっかり、かけ、て……」 「馬鹿」 う、泣いてる、仮にも彼女に。 謝ってる、仮にも彼女に。 伝える言葉第一号が馬鹿ですか。 「俺は、本当に面倒だと思うことはしない。俺がしたいから全部やってたんだ」 「で、でも……」 「でもも何もない」 「……――私、若に何もあげられなかったのに?」 「バレンタインデーに処j 「あー! わー!! ぎゃー!!! 言わないで!!!!」 ――うるせぇ……」 大声を出して両耳を塞いだ私に、若が本当に五月蝿そうな顔をして眉を寄せた。 でも、だって、そんなこと言わないでよ! やっ、もー本気で恥ずかしい……! 別の意味で涙出てきた。 若は、はぁ、と息を吐いた。 「とにかく――香奈、お前、俺が好きか?」 そんな直接的な質問に、驚きながらも、ゆっくり頷く。 「うん。すごく。すごく好き」 「香奈が俺を好きなら、それでいい。それ以外は、別にいい。どうでも、いい」 それって、私の“若を好き”って気持ちが、若にとっては一番大事だってこと? なんて、都合よすぎる、かも、しれないけど。 「若、離れ離れになっても、私のこと、忘れないでね」 「こっちの台詞だ――有田のとこ、行くんだろ。さっさとしろよ」 「うん。若」 私は、自分のネクタイを解きながら、若を呼ぶ。 ブランコから立ち上がって、柵に寄りかかってる若の第一ボタンも第二ボタンもなくなって、いるシャツの襟に手を伸ばす。 安全ピンで仮止めしてあって、お兄さんの上着を着てるから、傍目には普通に見える。 私のネクタイを若に結ぼうとしたけど、上手く出来ない。 「ブランコ座って」 って言うと、若が可笑しそうに笑いながらブランコに腰を下ろした。 それで、若の後ろから、抱きしめるような形で、手を伸ばしてネクタイを結ぶ。 私のだとちょっと短いから、長めになるように調節して。 結んでから、前に回って微調節。 「あげる」 「じゃあ、俺は香奈に、そのハンカチやるよ」 若は、ゆっくりブランコから立ち上がると、行くか、って歩き出した。 私は、若の後を着いていきながら、まだ言ってなかった言葉を言う。 「若、卒業おめでとう」 高校生になっても、離れ離れになっても、心までは離れてしまわないように、と若のお香の匂いのするハンカチを握り締めた。 |