ぐにゃりと机に寝そべった私に、現国の凶器とも呼べる分厚い教科書の角を叩きつけたヤツの名前は切原赤也。 氷帝学園中等部に通っていた私が、家庭の事情で東京から神奈川へ引っ越すことになって、入学した立海大附属高等学校のクラスメイトで、まあ、仲はそんなに悪くない。 いきなり頭部に走った痛みに、声も上げられず悲鳴を噛み殺した私は涙目で切原君を睨みつける。 今日も元気な彼は、私のアンニュイな気持ちを察する努力もせず、『香奈が暗いとうざったい』と吐き捨ててゴンゴンと教科書で頭を叩いてくる。 これ以上馬鹿になったらどうしてくれると思いながら、私はその手を払いのけた。 「わたしにはなしかけないでよ」 言った後に、すごくひねくれてる、とても感じの悪い返事だったなって思って、すぐに後悔した。何も悪くない切原君に当たってしまうなんて最低だなぁ。 「なんでだよ」 でも、切原君は、ちょっとジンギスカンキャラメルを口に放り込まれたみたいな顔をしただけだった。ちょっとほっとして、それから、さっきより全然柔らかい声を意識して、答える。 「だって切原君と一緒にいるだけで目立つんだもん」 私は平穏無事な学園生活を送りたいのです。 全国優勝とかしちゃうテニス部でエースだった切原君はかなりの有名人みたいで。 女の子にも人気があるようで、クラスメイトの女の子が切原君を好きだという話もよく聞く。だから、私が仲良くしゃべってたら、切原君を好きな女の子にちょっとだけ悪いような気がする。 切原君は誰とでも気さくに話すから、別にいいのかもしれないけれど。でも、私は、今お付き合いしている日吉若クンに片想いしている時、彼が告白されたという噂を聞いただけで泣きそうになるほどだったので、やっぱり切原君を好きな子に悪いなって思う。 ちなみに、同じクラスになった切原君は私のことを知らないみたいだったけど、私は切原君が中一の頃から知ってる。 切原君は、新人戦で若に勝ってた。 今でも、あの時の、若のすごくすごく悔しそうな顔を思い出せる。 それを見ているだけで私は切なくて、ちょっと泣いてしまったんだったとかそんな事を思い出してブルーになって、鬱々としていたら、また遠慮なくゴンといい音をさせて凶器と言う名の現国の教科書が私の脳天に直撃した。 「いたい……」 もう、振り払う気力も無くて呟くと、何を考えたのか切原君が頭を撫でてきた。 ……昼休みの、みんなが歓談中の教室内。 誰も注目していないし、切原君が女の子の頭を撫でるなんて別に珍しいことではないので、いいのだけれど。 この手が若の手だったらなあ、と思う私は、そうとう参ってる。 中一から三年間、ほとんど毎日一緒にいた、私の彼氏は、若は、氷帝の高等部に進学して、テニス部に入ったという。 違う学校になって、思い知る。私はいつも若と一緒にいたんだってこと。どんなに忙しくても、学校に行けば若に会えた。二週間以上会わない事なんて、なかった。 逢いたいなあ…… 若は部活に塾にバイトに大忙しで。 私は学校の近くの御食事処でバイトしていて、部活は中学と同じ美術部だけど、今は塾にはいっていない。 家が近ければ忙しくても、会う時間を捻出できるのだろうけれど、あまり近くはない。 東京駅から横浜駅までは三十分くらいだけど、忙しいときにその時間のロスは痛い。 でも、すごい会いたい。 寂しい。 もう、この際馬鹿でもアホでもいいから、直接に声が聞きたい。 こんなに若が私の傍にいなかった事なんて、三年ぶりで、若と知り合ってからは、初めてで、夜とかは特に寂しい。電話もメールも、してるんだけど、それでも、一緒に手を繋いで帰ったこととか、思い出しちゃって。 ああ、ウジウジしている自分が嫌だなって思う。 「何そんなに凹んでんだよ? お兄さんに話してみな?」 「……別に」 「うあっ可愛くねえ!」 ホントはわかってる。切原君は優しい人だ。 外部から来た私が、あぶれないように気を使ってくれている。 氷帝もそうだけど、外部からの入学者には、みんなちょっと距離を置くから。 一人でおろおろしてる私に切原君はいつも声をかけてくれる。 うん、とってもありがたい。 ただし、彼がこんなに人気者でなければ、だけど。 「……別に、私だって一応は思春期だし不安定なんです」 「あー……東京に彼氏いる、とか?」 なんでもかんでも恋愛に結びつけるのは、私達の年齢だからなのか、それとも他の何かなのかは私にはよくわからない。親しい友達のいない、この立海にいると、氷帝が懐かしくなってしまうけれど、それよりも、若に会えないことが苦痛だから、切原君の想像は大当たり。 立海は嫌いじゃないけど、若がいない。 「いるよ」 「どんなやつ?」 「切原君も会った事あるよ」 「はあ? 俺、東京に知り合いなんかいないんだけど」 「ヒントいち、テニス」 「越前リョーマ?」 「……ヒントに、私の母校」 「跡部さん?」 「……ヒントさん、切原君、試合したことある」 「……あー……新人戦のときのヤツだ。名前なんてったっけ」 その台詞に、むりやりテンションをあげてギー! と奇声を発してじたばたしてみる。 でも、一秒も持たずにブルーに戻ってしまった。 寂しいよぅ。本気で寂しい。 今までならちょっと足を伸ばせば若のクラスだったのに。 「うっそだって。覚えてる覚えてる。氷帝の日吉君だろ? ピンポーン」 明るい声で回答して、勝手にピンポーンとか言ってる切原君は本当に若とは、全く違うタイプ。 でも、確かに彼は魅力的な人だと思う。 ちょっといい加減だけど。 それが三週間クラスメイトをして、色々話した私の判断。 なんでも“若より”とか“若なら”とか、若を基準にしてしまう自分に気が付いて、ちょっと笑いそうになる。 もし、若とお別れしたら、若以上のひとでないと私は満足できないのかな。そうしたら、すごく大変だなあ、とか。 「今日部活無いし、放課後愚痴聞いてやるって」 明るく笑いながらぽふぽふと頭を撫でられて、面倒見のいい人だなぁ、と少しだけ認識を改めた。 ◇◆◇ 「で、なんで私のおごりなの……?」 烏龍茶を飲みながら不機嫌な声で、チキンナゲットを齧る切原君に聞く。 「そんな細かいこと気にしてるとハゲるって」 切原君はチキンナゲットを嚥下するとダブルチーズバーガーに齧りついた。 女の子に奢らせてるくせに、ぜんぜん悪びれない切原君に溜息が出た。おごって欲しいわけじゃないけど、おごらせるのもどうなのとは思う。 でも、もうお金も払ってしまったし、今更ぶちぶち言っても幸せが逃げるだけだし。 仕方ないので、王様の耳はロバの耳ーじゃないけど、そんな感じで、でも当たり障りない範囲で鬱々とした気持ちを口に出してみた。 切原君は食べるのに夢中で、話なんか八割以上は聞いてない感じだったけど、特に聞いていなくても平気な内容なので私も気にしていない。ちなみにクラスメイトの女の子に言ったらノロケだとか彼氏がいて羨ましいだとか、そんな話になってしまうから、ただ聞いてくれるだけの人と言うのも嬉しいと思う。 しばらく喋った後、私が烏龍茶を、切原君がコーラを、啜って一息ついた。 「まあ、つまり、日吉君に会えなくて寂しいってコトだよな」 そう、私の鬱々とした、長々と訴えた言葉の中で重要なのはそれだけ。 若に会いたい。 若がいなくて、寂しい。 「じゃあ、会いに行けばいいじゃん」 簡単に、言われて。 「でも……」 「あ、ストップ。時間が〜とか、そういう理由聞く気ないから、俺」 手のひらを顔の前に出して、切原君は私の言葉を遮る。 「“〜だから出来ない”じゃなくて“〜だからできる”って考えてみろって」 ズズ、っとコーラを行儀悪く音を立てて呑む切原君。 彼の言葉が、あんまりにも前向きで、ちょっと若の事を思い出した。 若も心配性ではあったけれど、考え方はとても前向きだった。 「横浜から東京まで三十分で行ける。香奈は金を持ってる。日吉君の家も知ってる。今日の日吉君の予定は電話ででも聞ける。な? ほら、会えるだろ?」 切原君の言っている事は子供のような無鉄砲な強引さが散りばめられていたけれど、私はかくかく頷いてしまった。普段なら、若の予定とか、お家にお邪魔する時間とか、けっこう高い電車代のこととか、色々あるのに、今は何か、うなづいてしまった。 若の迷惑になるかもとか、そういうのを考えてもいたけれど、もう、三週間我慢したんだし。いいかなって、切原君の言葉で思った。 土日はバイトだからって、若は会ってくれないし会うなら、今がいい。 「ありがと、切原君。今から連絡して会いに行ってみる」 「マジで? 門限とか平気なのかよ?」 マジで? って……焚き付けたのは切原君でしょうが……でも私はこっくり頷くと“じゃあ、また明日ね”と伝えて席を立つ。 足早に歩きながら、駅を目指した。 駅行きのバスを待つ間に電話してみたけれど、電源が切れているようだったのでメールを送信。“若、今どこ? ”って、それだけ。 バイトや塾で帰りが遅かったらどうしよう。 でも、もしかしたら会えるかもしれないと言う期待が勝手に膨らんでしまう。 切原君の言葉で、心のたががはずれてしまった。 そうだ、物理的には、会えるんだって、そう気付いたら、我慢していた寂しい気持ちと、押し込めていた会いたい気持ちが一気にふくれあがって、とめられない。 もう、どうしようもない。 会いたくて恋しくて仕方ない。 駅で“神奈川名物”と銘打ってあったお菓子を適当に買った。 電車に乗り込むと、思いの外に空いていた。下りが込んでいるみたいだから、退社ラッシュかもしれないけれど。そんなことを思いながらも、頭の中は若のことでいっぱいだ。 すごい、やばい。 本当にすごく会いたい。 急に会いに行って“重い”とか思われたらどうしよう。 たまたま東京に来てたから寄ったって事にする? でも、なら連絡しろよ、とか怒られそうだ。 それに立海の制服だし。 あーもう、なんなんだろう。 よくわかんないけど、泣きそうだ。 これが思春期? 東京駅に着くまでの約三十分、私はオーバーヒートするほど、色々な事を悶々と考えてしまった。 思考回路はショート寸前。今すぐ会いたいよ。 東京に着くと、いつも乗っていた私鉄に乗り換える。若の家の最寄り駅で降りたときには、横浜駅を出て一時間近く経っていた。 ああ、帰り、遅くなりそう……あとでパパとママに連絡入れないと、心配するだろうな。今日はバイトない日だし。 駅を出ると慣れたはずの道を、一歩一歩確かめるように確り歩く。たった少し離れていただけなのに頭の奥からじんわりと懐かしさがこみ上げてくる。この道を、いつも若の家へ向うこの道を、私はいつだってドキドキしたりワクワクしたりソワソワしたりしながら、歩いてた。 若に依存したいわけじゃない。 若がいないと私は駄目だ、なんて思われたら若に軽蔑されてしまうかもしれない。 でも、 急に、携帯が震えた。 無駄にドキドキしながら届いたメールを開く。 “バイト先で、終わるのは9時だ”とか書いてあったらどうしよう。 お土産だけ若の家に届けようか。ちょっと挙動不審な人になっちゃうけど。 そんな事を考えながら開いたメール。 “今は家の近くの公園で壁打ちしてる” 馬鹿、とか。時間を考えろ、とかは書いてなかった。 それだけで、若だって私に会いたかったんだと、確信できた。返信は遅かったけど、きっと部活が終わって家に着いてから、携帯に触ったんじゃないかな、なんて想像したりして。 私のあんな短いメールで、私が会いたいって思ってることがばれちゃったって事も、わかった。 急いで公園へと駆け出したら、すれ違った女の人に変な目で見られたけど。全力疾走。 なんか、私、こんなに好きなの、どうやって我慢してたんだろう。今となっては行動に移さないで三週間も我慢した事が不思議で仕方ない。 公園の前で、立ち止まって簡単に制服を調えて、髪を手櫛で梳く。 それから、鏡を取り出して、リップクリームを塗ってチェック。駅のトイレで油とったし、何もしないよりはマシかな。 公園に入る。若はすぐに見つかった。若をすぐに見つけられた。 中学の頃と変わらない、落書きの沢山ある公園のお世辞にも綺麗とは言えない壁に、半そでのシャツにジャージのズボン姿で壁打ちしていた。 邪魔をしたくなかったので、少しだけ、見学してみる。三週間でそんなに変わるはずもないのに、なんとなく男らしくなったな、とか思ってしまった。私の若を見る目にはフィルターがかかっているのかも。 しばらく見てると、若が途中で一息ついて、シャツの裾を引っ張って流れる汗を拭った。その仕草にちょっとドキっとした。なんでだろう。――あ、おなか見えてるよ? 「わっ!」 そっと若の傍にこっそり近寄る。で大声。 若は驚きもしないで、いかにも迷惑そうな顔をして振り向いた。“うるせえよ”って視線が言ってる。んー……私が見てたの、バレてた? ちょっと不機嫌そうな若に焦ってごまかすように私はお土産の袋を差し出した。 「神奈川土産。みんなで食べて?」 「……どうも」 久々に、機械越しではない若の声を聞いた。やっぱり、この声が好きだな、なんて思う。 若は私の差し出した包みを受け取ると、テニスバッグの隣に置いて、ラケットのグリップを握り直した。 また、壁打ちをするのかな、と思っていたら、ラケットをテニスバッグにしまって、ボールをケースにしまっている。 若のその姿を見ていると何故か顔が勝手に笑ってしまう。そんな私に気付いた若が、訝しそうに、眉を上げる。 「あー……やーっと、若に会えたなあ……」 切原君ありがとう。 勇気を出してきてよかった。 だって、もう、若に会えたって、それだけでスゴイ幸せだ。 嬉しくて笑うと、若に目を逸らされた。 ちょっと酷い。 「香奈、家には言ってきたのか?」 曖昧に笑うと、それだけで全てを察したらしい若に睨まれる。 「連絡しろ。今すぐしろ」 あきらかに叱る口調で言われた私は急いで家電に電話した。 ママが出たので事情をかくかくしかじか話をすると『駅に着いたら連絡しなさいね』と言われて、最寄り駅に着いたらパパが迎えに来てくれることになった。通話を終えて携帯をしまうと、それを待っていたかのように若が歩き始める。 帰ってしまうのかな、と寂しく思って、何か言おうと立ち止まったまま言葉を捜す。 三歩くらい歩いた所でくるりと振り返った若に「早く来いよ」と言われて、言葉を見つけられないまま、でも、どうやら若が家に誘ってくれているらしいので、迷わずに着いていくことにした。 若の家にお呼ばれするのも久しぶりだ。 手を伸ばして、汗に塗れた若のシャツを掴む。 すると、若は一瞬立ち止まって、汗に濡れた掌をズボンに擦り付けると、その手でシャツを掴んでいる私の手を握ってくれた。 思わず笑みがこぼれて、久々の若の体温に安心感と幸せを感じる。 若の甘酸っぱい汗の匂いを含んだ柔らかい石鹸の香りが懐かしい。 なんか、私 変態っぽいかも…… でも、まあ、いいか。 好きな人の事を全身で好きと感じられる自分が嫌いじゃないから。 言葉にすると安っぽいけれど、本当に私は若が大好きだよ。 若の部屋に通された私は、若がシャワーを浴びている間、ぬれせんべいとお茶と若のお兄さんのもてなしを受けていた。 若のお兄さんが言うには、私が引っ越してから、若はちょっと大人しかったらしい。元気がないとかじゃないみたいだけれど、それを聞いただけで顔がにやけそうになる。 そうだよね、私たちって、一週間の内の最低五日は一緒にいたもんね。急に隣にいた人がいなくなったら、調子でないよね。なんて思って、若に好かれてるなって思うと安心する。 でも、若は直ぐにシャワーを浴びて戻ってきて、お兄さんは追い出されてしまった。 「香奈、駅まで送る」 特に会話もなく、胡坐をかいてお茶を啜った若は、正座の足を崩した私に、そう言った。 久々に会えたのに、あんまりにもあんまりな言葉にむくれてみせる。それでも若は何で不機嫌になるのかわからないといった様子で目を細めた。 「若、ぎゅってして」 言外に、そうしたら大人しく送られてやる、というニュアンスを含めて言うと、若は“馬鹿か? ”という刺々しい視線を送ってくれた。 マゾじゃないですよ、でも、久々のその視線すら、私には嬉しいのです。思わず笑ってしまう私に、若は溜息を吐く。 そして、私の右手をぐいと引っ張って自分の元に引き寄せると、ぎゅうと抱きしめてくれた。文句の一つもいわないで、すぐに行動に移してくれて、なんだ若だってべたべたしたかったんじゃんって思って、ちょっと笑ってしまう。 暖かい、若の体温。 お香のような若の匂いと石鹸の香り。 私、甘やかされてます。 「……香奈……? ――なんで泣くんだよ」 若のシャツで涙を拭うと、若は赤ちゃんを寝かし付ける時にみたいに背中をぽんぽんと優しく叩いてくれる。 泣きたいわけじゃないんだけど。やっぱり、色々我慢しすぎてたのかな。 新しい学校は、まだ本当に仲のいい子もいなくて、まどかちゃんもいなくて、若もいなくて、ママにもパパにも心配かけたくなくて何も言わないで、外部からの入学だから色々大変で、内輪ネタとか全然わからないし、共通の中学のときの話題とかついていけなくて、そんなことないのに一人ぼっちみたいな気がしちゃって、寂しくて、 若がいなくて。 なんか、ほっとしたら涙腺が弛んじゃったのかもしれない。 泣いているのを誤魔化すために強く抱きつくと、よく知ってる若の体温がじんわり染み込んでくる。我慢してガチガチになった心のこりがほぐれていくかんじ。 本当に若が好きだなって実感する。思い知る。 「香奈」 呼ばれて、若の胸に押し付けていた顔を上げた。目が合う。 私は、こういう声で名前を呼ぶ時、若が何をしたいか知っている。 私は、こういう声で名前を呼ぶ時、若が何をするのか知っている。 反射的に目を瞑った瞬間、若の部屋に控えめなノックの音が響いた。 若は、するりと手を離して部屋の入り口まで歩く。私は、まだ、ぽーっとしてしまっていて、あまり現状把握できていないかもしれない。 「香奈、もう、お前の分の夕食も作ったって」 二人分の夕飯が乗ったお盆を手に、若が振り向く。 「お食事が終わったら、若に送らせますからね」 ドアから顔を見せたおばさんが笑って会釈してくれるので、私も会釈を返して“ありがとうございます”と答えた。居間で若のご家族と一緒にご飯を食べた事も何度かあるけれど、ここまで晩御飯を運んでくれたのは、きっと若のお兄さんの差し金だと思う。 まだ、ぺたんと座ったまま、まだちょっとぼーっとしてる私をよそに、折りたたみの卓袱台を取り出して、設置する若。それから若が二人分の食事を丁寧にその上に置いていく。 「食えよ」 箸を持った若に訴えるような視線を送ってみても軽く首を傾げてかわされるだけで、ちょっと悔しい。 湯気の立つお味噌汁と、炊き立ての白いご飯の香りと、それを挟んで奇妙な会話強制開始。 「若、キスして」 「ダメだ」 「なんで」 「聞くな」 「じゃあ、キスして」 若は無表情で、私の目じゃなくて、たぶん、目蓋の辺りを見てるっぽくて、こんなに視線が近いのに、目が合わない。そんな状態でオブラートで包まない直接的なおねだりをするのは本気で恥ずかしい。 けど、恥ずかしさよりも重要なものがあるので、優先順位で。顔が赤いのは充分自覚してますよ。 若は苦渋の決断をするように眉を寄せる。私は後押しするように、ちょっと若の方に身体を寄せる。私からするのも、嫌いじゃないけど、今は若にしてほしい。 若はやっぱり眉根を寄せていたけれど、少し身を乗り出すと、最初は触れるか触れないかのくすぐったいキスをくれた。そして、それを少し押し付けるようにしてから、また少し離れて、ギリギリ唇が触れている状態で唇を擦り合わせるように横に逃れる。 なんて事はない、普通のキス。 でも、ちゃんと気持ちいいし、幸せな気分になる。 愛されてるなって、感じる。 ふわりと石鹸の香りがした。 その後はすぐに食事開始。 上機嫌を隠せない私とは反対に若はとても微妙そうな顔でご飯を食べていた。 キスした直後からそんな顔だったので、何か変なことをしたのではないかと内心不安だったりもして。走ってきたから汗臭かったかなとか、いろいろ。 食事が終わった時は時刻は既に八時に近かった。食器を台所へ運ぶ手伝いをしようとしたら、若に制されてしまう。家につく頃には十時過ぎてるかも。バイトをしてる時だって十時帰宅なので、あんまり問題ないとは思うけど。 そんな事を考えていたら、若が戻ってきた。 「香奈、送るから支度」 いつも以上に言葉が少ないですね、若さん。というか短いというか。 とりあえず、鞄を手にして準備万端と立ち上がると、若は先に部屋を出るように私を促した。既にかって知ったる若の家の中を、歩く。玄関でおばさんに「お邪魔しました、ご馳走様でした」とぺこりと頭を下げていると若が来た。 「じゃ、送ってくる」 若は軽くおばさんに言うと、さっさと玄関を出てしまったので、私はもう一度頭を下げて、ありがとうございました、と玄関を出た。 自転車で送ってくれるというので不思議に思ったら、若の家の最寄り駅ではなくて、私が乗り換えなくてもいい路線まで送ってくれるという事だったらしい。そのうち二輪の免許を取る予定だって、前言ってたなって思い出した。 でも、そんなことよりも若と一緒にいられる時間が伸びて喜ぶ私はゲンキンでしょうか。 切っちゃって短くしてるスカートなのに全然平気で荷台を跨いだら「見えるから少し恥らえ」と怒られました。一応見えないように気を使ったつもりだったんだけどな。 若の腰に手を回して、ぎゅう、と抱きつく。 けれど、若の「香奈……胸あたってる」の言葉に思わず少し離れてしまったり。 若も少し照れてるみたいで、お互い何やってるんだろうと可笑しい気分。 でも、今、私の手にはシャツ越しの若の体温があって、なんか、それだけでもう、幸せで。 恋焦がれていた若が目の前にいる。 それだけで、どうしようもないくらい嬉しい。 思わず、若のお腹に置いていた手に力を込めて、今更の告白が口をついて出た。 「大好きだよ。」 本当に。 本当に大好き。 私の言葉を聞いて、若はちょっと嬉しそうな口調で言う。 「俺の勝ちだ」 「何が?」 その言葉の意味が全くわからない私は、自転車を漕いでる若に問いかける。 若は、少し可笑しそうに答えてくれた。 「会えない事に耐えられなくなるまで三週間だったろ? 香奈の方が先に耐えられなくなった」 勝ち誇ったようなその台詞に憤慨してしまう。 「何それ……むしろ私のほうが若を好きだって証拠だよ。だから、私の勝ち!」 若は、私の台詞を聞いてちょっとだけ笑った。 「でも、俺も、香奈に会いたかった」 それ、殺し文句です。 ああ、私、本当に若好きだ。 本当に本当に大好きだよ。 大好きだよ。若。 |