ラブレターとキスシーン

 部活を終え、帰宅すると机の上に大きめの茶封筒が乗っていた。

 それをつまみ上げて、差出人を確かめる。珍しいことに香奈からだった。
 少し大きい茶封筒の中には、繊細な型押しがほどこされた薄青い厚めの洋形封筒が入っていた。下手ではないけれど上手くもない読みなれた香奈の文字で、表面に俺の名前が青いインクでつづられている。封筒を裏返すと封をする部分にはレースのような型抜きがほどこされていた。青いワックスが香奈のイニシャルの形に押し付けられて、封印してあった。
 残念ながらワックスの封の解き方など習ったことはないので、頑固なほど丁寧に封をしてあるフラップの上部と封筒本体の隙間へカッターの刃を挿し入れ、フラップと本体とを切り離した。
 予想したとおり、中の便せんもレースのような型抜きのされた繊細なデザインのもので、これはまた気合の入ったものを送ってきたなと、なんとなく呆れてしまう。香水だろうか、わずかに酸味がかったしゃぼんのような匂いが便せんから香ってくる。
 これだけ気合の入った手紙ならば、内容もおそらく読むのが面倒な類のものだろうと予想して、とりあえず、便せんを封筒へ戻す。それから鞄の中の教科書を本棚へ仕舞い、稽古の準備をする。胴着は、母がきちんと洗濯して畳んだ物を置いてくれていた。
 道場へ向かう前に、携帯電話が鳴動した。短い着信音にSMSであることを知る。
 メッセージは、二通はいっていた。一つは気付かなかったが、数時間前に鳳から来たもので、明日の練習メニューと個人練習の相談。もう一つは香奈からで、手紙が届いたかと聞いてくるものだった。俺が電子的な連絡をあまり好きではないことを知っている香奈の文面はいつもそっけないほど簡潔だ。
 鳳への返信は少々手間取りそうだったので、香奈に“届いた”と一言だけ送り、携帯の電源を落とし、道場へ向かった。

 そうして、いつものように稽古を終え、風呂を終え、夕食を終え、歯磨きを終えてから自室へ戻り、さて明日の予習でもしようかと言う時に、香奈からの手紙と、鳳のメッセージを思い出した。鳳へは、長文の中で返事が必要な部分にのみ簡潔に返答し、香奈からの手紙を封筒から取り出して、綺麗に中央を折られている便せんを開いた。
 目に飛び込んできた文字は、とりあえず俺をどん引きさせた。

 あの人を見た時の気持ちといったら……。
 ああ、あの素晴らしい瞳。
 あの人がこっちへ来ると、私はドキドキしながら道をよけて、逃げるように後ずさり。
 私はまどい、夢を見ているよう。
 岩よ、群がる木よ。
 私の喜びを隠して。
 私の幸せを隠して。


 意味不明すぎてかなり引いた。
 が、残念ながらどん引きした精神は、7秒で引いた場所から現地まで戻ってきてしまった。本当に何やってるんだ、香奈の馬鹿は。馬鹿な子ほど可愛いのではなく、馬鹿でも許容できる方が、馬鹿が何をしても可愛いと思ってしまう方が、重症のような気がする。つまり、俺は重症だ。
 自分と、香奈に対して呆れながらも二枚目の便箋へと目を落とす。次の便せんは普通の文章であることを願って。
 そしてそれは、俺の期待通り普段と同じ香奈の文章だった。

 5月23日は恋文の日なので、若にラブレターを書こうと思ったんだけど
 うまく書けなかったから、ゲーテで許してください。ごめんね。大好きです。
 いつも、テニスとか稽古とか、お疲れさま。
 次の日よう日の練習試合は観に行こうと思います。(さし入れなにがいい?)
 それでは、また。

 小曾根香奈


 読み終え、まず必要のない場所に括弧のあること、曜日の“曜”は平仮名なのに“観に行く”はきちんと観戦の観にしてあること、稽古の“稽”は漢字であること、そして無意味に謝っていることが気になった。
 それから、これをどうしたものかと、思う。
 無視するべきか。何か返事をするべきか。返事はSMSで返してしまっていいのだろうか。さて、その場合、何を書けばいいだろうか。
 どうすべきかと、二度、三度と目を通しているうちに“ごめんね。”のあとに唐突に続けられている単語に、じわじわと気恥ずかしくなってくる。言葉で伝えられるのには慣れたが、文章で見ると、普段より余計に、その単語に不自然さを感じる。香奈以外の誰も、わざわざそんなことを俺に伝えたりはしないから、どうしても、その単語が耳や目に入るときには不自然な印象を受ける。それは、不快ではないけれど。
 もう一度、その部分を眺める。
 指先で全ての文面を辿っていると、その部分だけ筆圧が変わっていることに気づいた。文字の形に凹む紙は、その部分だけ、筆者の気持ちを――多分、これは照れだ――伝えるかのように文字の溝が深く、わずかに色が濃くなっている。特に、最初の一文字は。
 それに気づいたとき、溜息が出た。
 すぐさま口元を手のひらで覆ったのは、反射だった。気恥ずかしいことがあると、他人に表情を読み取られまいとする無意識の癖だけれど、今は何の意味もない。
「本当に……」
 香奈は恥ずかしい。
 SMSで返すのも、気がとがめ。けれど、こうして香奈のように“気合が入っている”ことが丸わかりの文章を書くのも恥ずかしく。昔読んだ本を引っ張り出して、ボールペンでその中の文章をレポート用紙に丸々写した。
 書いている途中で、なんだか悔しさのようなものが溢れてきて、なんで俺はこんなことをしているのだろうかとか、むずがゆさのような、おさまりの悪さに、文字を書く手が乱暴になり、レポート用紙の上の文字も乱雑になっていった。
 出来上がった文章は、一見して“適当に書いた”としか言いようのない代物だった。
 居間にいる母に茶封筒と切手を分けてもらい、書き上げたそれを茶封筒にぞんざいに折り、入れる。糊で封を施してから、この、わざとらしいほどの適当さが、何を意味しているのかに気づいて、舌打ちしてしまう。
 とりあえず、これが手元にあるのに耐えらない。
 家族に告げて近場のポストへとそれを投函し、帰り道すがら、どうして返事など書いてしまったのかと、悔いる。けれども、もうアレはポストの中だ。今更悔いても仕方がないと、自分にそう言い聞かせる。
 返事など書かなければ良いのに。
 それでも、結局、俺は香奈からもらった自称ラブレターに、適当を装って返事を書いてしまう。
 香奈のどこかぎこちない文字に彩られた便せんを封筒に戻し、引き出しに仕舞い、しばらく授業の予習をする。けれど、途中で香奈からの手紙をもう一度、取り出した。
 封筒の表を、香奈の文字で書かれた自分の名前を指で辿る。それから裏返してフラップを封印していたワックスを撫でる。香奈のイニシャルの凹凸が指先を刺激した。
 きっと香奈も、書こうにも書けなかったんだろうと、思う。
 恥ずかしくて、書けるわけがない。
 この気持ちを表現する言葉など。
 恋文と言うものが、実際に、口で伝えるよりも、ずっと伝え難いものだと初めて知った。
 何度も読み返してしまった自分になぜか腹が立ってきて、二度と読むものかと決意してから便せんを再び封筒に戻し、引き出しに仕舞いこんだ。

 ◇◆◇

 昼の日差しは暑いほどだけど、朝はまだちょっと寒い。キャミソールのパジャマの上から、薄手のシャツを羽織って、手櫛で髪の毛をすきながら新聞を取りに郵便受けの所まで行くと、朝の清々しい空気と、なんだかキラキラした日差しに、今日もいい天気だなぁって、やっぱり清々しい気分。
 郵便受けを開けると新聞の下に昨日一日分のチラシと請求書とかの封書が届いてた。毎朝必ず郵便物チェックをするけど、夕方は忘れちゃう事が多い。唯一ギリギリ外に出ても許されるレベルのルームウェアで寝ている私の、朝の日課は、夕方には適用されてない。
 とにかく、郵便受けの中のものを全部取り出して、家に戻ってからテーブルの上にばら撒いて、あて名をチェック。今日はパパ宛の封書が三通と、ママ宛にカフェのお料理会のお知らせと、お兄ちゃん宛に大学からの封書と、私宛に薄い茶封筒が入ってた。とりあえず、みんなに「手紙置いとくね」って言ってから郵便物を入れておくプラスチックのケースに封書だけ入れて、チラシは冷蔵庫にマグネットで貼り付けて、新聞はソファの上に置きっぱなし。
 それから、リビングのレターオープナーで、唯一私宛だった茶封筒を、中の紙を切らないようにそーっと切っていく。十秒足らずで封を開けると、中にはレポート用紙が一枚。

 戀の火焚けば雲もはた
 濤もひとつの火のいぶき
 光の干潟、――月もまた
 わづらへどなほ、
 『君を戀ふ』と。


 文面はそれだけで、他には何もなくて、今更茶封筒の裏を見て、リターンアドレスを探す。住所は書いてなくて、ただ“日吉”って、苗字だけ。茶封筒の名前も、レポート用紙の文面も、普通のボールペンで素っ気なく書かれてた。
 この間のラブレターの返事かな、と思ったら、なんだか嬉しくなってきて顔がにやけてしまう。
 ああ、嬉しいな、もう。
 無視してもいいのに、ちゃんと返事を返してくれる律儀なところが、なんだか愛しいと言うか可愛いと言うか、とにかく、すごく幸せな感じ。
 でも、とりあえず、朝ごはんの前に、学校へ行く支度をしてしまおう。
 支度して、なんとか前髪をいい感じにセットしてから、朝ごはんの準備を手伝う。朝食の時間ギリギリに――ママが寝てるのを無理に起こした――お兄ちゃんが寝起きの熊みたいにのっそりとリビングに入ってきた。
「はよー」
 挨拶したら、お兄ちゃんは眠そうに眉間に皺を寄せて、乾燥してる唇を舐めた。そんなお兄ちゃんに、これわかる? って若の手紙を渡してみる。一応、本とか好きな人だし。
 お兄ちゃんは老眼になったみたいに目をしょぼしょぼさせて何度も瞬きしてから手紙を目の近くにしたり遠くにしたりして、呪文みたいにブツブツ三回音読した所で、記憶の検索がうまくいったみたいだった。
「――蒲原有明の戀の園って詩の一節。著作権消滅してる程度に古い。これ以上は知らねぇわ。で、なにこれ」
「彼氏さんに、詩を書いて送ったのの、お返事です」
「詩、送りあってんの? なにそれ平安貴族の真似? 古風にも程があんだろ」
 興味なさそうに大あくびをしてから、上下スウェットで目周りを不健康のアイシャドウでくまどったお兄ちゃんは、酔っ払いみたいにふらふらした足取りで食卓についた。
 ご飯中に、パパに「スカートが短すぎる」って注意された。仕方ないので折ってたのを直して、腰の位置でホックを止めてたのをおしりの近くまで引っ張って、無理矢理長くする。でも、入学の時に少し切って短くしちゃったから膝をギリギリ隠せる程度だった。それから、最近物騒な事件が多いからきちんと自衛しなきゃいけないとか、夜道は歩くなとか、人通りの多い道を歩きなさいとか、どこかに行く時は連絡しなさいとかいろいろ言われた。
 なんで、こんなに熱弁をふるってるのかよくわかんないけど、私って愛されてるなぁ、と思った。途中から警察や政府や犯罪者の話になった。朝なのに暗い話はやめてとママが言って、今度は近くに出来たレストランの話になって、ママと一緒に行こうねって約束した。
 でも、スカートは学校に着いてから、また上げた。だって、変に長いほうが足がかっこ悪く見えるんだもん。中途半端な長さが一番脚が太く見える気がする。元々がもうちょっと長かったらよかったんだけど。
 だけど、スカートを上げてる時に、あまり短いと若に叱られそうだなぁと思って、予定よりも少しだけ長くした。別に若に会う予定はないんだけど。なんとなく。

 ◇◆◇

 休み時間に、香奈が辞書片手になんかしてた。
「何してんの?」
 って聞いてみたら「解読」っつー訳の解らない言葉が帰ってくる。んなわけで香奈が解読してる暗号を覗いてみた。とりあえず、字が読めねぇ。糸+言+糸+心とか、こんな字ならってねぇんじゃね? でもまーこのクラスだと、香奈は国語の成績上位だから、俺がわかんなくてもいい事にする。
 香奈はめちゃくちゃ真剣に辞書を引いてて「この“はた”は、どの意味なんだろう……」とか「光の干潟??」とかかなり悩んでた。顔にかかる髪をなんども耳に掛けなおして一つ一つの文字の意味を調べながら、ブツブツ独り言を言ってる。古文とかでサ変の動詞がなんたら〜とかは分かるくせにこういうのは苦手っぽい。ま、俺はどっちもわかんないッスけど。
 近くの席のイスをガタガタ香奈の机の横に持ってって、悩みまくってる香奈を観察することにした。とりあえず、クラスの奴らが俺らを見てるけど、香奈は気付いてねぇし。
 つか、俺、結構存在感あるって言われるのに、気づいてないとか酷くねぇ?
 うーうー唸ってる香奈の顔をじっと眺める。睫毛が長い。そういや、目に睫毛が入ってごろごろするとかよく言ってるよな、香奈って。一度「睫毛なげぇー」とか言ったら「毎日美容液塗ったりして努力してる結果です」とか、超嬉しそうに笑ってたのが、俺の中では結構印象に残ってる。けど、それがなんでなのか自分でもよくわかんない。
 つーか、こーんな短い文章をなーんでこんな真剣に解読してんだ?
 香奈は唸りながら小難しくて短い文章を解読してたけど、さっきから何も進展してないっぽかった。ヒマだから地域限定の変な格好したキティちゃんのついた筆記用具を握る香奈の手をぼーっと眺める。香奈はペンの持ち方がキレイで、俺の箸を握る手の位置が前過ぎるとか、指摘しやがったりする。母親とかだと本気でウゼエって思うんだけど、香奈の言うこと聞いてたら姉貴に箸の持ち方が綺麗になったって褒められた。俺、そんなに汚ぇ持ち方してたのかよ、とか、ちっとムカついた。んで、口喧嘩しt――「すまない。切原赤也はいるか?」
 柳先輩の声が聞こえてそっちを見ると、女子が「あ、はい」とか答えてた。んで、そいつに呼ばれる前に柳先輩のトコに行く。したら部室に忘れてった今週号のジャンプを渡された。
「弦一郎にバレたらまずいだろう」
 え、つか、柳先輩はたったこれだけの為にわざわざ一年の教室に来たワケ?
「あ、そうっスよね。すんません。あざっす」
 柳先輩っていい人だよなぁ。丸井先輩なら絶っ対勝手に貰ってく。あ、でもジャッカル先輩も持ってくるかもしんない。
 で、俺が頭を下げたら「ではな」とか柳先輩が――、あ。
「柳先輩って国語とか古典とか得意ッスよね?」
 俺の急な質問に柳先輩は不思議そうな顔をした。
「ちょっと、わかんないのがあるんスけど。ほんとちょっとだけ。見てもらえないッスかね?」
 両手を合わせて、女子がやるっぽくうわ目使いしてみたりして。つか、自分気持ちわりぃ……。一瞬でやめた。柳先輩も、かなり正直に筆文字で“不愉快”って顔に書いてるし。
「ま、ま、ちょっとだけでいいッスから! ね?」
 言いながら柳先輩が付いて来てるか確認しないで香奈の席に歩く。確かめなくても、仁王先輩や丸井先輩じゃあるまいし、付いて来てくれてるってのはわかる。
香奈ー。柳先輩、国語とか得意だからわかんないトコ聞いてみたらいーんじゃね?」
 うっすい紙とにらみあってた香奈は、俺の声に顔を上げて、きょとんと首を傾げた。それから、俺の後ろの柳先輩に頭を下げた。ぺこり、というよりも、ちょこり、って感じの。
「いいんですか?」
「休憩時間内であればかまわない」
 柳先輩の言葉に、香奈はありがとうございます、と頭を下げて「詩の意味を噛み砕いた……現代的な表現にしようとしてるんですけど、この“雲もはた”の“はた”がどういう意味かいまいち理解できないんです。名詞の前に来るなら副詞の“はた”かなとも思ったんですけど、意味が通じるようにって考えると――よくわからなくて」
 香奈の言ってる意味が一ミリもわかんねぇ――や、名詞位は分かるけど。名詞ってあれだよな。イスとか机とか。普通名詞って言うんだよな。で、固有名詞が切原赤也とか小曾根香奈とかって名前だよな。うんうん。俺けっこうアタマイイじゃん。
「副詞だろう。“はた”には色々な意味があるからな。雲もあるいは、では意味が通りにくいが、あまり厳密に考えても、面白みがなくなる。ニュアンスで構わないだろう。“恋の心が燃え上がると、心の陰りや不安定さを、恋がもたらしてしまう。空の月さえも恋の火に照らされ、光の干潟が揺れるほどに患うけれど、それでも私は貴方を慕っている”――自信はないが、俺達はプロではないのだから、こんな感じで訳してしまっ……小曾根?」
 気がついたら、香奈が顔を耳まで赤くしてた。風邪ひいた時に部活にフルで出た真田副b・真田先輩以下、風呂でのぼせた丸井先輩以上のレベル。
「どうしたんだよ?」
「なんでもない……」
 俺の言葉に、香奈は首を振った。そんでうつむいた。なんかムカついたから、その顔を覗こうとしたら、香奈が「あっちいけ」って顔を逸らして俺の頭をぐいぐい押してきた。それでも、むりやり香奈の顔を見ようとしたら、柳先輩に「よせ、赤也」とかって耳ひっぱられた。
「イテテテ……何するんスか、柳先輩」
 柳先輩が離した耳を両手で包んで痛さをアピールしてみたり?
小曾根は嫌がっているだろう。ところで、用はこれだけか? 赤也」
 痛さアピールが完全に無視された……!
「あ、はい。これだけっス」
 反射でうんうん頷くと、柳先輩は一歩だけ俺達から離れた。
「そうか。ならば俺はもう行
「あ、ありがとうございました!」
 ――いや、たいした事はしていない」  
 香奈が教室から出て行こうとした柳先輩に慌てて礼を言う。俺も柳先輩に「どうも〜」って言ってから、香奈を見た。やっぱり香奈は顔が超赤い。
 それがなんだか気にくわなくて、ふざけて机の上のレポート用紙をもつと、香奈がすぐに取り返そうとする。
「返して!」
 なんか必死な香奈が面白くて、香奈に紙を取られないように爪先立ちした。
 白い紙はヒラヒラ逃げて、香奈の指は紙をつかめない。
 面白くて紙を振ってたら突然、ぴょんぴょん跳ねてた香奈が前のめりになった。
「でっ?!」
 したら香奈がこけて、俺の方に倒れてきて、俺も倒れて、頭を思いっきり机で打った。ついでに腕も打った。
「――!!?」
 声も出せないまま頭押さえて床の上でのたうち回るしか出来ねえ。  つーか、本気で痛ぇぇぇ……。
「ご、ごめん! だいじょぶ? ホントごめん!」
「あぁ?! これが大丈夫に見えんのかよ!?!」
 見えたら、そりゃ目じゃなくて節穴だっつーの。
 ぁぁああいってぇー。マジ痛い。久々にマジ泣きしそうになってね?
 しかも、あのレポート用紙の詩を誰が書いたか、今、頭打って閃いたし。つーか、香奈があんなに顔赤くして妙に可愛いっぽい表情浮かべる時は絶対日吉君絡みに決まってるじゃん。俺って鈍くないッスか。
 あ、ヤバ。本気で凹んできた。
 いや、頭がじゃなく。
「ごめ、赤也……ひ、冷やそう? 保健室行こ?」
 項垂れて頭おさえてたら香奈が俺の腕をぐいぐい引っ張ってむりやり立たそうとしてくる。香奈に引っ張られて保健室に行こうとしたら、クラスの女子が「小曾根さん、赤也いじめちゃだめじゃん(笑)  私達が保健室連れて行くから」って言われて、なんか、色々面倒になって保健室行って次の授業はサボった。
 正直、気持ち的には泣きたい系?

 ◇◆◇

 日曜日なのに、なぜかテニスコートの周りには沢山の見学者がいた。
 ちなみに、今終わったばかりの日吉と槲和の試合は日吉の勝利。新入生の俺達は平部員で、試合は、本当は出来ない身分だけれど、槲和も日吉も、去年中等部でレギュラーだったから、校内試合に出場させてもらえている。ちなみに、俺と樺地も。日吉は、さすがに槲和に負けたことはないし、本当は跡部先輩と試合したかったみたいだけど。
 俺達より一歩先に高等部に進学した跡部先輩はすでにレギュラーになっていた。俺達はみんな跡部先輩は留学すると思っていたから意外だったけれど、跡部先輩曰く「海外なんて好きな時にいけるだろうが。まぁ、大学行ったら(留学)するつもりだけどよ」だそうだ。確かに、“景吾ぼっちゃまは現在ドイツへテニスの練習にいってらっしゃいます”とか、執事の人が当たり前のことみたく言うから、本当にそうなんだろう。
 それに、跡部先輩は誰よりも“氷帝”が好きで“氷帝”に誇りを持っている人だと思う。海外でも通用するはずなのに(トップレベルかどうかはさて置いて。でも、一昨年、越前とあれだけいい試合をしたんだから、すくなくともアメリカではきっと通用する)氷帝に、いてくれている。短期で海外の姉妹校や有名校に行っているみたいだけれど。
「日吉ー槲和ーおつかれさま!」
 観客席に戻ってきた二人にタオルを渡す。槲和はア゛ー、と奇声を上げてベンチに寝そべって、日吉は無言で俺からタオルを受け取った。
 エスカレーターでも、きちんと一定の成績を保っていた俺や日吉は、受験によるブランクもほとんどなく、テニスを続けていたので、試験前にヤバイを連呼していた槲和は、見た感じ日吉よりずっとなまっていた。
 そんな事で高校生になったんだって、なんだか急に感慨深くなって、空を見上げる。五月の空は五月晴れだったけれど、風がまだ涼しい。夏になったらきついだろうな。あ、海に行きたい。
 そんな事を考えてると、スポーツドリンクを飲んでる日吉が「次、跡部さんだろ」と、声を掛けて教えてくれる。
「あ、ホントだ」
「ぼーっとしてるなよ、鳳」
 お前馬鹿だろ、と同じ程度にダメージを受ける口調で言われた。慣れたけど。槲和も、日吉の言葉でつっぷしていた顔を上げて跡部先輩と、現部長の並ぶコートへ視線を向けた。
 ちなみに樺地は、俺達のようにコートから遠い観客席ではなくて、ずっと跡部先輩の側にいる。
 結局、俺達はあまり中学の頃から変わっていないような気がする。日吉はやっぱり生意気な新入生だと上級生から色々言われるし、樺地は跡部先輩の側に付きっ切りだし、俺も――俺は、どうだろう。
 跡部先輩のテニスはやっぱりすごくて、パフォーマンスもすごくて、試合の枠に収まらない、エンターテイメント的な要素もあって、俺はこんな試合は出来ないなと思う。
 試合の結果は、タイブレークの末、跡部先輩の勝ち。
 さすが跡部先輩。と思っていたら「マジマジすっげー!」という元気な声と一緒に背中に衝撃プラス重量。
「ちょっ芥川先輩! 飛びつかないで下さいよ〜」
 俺の言葉なんて芥川先輩は全然聞いていなかった。俺にのしかかったまま「あっとべぇ〜!」とまるで親衛隊の女の子達みたいに跡部先輩に黄色い声を上げている。ちなみに、現在三年以外でレギュラーなのは跡部先輩と忍足先輩だけだ。跡部先輩の勇姿に、来年は俺もレギュラーになってやるぞと決意を新たにする。
 それから最後だった跡部先輩達の試合の後は一年の俺たちで片づけを始めた。(ボール拾いももちろん俺たちで、久々にやるから少し新鮮だった)

 片付けを終わらせて平部員用の部室で残っていた一年だけ、ぎゅう詰めで着替える。けれど、人の多さを嫌った日吉に付き合って、俺と樺地はシャワーを浴びた後、シャワールーム前の更衣室でダラダラ髪を乾かしたり時間を潰している。しばらくしてから、人がいなくなった部室で着替え――「おー! お前らおっせぇなぁ」いきなり部室のドアが開いて驚いた。
 向日先輩と跡部先輩が入り口で仁王立ちしていた。樺地が一瞬で着替えてすぐに跡部先輩の下にはせ参じる。ものすごい速さだった。
 でも、跡部先輩が自ら樺地を迎えに来たらしいのは何となく分かるけど、なんで向日先輩?
 と、思っていたら向日先輩に腕を引っ張られた香奈ちゃんが、もがいてた。それを見た瞬間の日吉は(苦虫を噛み潰したような顔ってこれか!)と思うような表情だった。
 ちなみに、手前にいる俺が上半身裸なのに気づいた香奈ちゃんは、おもいっきり目をつぶって、ブルドッグみたいな顔になってた。なんだか可哀想だったので、すぐに制服のシャツを羽織ってみた。

 ◇◆◇

 跡部と樺地はさっさと生徒会室に向かってった。
「ホラ、小曾根が待ってんだから早くしろよ! 日吉!」
 俺が言ったら日吉のヤツすっげー嫌そうな顔してんの。普通にからかっても動じねえけど小曾根を使ってからかうとすっげー分かりやすいし超おもしれー。
 ちなみに、小曾根は試合前に日吉と一言二言ってくらい少しだけ喋ってたんだけど、その時とか、もう日吉が変すぎて笑ったし。だって、こいつらって付き合ってる時間が三年くらいのくせに、こないだ告白された鳳と告白した子と同じくらいしどろもどろになってんだ。しかも、小曾根とか「手紙ありがとう」とか言ってるだけなのに超顔赤ぇーし。
 もう見ててめっちゃくっちゃおかしかった。
 からかいに行こうと思ったら侑士に止められたんだけど。くそくそ侑士め! いっつも日吉のが俺を馬鹿にしてんだからこんな時くらい仕返しさせろってーの! こないだだって“俺は向日さんみたいに跳ばなくても取れますから”とかってロッカーの上にいっちまったテニスボールを嫌味ったらしくとったりとかしたし。
「む、向日先輩……!」
 そんな感じで回想してた俺の手から小曾根が逃げようとするけど、いまでも日吉より身長低いけど、小曾根に力負けするほどか弱くないし。
 んで、この状況からどうやって日吉をからかおうか考えてたら、すぐに着替えた日吉が溜息ついて、眉と眉の間にマリアナ海溝くらいの溝をつくった。
 おお、すっげー嫌そう。めちゃくちゃ可笑しい。
 てか日吉って嫌な顔とかは結構見せるけど、嫌味なしで笑った顔とかって小曾根といる時しか見たことねぇな。よし! 決めた!
「んじゃ、気をつけて帰れよ!」
 小曾根の手を離して日吉の方へ向って背中を押してやって、んで、笑顔で「またな!」って言ったら日吉がすっげー“うさんくさい”って顔で俺を見てきた。日吉って俺のこと先輩だと思ってなくね?
「ほら、さっさと帰れよ! 学校でいちゃいちゃすんな」
 とりあえず、日吉のケツけっ飛ばして追い出した。
 で、日吉たちがいなくなったら部室の鍵をかけてる鳳の襟首ひっつかんで(ムカつくことに背伸びしなきゃとどかねーんだ。こいつの襟首)日吉たちがあるってった方向にガンガンあるく。
「ちょ? 向日先輩、俺、部室の鍵かえさな――」
「シッ! 俺が後で跡部に言ってやるから静かにしろ! これから日吉たちおっかけんだから」
「え、一緒に帰るんですか? でも、香奈ちゃんいるし、俺たちはジャm――」
「こっそりに決まってんだろ。日吉が小曾根に変なことしねーか監視すんだよ」
 その後も鳳はごちゃごちゃ言ったけど、一人でついてったらぜってー変態に間違われるから、むりやり鳳をひっぱる。図体でかいから、気をつけねーとな。
 あ、言っとくけど、俺は日吉にしかこんなことしねーからな!(って俺誰に言ってんだ?)
 まーたまには俺だってやりかえさなきゃな。

 ◇◆◇

 向日先輩に引きずられて、仕方なくついていく。
 振り払おうと思えば出来るんだろうけど、実際に俺も向日先輩も日吉も、みんな氷帝高校前の私鉄を使うから、どうしようもない。
 それにしても、向日先輩は、日吉がむかつくむかつくと言いながら、本当は結構好きだと思う。
 喧嘩するほど仲がいいって言うし。忍足先輩と日吉の悪口(陰口じゃなくて)を一番よく言ってる気がする。
 ああ、でも、目の前で「手くらいつなげよ。つまんねーなー」とか言いながら携帯で動画を撮影している向日先輩は、止めた方がいいような気がする。

 ◇◆◇

 氷帝高等部の連中しか使わない帰路は、休日であり、時間が時間でもある為、一見俺達以外の人間がいないように見えた。そして、普段より間を空けて歩く俺にもどかしそうにしている香奈は、おそらく鳳達――主に向日さん――が俺達をからかうためについて来ていることなど気づいていないんだろう。香奈は向日さんの性格を理解していないから仕方ないのだろうが。
 けれど、俺が手をとらないことに、香奈は無言で不満を示してくるものの、無理矢理手を握ってきたりはしない。
 今日は、先日の手紙のやりとりの所為でお互いになんだかぎくしゃくとしてしまって、恥ずかしいような、こそばゆいような感じだったので、今も少し香奈の隣は居心地が悪い。
 しばらくそうして歩いていると香奈が「若」と言いながら制服のシャツの裾を引っ張ってくる。どうしたのかと立ち止まると「くつ」とだけ言って、しゃがみこんだ。細い足首に引っ掛けられている紐のような部分がかかとの辺りまで落ちてしまっていた。それを直しているのを見止めてから、背後へ視線を向ける。どこに隠れているのだか、向日さんと、道連れにされた鳳の姿は見えない。まあ、大体の位置は何となくわかるので軽く睨みつけることも忘れない。どうでもいいことだけれど、しかし、悪趣味ではある。
「若」
 再び名前を呼ばれてそちらを向くと、手を差し伸べている香奈に気づく。少しかがんでから、その手をとって軽く引いてやると、香奈は立ち上がりながら伸びをするように背筋を伸ばした。
 急な展開に驚く暇もない。
 香奈の唐突な行動に、それが意外すぎて思考が一瞬とまる。手をとったまま、香奈の顔を凝視した。
「ちゅうしちゃった」
 俺の視線に、香奈は、頬を染め、はにかんで笑う。
 衝動的に、体が動いた。
 香奈が俺にしたものと同じ、本当に軽い口付け。
 今度は、香奈が先の俺のようになって、目を丸くして俺を凝視する。それから、俺の手を握ったまま「ちゅうされちゃった」と香奈はまた、はにかんで笑った。細められた目蓋と、少し下がった目尻と、わずかに歯が見えるか見えないかと言う程度に薄く開かれ両端を笑みの形に持ち上げられた唇と、桃色をした柔らかい頬と、そんな見慣れたはずの香奈の笑顔。照れて、少し悪戯めいた発声で、少し子供っぽく紡がれる、香奈の言葉。
 こんな他愛ないことで、俺は香奈を心底可愛いと思ってしまう。幸福感のようなものすら胸に沸く。ここが外でなければ、と思う。
 向日さんのことなど一瞬頭から抜け落ちてしまうほどに。
 きっと、見られただろうと後悔に苛まれながら、それでも結局手を繋いだまま、歩き出す。
「もっともっと若とキスしたいな」
 その言葉に駅へ向かいながら軽く手を握り返すと「あのさ……今日、若の家行ってもいい?」と、ためらいがちに聞かれる。残念ながら、本日、我が家には父方の叔父が家族で来る予定だったので、それを伝えると「そっか」と香奈はわざと眉を寄せた笑顔を作る。
 それからは何となく会話もなく、二人で歩く。明日は、きっと向日さんに嫌になるほどからかわれるだろう。
 そうして着いた駅で、いつものように階段でホームへ向わずエレベーターを待つ俺に、香奈は不思議そうにしながらも従う。俺たちの他にエレベーターを待つ人のいないことに安堵して、少し強く香奈の手を握ると、香奈はわかりやすく嬉しそうな顔をして、俺の手を力を込めて握り返してきた。
 ホームで止まっているエレベーターが早く来ないかと、少し苛立たしい気持ちで、待つ。きっと香奈はただのほほんとしているだけで、俺のようなことを考えているとは思えない。会話が途切れるのはいつもの事だけれど、少しばかり落ち着かない。今日は、何故だかこんな気持ちになってばかりいる。
 やっと来たエレベーターに乗り込み、それのドアが閉まる。
 香奈に口づけた。
 瞬間、香奈は驚いて身体を固くしたけれど、次の瞬間には従順にそれを受け入れた。薄く唇を開いた香奈の口内に侵入すると、お互いの舌が触れ合う。それが激しくなるにつれそっとシャツを握ってくる香奈の手を、とても愛しいもののように感じて、先ほど香奈が言った言葉を、実感する。唇を離すのが、惜しいと、強く思う。
 エレベーターの移動が終わった事を体にかかる負荷で感じても、ドアが動くまで、と往生際の悪い口付けは、けれど、結局はあっさりと名残惜しく、終わる。
 手を放してエレベーターを出、ホームへ降りると、香奈はぼーっとした顔でよろよろと付いて来る。そして、当たり前のように俺と同じ路線のホームへ向うので「香奈。神奈川は逆方向だろ」と指摘してやると「いいの。若を家まで送ってあげるんだから」などと返してくる。
「駄目だ」
 言いながら追い払うように手を振り、逆方向のホームを示す。俺が、照れなどではなく本気でそう言っているのに、香奈は文句こそ言わないものの、拳で軽く俺の背中を叩いて不満を訴えてくる。
「帰り、遅くなるだろ」
 説得の言葉にも、駄々をこねるようにシャツの裾を何度も引っ張ってくる。口にこそ出さないものの、呆れる。本当に、言葉を知らない子供のような訴え方だ。
「……心配なんだ」
 説得ではなく、こいねがうように言うと、香奈は不服そうにしながらも、シャツを引っ張っていた動きを止めた。帰りが遅くなれば、空が暗くなれば、男にとってはもちろん、特に女や子供にとっては世界が安全ではない。
 香奈は、逆のホームへと向かい俺の手を握り、ひっぱった。
「こっちのが、先にくるから、こっち」
 一瞬言葉の意味がわからなかった。電車の到着する時刻を確認してから、香奈の家方面の電車の方が、俺の家方面の電車よりも早くホームに到着することに気づいた。
 一緒に電車を待ちながら、どうでもいいことだけれど、列車がホームに進入する際に、香奈が身体を緊張させるのが、なんとなく面白くて好きなことを思い出した。
 香奈は俺の手を両手でもじもじと弄くりながら「今日、若かっこよかったよ」と言った。「それはどうも」と俺が返すと、また黙って人の手で遊び始める。
 しばらくして、電車がホームに来ると、やはり香奈は緊張して俺の手を強く握って目を閉じた。それから、電車の停止と同時にそっと目を開けて、俺の手を放す。
 電車の発射ベルを聞きながら電車に乗り込んだ香奈に「またな」と言えば「またね」と香奈は返す。
 そして、香奈は人差し指をその桜桃色の唇に当ててから、俺の唇をその指でそっと撫でた。突然の香奈の行動に反射的に足が下がり、その俺の反応を見た香奈が閉まるドアの向こうで笑いながら手を振った。
 電車を見送ってから、自宅方面のホームに戻る。途中で、あの時足が引けてしまったことに、なぜだか、少し悔しいような気がして唇を手の甲でこすった。
引用:蒲原有明/戀の園(著作権消滅)
   J.W.ゲーテ/同じ場所での様々な気持ち「少女」(著作権消滅)
※筆者なりに訳したものですので正確性に欠けています。