先の事はわかるけど
 後の事はわからない

 なんて、屁理屈。

 でも、私にも少し先の事がわかれば、こんな喧嘩はしなかったんじゃないだろうか。


   カ シ オ ペ イ ア

 謝りたい。
 でも、拒絶されたらと思うと、恐い。
 心の中でなら何度も謝れるのに。
 土下座だってなんだって出来るって思うのに。
 握り締めた私の手は、ただ、それだけ。
 握り締めてる、だけ。
 若は、私を一人置いて、どこかへ行ってしまった。
 主のいない部屋は、シンとしている。

「ごめんね、若……」

 傷つけてしまった。
 謝らなくちゃ……
 そう思うのに、ただ、手が震えて。
 あんな風に怒った若は初めて見た。
 確かに、いつも、馬鹿とか、言われてて、ちょっとした事でちょっと怒られたりはしたけど。
 あんな風に、見られたのは、初めてだった。
 若の瞳は、私の事なんか無関心で眼中に入ってない、そんな視線だった。
 若はいつだって、優しくて、護ってくれて、
 だから、
 私は、若に何を言ってもいいと、思っていたのかもしれない。
 何を言っても、受け止めてくれるって、勘違いしてたのかもしれない。
 あんな、まるで、若の気持ちを疑うような、自分を貶めるような、言葉。
 言っちゃった言葉は戻らなくて。

 喧嘩の理由は、私が馬鹿だった。

 それだけ。

 ◇◆◇

小曾根さんって氷帝の彼氏いるんだよね?』
 廊下で、声をかけられた。知らない女の子。
 リボンの色を見る。
 同級生だった。
『ぇと――うん』
 なんでいきなりそんな話なんだろうと思いながら頷く。
 “氷帝に”じゃなくて“氷帝の”って言い方に、神経質にもちょっと首を捻った。
 というか、私の彼氏が、どこの学校に通っていようとも関係ないと思うんだけど。なんでだろう。気になるのかな。
『じゃあさ! 氷帝の男紹介してくれないかな?』

 ああ。

 なるほど。
 心の中だけで頷いた。
 そっか、氷帝といえば、良家の子息子女がいて、皆お金持ちで、顔がよくて、頭もいい。
 そういうイメージがある事、忘れてた。
 私や宍戸先輩だっているのにね。って、宍戸先輩に失礼か。別に貧乏じゃないしね。私も宍戸先輩も。
 でも、あんまり仲のよくない女の子を、誰に紹介すればいいんだろう。
 氷帝に好きな人がいるならともかく、氷帝の誰でもいいなら、私以外にも伝手を持ってる人だっているだろうし。
 それに、チョータとか、軽々しく、紹介したくない。
 きっと、私の紹介だからって無碍にも出来なくて、困っちゃうだろうから。
 これは全部私の我儘な気持ちなんだけど、でも、引っかかるんだからしょうがない。
『ごめん……ちょっと、無理……』
『なんで? いいじゃん。別に彼氏紹介してくれって言ってるわけじゃないし。ね、ね、いいでしょ?』
 私の返答に、女の子は眉を寄せて両手を合わせてお願いしてきた。
 私はちょっと、困ってしまう。
『ごめんなさい。やっぱり……』
 でも、結局断った。

 ◇◆◇

『ウチら見下した態度してたけど、どうせ、氷帝についていけなくなってウチに来たんだよ』
『実は彼氏がいるってのも嘘だったりして』
『そうそう、小曾根とか、別に言うほど可愛くないし、勉強だってウチでも真ん中くらいでしょ。氷帝の男が付き合う理由とか無いじゃん。東京と神奈川だよ。遊ばれてるだけだって』
『でもさー、紹介するくらいいいじゃんねー。ケチだよー氷帝の男ってなかなかツテないのにー』
『実は男の知り合いゼロだったりして。彼氏も妄想かもね』

 若が私の妄想の産物だったらそれはそれで私って凄いんだけど。
 私が帰ったと思っていた彼女達は結構大きな声で話していて、これ以上聞きたくなくて急ぎ足でバイトに向った。
 考えないようにしてたこととか考えたくなかったこととか気にしないようにしてたこととか気にしたくなかったこととか、一気に頭の中に広がって。
 若は、私とあまり会えなくても平気で、一日に三回以上電話やメールすると迷惑そうにしている。氷帝には可愛い子がいっぱいいるし、若は二股なんて絶対しないけど、だから、私よりも好きな人ができたら、私を好きでなくなったら、絶対に、ふられる。どうして、若は私を好きなのか、全然わからない。
 なんで、若は私と付き合ってくれてるんだろうって思ったら、お腹の中に氷でも入ってるみたいだった。

 でも、だからって、あんな事、言っちゃいけなかった。
 若が怒って当然だ。

 ◇◆◇

 香奈の一言で、俺は、自分でも驚くほど、腹がたった。
 悪気はないと解っていたが、悪気が無いからこそ腹が立った。
 ある意味で、ショックでもあった。衝撃だ。衝撃。
 香奈があんなことを言うとは予想も出来なかった。確かに、俺のことに対してはすぐに落ち込むけれど、まさか、あんな言葉をかけられようとは。
 俺の怒りに呆然とする香奈を部屋に残して、俺は居間まで来ると、茶を準備した。何も無く部屋を出たと気付かれれば、兄がちょっかいを出してくるからだ。
 時間をかけて、茶菓子を用意し、馬鹿みたいな弱火で湯を沸かす。それだけで行動としては不審だけれど。
 ひたりとした足音に振り返ると兄が居た。
 冷蔵庫をあけ、二リットルのミネラルウォーターを手にすると「優しくね」という意味深な一言を残して立ち去っていく。
 今更あの人の言葉に一々、怒ったり、呆れたりの反応を返しても仕方ない。

 沸くなと願っていた湯が沸き、嫌々ながら渋々と緩慢に茶を入れた。
 湯が沸くまでの間に幾分気持ちは落ち着いてきたが、やはり、胃の中にちくちくとしたモノが居座っている。
 帰れ、というのは簡単だったが、それは酷く格好悪い気がして、今に至っているが――怒鳴って追い出した方が、良かったのかもしれない。
 どちらにせよ、茶を鈍々と用意している今の状況も格好いいとは言えない。
 溜息を吐いて、準備が終わってしまった茶を盆に、ゆっくりと乗せ、自室へと向った。
 足取りが重い。
 自分でも驚くほどゆっくりと、遅々とした歩み。
 部屋に入ると、さっきと同じ場所に、香奈は座っていた。
 俺を見るなり、泣きそうな顔になって何か言おうと口を開き、また閉じた。
 それを無視して、卓袱台に盆を乗せて、香奈の前に茶を置いた。
「……っごめんなさい……」
 湯飲みを置く音に触発でもされたのか、香奈が謝罪してくる。
 消え入りそうな声とは、蚊の鳴くような声とは、こういう声を言うのだろう。
 小さく溜息を吐く。
 それに気付いた香奈が、俺を見る。
 今にも涙が零れそうな顔をした香奈に、俺は口を開く。
 声を出す前の、その動作にも、香奈は怯えたように震えた。
 こんなにも怯えて後悔して自分を責めている姿を可哀想に思う気持ちもあるし、胸の奥に、まだ燻ぶっている怒りが更に熱くなるような気もした。
「二度と、あんな事、言うな」
 抑揚の無い声が出た。
 ああ、俺は、結構怒ってるんだな、と他人事のように、思う。
 香奈は震えていて、今にも泣き出しそうに、まばたきをせずに、それでも、俺から目を離さない。
「うん……」
 香奈はか細く答えた。
「俺は、香奈以外いらない」
 言葉を重ねた。
 香奈の瞳から涙が零れた。
「っうん……」
 何度も頷く香奈の頬に両手を添えて、しっかりと視線を合わせる。
 涙で、指が濡れた。
 視線を合わせたまま、言い聞かせるようにと、意図せず、柔らかい声が出た。
「付き合う価値とか、そんな事、他人が決めるものじゃないだろ?」
 涙の雫で光る睫毛に唇を寄せる。香奈は何度も首肯した。
「うん……うん……」
 俺の手が、香奈の涙で濡れていく。
 他人に何か言われて、香奈が不安になるなんて、俺は許さない。
 他人の言葉に惑わされて、香奈が、俺にあんな事を言うなんて、許さない。
 俺のことを思っての言葉だからこそ、許さない。
「俺は、香奈が好きだ。香奈は、そうじゃないのか?」
 俺の言葉に、香奈は首を横に振った。
 それでも、俺は香奈の頬を離さない。
「ううんっ……わた、しも、若が、好き。大好き……本当、に、大好き」
 俺の望む言葉を吐いた唇に、そっと自分のそれを落とす。音無く、唇が離れる。
「なら、それで充分だ」
 言い聞かせると、ぎゅ、と目を瞑ってぼろぼろ泣き出した。安堵したんだろう。
「……ご、ごめ、なさ……ごめんっ、な、なさ……ごめっ、な、さい……」
 わんわん泣きながら、何度も何度もごめんなさいと繰り返す香奈に、俺は小さく息を吐く。
 それから、涙で濡れた手を香奈の頬から離した。
「もう、泣くな。もう、怒ってない。それに、どうでもいいやつが俺を怒らせられると思うか?」
 軽く握った拳で目を擦り出す香奈
 腫れるからやめろとその手を握って止めさせ、ハンカチでぐいぐい拭く。されるがままになっている香奈は不思議そうな声を出した。
「ぅ?」
 仕方なく、俺は言葉を続けて説明した。
 涙は半分ほど止まりかけているようで、俺もハンカチを引く。
香奈の言った言葉だから、俺は怒ったんだ。」
 しかし、その説明でも意味が解らなかったらしい。
 香奈は首を傾げた。
「うん?」
「本当に馬鹿だよな……意味がわからないなら、わからないままでいとけ」
 中指を香奈の額に軽く叩きつけてデコピンすると、いたっと小さく呻いた。
 冷めてしまった緑茶に手を伸ばす途中、香奈がタックルするように抱き付いてきた。
 良かった、湯飲みを持っていなくて。
 俺は、その華奢な身体を抱き返しつつ、疲労とも満足ともつかない溜息を吐いた。
 抱きしめ返したその身体は、温かい。

 先の事なんて、わからなくていい。
 香奈が今、俺の腕の中にいる。
 今、それだけ解っていれば、それ以上欲しい物なんて何もない。