走れ若!
 心苦しいけれど、テニスを疎かにするわけにはいかない。
 香奈は俺のそう言う気持をよく理解してくれていて、約束を当日キャンセルしても「頑張ってね」と言う。
 それを聞くたびに何とも形容しがたい感情――申し訳ない、とかではないと思う。不甲斐無いとも違う――が胸を満たす。
 熟れた頭を振って雑念を追い払い、ラケットを握り直した。鋭い太陽光に目を細める。
 ラケットを握り締めた手のひらの下、熱が、滲んだ。

 ◇◆◇

 夏休みの自由研究を自由工作に換えた香奈は、棚から小さなうさぎの形の紙粘土細工を取り出すと自慢げに若に差し出した。
 氷帝での自主工作は金箔を使った金閣寺や爪楊枝で作ったロンドン塔、自作のラジコン等の大作が多いために、香奈の作ったそれは氷帝では工作ともいえないものだ。立海では、こういう工作も通るのだろうか、それとも、こういったものは芸術性が高いのか、若には解らなかった。
 けれど
「絵の具って乾くと色が濃くなっちゃうから、ちょっとずつ薄めて乾かして色を確かめてやっとこの色になったんだよ」
 と自慢げに、満足そうに笑う顔を見れば「そうか」と若は微笑ましい気持で言葉を返す。
 そっと手に取ったうさぎは、ニスを引いてあるためにつやつやと光り、パステルカラーよりもはるかに薄く、ほのかにピンク色を帯びていた。
 ピーターラビットのように後ろ足二本で立ち、周りを窺うようなポーズで、可愛いらしいチョッキを着ている。
 そのうさぎを手中でコロコロと転がしながら「小さくて香奈みたいだな」と悪戯っぽく言う。うさぎの少しぽってりした体格を揶揄した言葉に、香奈も気付いたらしい。香奈は小さく眉を寄せて隣に座っている若の薄い頬を指先で抓んだ。いてぇ、と痛くもないのに若が言えば、香奈は笑って手を離す。
「夏休みも、もう八月入っちゃったねー早いような短いような。宿題は終わってるからいいんだけど」
 言いながら、香奈が、薄い黄緑色のウーロン茶を、ストローでかき回す。からんカランと氷とグラスが触れ合って涼しい音を立てる。
 実は一つだけ宿題が終わっていない事を、香奈は若に隠していた。中学二年から、夏休みの宿題が終わっていなくても終わっているふりをするようになった香奈の小さな嘘に、若は薄々気付いているが、香奈本人が気づかれていないと思っているので指摘はしない。
 始業式までに若の手を煩わせずに宿題を終わらせてくれていればいいのだから、指摘してうろたえさせる事もないだろうと言うのが若の考えだ。
「それを言うなら“長いような短いような”だろ」
「……そうかも」
 少しバツが悪そうに笑う香奈を見ながら、若はふう、と小さく息を吐き、ぽつりと言葉を落とした。
「悪いな」
 言いながら、若は薄いピンクのうさぎを、香奈の手のひらを広げさせてそっと置く。香奈は言われた意味が解らないらしく首を傾げて若を見た。
 うさぎを包む香奈の手に自分の手を重ねて、懺悔でもするかのような気持ちになっている自分に、若はひっそりと笑った。
「今年、あんまり付き合ってやれなくて」
 部活後に花火大会やら夏祭りやらには行ったけれど、大会などにより普段よりも会う回数が少なくなっていた。二人で会う約束すら出来ない状態だ。
 けれど、申し訳無さそうな若に香奈は慌てたように、首を横に振る。
「いいの。気にしないで。頑張ってる若が大好きだから」
 自分の台詞に照れて、赤く染まった香奈の頬を、若が少し顔を傾けて眺める。
「そりゃ、家でゲームしたいからって毎回デートキャンセルされたらヤだけど。若は頑張ってるんだもん。テニスしてるとこ、すごく好きだし。えと、だから、ホント気にしないでね。私のことが気になって練習に身が入らないとか、絶対ヤだし。えっと、テニスとか古武術やってる若かっこいーし、何日に一回会わなきゃいけない! とか決まってるわけじゃないし、えっと、そんなに遠恋って訳でもないし……えっと、えと……」
 照れ、それを隠そうと饒舌になる香奈を愛しく思えば自然と伸びてしまった手で、赤い頬をゆったり撫でる。
 くすぐったそうに香奈が笑えば、若は「ありがとう」と、返した。香奈は撫でてくる若の手に自分の手を重ねて、やはり笑う。

 ◇◆◇

 机に突っ伏して携帯の画面をぼんやりと眺めている香奈に、赤也が苦笑気味に声をかけた。
 ゆるゆると首を動かして赤也を見上げた香奈の顔はお預けを喰らった犬のように情けないものだったので、赤也は思わず笑う。
「何ですか、ひとの顔見て笑って」
 赤也に笑われ、むす、と擬音が頭上に書かれているかのような拗ね具合で香奈はそっぽを向く。あと五分もすればホームルームで、すぐに帰宅できるわりには機嫌の悪そうな香奈に、赤也が首を傾げた。香奈の凹み具合は、夏休みが終わってしまってヤル気がでないというのとは、また少し違うような気がする赤也である。
「どうしたんだよ?」
「……若が、週末、やっぱり会えないって」
 うー……、と唸り声を上げながら光る携帯の画面を赤也に向ける。凹んで半ば泣きそうになっている香奈の様子に赤也は苦笑して彼女の携帯を覗き込んだ。見事なまでに香奈のお誘いをお断りしている文面が赤也の目に入る。あまりに簡潔にタイトルが“悪い”本文が“予定がある”と、だけ。その簡潔さが若らしいと赤也は苦笑した。
「あー日吉君ねぇ……そんなに忙しいのかよ?」
「みたい。付き合いで、どうしても古武術の大会に出なくちゃいけなくなったんだって。来週はテニス部があるから、そうなったら午後は古武術の稽古だし。夏休みに会ったのが最後だし。最近忙しくてメールもちょっと面倒みたいだし、電話もあんまり出ないし、結構へこむかも……」
 はぁ、と溜息を吐きながら携帯をポケットに突っ込んだ香奈が、頬を机上に乗せて項垂れれば、犬にするように、わしゃわしゃと赤也が頭を撫でた。香奈がダラダラと愚痴をいう事は珍しかったので慰めてやろうと思った赤也の行動だが、実際、慰めるというよりはからかっているというような手つきだ。
「ちょ、やめっ! ああー……にぎゃー……やーめーてー……誰か助けてぇー……」
 赤也の手を追い払おうと香奈がじたばたと暴れるが、そこは全国大会常連校のエース、そんな抵抗もものともせずわしわしと香奈の髪を乱していく。途中で抵抗する力の尽きた香奈がぐったりと両手を垂らした。
「あ、香奈が死んだ」
 抵抗しなくなった香奈に、赤也がつまらなそうに呟く。それから、机に突っ伏している香奈の頭をぽんぽんと撫でた。
 その感触にゆっくりと目を瞑りながら香奈はどこか疲れたように訥々と言葉を紡ぐ。
「赤也」
「ん?」
「私ね」
「んー?」
「若が頑張ってるのは好きだけど」
「んー」
「邪魔したくないって思うけど……って、さっきから何やってるの? 頭重いんだけど……」
 恐ろしいほどの赤也の生返事と、頭部に感じる妙な圧迫感に香奈が尋ねる。
「あ、今動いたら頭の上に重ねた教科書が雪崩おこす」
 フリーズ、と真剣に言った赤也に
「人の頭で教科書ジェンガするなぁー!」
 香奈が突っ伏したまま思わず突っ込んだ。
 ショートホームルームの為に教室内に入った担任が、頭に教科書を乗せられて机に突っ伏したまま動けなくなっている香奈と、香奈の頭の上の不安定な教科書タワーに更に国語辞典を重ねようとしていた赤也を発見して、説教を始める二十三秒前。

「じゃ、切原の所為でちょっと遅れたけどホームルーム始めるよー」
「俺の所為かよ!」
「お前の所為よ。」

(……やっぱり若には、寂しいなんて言えない)
(これ以上、私のことで気遣わせたく、ない)

「――で、明日は職業見学だから――」

(でも、寂しい)

「――学校集合で東京駅解散の――」

(せめて電話だけでもしたいんだけど)
(でも、本当に忙しいみたいだから)
(我儘言って重荷になりたくない)
(メールも、返事が遅いけど)
(でも若は頑張ってるから)

「――遅刻しないように、切原」
「名指しかよ!」
「名指しだよ。」

(だから、がまん)
(寂しいけど)
(がまん)

「――じゃ終了。また明日」

(我慢)

 翌日、香奈は職業見学のボードに見学した感想を書きながら、教師の話を流し半分に聞いていた。東京駅での解散は、その後、遊ぶ生徒や、学校に戻るよりも東京駅からのほうが自宅に近い生徒もいるだろうとの配慮らしかった。遊園地で校外学習をした時に、遊園地内解散をしたのと同じだろうと香奈は思いながらも、この後、都内で遊ぶ予定もなく、若の練習している姿でも覗いてくるか、もしくは即座に帰宅するかと、だらだらと考えていた。
 十四時を過ぎた空はまだまだ明るく、秋であるというのに真夏並の強い日差しを避けるために日陰でぼんやりと人の流れを眺めた。まだ、社会人は仕事の時間だろうに、人は多い。
 解散を命じられた生徒たちは東京駅構内へと入っていくが、香奈はどうしたものかと空を見上げる。氷帝まで東京駅からならばそう遠くない。
(どうしよう。会いたいけど……行ったら邪魔だよね。やっぱ、今日はもう帰ろうかな。それか、まどかちゃんにメールでもしてみようかなぁ……)
 などと悩みながら、香奈は丸の内中央口から、背後の東京駅を眺めた。近代建築として有名な東京駅の城郭のような赤茶色のレンガつくりの建物を眺めてから窓に据え付けられた繊細な柵を見、東京駅に背を向けて、今度は右手のタクシー乗り場をぼんやり眺め、また背後を振り返るように煉瓦作りのアーチ状の入り口を眺めた。その姿は迷子のようでもある。
(どうしよう……若に会いたい、けど……でも、なぁ……若若って、そればっかだし、私。呆れられるかなぁ――)
 逢いに行きたい、という気持ちは強くあるけれど、邪魔をしたくないという気持ちも香奈の中では同じくらいに強い。今がどれだけ大事な時期か理解している香奈は、余計に、自分の我儘で彼を振り回したくないと強く思う。今さえ耐えてしまえば、来月には週末にちょっと遊ぶくらいのデートは出来るだろう。
 だから、今は我慢するべきだと解っている。解っている。理解している。けれど、どうしようもなく寂しいのだ。携帯の充電も忘れているのか電源を切っているのか、最近は電話越しの会話でさえほとんどないのが現状だった。
 香奈は途方にくれたように、溜息を一つ吐くと空を眺めた。何かを見て心が決まるわけも無く、不安にも似た気持ちで軽く握った手を唇に添えた時、
「おい、香奈
 呼ばれ、香奈が振り向けば憮然とした顔の赤也を見上げる事になった。香奈は不思議そうに首を傾げて真意を測ろうとするかのように赤也の瞳に視線を合わせる。
「あれ? 赤也、遊びに行ったんじゃないの?」
 赤也は、妙に不機嫌そうな顔で香奈に向かって手を伸ばした。香奈の問いには答えず、憮然としたまま、要求。
「悪ぃ、ちょっと携帯貸してくんない?」
「え……あ。いいけど……」
 その態度に、気圧されつつも、おずおずと携帯をさし出した香奈は、赤也が携帯を忘れたのかとぼんやりと思っていたのだが、ボタンを操作し、携帯を耳に当てた赤也の次の言葉に驚愕した。

「もしもし日吉君?」

 一瞬、頭が白くなる。

「ん? 借りてるだけだって。安心しろって。今何してんの? ――いいじゃん、答えろよ。へえ、部活前なんだ」
 揶揄するような口調の赤也に、香奈は思わず手を伸ばして携帯を取り返そうとする。反射的な行動だったけれど、悪戯好きな赤也が何を言い出すか知れたものではない。
香奈、悪いけどちょっと邪魔しないでくんない? 俺、今、日吉君と話してるから」
 顔を蒼くした香奈が伸ばした手を簡単に避けながら平然と赤也は会話を続ける。
「ちょ、あかっ……何して……赤也! 若の部活のじゃm……んー!」
 慌てたように言葉を紡ぐ香奈の口を赤也は手で塞ぐとにやにやと人の悪いいたずら小僧のような笑みで、続けた。
「今、東京駅にいるんだけど――……んー、そうだな、電車の時間も見積もって二十分以内に来てよ。丸の内の方の出口。こないと俺、香奈に……」ここで、赤也は日吉にだけ聞こえるように声のトーンを落とした。「……かもしれないんだけど。じゃぁね待ってるから、バイバイ日吉君」
 若との通話はどうやら赤也が一方的に断ち切ったようで、それを見た香奈は涙目になっていた。香奈が暴れて携帯を取り戻そうとするものの、赤也は携帯を頭上に持ち上げ取れるものなら取ってみろ状態。
 香奈は、もし、氷帝に行くとしても、こっそりと――ストーキングのようだけれど――ちょっとだけ覗く程度にしようと思っていたというのに赤也の行動で全ての考えは水泡に帰した。むしろ悪化したかもしれなかった。いや、かもしれないどころではなく悪化した。まるで一条祭時に一条さんが介入した時のような悪化っぷりである。
「なん、ってこと言うの! バカ也バカ也バカ也ー!」
 怒りのあまり顔を赤くし涙目の香奈が背伸びして必死に携帯を奪還しようとするものの、赤也はこれを上手に避ける。はたからみれば恋人同士がふざけているようにしか見えないらしく、周りの通行人はちらりと視線を投げるだけで頓着しない。

 ◇◆◇

 そのとき氷帝では携帯を投げ付けかねない若の表情に、長太郎は心底怯えていた。うんざりとした調子で話していた若の態度が、途中で一変した為、長太郎は赤也がまたいらぬ事を言ったのだろうと怯えながら当たりをつけたらしく「切原……」と項垂れたように呟いた。
 悪鬼の如く、般若のような、そんな形容がしっくり来る迫力。漫画で言えば効果音は「ゴゴゴゴゴ」あたりだろうか。背景には劇画調の虎か龍でも持ってきたいところだった。スタイリストがいたならば、日吉の髪をヘアワックスとスプレーでバリバリツンツンに立ててくれただろう。
「ちょっ、日吉?! どこ行くんだよ! ぶかつ……っ!!」
 猛然と駆け始めた若の背中に困惑した長太郎の声がぶつけられるも、既に若はかなり遠くまで行っていた。一緒に部室へ向っていたクラスメイトがいきなり逆方向にダッシュすれば誰だって驚くだろう。
「適当に言っといてくれ!」
 若は取り残された長太郎に一言だけ残して一気に校舎内を駆け出した。
「日吉ぃーっ!」
 長太郎の置いていかれた子犬のような叫びをBGMに【切れそうな若の二十分間】の戦いのゴングが今、鳴らされた。
(二十分? 無茶言うな、あのワカメが!)
 部活中の十キロランニングの走りではなく、試合中、マッチポイントを取られるか取られないかの状態の極限ギリギリのスピードで若は駅まで走りぬけ、そのままホームへ滑り込むと丁度タイミングよく来た電車に強引な駆け込み乗車を決め、ホームと電車内とで【駆け込み乗車は大変危険です。次の電車をご利用下さい】とアナウンスが流れた。周りの乗客が半ば呆れたような視線を若に投げつけるが若はそれには全く頓着しない。
(流石にきつい……)
 入り口近くの乗客の迷惑そうな視線など意に介さずに、若は大きく呼吸して予備運動無しの中距離全力疾走に抗議している心臓を宥めるように息を整える。
 何故、自分は小曾根香奈の事となると、こうも冷静さを失うのだろうかとちらりと考えつつも赤也への憤りで、若は苛々と眉を寄せた。
 本気で、電話で言ったような事をするかどうかは定かではないけれど、赤也と香奈が一緒にいるというだけで無性に苛々とした。その苛立ちを握りこめるように、若は制服のシャツを握る。
 大体、香奈香奈だ。のほほんとして赤也のような危険人物と一緒にいても全く危機感がない。少しは自衛しろ、と若は思う。それが理不尽であると、自分勝手であると理解しつつも、思う。
(さっさと着け……)
 若は苛々と、息を 吐いた。

 ◇◆◇

 東京駅丸の内中央口では未だに香奈と赤也の攻防が繰り広げられていた。勿論、他人に迷惑にならない程度に声のトーンは下げられてはいたけれど。成体ゴジラヴァーサス幼生モスラ以上に実力に隔たりのある闘いだ。残念ながら香奈は糸も吐けない。
「携帯っ! 返してってば!」
 高い位置に上げられた自分の携帯を手にしようと、香奈は飛んだり跳ねたり向日岳人並にぴょんぴょんしている。実は赤也も長身という訳ではないので、時折香奈の手が携帯に触れるため少しかかとを浮かせて、携帯を握った手を左右に動かして香奈の手から上手に逃れていた。
「返したら日吉君に連絡するじゃん」
「だから返してって言ってるんだってば! こんなことしたら若に迷惑かかっちゃうでしょ! 若、頑張ってるのに!」
 普通に手を伸ばしたのでは届かないと悟った香奈は、赤也の腕を握って無理に下におろそうとするが、赤也は逆の手に携帯を持ちかえる。
「ほぉ〜らっ欲しいなら自力で取り返してみろよ?」
 かなり楽しそうな赤也に、香奈が悔しそうに顔を歪めた。
「っ……バカ也!」
「バカ也言うな!」
「あほ也!」
「あほ也言うな!」
 言い合いに関しては二人とも真剣ではあるのだが、論点がどんどんとずれていき、最終的に“やかん”あたりまで行った。
 この攻防により香奈が少ない体力を消耗してぐったりとなっているところに――
香奈……」
 ホームから一気に駆けてきたらしい若が香奈の名を呼ぶ。それを見た香奈が複雑な思いで眉を寄せた、時間を確かめた赤也が楽しそうに笑った。

 赤也は若が二十分をすぎたら本当に何がしかを実行するつもりだったらしい。
 つかつかと二人に歩み寄り、距離をつめた若が香奈の腕を強く掴んで強引に自分の傍へと引き寄せて赤也を睨む。
「……なんなんだよ、てめぇは」
 酷く苛ついた若の口調に、言われた赤也ではなく香奈の方がびくりと体を震わせた。
「あらら〜……日吉君、間に合ったじゃん。凄ぇ〜」
 赤也は苛々とした日吉の兇悪な表情を見て楽しそうに、ハハ、と軽く笑うと、香奈の携帯を若に押し付け
香奈に“日吉君にあえなくて寂しい”って愚痴られてたんだよね〜。ま、許してよ。んーじゃな」
 悪戯っぽい笑みを浮かべて普段よりも更に軽薄な調子で言った。
 その言葉に携帯を受け取った若が香奈を振り返ると、その隙に逃げるように駅構内に向う赤也。そんな赤也へ「言ってない!」と香奈は顔を赤くして反論したが、赤也は気にもせず振り返りもせず立ち去り、香奈の携帯を握ったまま、薄っすらと汗をかいた若が、溜息を一つ吐いた。
 そして、無言のまま、香奈の腕を掴んだまま赤也の後を追うように駅へと足を踏み入れ、氷帝高の最寄駅までの二枚のキップを買うと一枚を香奈に手渡し、掴んでいた腕を放す。
「あ、若、ごめ……でも、ホント、私、赤也に、そんなこと、言ってない、し……あの――」
 しどろもどろに謝罪する香奈の言葉を黙殺し、若は無言で歩き出した。若の後を追い、香奈は慌てて改札を通る。
「若……あ、赤也にわざと電話かけさせたわけじゃなくて……っ 赤也が勝手に……あの……忙しいのに、邪魔してごめん……」
 若の背中を追いかけながら香奈は訴える。若はそれに答える事はせずにホームへ向うと、少し待ってから、やってきた電車に乗った。
 さほど混んでいない車内ではあったが、ほとんどの席に乗客が座っている。若はしばらく開閉されない扉側に香奈を誘導して扉へ寄りかかるように促す。ここまで、全て無言の若に、香奈は申し訳なさと情けなさ、赤也に対する憤りなどなど、色々な感情が頭の中をぐるぐると回って、うつむいた。 

 氷帝に着けば「どこ行くの?」という不安げな香奈の問いを、若はまたも黙殺し、テニスコートまで彼女を導き
「――居ろ」
 と命令形で一言発すると香奈の携帯を手にしたまま部室へと向ってしまった。
 他校生である香奈は、居心地悪そうな不安そうな表情でテニスコートと若が消えていった方向をちらちらと交互に見る。いかに氷帝中等部卒業生とはいえ、初めて入る高等部の敷地内はなんとなく緊張してしまう。
 フェンスごしにコートを見つめていると、ジャージに着替えた若が、部活に遅れた事をなのか、何か上級生に注意されているようだった。頭を下げている。
「あ……」
 叱られている若を見れば、自分の所為で、と香奈は酷く情けなく、申し訳なくなり眉尻を下げ、フェンスに指を絡めて握り締めた。
(私が、若に迷惑かけてるんだ……)
 泣きそうな気持だった。
 邪魔したくないのに。
 若が頑張っている事を、香奈はとてもよく知っている。中学のころ、負けてしまった時の、若を見たときに、彼の邪魔だけはしないと決めた。
 彼がどれだけ一所懸命にテニスに打ち込んでいて、どれだけの情熱を傾けていたか。どれだけ前向きに、どれだけ野望を持って、どんなに頑張っていた事か。
 香奈は、見守る事しか出来なかったけれど。それでも、だから、邪魔をしたくなくて、香奈は、それだけはするまいと、重荷にだけはなるまいと、ずっと自分に課してきていたのだ。今だって、若は高等部でレギュラーを目指していて、三年が引退したこの時期がどれだけ大切か、わかっていたつもりだった。
 “寂しい”などと、口にすれば、若が気に病んでしまうからと、ずっと胸に押し込めていたのに。テニスを頑張っている若が好きなのは本当なのに。寂しい、なんて。
 情けなくて、逃げ出したい。

 それでも「居ろ」と言われた為に、香奈がこの場から離れることをためらっているとカシャンと小さな音がした。香奈がいつの間にか項垂れていた顔を上げると揺れるフェンスの向こうに若が立っていた。
「観てろ」
 簡潔な命令。いつもの香奈ならば、ほんの少しだけむっとする所だけれど、今はただ、頷く。

 既に準備運動を終えたらしき若が侑士に声をかけると、すぐさまゲームが始まった。
 サーブは侑士からだった。外に逃げる対応し辛いサーブを若はリターンエースを狙ったものか、逆側のコーナーへとレシーブした。オムニコートであるため、若や侑士のステップのたびに僅かに砂が舞う。風下にいる香奈はスカートから露出した脚に砂が当たり、僅かに痛みを感じていたけれど、そんな事はどうでも良かった。絡めた指でフェンスを強く握る。久々に、コートを走る若を、香奈は見た。
 侑士の返球に若はベースライナーであるくせに躊躇わずポーチにでた。香奈にはわからなかったが、そのポジショニングも中学時代とは比べ物にならないほど巧みになっている。
 意表をついた逆クロスはしかし、素早く反応した侑士に返される。ポーチしたボールが返球されるということがイコール、ピンチであることを、香奈は知っていた。指先が白くなるほどフェンスを握ってゲームを見守る。けれど、下がらずに、このピンチを逆に狙っていた若が、それでも体勢的にはかなり不安定だったが、アングルボレーでポイントを先取した。
 アグレッシブなプレイは相変わらずで思わず香奈の顔が綻ぶ。
「あっちゃー……今のが入るとは思われへんかったわ」
「忍足さんが鈍ってるんじゃないですか」
「かわいくないな、ほんま」
 苦笑気味に髪を掻き揚げた侑士に、若が面白くも無さそうに返した。次のサーブは、先程よりもバウンド後の角度が急で、若はこれを辛くも返したものの、整わない体勢の所を狙われ、何度目かのラリーの後に侑士がポイントを取った。
 進んでいくゲームを香奈は、見守る。見守る事しかできないから。せめてそれだけはと。

 若がフェンスに手をかけると、小さくそれが揺れる音がした。息の上がっている若を、香奈はフェンスごしに見上げる。
「悪い。負けた」
 流れる汗も拭わぬままの若の謝罪に、香奈は何度も首を横に振った。その姿を見下ろしながら、若はフェンスを握りすぎて白くなっている香奈の指を人差し指でトントンと軽く叩く。
「今日は顧問がいないから、早めに終わる。もう少し、待ってろ」
 香奈が頷くのを見止めれば、若はコートへと戻っていった。岳人や慈郎にからかわれながらも中学時代よりハードな練習をこなしていて、若の成長を目の当たりにすれば、香奈は高校に入っても変わらない自分が、どうしようもなく情けなくなってくる。

 テニス部の練習が終わると、当たり前のように、香奈は若の家の道場に呼ばれた。
 見学者用の椅子を出してもらい、ちょこんと膝をそろえて組み手を観る。大会前だからか、過去に観た練習とは違い檄を飛ばす師範の声もかなり厳しいものだった。
 オールドタイプというのかステレオタイプというのか一昔前の体育会系、というイメージが香奈の頭に浮かんだ。
「全然駄目だ」「このままでは勝てない」「これなら練習生の方が強い」などと言われるたびに若は「はい」しか返さない。上下関係を重んじる若が、どうやって育ったか解るようで、道場を震わせる師範の怒声は恐いものの香奈はしっかりと稽古の様子を見つめていた。
 自分と連絡を取らない時間、彼が何をしているのかの一端に触れられた事は、それだけで嬉しかったから。

 シャワーを浴びた若の饗した麦茶を飲みながら、香奈はちらちらと若を窺がった。卓袱台の前で、麦茶の入ったグラスを片手に、畳の上で直接あぐらをかいている若はTシャツにデニム、上から薄手のパーカーを羽織っていて、香奈が久々に見る私服姿。なんでもない、没個性が個性になりそうな程の普通の格好である。それなのに、香奈はちょっとした感動みたいなものを覚えて、それが少し恥ずかしく、それと同時に自分は若をとても好きなのだと実感する。
「今日は何で来た?」
 けれど、胸に湧いた温かい気持も、少々不機嫌そうな若の今更な問いに、申し訳無さそうに萎んでいった。
 どうやら、若は二人でゆっくりと会話をするために香奈を自宅に呼んだらしい。香奈はちょっとだけ首を傾げて、考え込むように自分の頬を撫で、両手で麦茶の入っているグラスをきゅっと握る。
「都内で職業見学だったの」
 もにょもにょと言い辛そうに麦茶を見つめて香奈が言った。言い終えるとちびちびと麦茶を飲む。
 けれど、先に続く香奈の言葉はなく、沈黙が二人の耳を撫でるような停滞した時間に、若が煩そうに不機嫌そうに口を開いた。
「それで?」
 促す若の言葉に、悪戯を叱られている子供のような声で、香奈が答える。
「東京駅で……若に会いに行こうかな、とか、でも忙しそうだし邪魔したら悪いから、どうしようかな、とか思ってて……ぼーっとしてたら、そしたら……えっと、」
 三者面談に親が来なくて途方にくれてる内気な小学生的な雰囲気。弱い者いじめ的な空気が雲のように室内で澱んでいる。座っている座布団の皺を、香奈は落ち着かなさそうに伸ばす。
「切原に携帯を取られたのか」
 こっくりと、香奈が頷いた。
 深い深い若の溜息が室内に蔓延する。香奈は一気に室内が暗くなったような気さえした。そうして、若は面倒そうに「三つ言いたい事がある」と、切り出した。
「まず、来る前には連絡しろ。驚くから」頼み。
「あと、切原にあんまり気を許すな。むかつくから」命じ。
「それと、別に邪魔じゃないし、迷惑じゃない」否定した。
 そこまで言うと、若は麦茶を一口飲み、それから、
「それよりも、切原に愚痴言ってたって本当か?」
 酷く不機嫌そうに、香奈に尋ねた。
「……ちょっと、だけ、言った」
 香奈は強い詰問調の言葉に一瞬身を竦ませたが、素直に答える。嘘が吐けないと言うのはこの場では美徳ではなくただの馬鹿だと、香奈自身わかっているけれど。と言うか、思わず素直に答えてしまった自分の頭を殴りたい気持ちだけれど。香奈は、手の中のグラスを強く握った。怯えたような色の香奈の瞳は、若を視界に入れようとしない。
 その香奈の様子に若は苛々とした口調でまた、問う。
「なんで俺に言わない?」 
「だって、……邪魔、したくなかったし……うざったいと、思われるかな、とか」
 言い訳がましく途切れ途切れの小さな声で紡がれる言葉に、若は更に苛々したように強い語気で詰問した。
「切原に言えば問題解決するのか。切原には言えるのに、俺には言えないのか」
 酷く怒っているような若の様子に、彼の怒りの原因がいまいちわからない香奈は麦茶の水面を見つめ続ける。
 練習を邪魔してしまった事で、稽古の時間を香奈がいるために早めに切り上げた事で不機嫌になっているのかと香奈は思っていた。けれど、先の言葉――別に迷惑じゃないし、邪魔でもない――を聴き、どうして彼がこんなにも不機嫌なのかが解らずに途方にくれる。
 赤也に愚痴を話した事を怒っているのだろうか、若本人に言わなかった事を怒っているのだろうか、その両方だろうか。だとしたら何故それが嫌だったのだろうか。それとも別の何かだろうか。
 香奈は色々と考えながらも、若が怒っているというそれだけでうろたえてしまい、それと同時になぜ怒られているのか解らずに眉を寄せた。
「――そんなに、怒ることないじゃん……」
 その、香奈の反応を見て、若は酷くうんざりしたように溜息を吐く。酷く苛々した棘のある口調で、若は応じる。

「――お前と、こうやって話してると、本当に疲れる」

 その言葉が、地雷だった。香奈が、いわゆる――

「疲れるのは私だもん……若が好きだから、嫌われたくなくて、邪魔したくなくて、心配させたくないから愚痴もいえなくて、若が好きだから、若が頑張ってくれたら、今日みたいに試合とか、頑張ってくれてたら嬉しいから、会いたいとか、デートしたいとか、全部我慢して、テニスやってる若がすごいカッコイイから、大好きだから、強くなってる若が嬉しいのに、疲れるとか言うし、怒るし、いじめるし……さ、最後に会ったのずっと前なのに、メールとか、返信遅くてもいそがしいからだって我慢してタイミング、あわなくて電話もでないし。なのに、赤也がかけたらでるし、つ、疲れるとか、言うし! さみ、寂しくて、私……す、好きなのに……好きなのに。今日会えたの嬉しかったのに、好きなのに、なのになんでそういうこというの……! き、きらいになったら、言えばいいのに……な、なん、なんで つか、疲れるとか、い、ぅ――っ……き、嫌われたくないのに、なんで、こんな、こと、っ言わ、……っ――話、せるの、うれし、のに……なん、で、つか、れる、とか、言ぅっ、ゆー……、のっ!」

 ――キレた。突然、いつもよりもずっと幼稚な口調で、ずっと支離滅裂に、吐き出すように、喋りながらどんどんと興奮してきたのか最後の方は泣きべそをかきながらも香奈が一気に言葉を紡いだ。何が言いたいのか自分でもわからないのだろう。言っていることに一貫性がない。
 何を伝えたいのかさえ解らない香奈の言葉を聞いた若は、酷く弱ったような様子で、何度目かの溜息を吐いた。
「お前、どこの子供だよ……――俺は香奈を気遣いたいし寂しい時はそう言って欲しい。言ってくれないと俺にはわからない。でも、わからないままでいいと思うほど、俺は香奈に無関心じゃない。知りたい。香奈は邪魔じゃないし、前に、俺だって香奈をそんなに簡単に嫌いになったりしないって言っただろ。我慢する必要なんかない」
 ぐしぐしと目をこする香奈に先ほどの怒りも勢いを失った若が、説得するように、宥めるように言葉を尽くす。誰かが見れば、その若の姿に驚く事だろう。これが香奈以外の誰かならば“うるせぇ”の一言で切り捨てただろう。
 けれど、香奈は、若の言葉に子供のように――実際、子供だけれど――反抗した。
「つ、つかれるってゆった……!」
「疲れるから疲れるって言ったんだ」
 反論とも言いがたいそれに、若は溜息と共に返答とも言いがたいそれを返す。確かに、若は言葉を尽くす事に疲れた様子で、また、溜息の回数を増やした。
「つか、れるなら、わたし、と、はな、さなきゃ、いい、じゃん……!」
 しゃくりあげながら、香奈が小学生のように切り替えした。
「子供みたいな事言うな。好きでもない奴の為に俺がこんなこと話すかよ。……香奈、とりあえず、落ち着――」
 嗚咽を漏らす香奈に、苛々した調子で言葉を吐こうとした若の唇はしかし、唐突に塞がれた。
 ただ押し付けるだけの口付けに、若が驚いて目の前の香奈を凝視する。ひく、としゃくりあげて香奈は唇を離すと若に抱きついて、ぴーぴー泣き出した。気持ちが高ぶって制御できていない。
 香奈が抱きついた拍子に倒れたグラスから零れた麦茶が、卓袱台の中央に丸い水溜りを作る。

 ◇◆◇

 たしかに――、と癇癪を起こして泣き出した香奈を抱き返しながら若は思う。
 自分たちの年齢で特定の異性と付き合う場合、過剰に余剰が出ても二人で居る時間と言うものを多く取っているような気がするな、と若は思い出す。それは多分、高校生という年齢にあっては当たり前なのかもしれない。示し合わせたように休み時間はお互い会いに行って、一緒に登下校して、下校時に軽くデートして、電車の中ではメールの応酬をして。確かに、付き合い始めはそう言う時期もあったけれど。
 もともと、一人を嫌う香奈の性質を思い出せば、若は自然と溜息を漏らした。
 きっと、香奈でなければ、若はこんなやりとりを酷く面倒で不毛だと嫌い、宥めもしなかっただろうし、そもそも、赤也に呼び出されたときに部活を蹴ってまで迎えに行かなかっただろう。何故、そこまでしてしまうのかと問われても、若は“好きだから”としか答えを返せないけれど。
 若がちらりと卓袱台の上へと視線をやれば、着実に水溜りは成長していて、麦茶が水音を立てて畳へ吸い込まれるのも、そう先ではなさそうだ。
 窓からは濃紺に彩られた景色が侵入し、飾り気のない蛍光灯が、一つ瞬いた。それを合図にしたかのように、若は溜息とともにしゃくりあげている香奈の背を撫でながら瞼を下ろす。
 (結局、全部ぶっちゃけるなら、最初から言えよ)
 若は妙にげんなりとした気持ちになりながらも、久方ぶりに抱き寄せた、香奈の肩の頼りなさに、こんなに細かっただろうかと驚く。
 気遣いも我慢も間違った方向に向いている香奈は、それでもただ単純にどうしたら若により良いかという事しか考えていない。それは若もわかっている。わかっているからこそ、若はその間違った方向の努力だか我慢だかに腹が立つ。腹が立つと同時にいじらしく感じてしまう。
 (図々しいところは、妙に図々しいくせに――……)
 若としては、赤也と馴れ馴れしくしていた事も気に喰わなかったし、赤也が電話口で言った言葉も気に喰わなかった。むしろ、その台詞に腹を立てていたといってもいい。
 けれど、香奈の涙によって怒りを維持する気力が萎えてしまった。さすがに泣かせるつもりはなかった。罪悪感とは違うが、たいそう困る。若は香奈の背を撫で、頭を撫で、髪を梳き、腕を擦り、とにかく泣き止むように宥め続けた。
 窓から入り込む四角い濃紺が、黒に変わっていく。

「飲むか?」
 幾分、香奈の呼吸が落ち着いたところで、若は倒れていない自分の麦茶を示して、香奈に尋ねた。若は腕の中で香奈が小さく頷くのを確認し、香奈の零れた麦茶で底の濡れたグラスを手にすると、ぽたりと茶色い雫が茶色い水溜りに落ちて、茶色い飛沫を散らす。
 麦茶で両手を濡らしながらグラスを受け取って、くすん、と鼻を啜った香奈がそれをちびちびと嚥下する。麦茶を半分ほど飲み干したときには香奈は大分落ち着きを取り戻していた。それに安堵して、若は香奈の顔を覗き込むと、若の視線から逃れるように香奈は顔を背けた。
 そして。
「……ごめんね」
 ぽつん、と静かな空間に、声が落ちた。
 前にしていたように、香奈はグラスを両手でしっかりと、縋るように握っている。
「でも、やっぱり、若には、言いづらいよ。だって、若、私が寂しいって言ったら、気にするよね?」
 顔を逸らしたまま、若の胸に額を擦り付けるように、表情を隠しながら香奈が言葉を紡ぐ。
 昼日中は暑さすら感じる季節だけれど、夕刻を過ぎれば空調器具がなくとも過ごしやすい気温になる。丁度良い、快い、その温度の中で、二人が触れ合っている部分だけがあたたかい。
 若は先を促すように、何も言わずに香奈の背を撫でる。
「気にしないで、ほしいの。余計な事、考えないで、練習とか、頑張って、欲しい……から」
 その言葉を聞けば、若は、数えるのも億劫になるほど吐いた溜息を、また一つ。
「余計な事じゃない。気にさせろ。それくらい何でもない」
「だ、って。練習……」
 頑なに心配する香奈の髪を若が手のひらで撫でる。若は顔を傾けて頬を香奈の頭に寄せながら、あやすように言う。
「確かに今月は忙しい。だから、来月は沢山デートしよう」
「でも……疲れるって、言った」
 香奈は、先の若の言葉をずるずると引きずっているらしく、また泣きそうになっている。それでも、泣くまいと、小さく息を詰めた香奈の姿に、若はどうしようもなく、愛情のようなものを感じて、指の背で濡れた頬を何度も撫でる。
「疲れるんだよ。こんな話。――それより来月行きたい所、考えておいてくれ」
 若の言葉を聴いた香奈は、自分の撫でている若の指に自身の指を絡めて、その動きを止めさせた。そうして、香奈はその手を口元まで持っていくと節ばった指に唇を触れさせながら少し顔を上げて若に尋ねる。それは、本当に不思議そうに。
「なんで、あんなに怒ってたの? 私が、若に言わなかったから、あんなに怒ってたの?」
 少なくとも、香奈は酷く若が怒っていたと感じたらしい。若自身はそこまでオープンに感情表現をしているつもりはなかったが、香奈が不思議に思う程には不機嫌が漏れていたのだろう。
「それは、言いたくない。でも、お前が俺より切原を頼った事は、かなり……嫌、だった。とにかく、切原とあまり親しくするな」
 途端に不機嫌になった若の声に、それをたしなめるように香奈が絡めた若の指先を甘く噛む。
 噛まれた若は指先で軽く香奈の上顎をくすぐってから歯列の表面を指の腹で撫でる。歯並びの良い前歯が可愛いな、などという感想が浮かぶと、若の不機嫌の度合いが自然と小さくなっていくが香奈は顔を振って若の指から逃れた。そして香奈はしっかりと若の手を握って悪戯に動かないよう固定する。
「赤也、あれでけっこう女の子にモテるから、大丈夫だよ?」
「何が」
 何が大丈夫なのかと、若は呆れたような気持ちで尋ねる。
「ふざけてるだけで、私の事とか、からかってるだけだし。若、気にしすぎだと思う」
 すると、なんとも気の抜けた返答が返ってきた。若は呆れるより感心してしまいそうな心持ちになりながら語尾を真似て言った。
「俺は香奈が気にしなさすぎだと思う」
「若ってヤキモチやきだよね」
 若の言葉に、彼の胸に顔を埋めたまま香奈がくすくすとおかしそうに笑う。それを聞いた若が、呆れたように息を吐きながら、香奈に囚われていた手を逃し、鞄へと伸ばし、未使用のタオルを手にした。手近には布巾などがなかったので、若は部活で使用するスポーツタオルを麦茶の広がる卓袱台に乗せる。
 白いタオルに薄茶色のしみが広がっていく。
「……泣いた烏はどこにいったんだか」
 みるみると茶に侵されていく白を眺めながら、若は小さく呟いた。それは、安堵の色をまとい。
「からす?」
 かくん、と不思議そうに首を傾げて香奈が若を見上げる。若はそれに苦笑し、唇を香奈の耳元に寄せて「悪かった」とくすぐるような謝罪を伝えた。そして、いまだに彼女の手中にある、いつの間にか空になったグラスを奪い卓袱台の上へと戻す。
「かっこよくなってたから、ゆるしたげる。――私も、ごめんね」
「切原に近付かなければ許してやる」
 お互いに冗談めかして、おどけた調子で言えば、小さく笑う。
「私まだ、ダメだけど、良くなるから、頑張るから……ホントは、疲れたりとか、してないから……言い過ぎちゃった。ごめんね」
 香奈は律儀にも、先に喚いた時に自分の吐いた言葉を本当に申し訳無さそうに、言葉にした自分が傷ついたように、謝罪した。
 誰でも三年も長く付き合っていれば疲れる事くらいあるだろうと思いながらも、若はその姿をいじらしく感じて、香奈へ顔を寄せて鼻先を触れ合わせた。吐息を唇に感じる位置で「気にしてない」と安心させるように答えてやれば、香奈が安堵したのか、ふわりと笑う。
香奈
 と若が名を呼んで、ほんの軽く口付けると、香奈は条件反射のように目蓋を落とした。
 若は、口にはしないけれど、香奈のその様子がとても可愛らしく感じられて、そう言う意味でもキスが好きだった。伏せられた香奈の睫毛を見やりながら口付けを、より深くしていく。すると、香奈が呼吸でもするかのように薄っすらと瞼を上げ、微かに震える彼女の睫毛を見つめていた若と、二人、しっかりと目が合う。
 思わず、お互い噴出すように笑った。

「あーもー……何で見てるんですか?」
 笑い終えた香奈が、照れているのか、拗ねているのか、なぜか敬語になりつつ、頬を自分の手のひらに押し当てて、若へ不満そうに尋ねる。
 キスの時は目を閉じていなければならないと言う法はない、と若は思いつつも、言葉に出せば香奈が怒ると知っているので、口の端を上げてその香奈の問いへ簡潔な答えを返した。
「見たいから」
 と、その若の言葉を聞いた瞬間、香奈が軽く拳を握って若を叩くような仕草をする。その仕草に若は笑ってしまいそうになりながら、右肩辺りに飛んできたそれを手のひらで受ける。
「ばか」
 顔を赤くした香奈の言葉も、どこか甘えるような響きを含んでいて、若は捕らえた香奈の手を自分の手のひらで包み、再び口付ける。今度は若に負けてなるものかとしっかり瞼を上げて香奈はキスに挑んだ。キスに挑むという言い方もおかしいが、香奈の表情はまさにそんな感じで、若は思わず笑いそうになる。
 何度か若が大きく背を撫でてやると、けれど、香奈は眠るようにゆっくりと、また瞼を落とした。赤く染まった目尻にかなり照れている事が解って、若は奇妙な満足感のようなものが胸に湧いたけれど、香奈に頬を撫でられ、その華奢な手のひらが若の目の上に当てられた。暗くなる視界に、そんなに見られる事が嫌なのかと、若は少し哀れになって、口付けはそのままに、ゆっくりと瞼を下ろしてやる。
 手のひらに伝わる感触で、若が瞼を落とした事に気付いたのか、当てられていた香奈の手が離れ、若の首に回る。若は握っていた香奈の手を離して、その両腕で彼女を抱き寄せる。唇で唇を覆い、軽く吸うようにし、ぴったりと触れ合わせて、より柔らかさを堪能すると、しっかりと触れ合っているという満足感にゆっくりと顔を離した。
「まだ寂しいか?」
 赤く染まった頬を撫でながら問うと、香奈はやんわりと首を振り、頬を撫でる若の手に、そっと自分のそれを重ねた。
 言葉にされなかった香奈の願いを叶えるべく、若は、また唇を寄せていく。

 ◇◆◇

 心苦しいけれど、テニスを疎かにするわけにはいかない。
 俺はテニスがとても好きで、努力して跡部さんを倒したいからだ。彼を倒す、その瞬間までに自分はどれだけのものを得られるだろうか。
 でも、俺は香奈も大切だから、両方を天秤にかけて、物分りの良い香奈の方を犠牲にする。
 いつか、好きなものも大切なものも天秤に乗せる必要なく、取りこぼさずに、両手で護って歩けるようになるのだろうか。

 香奈を抱きしめた手のひらの下、熱が、飽和する。