好かれている、自覚がある。
 これからも好かれている、根拠がない。


 L a  n o y e e

 香奈が、隣にいることが、とても当たり前になっていて、それはこの数年間変わらない事だった。
 そして、時折、それが、酷く、怖くなる。香奈が俺から離れていったら、と、思うと。背筋が寒くなるような気さえしてしまう。俺はいつから香奈がいなければ生きていけなくなったのだろうか。
 いや、想像がつかないだけで、香奈がいなくなれば、そのうち、それに適応するのだろう。
 けれど、俺は、それが酷く、とてつもなく、嫌だ。

 香奈が俺の隣にいない事が、俺にとって当たり前になる。

 それが、一番、恐ろしい。
 余裕ぶってはいるけれど、強引なことを出来ないのは、過保護と言われるほど香奈へ心を配るのは、全て香奈に嫌われたらという不安からだろうと自己判断している。
 そう簡単に香奈は俺を嫌わないだろうとは、思う。
 会うたびに、香奈は視線と声と態度で好きだと全身で表現してくる。飼い主の帰宅を喜ぶ仔犬のように、尾があったらぶんぶんと振っていただろうなと想像してしまうほどに。

 けれど、こうやってたっぷりと思考する余裕が出来ると、思い出したように乾いた傷口のように引き攣れた不安が、時折痛むように俺を恐怖させる。
 これほど、大切なのに。
 余りにも、大事なのに。
 とても、いとおしく感じるのに。

 それがなくなっても平気になってしまうだなんて、恐ろしい以外のどんな言葉で表現すればいい?

 そうやって、思考の海に沈んでいると、その悩みが全て杞憂だとでも言うかのように、香奈から電話がかかってくる。
 あいつには超能力でもあるのだろうか。震える携帯を、机からもぎると通話ボタンを押し、耳に添える。
 途端に聞こえる、声。
『若?』
「ああ」
 携帯を握り、自室の壁に寄りかかり、脚を投げ出した格好で天井を見上げると、頭頂が壁に軽く当たった。
 香奈の次の言葉を待ちながら、先程までの恐怖が消えていく。霧散してゆく。溶けてゆく。
 俺の恐怖も、不安も、香奈の一言には敵わない。
 その事に、情けないほど安堵する。喜ぶ。
『こんばんは。明後日、立海の文化祭だよ。来れる?』
 窺うような、でも、少し弾んだ声。
 少しの心配と期待が混じっている声。それがわかることが嬉しいし、誇らしい。
「ああ、昼過ぎには行けると思う」
 何でもないように答えながら、香奈に気付かれないように携帯を握り直す。
『テニス部、大変だね。お休みの日まで練習だもんね』
「……まあ、そうだな。でも、あまりそう感じない」
『若は頑張りやさんだね。そういうところ、尊敬してるよ。……あー……なんか、幸せ』
「は?」
『若と話してるって、ほんと、幸せ』

 やばい。本当に。
 そんなに幸せそうな声を出さないで欲しい。
 気恥ずかしくなるではないか。受話器の向こうでは照れたような笑声が漏れている。
 ああ、今、香奈が側にいたのならば、きっと抱きしめていただろう。
「じゃあ、電話してれば会えなくても大丈夫だな」
 なんて、少し意地の悪い事を照れ隠しでもって口にしてしまう。
『やだ!』
 即答だった。勿論、それも予想範疇。
 あまりにも予想通りで、笑ってしまう。堪えようとしても、口角が上がるのが解った。
 俺の言葉を、香奈が否定する。
 好かれていると感じる。
 それが、安堵に繋がる。
 ああ、なんて俺は歪んでいるんだろう。
 けれど、それもそれで正常なのではないか。
 否定して欲しい、肯定しないで欲しい、そんな――所謂、意地の悪い――言葉ばかり吐いてしまう自分が情けなくもある。
『会えたら、もっと嬉しいよ。若君は私に会いたくないわけですか』
 最後が敬語になっていた。拗ねてるな、と思えば、息を、ゆっくり吸った。
「俺も会いたい」
 少し気恥ずかしかった。それでも、ちゃんと言葉になった。
 中学生のあの頃より、好意を示す事に、慣れて来た所為かもしれない。
 あの頃は、こんな不安はなかった。ずっと好きでずっと一緒にいるのだろうと、そう確信していた。けれど、他人が別れるたびに、そんな話を聞くたびに思う。永遠なんてこの世にはないのだと。
 中学の頃、香奈は『もし、若と別れたとしても……』などと言っていた。俺はそれを否定した。香奈が好きだ。けれど、今はそれを否定できる根拠はない。

 ◆◇◆

 マジかよ、という顔の、切原。
 俺の顔は多分、ウンザリとした表情になっているのだろうと思う。
(また、こいつか)
 お互いに、きっとそう思っているんだろう。
 だが、切原は、溜息を一つ吐くと、ニッと笑って軽く手を上げた。
 切り替えの早さは、幾つかある切原の長所だろう。俺にさえわかるのだから、香奈はもっとより多く切原の長所を感じているのだろうと思えば、悔しいというよりも、溜息が出るような疲れた心持になった。
 立海の門をくぐり、校舎内に入り、少し廊下を歩いた所で、ばったりと会ってしまったのだが、僅かに挑発的な視線に、目を細めて返し、軽く手を上げて応じる。
香奈の教室、二階。楽しんでいってよ日吉君」
「そうさせてもらう」
 切原と別れ、メールを打つと“今から劇だから、体育館のほう”というメールが帰ってきた。
 体育館って、どこだよ。
 校内の見取り図を見ながら、体育館への経路に目星をつけると再びメール。
 “ひかえしつ 体育館 右 かべつ゛たい かいだん 2かい 右 あお”
 暗号に近いメールが返ってきた。真実、溜息が漏れた。

 ◆◇◆

「入って大丈夫だよー」
 メールで連絡し、ノックをしたところ、香奈の許しが出たので、俺はゆっくりとドアノブを捻り、中に足を踏み入れる。
 役者が沢山居るだろうと思ったのだが、中には香奈独りだった。控え室と言うよりは、急遽控え室にされた用具室というのが正しいんだろう。
 それでも、大きな黒板等は綺麗に並べられ、狭いながらも雑ぜんとはしていなかった。
 ただ、色々な衣装やら、床に散らばった台本があるので、現状的には汚いが。
 たった一つある窓から光が差し込み、ドレス姿の香奈は眩しそうに目を細めた。
 そして俺を見て、嬉しそうに微笑む。その姿が、素直に自分の心に染み込んでくる。乾いた土に染み込む慈雨。
「若、久しぶり。ちゃんと分かったんだね」
 いいこいいこ、とまた笑う。
「ああ」
 いいこ発言を無視して頷くと、香奈はまた笑った。
 酷く、嬉しそうに。
 とても、幸せそうに。
 心から、楽しそうに。
 見慣れているはずの香奈が、いつもと、違う。
 その髪から香るシャンプーの香りも、嗅ぎ慣れているはずなのに、どこかいつもと違う。
 香奈はドレスの裾をつまみ「似合う?」と笑顔で聞いてきた。
 笑顔を、華のようだ、と表現する事がある。
 けれど、香奈の笑顔は、銃弾だ。
 それだけで、俺を殺せる。

「わか、し?」

 不意に抱きしめられた香奈は、不思議そうに俺の名を呼ぶ。
 それから、その華奢な手が、俺の背中に回された。ぽんぽん、と俺の背を幼子を慰撫するように撫でる。
 途端に、恥ずかしくなって、抱擁を解く。
「抱きついちゃうほど、綺麗だった?」

 俺を見上げて、それは、もう満面の笑みで
 抱きしめられた事に照れ俺に軽口を叩く
 頬を紅潮させ、答えを求め俺を見上げ
 見つめ見上げて来るのに首肯を返す
 それを見て本当に嬉しそうに笑った
 その、笑み、に、俺は、殺される
 俺は僅か頬を緩め苦笑を返す
 腕を伸ばし、彼女の髪を梳く
 擽ったそうに、首を竦める
 そして、幸福そうに笑う
 俺はそれに安堵する
 彼女が好いている
 それを確信して
 消える、不安
 伝えたくなる
 こんな所で
 好きだと
 けれど
 忍ぶ

 そっと、抱きしめる。

 耐え切れなくなった俺の、二度目の抱擁に、香奈は、俺の胸に寄りかかるようにして、また笑った。
「プロにお化粧してもらっただけあったかな。惚れ直した?」
 にこにこと、嬉しそうに、頬を染めて問う香奈に、俺は頷きを返すそこでガッツポーズをするな。
 はぁ、と深い嘆息を漏らすと、香奈は不服そうに俺を見上げて、腕を伸ばし、両手で、俺の両耳を下に引いた。
 僅かな痛みと強引な手段と不明な行動に眉を寄せつつ軽く屈む。
 背伸びをしたらしき、香奈が、その唇が、ほんの僅かに俺のそれに触れた。
 白粉の匂い。
 口紅の匂い。
 香奈の匂い。
 やばい。
 理性が焼き切れそうだ。
 咄嗟に腕を放すと、俺が驚いたと思ったのか、香奈は悪戯が成功した悪ガキみたいな顔で得意気に笑った。
 その頬が赤く、実はめちゃくちゃ照れてるのが良く解る。
 そこまで照れるならやるな。
 むしろこんな場所で抱きしめるな、俺。
香奈ー。そろそろ出番だよ。着替え終わってる?」
 天の助けか、扉をノックする音と共に香奈を呼ぶ声が小さな室内に響いた。
「あっあ、ちょ、ちょっと待って! すぐだから!」
 香奈は慌てた様子で手袋を嵌めるときらきらとした飾りのついた髪飾りを止め、落とした。
 試行錯誤をしているようなので、俺は香奈を手招きし、落ちないようにその頭に据えてやる。
 我ながら、香奈の事となると過保護だ。
 綺麗に見えるよう調節してやると「ありがとう。見てってね!」と謝辞を述べつつドレスに似合わないダッシュで部屋を出て行った。
 ふわり、と香奈の残り香が室内に漂う。
 俺は、再び嘆息しつつ掌を額に押し付ける。
「畜生……」
 本気で好きだ。
 本気で惚れてる。
 顔が熱い。
 漏れた罵倒は、誰に向けてのものだったのか、俺にもわからない。
 あるいは、運命の、ようなものに。
 あるいは、神の、ようなものに。
 あるいは、自分、に。
 ああ、香奈が舞台に上るのだったか。
 観に行かなければ。
 ふう、と心を静めるために息を吐く。
 昂ぶった感情を抑えるために円周率を延々と思い出しながら熱を冷ます。香奈と付き合っているとこんなことばかりだ。昔は素数を数えたのだったか。成長しない自分に呆れてしまう。

 ◆◇◆

 著作権の関係で自作の劇になったと言う事で、高校生が考えるようなストーリーに期待はしていなかったが、それなりに面白い。
 アクションと恋愛に重点を置いているようでアクションが壊滅的に無理そうな香奈が恋愛の方に回された理由が良く解る。アクションを任せられている男は、格闘技ではなく体操か、ダンスか、そのあたりの動きをしているなと冷静に判断した。剣劇はそこそこよかった。何度も練習したであろうことがよくわかった。
 ほとんど大道具等を使わず、背景も数枚の風景画のみだったのも潔くて良い。
「一度だけの人生。だから今この時だけを考えましょう。過去は及ばず、未来は知れず。死んでからの事は宗教に任せればいい」
 アクション前の女剣士の台詞に聞き覚えがあり、首を捻る。中村天風……か?
 よくよく聞いてみれば、台詞のあちこちに有名な哲学者などの言葉が使われている。
 つまり、そういう楽しみ方をしろということか。なるほど、最近の子供は本を読まないだとかどうだとか言われているが、そういった意味でも教師にアピールしているのだろう。シェイクスピアだのの有名すぎるものは出てこなかった。どちらかというと日本人の言葉が多い。
 香奈は、下手とは断言できない程度に――それでも、ああ、頑張ってるな、と思う微笑ましさだったが――演技していた。
 さて、そろそろクライマックスだろうか。内容的にそう思ったのではなく、残りの時間で判断した。
「恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものだよ。幻想さ」
 この男子生徒は下手だ。一応、馬鹿にしたようなニュアンスは伝わってきたが、まだ香奈の方が上手い。
 そして下手な男子生徒の言葉に、香奈は得意げに笑う。
「愛することにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠に素人なのよ」
 ……得意げに笑うシーンか? これ。全体的な流れから言えば、食って掛かるように言った方がいいような気がするが、まあ、脚本のヤツがこれでいいと思ったのならいいのだろう。まあ、先ほどのように台詞を間違えなかっただけ良いだろう。香奈は先ほどからいくつか台詞を間違えている。おおよその意味は変わらないものの、元の格言等を知っている人間からすると、混ざっているな、とすぐにわかるほどには間違えていた。
「馬鹿馬鹿しさも甚だしいね。あの詩人は、もう町には居られない」
「それでも、私は、行くわ」
 決闘に負けて町を出て行こうとする詩人を追うために、全力疾走させられる、万年美術部員の香奈は哀れだった。長いドレスのスカートの所為で転びやしないかと、違う意味ではらはらドキドキだ。俺は父親か。
 追って来た香奈に驚く詩人。闇の中では歩きづらいからとマッチを擦り、会話開始。これは本物のマッチではなかったが、ランプに火をともす動作は自然で、大きな道具がなくとも、こんな小さな道具でも場の空気を、詩人役の男は作り出した。イッセー尾方などの一人芝居的なものをやらせれば、きっとこの男は上手いだろう。
「こうやってマッチを擦ると君の顔が、よく見える。君まで、僕についてくる事は無い。僕は負けたんだ――でも、最後に抱きしめてもいいかい?」
 詩人が香奈を抱く。演技でも、香奈が抱きしめられていると苛々する俺は心が狭い。
 そっと、二人は離れて、香奈は多分、男を見つめていなければならなかったんだろう。男の視線の動きからそれを悟る。
 しかし香奈は、幼い迷子なみに思いっきり視線をさまよわせ――ああ、台詞忘れやがった。絶対忘れてる。
 詩人の方もそれを悟ったのか、小声で香奈に何か言おうとしたようだが、香奈の浮遊していた目が俺を捉えた。
 お前、今確実に頭の中真っ白だろ。俺は台詞なんか知らないぞ?
「私は! ずっとあなたと一緒に居たい」
 詩人、驚愕。
 アドリブ展開のバトルフィールドだ。可哀想に。俺だってこんなことになったら驚愕する。
「好きな人と居られるだけで、私は幸せだから。好きな人が居ない所で幸せになるよりも、好きな人と一緒に苦しみたい」
 口調も微妙に変わってる。
 そして何より――頼むから俺に視線を合わせて、そんな台詞を吐くな。
「勿論、離れてても、本当に好きだけど!」
 いや、ちょっと待て。
 俺個人に向けてのメッセージは流石に止めろ。
 しかも微妙に必死なのは何でだ。パニクってるのか。自分でもどうしていいのかわからないのかもしれない。しれないが、やめてくれ。今の言葉は本気で俺に言っただろ。口調が素に戻りつつあるぞ、気づけ。せめて取り繕え。
 こいつ、本当に、時々凄い行動力を示すよな……
 そういえば、会った時も、そんなに親しくもない俺に電車で守れとか暗に言ってきた。塾からの帰宅中に見つけた猫の轢死体を弔って帰宅が夜中近くなったこともあったし――あの日、香奈の母から香奈を知らないかと電話があった――、ある日はびしょ濡れで電車に乗って来たのでどうしたのかと聞くと雨の中で立っていた小学生に傘をあげてきた! とか、杖を突いていた老人のためにタクシーを呼んで目的地まで案内したために学校に遅刻したり……ああ、俺の彼女は本当に馬鹿なんだな。何ごとにも程度があるというのに。
 俺が溜息を噛殺すと、そこで、香奈は台詞を思い出したのか、ぱっと詩人を見やった。
「愛すと言う事は、お互いに見つめ合う事じゃないわ。一緒に同じ方向を見つめる事なのよ。私はあなたの側で、同じ物を見ていきたいの……」
 今更、余裕気に笑っても意味皆無だろ。しかも、テグジュペリじゃねぇか、香奈は自分の好きな作家の言葉を忘れたのか。というか、自分で選んだんじゃないのか、もしかして? それなのにすっかり忘れていたのか?
 とにかく、二人は手に手を取り合って劇が終了した。
 香奈はただの馬鹿ではなく、馬鹿一〇くらいなんだな、と勝手に判断する事にした。
 溜息に、どこか嬉しそうな色がついたのは、気のせいと言う事にしておこう。

 ◆◇◆

 帰路につきながら、俺たちは取りとめの無い話をする。
香奈、お前、台詞忘れただろ」
「んー、でもまあ、なんとかなったし! 私、演劇の才能あるかも?」
 ふざけている台詞だったが、俺は心底「香奈、夢は見るな」と切って捨ててしまった。あれだけ台詞を間違えたのに、ふざけているとはいえよくもそんなことが言えたものだと感心してしまう。
 そんな俺の言葉に、香奈はすこしむくれているようだった。

 けれど、あの時の台詞は必死だった。
 きっと香奈も、俺ほどじゃないにしろ、不安があるはずだ。
 それなら、不安はお互い様。
 香奈が不安の海で溺れるなら、俺が助けてやればいい。
 俺に対して、香奈がそうしてくれるように。

 香奈が好いていてくれる。
 それだけで俺は輝かしいような気持ちで生きていける。
 我ながら単純だが、しかし、それは嫌なことではまったく、ない。