青少年たちの人には言えない悩み     ※Hネタですがえろくはないと思います。
 若とえっちをした回数が片手の指の数を満たした。
 それが、多いのか少ないのかも、私にはよくわからない。きっと、そんなに多くはないだろうなぁ、という予想だけがある。
 若の家には、大抵いつも誰かがいるし、彼の部屋の出入りは襖なので鍵がかからないし、畳ですれちゃうから布団を敷かないといけなくて、えっちをするのは私の家がほとんど。ホテルという場所があるのも知っているけれど、別に精力的にバイトをしているわけではない私と若には、そこを利用したらかなりの出費になってしまう。なので、看板を見ただけで、即却下。いつか、一度行ってみたいなとは思うけれど、逆に、利用したらえっちはしなさそうな感じがする。なんとなく、だけど。
 別に、その状況に不満はないけど、今、私を抱き寄せてる若の表情には不満がある。言えないけど。だって、若がどうしてそんな顔をしているのかわかってるから。だから、言えないけど。
 言えない変わりに、筋肉の中に溜った乳酸を蹴散らす気持ちで腕を動かして、若をぎゅーっと抱き寄せて、あんまり柔らかくないそのほっぺたにキスをする。ベッドがきしきしと私達をからかっているような音を上げて、若はちょっとくすぐったそうに目を細めた。

 痛い、なんて言ってないのに、なんで若にはわかるんだろう。ちょっと不思議だ。
 えっちが、全然気持ち良くないわけじゃない。むしろ、思わず反射的に若の手を払っちゃったりするほど、ぞくぞくしすぎたり、腰が砕けるってこういうことか! と理解できたりする。いまだに、それが気持ちいいのかは、よくわからないけれど。でも、それがなくたって触ってもらえるのはすごく恥ずかしいけど、同じくらい嬉しくて、こそばゆい。もともと、ちゅーとかぎゅーとかは好きだったし、今、若の頭の中には私のことしかないんだなぁって思うと、それはそれでとても幸せ。私は、若を愛して受け入れる、そのためだけに女の子の身体で産まれたんだって、変な確信をしちゃうほど、幸せ。

 なのに。痛い。

 初めての時は、最初はすごく痛いっていう事をなぜか知っていたから――どこでそんな知識を手に入れたのか覚えてないけど。友達と話してたときだったのかもしれないし、今まで読んできた小説とかの中にあったのかもしれないし。ただすんなり、そういうものなんだと思っていた――、覚悟してた。けど、今も、まだ、痛い。なんでか、二回目以降は痛くないって思い込んでたから、すごく驚いた。
 若も、私が痛がってることに、なんでかわからないけど気づいてるみたいで、だから、ちょっと涙が出そうなくらいに、えっちの時は優しい。それだけでも十分なんだけど、若は終わった後に、目でごめんねって言ってくるから、それが切ない。
 今だって、彼はちょっと眉間に力が入っている。顔をしかめるほどじゃないけれど、外や、先輩の前や、チョータ達の前や、ご家族の前ではしない、なんだか複雑な顔をしている。そんな顔が見たくなくて抱きしめてくれている腕に頬を寄せた。背中に触れている若の指先が、ほっかいろみたいにぽかぽかしてて、さっきまでのことを思い出しそうになって、熱を逃がすようにゆっくり息を吐く。
 本当に若のことが好きだったら、痛くないのかなって思うと、すごく不安になる。愛情が、足りないのかな、とか――若以外の人と、こんなこと絶対に出来ないって思うほど好きでも、足りないのかな。
 痛いこと自体は、別に、最初の方が痛かったから、そんなに大変でもないけど――この間、転んで爪が剥がれかけた時の方が痛かった。あれ、拷問でされたら、私なら何でもすぐに喋っちゃうって思った――、その理由を考えたりするのや、痛い所為で若にごめんねって顔させてるのが、イヤ。
 次こそは、きっと痛くないって繰り返して思ってたし、最初の方はあんまり気にしてなかったけど、仏の顔も三度まで、三度目の正直、二度あることは三度ある――の三回目をすぎて、とうとう五回目も、痛かった。痛いものなのかな、えっちって。よく、わからないけど。
 最初の方こそ、若もちょっと痛そうっていうか、苦しそう? だったけど、慣れたのか、コツを掴んだのか、今日は全然そんな素振りはなかった。終わった後に拭いたりとかだって、こっちが恥ずかしがってる暇もないくらい、自分でするからって言う暇もないくらいさっさとやってしまって、今はこうやって抱きしめてくれてる。
 若は、ちゃんと気持ち良くなってくれたのかなぁって、じぃっと、さっきまでのことなんて嘘みたいに涼しくて、でもリラックスしてる表情のその顔を、ぽーって眺めてたら、若は、ベッドに寝かせていた顔をふっと上げて、いきなり人の頭におでこをぶつけてきた。
 いきなりのことにビックリして、え、えって慌ててると、ぎゅうっと抱きしめられた。私の鼻先が、若の髪の毛に突っ込む。くすぐったい。でも、こんな時でも、若の髪からはお香みたいな――パウダリーって言うのかな――いつもの香りがする。それに混じってうっすらと汗の香りもして、でも全然それが嫌じゃない。他の男の子の汗とかはすごく苦手なのに、若のだけは苦手どころじゃなくて、とても好き。
 若が大きく呼吸してるのが、その硬い胸の動きで、わかる。そこで、慌ててしまった。
「私いま、汗くさいよ」
 抱きしめるのをやめて欲しくて、若と私の胸の間で窮屈にしていた手で、ぺたっと若の鎖骨のあたりを強く押す。そりゃ、今日はなんとなく、するかなって思ってたから、若がくる前にアロマ焚いたり、ベッドにタオルケットを敷いた上からファブリック用のふんわりした香りの除菌スプレーをかけてたけど、それでも、この至近距離で汗ばんでいたら、わかってしまうに決まってる。
「気にならない」
 汗くさくない、とは言わない若がちょっとおかしかったけど、でも、女の子として、これはダメでしょ。ぐいーっと、もっと力をいれて押してみたら、余計に強い力で抱きしめられた。抱きしめられたって言うか、これ、ちょっ……潰……
「わか、痛……!」
「あ、悪い」
 力は、すぐに緩めてくれたけど、そんなあっさり謝られて許せる痛さじゃなかったよ。骨がミシミシいったよ。
 文句の一つも言ってやろう、と思って、でも、口を“あ”の形にしたまま、動かせなかった。若の目が、やっぱり、ごめんなさいって言ってて、切なくなる。なんで、こんな顔させちゃうんだろう。えっちの時、私が痛がってた、せい……だよね、たぶん。頑張って我慢しても、痛いと思ったときには一瞬反射で若の身体から逃げようとしちゃうし……ばれてると、思う。
 口を閉じるのすら忘れて、その瞳を見ていたら、軽く触れるだけの掠めるだけのキスされた。
「へーき」
 そう、伝えて、若の背中に腕を伸ばすので、精一杯だった。

 現役のプロ選手の指導を、午前中だけつけてもらっていたという若は、唯一使わなかったスポーツタオルに、半分くらい残ってたミネラルウォーターをかけて、私の身体を拭いてくれた。
 こっそり、バスルームに行ってもよかったけど、今日はお兄ちゃんがいるから、万が一にも鉢合わせたくなくて。
 ちょっとした汗を拭けるデオドラントのウェットティッシュもあるよって言ったけど、言っている間に、若が行動してしまっていた。
 カーテンを締め切って、電気を消していて薄暗い中でも、夕方の日差しが透けてて、良いとはいえないスタイルが晒されているようで恥ずかしかった。見たら駄目だって、見ないでってお願いしたら、若は一度だけ私の顔をじっと見たけど、ちゃんと目を閉じてくれた。意地悪なときは本当に意地悪だけど、優しいときはこうやって、本当に優しい。なんだか、悪者が人を懐柔してるみたいで、意地悪されてすごく嫌でも、こうやって優しいときの若を思い出すと、許せちゃうんだよなぁ……
 交代で若の背中を拭けたのは、ちょっとだけ楽しかった。背筋ってこれのことなんだ、なんて思ったりして。それから、勝手にデオドラントのパウダースプレーをふりかけたら、若がすごくびっくりしてて、ちょっと可愛かった。若がなんだかフローラル。それだけで、可笑しい感じがして、笑っちゃったら「この馬鹿」って言われてしまった。若って私に馬鹿馬鹿言いすぎな気がする。けど、私が言われてもそれを許しちゃうから、言っても傷つかないって思われてるんだろうな。ほとんど傷ついてないけど。だって、若の“馬鹿”って照れ隠しとかビックリ隠しが多いし。でも、凹むこともけっこうあるんだよって言ったら、若はどんな反応をするんだろう。
 そのまま、背中合わせに服を着なおして、ふりむいてもいいよ、って言ったら、またぎゅってされた。本当に、えっちの時の、そのあとの、若は申し訳ないくらい、優しい。きっと、罪悪感だろうな、って思う。
 そんなの、持たせちゃう、自分が嫌だなって、思う。でも、こんなに私のことを気遣ってくれてる若の気持ちが、嬉しいのもあって、私って酷い人間だと、思う。

 どうすれば痛くなくなるのかを調べたかったけど、パソコンはママとパパとお兄ちゃんは仕事や勉強の為に自分用のを持ってても、私はお兄ちゃんのお下がりのノートパソコンを使わせてもらうだけで、それだって、ママが外で仕事をするときは、貸し出したりするから、あんまり変な言葉も調べたくない。履歴をけすのだって、なんか、怪しいし……
 誰に相談していいのかもわからない。
 意を決して、ちょっとだけ調べてみても、なんか、病気、だし……病気なのかなぁ。でも、産婦人科に行く勇気もない。病気なら、手遅れになる前に、行った方がいいんだろうなって、思うんだけど……
 産婦人科は、高校一年生にはレベルが高すぎる……なんて、お母さんになれる、結婚できる歳なのに思ってしまう。うぅ……この臆病な背中を押してもらうためにも、誰かに相談したいけど、できない。
 若になんて、絶対、無理、だし。ママとかパパとかお兄ちゃんは、もっと無理、だし……せめて、他の女の子がどうなのかとか、聞きたいけど、涼香ちゃんは、自分で彼氏はいないし今はテニスにしか興味がないって――でも、たぶん、真田先輩が好きなんだと思う。たぶんだけど――言ってるし……まどかちゃんは初えっちも別に痛くなかったって言ってたし。
 本屋さんで色んな本を読んでみても何とか炎症とか何とか内膜症とか書いてあって怖かった。でも、奥の方は圧迫感で苦しいだけで、別にそんなに痛くないから、違うのかなとか、自分で色々考える。
 それ以外は、全然、健康そのものだし、生理だって別に日にちを記録してはいないから、おおよそだけど二月に一回とか一ヶ月に二回とか、不定になることもあるけど、きてるし。
 何で痛いんだろう。

 別にいつもそんなこと思ってるわけじゃないけど、動物の出産シーンとかをテレビで見ると、あの子達は痛くなかったのかなぁ、とか思う。思う時点で、かなり病んでるなとも、思う。まんまるのお腹をした女の人をポカンと眺めてしまって、あとで自分の不審者ぶりに恥ずかしくなってしまったりもした。
 ストレス発散だー! って、美術室でむきーっと絵を描いていたら、美術の先生に「小曾根さんが抽象画なんて珍しいねぇ」と言われてしまった。あと、緑や青を使ってるのも珍しいって言われた。意識したことはないけど、たしかにグリーンの絵の具って、今まであまり買い足していなかったような気がする。あんまり使ってなかったのかぁって指摘されるまで全然気づかなかった。美術の先生は、部活と、選択授業の美術を取ってるだけの私の絵、ちゃんと見ててくれてるんだなって思ったりした。
 渡り廊下に飾る用に、人物画を描かなきゃいけないから、そっちも頑張ってね、と言われたけど、とにかく平筆多用のぐちゃぐちゃベタ塗りを完成させた。それを見ていたら、今度はその上からピンクを塗りたくなって、もう、パレットも筆も洗っちゃったのに、まだやるのか? って自問開始。
 うーうー悩んで、でも、やっぱり今日は止めておこうって結論。今、美術室にいるのは課題提出に必死な女子だけだったので、端っこで大胆にもジャージから制服に着替えてしまう。スカート穿いて、ジャージの下を脱いで、上のジャージを脱げば、あとはブレザーを着て着替え終了。ぽふぽふとジャージを畳んで、ジャージ用の袋に入れれば帰宅の準備完了。
 お疲れ様です、と声をかけてドアを引いて、家に向う。藍と橙の色の差がとても綺麗に出ている空を見ながら上履きを履き替えたら、校舎を出たところで衝撃が頭に走った。転ばなかったのは奇蹟だと思う。
 何が起こったのかわからないまま「?!?!」状態で挙動不審な私。え、でも、今の何?
 地面を見ると、幼稚舎の頃に作ったようなキルティングの、ぱんぱんにふくらんだナップザックがアスファルトの上で埃にまみれたまま転がってる。こんなの、高校で使う人なんているの、って思うようなもの。
 え、これ当てられた? なんで?
 恐る恐る振り向く。
 切原バカ也が、ラケットバッグを背負って、妙に勝ち誇った顔で人の事を見ていた。
 ……悩んだ後、ナップザックを拾って、ぱんぱんって手で埃を払って、バカ也に投げ返した。ぶつけるつもりだった、山なりの投擲を簡単に読みきった赤也は、片手でそれをキャッチした。
「今帰んの?」
 普通の台詞つきで。
「ていうか、なんで、攻撃してきたの?」
「はぁ? 別に攻撃じゃねぇし」
「……今帰りだけど」
「んじゃ一緒に帰んねぇ?」
「帰んねぇですよ」
「いいじゃん。途中まで行こうぜ」
 赤也はニッと笑うと私の隣に並ぶ。どうやら、私が歩き出すまでは待っているつもりみたい。赤也は悩みがなさそうでいいな、なんて失礼な言葉を口にしそうになって、ハァと溜息で誤魔化した。
 一緒に歩き出しながら、ちらりと赤也を見上げると、ニコニコした顔で「ん?」って私のほうを見る。感情がすぐに浮かぶ、大きな目。仔猫のようだと思う。目が大きくて、ちょっと羨ましい。
「赤也ってさ……」
「お、おお?」
 思ったよりも私の声は深刻な感じの重い声になっていた。暗くなってきた空の所為で、余計に雰囲気まで重くなってしまって、それを誤魔化すために視線でグサグサ赤也の目を指しながら「赤也って、彼女……いる?」って聞くと、いきなり、思いっきりナップザックで顔をはたかれた。
 なに?! なんでこんなことされてるの?!? もう、赤也ってばホント理解不能すぎる。若のほうがこういうとこはわかりやすいのに、赤也はほんっと、急に意味不明な行動するから、困る。こんな夕方に女子高校生の頭を殴打する男子高校生なんて補導されるよ、ふつう。暴力男! と思っても、身体はビックリしてて「え」とか「あ」とか「な」とかしか唇からこぼれてくれなかった。
「そういう顔で彼女いるか聞くな!」
 どういう顔ですか。どういう……。ボサボサになってしまった髪を手櫛で整えながら、理不尽な暴力にうなだれていると、赤也はまだ不満げにブツブツ言いながら「香奈だって、会ったばっかりの男に彼氏いるか訊かれたらビビんだろ?! 狙われてる?! とか一瞬ビビんだろ!」と、なんかお説教? っぽい感じになってる……。
「それはそうだけど、でも、赤也は違うじゃん。友達なんだし。赤也、好きな人の話とかしな――あっ……」ここでやっと、私がかなり失礼で不躾な質問をしたことに気づいて、慌ててしまう。言いたくないことだったのかもしれないのに。今まで言わなかったのには理由があるのかもしれないのに。うわ、どうしよう。さっきの、赤也、怒ってたんだ……「ごめん。プライベートなことだもんね、ちょっと訊いてみただけだから気にしないでいいよ」
 あーあ、また失敗しちゃった。溜息をつきながら、もう一度「ごめんね」と赤也の顔を覗くと「別にいいけど。いねぇし」と視線を外しながら不機嫌そうに言われてしまって、駅前のロッテリアでおごってあげる羽目になってしまった。私の失言の所為だから仕方ないんだけど、赤也は、こういう時の拗ね方が上手だなって思う。若の拗ね方はわかりづらくて、損をする感じの拗ね方だけど、赤也は拗ねてても得を取る感じ。
 ホットのお茶を飲みながら、はぁ、と溜息をつくと、
「何か悩んでるなら、俺じゃなくて日吉君に言えば?」
 むすっとしながら、赤也はむしゃむしゃデカメンチバーガーを食べつつも、可愛く拗ねてそう言った。
 まったくもってその通りです……。
 でも、あなたとのえっちが痛いです、なんて簡単に言えるわけないじゃん……。
 泣きそうになったけど、私が泣いていいのはここじゃないから、我慢した。赤也の「今月、小遣いきつかった?」というオロオロした気遣いに、少しだけ気持ちがそこから反れて、少しだけ笑えた。

 ◇◆◇

 香奈の挙動がおかしいのはいつものことで、けれど、今回は長かった。
 外で会うときや、俺の部屋で会うとき、俺のテニスの応援に来るときは普段通りなのに、香奈の部屋で二人きりになると、落ち着かなげに視線を浮遊させたり、妙に饒舌になったり、逆に妙に静かにしていたり、しきりに台所へと行ったり、そういう事が多かった。
 俺も馬鹿ではないので、その理由は、分かる。
 痛みを感じるとき、人の筋肉には力が入る。無抵抗で殴られていても疲れるのはそのためだ。無抵抗で殴られるようなことをしている人間は少ないだろうが。痛みを感じた部分は勿論、それが別の場所に来てもガードできるよう筋肉の鎧を使おうとするわけだ。
 逆に疲労によって身体に痛みが走ることもあるのだから、疲れと痛みはニアリーイコールで結んでしまいたくなるのが、数学好きの所以かもしれない。
 まあ、とにかく、香奈は、性交時に俺を受け入れると、痛みを感じるようだった。
 正直、俺も女性の身体のつくりをきちんと理解できているわけでもなければ、経験は浅いどころか、香奈しか知らない。ただ、香奈の体にひとつひとつ確かめるように触れて、反応を返す部位を地道に探すくらいが関の山だ。
 それでも、それなりに功を奏していたとは思う。たぶん、香奈は指でなら達したような素振りすら見せた。けれど、俺自身は駄目らしい。一度も痛いなどとは言わなかったが、それでも、どうしようもなく、わかる。ああ、痛いんだなと。
 よく、やりたい盛りなどと言うけれど、なるほどその通りだと思う。香奈が、痛みを隠そうと、いとけない唇を、けなげに噛み締めていなかったら、俺も会うたびに求めていたかもしれない。
 しかし、先日、とうとう、香奈が抱かれることを拒んだ。嘘までついて。しかも、嘘をついたことに、自分が傷つく馬鹿だった。結局、言葉では言わなかったが、香奈は全身で俺に謝罪していた。
 俺には、想像もできないけれど、きっと相当痛いのだろうなと思う。
 その負担を、軽減してやりたいのだけれど、さて、どうしたものか。家族にアドバイスを求めることはできない。さりとて、鳳は嫌だ。テニス部の先輩らも絶対に嫌だ。絶対にだ。樺地でギリギリだが、あいつがこういう相談に乗れるとも思えない。結局、自力で調べるしかないのか。交友関係の少ない自分に、少々愕然としもした。親友が、おそらくいない。妥協して鳳か。親兄弟は論外だ。幼馴染は、香奈と同じ性別なので、何か有効な話でも聞けるかもしれないが、あれの現在の片想い相手は観月さんなので、下手なことはしたくない。そもそも、振った相手に恋人の相談をするというのも失礼すぎる気がする。あいつは現在俺を好きだった過去を無かったことのように振舞っているが、少しでも突かれると奇声を発して布団を頭からかぶって足をばたばたとさせているし。奇声を発さなくなるまでは、そういった話題は避けるべきだろう。
 色々考えると、溜息が漏れた。

 しかし、高校生の部活後の部室など、そんな話題の宝庫だ。俺も色々と話題を振られるが全て流した。ただ、他人が話している時は、自分が情けなるくらい聞き耳を立ててしまっていた。
 それを知ってか知らずか、忍足さんと向日さんが大声でそんな話をする。下品なのでやめて欲しいと思うと同時に、もう少し突っ込んだところが聞きたいとも思ってしまう。俺は、火事に群がる野次馬のようだ。
 毎日毎日、自分が嫌になった。そして、毎日毎日そんな話題を口にしている男子高校生というものも、嫌になった。そんな地道で卑怯な情報収集の後、まあ、なんとなくどうしようかというプランは立ったので、とりあえず、次のデートの誘いを、珍しく俺から香奈に連絡した。

 ◇◆◇

 結局、何も解決できないまま、何ヵ月も経ってしまって、私が痛がると、若が切なそうな顔をするから、なんか、えっちできなくて、若の誕生日にも、お祝いはしたけど、えっちはしなくて、このままじゃいけないなっていうのは、わかるんだけど。怖くて。
 一度、誘われたけど、もしかして病気で、それが若に移っちゃうものだったらって思うとすごく怖くて、反射で生理だからって嘘ついて、若はちょっと変な顔したけど、そうかって言ってくれて。嘘ついたことが悲しくて、でも、今更嘘だって言えなくて、でも、ちゃんと笑えなくて、だから学校でやなことがあったって誤魔化した。
 そうしたら、若はいっぱい甘やかしてくれて、こんな嘘つきで臆病者で図々しい私に、若は優しくて、どうしようもなくなって泣いちゃったら、挙動不審な私にそれでも「大丈夫」って、励ましてくれた。
 なんとかしなきゃって、思って、たまたまコンビニで手に取った雑誌に、えっちのことが書いてあったから買っちゃって、自分でも切羽詰ってるなって、思う。

 最近、近くで女子大生が変質者に追われた事件があった所為で、赤也が「俺送る!」って家まで送ってくれたけれど、なんだか最近うまく笑えてないなって思う。アルカイックスマイルとかそういうのじゃなくて、失敗した営業スマイルみたいになっちゃってる気がする。
 溜息を我慢しないで連発しながらお風呂の掃除をして夕ご飯を作って、帰ってきたママとパパとごはんを食べて、お兄ちゃんから【12時前には帰るけど、何かいるものある? 】ってメールに【甘いもの。チョコ系がいいな】と返して【ニキビできるぞ】って返ってきたメールは無視。お掃除した人の特権である一番風呂に入って、今日も若に電話をかけようかな、なんて、だらしなくラグの上で携帯を手にしたら。珍しい、若からのメール。勝手に心臓が強く血液を押し出し始めて、ヒィンと軽く耳鳴りまでしてくる。なんでだろう。昔は、こんなことがあったら、すごくすごく嬉しくて、ベッドで転げまわってたのに、なんで、私の手はじっとりと汗をかいているんだろう。
 頑張って、見たくなくて、頑張って、削除しそうになるのを必死で我慢して、頑張って、放り出しそうになる携帯を両手で抱きしめて、その文面を読むと、勝手に涙が出てきてしまった。
 短くて、素っ気ないのに、心配してくれてることが、わかる。だって、自分でも挙動不審だなって、わかる、から。携帯を握り締めたまま、その手に落ちる涙に、このままじゃダメだって、強く思う。シーツに落ちた涙が広がっていく様子を見たくなくて、ぎゅっと目を瞑ると、涙が顎の先からこぼれて、また私の手を濡らす。
 避けたこと、若に、わからないはずが、ない。だって、私にだって、若のことがわかるんだから、若にだって、私のことはわかる。どんな気持ちで、このメールを打ってくれたんだろう。
 彼は、今でもテニスも古武術も頑張っていて、成績だって、中学の時よりは少し落ちたみたいだけれど、それでも、頑張っていて。それなのに、私なんかのことで、煩わせちゃ、だめなのに……心配してくれることが情けないのに、悔しいのに、悲しいのに、嬉しい。だめだ、こんなんじゃ。

「このまま、じゃ、ダメ……」
 呟いて、怖気づいている自分の心を、励ます。
「ちゃんと、しないと、ダメ……」
 もう一度、自分の心に言い聞かせる。
「若に、しんぱい、かけ、かけさせ、ちゃ……だ、め……」
 せっかくせっかく、若からの連絡を貰ったのに、嬉しく思えないなんて、そんなの、イヤ、だ。


 勇気を出してママにすっごく遠まわしに話して保険証を借りて、学校に遅刻の連絡をしてもらって、目いっぱい大人っぽい格好をして病院に行った。心臓はドキドキしっぱなしで、受付では渡された紙に住所を書いたりするのでさえ、怖くて仕方がなかった。病気だったらどうしよう。ちがう。病気だったら治せばいい。わからないままでいる方が、ダメだって、わかるのに、怖くて、恥ずかしい。産婦人科という科があるのかと思ったけれど、そこは、産科と婦人科に分かれていた。それも、また、なんだか緊張してしまう。
 順番を待つ最中も泣きそうになって、でも、我慢して、順番になったときに診察室にいたのは、予想外に可愛い女性の先生だった。歳はママより少し上な感じだったけど、可愛いと感じる人だった。それだけで、少しだけほっとした。大丈夫だよって言ってもらえて、いっぱい問診して、私が怖がってるから、触診はほとんどなくて、簡単な検査だけで、えっちのことよりも、生理が不順な方が気になるといわれて、基礎体温をつけるように言われて、半月後に来るように言われて、今後こういった異常があったらすぐ来てねと言われただけで、なんか拍子抜けしてしまった。あんまり先生は深刻そうではなくて、痛かったら無理しないでちゃんと相手に言いなさいとは言われたけど、えっちしちゃダメだとは言われなかった。
 先生の言うように、身体が、まだえっちに慣れてないだけなのかもしれないし――そう思ったら、やっと落ち着いて若に返信のメールを打つことが出来た。
 遅刻してきた上に前の授業の内容も聞かずに、メールを打っている私に、赤也が「香奈が学校サボった!」とからかってくるのも、鷹揚な気持ちで対応できた。若からの返事が楽しみだな、なんて、そんな感じに余裕だった。

 ◇◆◇

 迎えに来なくていいと言ったのに、香奈はこの寒い中、駅前で文庫本を読みふけっていた。人ごみの中に埋もれてしまっているその姿を、すぐに見つけ出せてしまう自分もどうかと思うが、香奈の方も不意に本の紙面から目を話すと、一度軽く首をめぐらせただけで俺を見つけた。
 カバーのついた文庫本を鞄に滑らせながら、香奈は微笑んで手を上げてきたので、俺も軽く手を上げてそれに答えてやる。
 駅前から徒歩五分ほどの映画館で、香奈の観たがっていた狼の映画を観てから、彼女に付き合って軽くウィンドウショッピングをし、喫茶店で軽食を摂る、普通のデートだ。テーブルでパンフレットを広げながら、香奈は俺に映画の感想を伝えてくる。まるで発表でもしているかのようだった。
 運ばれてきたコーヒーを口にしながら、どうやって切り出すべきか悩んでいると、香奈の方から「うち、くる?」ともじもじと言い出した。どういう意図なのかは理解し切れなかったが――テレパシー的に相手の言いたいことがわかる瞬間もあるけれど、残念ながら今はそうではなかった――俺の話したいことも、公共の場では控えたいものだったので、素直にその提案に乗ることにした。
 香奈はやはり挙動不審にもじもじしていて、それが怯えから来るのか恥じらいから来るのか不安から来るのかはわからないまま、お邪魔した香奈の家には、誰もいなかった。
 この家に香奈以外の誰もいないことは慣れているけれど、それでも、家には必ず家族がいた俺からすると、今でも少し不思議に思う。香奈が妙に人肌を恋しがるのは、この家庭の所為なのではないかと思うこともある。
 通いなれた香奈の部屋に通され、適当にラグマットの上へ腰を下ろすと彼女が「お茶、淹れて来るね」とドアへ向かうのを、その手をつかんで、阻止する。先ほどまで喫茶店でたらふくコーヒーを飲んでいた俺には必要ないものだったし、それよりも、さっさと話してしまいたいという気持ちが強かった。
 けれど、俺の腕は、思ったよりも力を伝えてしまって、香奈の顔が一瞬歪んだ。それに心底慌ててしまう。ああ、今、俺は自分が思っているほどの余裕はないのだなと、どこか他人事のように判断した。
 俺が力を緩めて手を離すと、今度は香奈が、困ったように見下ろしてきて、両膝を床につくと俺の二の腕を軽く撫でた。
「大丈夫だよ」
 その言葉の意味はわからなかった。
「えっと、病気とかじゃないっぽいし」
 余計意味がわからなくなった。
「やっぱり、若が一番好きだし」
 ……意味がわからない上に、不愉快な言葉だった。まるで切原に何かされたかのような言い振りだ。
 俺の不愉快さが伝わったのか、香奈はやはり困ったような顔になって俺の隣に腰を下ろした。
「だから、痛くても、大丈夫だよ。慣れると思うし」
 一瞬戸惑ったが、次の瞬間には、彼女の言っている意味を理解できた。彼女の家に来て一番最初の話題がコレと言うのもどうなのだろうと思ったけれど、香奈のほうから切り出してくれたのは、少しだけ助かった。うつむいた顔をさらりと隠す髪を、指で除けると、耳元から頬まで赤くなっていることがわかって、そのまま、自分の腕で囲うように彼女を抱きしめた。やっぱり、お互い同じことを考えていたらしい。馬鹿な二人だ。俺も、香奈も。
「痛かったら、きちんと言って欲しい」
 頬を撫でながらそう言うと、香奈はぷるぷると首を振った。
「だって、若の所為で痛いんじゃないもん。そんな、文句みたいなこと言えないよ」
 その理論は俺にはよくわからない。文句ではなく、ただの報告でしかないように思えるのだが、香奈は俺を責めてしまうとでも思っていたのだろうか。言わなければならない事実と言ってはいけない事実の区別を、香奈はつけられないようだ。
 お互い顔を見づらい話題なので、香奈を背中から抱く体勢になったのだが、香奈はさらに顔を俯けてしまった。露わになった香奈の頚骨のふくらみに、なんとなく唇を当てる。
「言ってもらえないと、ただ痛いのか、俺が下手だから嫌がってるのか、わからないんだけどな」
 いや、わかるが。まあ、嘘も方便だ。
 香奈は無駄に音速を超えた勢いで俺を振り向いた。つまり、香奈の髪が鞭になり、しなって俺の頬を叩いたわけだが、香奈はそれには気付かなかったらしい。痛かったけれど、まあ、それは後で指摘することにして、振り向いた香奈が口を開くのを待つ。順序と言うのは大事だと思う。
 それにしても、今の香奈の顔は茹で蛸よりも赤く、その胸の動悸さえ、空気の層を隔てていても、俺の耳に届きそうだった。
「うう、うまっうまっ、う、うまい?」
 ……ちょっと落ち着け。なんか変だぞお前。吃音症ではないと思うのだが、そういえば、少なくとも俺よりは頻繁に内頬や舌を噛んでいるようだし、驚いたときや切羽詰ったときには、わざとやっているのではないかと言うほど、吃音症なのではないかと思うほど、台詞に詰まっている。
 しかし、ここまで、きちんと発音できていないのは、泣いている時を除いて初めてかもしれない。かなり狼狽しているようで、落ち着けという変わりに、抱いていたその腹部に置いていた手を上下に動かして撫でてやる。
「やっあの、うまっ……いとか……へ、へたっ? ……へ、へた、とか、よ、よくわかんないけどよくわかんないけどよくわかんないけどよくわかんないけどっ!」
 いや、よくわからないのはよくわかったので、早く話を先に進めて欲しい。
「き、気持っ……ち、ぃ……か、からっ……あ、のっ、そ、んっ、な、こと気にっ、しなっ、しなっ、くてい……て、いいっ、から……」
 香奈は、そこまでやっとのことで言った後。
 いきなり、頭突きしてきた。
 顎はやめろ顎は、意識が飛ぶだろ。本気で止めろ。そういうようなことをかなり早口で咄嗟に言ってしまった。香奈は聞いているのかいないのか、曖昧に頭を揺らしている。そしてぽつりと言葉を落とした。
「恥ずかしすぎて血がでそう……」
 前に向き直った香奈は、項垂れた。香奈は首筋までほんのり桜色に染め、耳朶は血の色になっている。もう一度、唇で香奈の頚骨に触れると、その皮膚は温かいを通り越して熱かった。ああ、これは確かに鼻血を噴いてもおかしくないな。
 そういえば、肌を重ねている最中にも、香奈はそんなことを言ったことがない。むしろ、ほとんど声を出さない。いつも、唇を噛んで、漏れそうになる声を耐えている。口内に閉じ込められた声が、快楽を示すものか苦痛を示すものか、なんとなくは、わかるけれど。
 その、いじらしい様子が好きで、たびたび意地の悪いことをすると、“どうしてこんなことをするの? ”とでも言いたげに涙をこぼして俺を見つめていたりする。そうすると、俺はより泣かせたくなってしまうのだが、それは言ったことがない。言ったら、たぶん香奈は本気で引く。そして、引いたあと、それでも俺が好きだからと、色々な意味でなかったことにするだろう。
「まあ……安心した」
 そう言うと、香奈は首を頷くような形に揺らす。その意味はよくわからないが、腕で作った俺の包囲網になるべく触れないように縮こまっている姿が――きっと、とても恥ずかしいのだろう――、可笑しくて可愛い。俺の脳も本当に沸いている。
 まあ、それは今更なので気にしないことにした。
「でも、こうやって気になることもあるから、きちんと話して欲しい。言われて嫌だったら俺もやめてくれって言うし」
 ちぢこまっている香奈の身体を、抱き寄せる。
「こんな話、恥ずかしいよ……」
「でも、話さないわけにもいかないだろ。少しでも痛くなくなるように、香奈はしたくないか?」
「し、したい、けど……どうや、て?」
「とりあえず、ジェル付きの、買ってみた」
 それが何のことなのか、香奈はわかったようで、あーとかうーとか俯いたまま唸っていた。しばらくして、香奈の口から出たのは「どこで?」だった。他に聞きたいことは無いのかと突っ込みたくなるような台詞に思わず笑うと何故か、だって、と繰り返して香奈は言う。
「だって?」
 先を促すと。
「だって、だって……だって! ほ、ほかに何て言えば……!」
 馬鹿の極みとも言える返答が帰ってきた。笑声を上げる俺に、香奈は、また唸り始めた。
「俺も恥ずかしかったから、家から少し遠めの薬局で買った。そういえば、初めての時に香奈が持ってたのはどこで買ったんだ?」
 反撃された香奈が、むっつりと黙り込んで、また顔を伏せた。
 その様子が、おかしく、その耳朶に唇を軽く触れさせて「香奈?」と呼べば、観念したらしい香奈が「下着屋さん」とだけ、簡潔に返してきた。なるほど、だからパッケージがレース模様のピンク色をした、妙に愛らしいものだったのか。きっと、香奈は薬局でもコンビニでも、恥ずかしくて買うに買えなかったんだろう。
 当時中学生だった香奈が、おっかなびっくりそれを買う様子を想像して、思わず笑ってしまう。
 その後、恥ずかしい上に俺に笑われて半ばパニックになった香奈が、若なんて嫌い! と叫び、頭から布団を被ってびーびー泣いたのには参った。ウルトラマンの怪獣のように……いや、もう少しは愛らしかったが、近付くたびにバタ足でもしてるのかのように足で攻撃されてかなわなかった。
 泣きつかれたのか、蹴りつかれたのか、やっとのことで俺の腕の中に再び納まったころには、香奈はぐったりしていた。馬鹿すぎる。
「女なんだから少しは淑やかにしろよ。普通蹴るか?」
 溜息とともに放った言葉に、香奈はまた「うるさい! 若なんて嫌い!」ともう一度言い出して、俺の腕を押しのけようとわーわー暴れた。こんなにも簡単に嫌いだと言えるというのは、俺を信頼しているからこそで、暴れる仔猫を躾るように強い調子で「香奈」と呼んで、暴れる身体を強く押さえて軽く腹のあたりを撫で叩く。
「はず、はずかしいのやだ……」
 抵抗を止めた香奈は、けれど、ぐずぐずと鼻を鳴らして顔をうつむける。悪かった、と鬼灯よりもなお赤い耳に唇をつけて吹き込むと「本当にほんとうに、恥ずかしいこと聞かないで言わせないでほんとうにやだ」と、珍しく本気で訴えてきた。本当に恥ずかしいらしい。ちょっとした会話ではさらりと流しているくせに、こうやって話すのは恥ずかしいらしい。そのラインが俺には良くわからないが、とにかく、香奈には独自の、性的な、受け入れられる話題と、受け入れられない話題があるようだ。
 好みの下着を俺に聞くのは恥ずかしくない。けれどゴムをどこで買ったかを聞かれるのは恥ずかしい。……本当に、どこがラインなんだ。ああ、そういえば、胸の大きさはどれ位が好きだと聞いてきたこともあるな……俺もそれなりに香奈と月日を重ね、忍足さんやらに要らぬ知識を押し付けられたので、今のままでも良いがもう少し大きくても悪くはないと言うようなことを、母親に夕食の好みを伝えるように答えたのだった。
「とりあえず、今日はしないから安心しろ」
 幼子にするように強めに頭を撫でてやると、香奈は暗闇の中の猫のように目を大きくさせた。それ以上見開けば、眼球が零れ落ちてしまうのではないかと不安になるくらいの見事な瞠目だった。
 香奈は俺のシャツの裾を握って「し、しないの?」と聞いてきた。おそらく、とても覚悟していたんだろう。
香奈がしたいなら喜んで」
 今の俺は決定権を握るつもりはないということを、その言葉と、軽く宙に上げた両方の手のひらで示すと、香奈は少しうつむいてから「……もう少し、待ってもらってもいい、かな?」と逡巡の後に小さく言ってきた。
「もちろん」
 そう心から答えられるくらいには、俺は色欲が薄いわけではなく、たぶん、ただ香奈が好きなのだと思う。人並みに色欲があることを、自覚しているし、否定も出来ない。ただ、向日さんらにむっつり等といわれるとカチンとくるのも事実だが。
「ごめんね」
 ぺふぺふという気の抜けた音をさせながら、香奈が俺の手の甲を撫でていた。香奈のすることにいちいち疑問を浮かべていても仕方がないので「違う」とだけ指摘すると、俺の言葉の意味を理解できなかった彼女が、かくりと首をかしげた。それから、拉致した俺の手のひらを自分の頬に当てさせる。こうやって素直に俺や家族、友人に甘えられるところは、数少ない香奈の長所であり、けれど、短所でもある。
 逆に言えば、己が近いと判断した人間は疑いなく信じるし、そう判断できなければ、香奈はよそよそしくしすぎたりもする。まあ、俺が言えることではないけれど。香奈の“仲良し”の基準がどこから来るのか、俺には判断できないので、仲が良さそうに見えても相手が消えれば疲れた溜息を漏らしたり、逆になんでそいつとと思うような相手とスキンシップをはかっていたりする。
 そんな困った女は、しばらく考えても俺の言葉の意味がわからずに「違う?」と答えを求めてきた。
「本当にごめんねで合っているか?」
 聞くと
「ありがとう!」
 就学前の幼児のように元気よく答えてきた。
「どういたしまして」
 その返事を返してから、ああ、今回は長かったな、と思う。今回は長かった。香奈が俺を避けるようになってから、ここに至るまで。長かった。先ほどまでの恥ずかしさも、それより前の怯えも処理して、素直な笑顔を見せてくれた彼女に、なんでこいつにこんなに振り回されているんだろうかと客観的な視線が蘇えってきて、思わず嘆息した。
 のんきに、俺の嘆息を聞いて頭上にクエスチョンマークを浮かべている香奈の頬を両手で押しつぶすと、変な顔になったので、とりあえずそれを、俺を振り回したことに対する罰にすることにした。