テニス雑誌を読んでいた若の肩に、横から香奈の頭が乗った。若はそれを気にせずに本を読み進める。重みをほとんど感じなかったので頭を乗せたポーズで顎を触れさせている、と言った方が正しいかもしれない。若の部屋はドアに鍵がかかるような部屋ではなく、むしろ襖で一瞬にしてオープンになってしまうので、あまり接触されるのは若の好みではなかったが、何も言わずにページをめくる。 しばらくしてから、香奈が軽く若の首筋に唇を押し当てた。 若はそちらへ視線を向ける。 目が合うと、何かを訴えるような、少しだけ媚びるような、そんな視線で香奈が若を見ていた。どんな表情かと言うと、引っ込み思案な幼子が親に出店のリンゴ飴を食べたいのに親にねだれない、という、そんな感じ。 若は顔と首だけを動かして軽く口付けてやる。 唇が離れると、香奈は満足そうに笑った。 「面白い?」 香奈が本へと視線を向けて問うと、若はまた一ページめくって紙面の文章を読みはじめる。 「面白い時もあるし勉強になる時もある」 素っ気ない返事に、香奈はそれ以上この話題を続けはしなかった。 しばらく二人でそうして雑誌を読みつづけていると、先の大きな大会での結果がカラーページで大々的に取り上げられていた。香奈がそれを見て小さく声を上げる。 「この間テレビで見たよ、コレ。このね、人がかっこよかった」 実力云々ではなく、少しばかりミーハーな感想をのべつつ、香奈が幾つもある写真の中の一つ、金髪の引き締まった体躯の女性プレイヤーがスマッシュを打つ瞬間のものを指差した。 その指の示す先を眺めつつ、若が口を開く。 「香奈がこんな大会見るなんて珍しいな」 「ライブじゃないけどね。若がテニスを好きだから私も好きになってきたしルールもちょっとわかってきたから」 なんとなく、香奈のその台詞がこそばゆいような感じがして若は黙った。 もともと、香奈は運動が得意ではない。むしろ不得手なようだった。その所為か、彼女の身体は健康的な同年代の少女に比べれば少々細く、スタイルがいいとは言い辛かった。筋肉も弱弱しく、肌も素晴らしい快活さをにじませていない。けれど、その足りない身長も、細いと言うよりは薄い腰周りも、若にとってマイナスの要素を孕みはしなかった。この年代の少女特有のしなやかな筋肉と、女性らしい柔軟性と、健康的な肌の張りくらいは、彼女は持っていたので、それ以上の高望みを、若はする気はなかった。 「今度また、テニスしようね」 香奈は、良い生徒とは言えなかったが、息抜きとして考えれば素晴らしい生徒だった。だから、若は軽く「ああ」と答えてやり、またページを一枚めくった。トッププロのスウィングがコマ送りで載せられているページを、興味深く見ていると、香奈が「……ちょっとだけ、暇です」と敬語で訴えてきた。 先ほどまで大人しく畳の上に座って、若が出してやった座卓の上で辞書をひきながらマザーグースの原書を読んでいた香奈は、それに飽きてしまったらしく、先ほどから若に構って欲しいと言うアクションをしていたらしい。それに気付くと、さて、と若は考える。 若の部屋には別段遊具はない。面白みのない部屋である。庭や道場ではそれなりに運動することができるが、今日は、香奈が運動できるようなものも持ってきてはいないだろう。 出かけるかと言おうかと思ったが、残念ながら昨日若は少々支出をしてしまって、財布に寒風が吹いていた。だから、今日も香奈の方から若の家に出向いたのだった。普段なら若が出向くことが多い。 気温は低く、公園などの野外に長時間いるのは、香奈がつらいだろうし――彼女は小柄な所為か薄い身体の所為か、すぐに身体が冷えてしまうようだった――、かといって図書館では、今と同じ状況になってしまう。公立の体育館も空きがあればバドミントンくらいはできるだろうが、休日は込んでいることが多い。そして、若は香奈のウィンドウショッピングとやらに付き合うのはそこまで好きではなかった。若も香奈も、切原のようにワンコインで何時間も遊べるほどゲームセンターに慣れているわけでもない。 結局部屋で映画でも見るかということになったが、しかし、若の持つそれらは、香奈が「そんなの観る位なら帰る!」とパッケージを見ただけで、タイトルを見ただけで半泣きになって声高に訴えたので、若は香奈に少し待てと伝えて――香奈の言う「暇」の意味は、若とてきちんと理解していた。だからこそ。なればこそ。このピントの外れた自分の行為に、香奈がもどかしくも願望を口にしてくれればいいと思ったのだが、そうはいかなかった――兄の部屋で適当な映画のDVDがないかを聞く。兄は若のいくつかの説明を聞くと「わかった、よさそうなの探して持っていくよ」と答えて軽く手を振ってきたので、若は言われた通りに部屋を出た。 そのついでに居間に寄って、ほうじ茶を入れて茶菓子用の煎餅を見繕って盆にのせ、若は部屋に戻った。 戻ってきた若を出迎えた香奈は、やけに機嫌の良さそうな顔で本のページを捲っていた。その紙面には興味が無かったので、白い呼気を吐く湯のみと、醤油の香りの漂う煎餅の入った皿を座卓の上に置く。 すると、香奈が顔を上げた。 「あのね、さっきお兄さんが来たよ」 「もう来たのか?」 「うん。どんな映画が好きか聞かれて、探してくるから、それまでこれでも読んで暇潰しててって置いていってくれたよ」 言われて、香奈が手にして視線で示すそれを見下ろす。 とりあえず、いきなり奪おうとした若に、香奈は畳の上を転がって何とか逃れた。だが、若も負けじと腕を伸ばして本を胸に抱えている香奈の腕の一本を捕らえることには成功した。 「くそ兄貴……」 若が苦々しげに呟けば、香奈は追い詰められているのに、可笑しそうに楽しそうに笑う。 香奈が手にしていたのは若の幼い頃からのアルバムで、それこそ、赤い猿のような丸々とした若が大口を開けて泣いているものから、兄に哺乳瓶を咥えさせられているもの、幼稚園の入学式や、海の押し寄せる波に怯えた顔のもの、七五三の着飾った様子や、幼稚園の卒業式までの写真が保存されていた。 「若、ちっちゃい頃って泣いてる写真多いね?」 くすくすと人の悪い笑みを浮かべて、香奈は久々に逆転した立場を楽しみ、若はそれに苦々しげに顔をゆがめた。 「でも、すっごい可愛いかったよ?」 意地の悪い香奈の笑顔に、若は掴んだ彼女の腕を強く、引く。このまま、押される立場でいられるほど、若も大人ではなかったし、単純にそういう立場は苦手だった。それを知っているからか、香奈は若に腕を引かれると、呆気ないほど素直に降参した。 あまりに無抵抗なので、一瞬若はその腕を掴む力を弱めたけれど、やはり香奈は抵抗することもなく、ただ最後に「若って結構照れ屋やだよね」と軽く笑って、はいどうぞ、とアルバムを若に差し出した。 香奈の腕から手を離すと、若はそれを受け取って、軽く溜息をつく。 そんな若の様子に香奈は少々困ったように微笑みながら起き上がり、座卓の上に湯飲みに手を伸ばした。 「昔、猫飼ってたんだね」 若は、そんな香奈の言葉に曖昧にうなづきながら、香奈の対面に腰を下ろして、畳に直接乗せたアルバムに、さらに自分の手を乗せ、“若のアルバム”と率直に筆で書かれた文字を暖める。 「あんまり記憶にないけどな。俺が三歳くらいの時に逃げたらしい」 「あー、男の子の猫って旅に出ちゃうらしいね」 香奈の言葉に、若はもう一度溜息をついて、けれどそれ以上は何も言わず、彼女に倣って湯飲みを手にした。そんな若の様子に香奈は困ったような表情を浮かべてから「アルバム見られるの、嫌い?」と聞いた。 「別に。好きじゃないだけだ」 若の言いように香奈は軽く笑う。 「私は好きだなー。だって、写真の若、可愛いんだもん。猫だっこしてる写真とか、若と猫の大きさが同じくらいですごく可愛かったよ。私と会った時は、もう、若はかっこよかったから、アルバムで可愛い若が見れて嬉しいな」 上機嫌そうに、写真の映像を思い出しているのか、本当に嬉しそうに笑う香奈に、若は何度目かの溜息をついた。気を使いすぎたか、と若は自分の予想を裏切る香奈の態度に、心中舌打ちをした。した。が。 「イツミちゃんも可愛いね。ちっちゃくって。二人ともほっぺたとか真っ赤だったよ」 一番若が気にしていたことを、香奈はあっけらかんと言って「もしかして、照れ屋じゃなくて心配性だった?」と、いたずらっぽく言葉を続けた。それには、とうとう隠さずに、若は大きく舌打ちを返す。 当たったー! と香奈は幼い子供のように笑って「今度は私のアルバム持って来るよ。リョマが写ってても怒らないでくださいね」と言いながら、若の手のひらに暖められているアルバムに手を伸ばす。 今度は無理に隠そうとはせず、若もそれを渡してやった。布張りの、とてもおおきな上背製本の、色のあせたアルバムを、香奈は大事そうに捲っていく。その指を眺めながら「別に香奈のアルバムになんて興味はない」とだけ答える。 「そう? でも、なんかそう言い切られるとちょっと寂しいんですが」 「俺はあまり写真とかには興味はない。過去で、複写だろ」 若の言葉の意味を捉えかねて、香奈は写真から顔を上げて首をひねる。 「よくわかんないけど、写真ってさ、撮りたいって思った気持ちとか、記憶を薄れさせたくないって言うか、大事だから欠片でもとっておきたいっていうか、そういうのがあって、すごく好き。こうやって、アルバムになってたら、なんか、すっごく大事ー! 大好きー! みたいな気持ちに触ってるって言うか――んー……なんて言うんだろう」 若に自分がどれだけアルバムが好きかを語ろうとしているらしい香奈は、けれど良い言葉を思い浮かべられずに、首をひねったままかたまった。それから、答えを求めるように若の眸に視線を結ぶ。 「大体、言いたい意味はわかった」 なので、若は答えてやる。 香奈の言葉にはてらいも何もなく、素直なので、大体なんとなくは言いたいことがわかるように、若はこの何年かでなっていた。香奈も、若の言葉に嬉しそうにしながら「そういうことです」と偉そうにうなづいた。 「でも、俺はそんなに好きじゃない」 「そっかー……だから、あんまり写真撮らせてくれないんだね」 「必要ない」 「私には必要ですよーだ。でも、うちにも若のミニアルバムあるよ?」 「は?」 「二人のアルバムとか作りたいなーいいよね!」 「は? いつ撮った? ていうか作らねぇよ。いらないし作りたくもない」 にべもない若の言葉に、香奈がふくれる。けれどすぐに笑って「運動会とか、テニス部のなんとかとか、あ、あと修学旅行とか遠足のとか、あとは隠し撮りとかで撮り貯めました」と素直に言う香奈に、若は今度は深い深い溜息で答えた。溜息で会話をしているようだな、と若は自分でも思う。 「いらねぇだろ」 「若にはね。でも私はいるもん。昨日の若は今日はいないんですよ。写真ならとっておけるでしょ」 わけのわからない言葉に、今度は呆れたような吐息を、若は漏らす。 「本物がいれば、写真なんかいらないだろ、普通」 「うわぁ……若も言うようになったねぇ……びっくりしたー」 その言葉に答えたのは香奈ではなく、若の兄で、そのからかうような言葉に若が食って掛かり、軽い喧嘩になっているのを、香奈は可笑しそうに笑いながら、携帯で写真を撮った。 音に気づいた若が、今度は香奈と軽い喧嘩になり、小学校時の若のアルバムを兄が持ってきたときに、とうとう若の部屋内は混沌を具現化した様相を呈していた。 |