願いごと
『若、七夕おめでとう!』
「……意味がわからない」
 まるで軍隊か何かの定時連絡のような香奈からの電話は、第一声がそれだった。本当に、わけのわからない女だと思う。とりあえず、機嫌は、とても良さそうだけれど。
『今、電話だいじょうぶ?』
「ああ」
 香奈は、大体俺の生活パターンを把握しているのか、それとも、ただ単に、この時間ならば俺が電話を受ける確率が高いと思っているだけなのか、風呂から上がり、睡眠前のだらけた読書の時間か、部活直後に携帯を鳴らしてくることが多い。
『笹に短冊かけた?』
「かけてない」
 携帯の受話口を耳に押し当て、首を傾けて肩でその背面を支えつつ俺の好みではない七不思議の本を読み進める。たまにある、七不思議と銘打っているのに“本当に怖いのは結局生きている人間だ”系の本は好みではない。それは、後半まで読み進めなければわからないのだけれど、この本はそれにスプラッタ要素と言うかグロテスクな要素もあり、七不思議と銘打たれていることを少々不満に思う。
 茶色の肌に黄緑色の粘液などと書かれても、つぶれた頭がどうだこうだ書かれても、それはただ単に気持ち悪いだけだ。書店はきちんとジャンルを分けるべきだと思う――が、まあ、出版した側が七不思議だと言うのなら仕方ないか。
 俺の生返事を気にした様子もなく、香奈は『私もかけてないから、今から若、私の分書いてかけて』と言ってきた「ああ」とも「はあ」ともつかない生返事を再び返したところで香奈の言葉を把握した。
「何言ってるんだ?」
『私の願い事の短冊かけて』
 俺の問いへ即座に返答してくる。
「なんで俺が……そういうものは自分でやれ」
 願いは他人に知られては効力が薄まるという与太話を、香奈は知らないのだろうか。そもそも、そんなことを他人に頼む人物を初めて知った。砂壁に寄りかからせていた背をほんのわずかに持ち上げて、手に持っていた文庫本を、読み進めたページを開いて畳の上に逆さまに置いた。
 香奈は俺の呆れた声にもめげずに『ノートの切れ端とか、レポート用紙でいいから』と、俺が断るとは思っていない声でせかしてくる。肩で押さえてきた携帯を、きちんと手で持つ。小型化されたそれは薄っぺらく、ちょっとした衝撃で壊れてしまいそうだ。
 仕方なしに――本当に、俺は香奈に甘い。鬱陶しいだの、疎ましいだの思っても――ゆっくりと立ち上がり、引き出しから鉛筆を取り出すと、机の上の図書便りだののプリントの空白欄に磨がれたその先端を置く。
「で?」
 一言だけの俺の言葉を、香奈はきちんと理解する。
『今年の夏は若と海に行けますようにって書いて』
「……馬鹿か?」
 思わず、切り替えしに間が空いてしまうほど、香奈の言葉はおかしかった。
『だって、まだ古武術とか部活の夏休みの予定出てないって言ってたし、だから先にお願いしとこうと思って』
「――願うならきちんと旧暦の七夕にしろよ」
『それじゃ、遅いじゃん。くらげくる』
 ……論点がおかしい気がする。くらげがくるとかそういう問題でもないし、そもそも、他人に願い事を書いてもらう時点でおかしい。そしてそれを香奈が満足するなら仕方がないかと思って従ってしまう俺もおかしい。そして、旧暦にすればいいとかそんな問題でもない。
 それに。
「予定が組まれる前に言ってくれれば、ある程度の希望は反映させられるんだから、普通に言えよ」
『んー……でも、いいよ。星にお願いする。それで、若のスケジュールわかった時に海に行けそうなスケジュールだったら、願いが叶ったってことでしょ』
 融通の利かない外国人のようなことを言う香奈に、それを指摘するのは面倒なので、流した。
「叶わなかったら?」
『海、いけないねぇ』
 香奈は、なんだかのほほんとした、縁側で俺に茶を運ばせてのんびりしているときの祖母のような声で言った。別段、行けないことが惜しそうでもない。俺の怪訝な気持ちを悟ったのか、また、彼女は口を開いた。
『行けなかったら、行けなかったで、うんめい?』
 こだわりなさそうに、香奈は軽い調子で言った。運命の使い方を間違えているような気がしないでもない。使う気のなくなった鉛筆を机の上に転がすと、乾いた音を立てて木目を滑った。
「馬鹿か」
 先ほどまでの疑問系ではなく、断定系で言うと、香奈は電話の向こうで笑う。それを聞きながら、また腰を下ろして、畳に置かれた文庫本を拾う。本の中では置かれた状況の異常さに主人公が戸惑い怯えていた。しかし、こういったものの主人公は、異常に異様な状態であるのに、大抵は、どこか冷静に行動している。そこが現実とは違う。
 そういえば、創作物に日常(リアル)は必要ない。必要なのは非日常(リアリティ)だという言葉を聞いたことがある。なるほど、大抵のリアルなど面白みもなければ、主人公はあっと言う間に死ぬか気が狂うかするだろう。
 そんなことを考えていると、無言の俺を気遣うふうもなく香奈はまた口を開いた。
『迷ってるんだよね。行くか行かないか。だから、運を天に任せようかなと』
「何を迷う?」
『ちょっとね。体型とかね。水着とかね。いろいろ』
 曖昧な物言いは、俺の好きなものではないことを知りながら、香奈は優柔不断にそういう。先ほどの願いがどうだのも半分は本気で、半分は俺に判断を委ねるためだろう。気遣いと言ってしまえばそれまでだが、そんな優柔不断さは俺の好まないものだ。
「俺は行きたい」
 だから、言った。
『うみ?』
 香奈は別段嬉しそうでも落胆した感じでもない、ただ単純に不思議そうに聞いてきた。
「ああ」
『……太ってても怒らない?』
 俺の肯定に、こわごわと聞いてくる。これもやはり、本当に半分は怯えていて、残りの半分は冗談だろう。こういった、半ば本気という曖昧な状態はやはり好きではない。本来は、きっと、そんなものを気にするなと、お前はそのままが良いと言うべきなのだろう。けれど、それは策略に乗ったようでいやだった。
 こんなところで反発しても仕方ないが、何もかも思い通りに行かせるのは、少し面白くないと思う。
「場合によっては怒る。まだ先なんだから、痩せとけ」
『はぁーい』
 けれど、俺の言葉にも、香奈は傷ついた様子もなく、軽い返事を返してきた。なんとなくだが、今、彼女は自分の腹の辺りにでも手のひらを置いているのじゃないかという予感がした。軽く押して、その脂肪に凹んでいるかもしれない。あまりからかいすぎると本当に拗ねて面倒なことになる。それに、俺の痩せとけという言葉を妙に重く受け止められる場合もあるので、一応の予防線は張っておく。
「ただし、痩せすぎるな」
『難しいこと言ってるってわかってますか』
 注文を増やすと、今度はわかりやすく拗ねたような声をだした。それに、ほんの少し満足する。こんなに性格の悪い人間を、香奈はよく好きになったものだと思う。それが少しおかしい。
 自分の機嫌がよくなっていることに、気づく。先ほどまで、この、手にした文庫本の内容を若干不愉快に思っていたのに。それがほんの少しおかしい気もする。
「場所は?」
『んー……どこがいい?』
「どこでも」
『じゃ、情報収集しとくね』
 こういったこまごまとしたことは香奈の方が得意なので、たいてい丸投げしてしまう。計画を立てたりすることが好きなようだ。それに、自宅にパソコンのある香奈の方が調べものには向いている。技術系の授業で俺もそれなりには使えるようになったが、兄のものしか我が家にはない。
 ただし、あまりに、まかせきりにすると、面倒くさいことを押し付けているのだろうと言われてしまうので、気をつけなければならないが、今日はそんなこともなさそうだ。
『願いごと、叶っちゃったね』
 嬉しくはなさそうに、けれど別に悲しくもなさそうに、香奈は平坦な調子で言う。言ってから、少しして香奈は噴出すように笑った。そして、もう一度、叶っちゃったね、と今度はわかりやすくおかしそうで楽しそうな弾んだ調子で言った。
 俺が視線を落としている物語の主人公はとんでもない展開で殺人鬼グループに命を狙われているというのに。その差が、居心地の悪いような気がした。だから、糸栞を挟んでそれを閉じる。
「曇りなのにな」
 ため息のようにそう漏らすと、香奈が戸惑ったような気配が、機械越しに伝わってくる。
『……こっち、晴れてるよ?』
「こっちはかなり曇ってるぞ。少し雨も振った」
 狭い日本の、狭い関東圏であるのに東京と神奈川の天気は違うらしい。織姫と彦星とやらは、どこの天気を適用して逢引しているのだろうか。それとも、旧暦の七夕で逢瀬を楽しんでいるのか。さすがに八百万の神がいる国だけあって、色々とアバウトな行事だと、今更思った。
『……ん、っと、じゃあ、調べとくね』
「頼む」
『りょーかいです。じゃ、おやすみー』
「おやすみ。夏の水場は霊が出やすいから、場所選びは慎重にしろよ」
『なっ……なん〜……――もーやだ! 若なんでいつもそういうこと言うの?! 私が嫌いだって知ってるのに!』
「はいはい、じゃあ、頼んだからな」
 まだ何か電話の向こうで香奈がやかましく泣き言を言っていたが、それは無視して携帯を電源から落としてしまう。香奈は、寝る前に、少しでもそういう話に触れると、ベッドで目を瞑ったときにまぶたの裏に、いわゆるそういうものが浮かび上がるのだそうだ。
 ただし、話を聞いた感じでは香奈にはまったく霊感など無いようだった。ただ単に怖い怖いと思っているから映画だののそういうシーンを思い出してしまうだけだろう。まれに良い勘を発揮するが、香奈の場合は本当に適当な単純な閃きなのだろうと思う。俺にも全く霊感など無いけれど。
 無いからこそ香奈はとても怯えて怖がるのだろうし、無いからこそ俺は七不思議だのの話を面白く感じるのかもしれない。
 先ほどの本を読む気もせず、糸栞を挟んだままのそれを、学校指定の鞄に放り込む。通学時の暇つぶしにはなるだろう。
 それから、机の上でぽつねんと転がっている鉛筆を手にすると、プリント裏に“海が晴れますように”と一見してわかりづらい願いを意図して書き、折り目をつけて綺麗に長方形に裂いて行く。父が風呂に入っているため、台所で朝食の仕込をしている母に、道場生が短冊を作るのに使ったひもやら穴あけパンチやらをどこにしまったのか聞くと、振り向きもせずに、母が帳簿をつけるのに使っている部屋にある小さな箪笥の上から三段目だと答えられた。
 言葉通りにそれらを探し出し、プリント用紙の余白で作ったみすぼらしい藁半紙の短冊を、自らの葉の重みでしなる笹に取り付けた。それから、香奈がよく眺めていた縁側の笹のどまん前に腰を下ろす。みすぼらしい短冊は、周りの色とりどりのそれにまぎれて、室内から漏れる明かりだけでは、それを見ようと強く意識しなければ見つけられなかった。
 やはり、空は厚い雲が垂れ込めていて、依然として雨の気配が湿度と生暖かさと共に空気中に漂っていた。最近は、梅雨や雨と言うよりも、スコールに近い降り方をする気がする。そんな熱帯の地域に行ったことはないけれど、一気に降って、急にやんで晴れ間を見せたかと思うと、また降る様子に、なんとなくそう思う。
 ぬるい風に撫でられるままにぼんやりと笹を眺めていると、母が水出しの緑茶をもってやってきた。そろそろ寝なさいね、と言われ、はい、と答える。
 さすがに、香奈は神奈川に行ってから、七夕に笹を見るためだけに家に来ることはなくなった。香奈の家では、おそらく笹は飾っていないだろう。香奈はクリスマスがとても好きだが、それとて、朝から家族でと言うわけではなく、夜だけ一緒に過ごしているようだった。
 だから、と言うわけではないけれど。
 香奈の分も、と言うわけではないけれど。
 ぬるい風にもてあそばれている笹の葉と色とりどりの短冊を眺めていると、ベッドにもぐっても眠れずに、その場にいない俺に向かって文句を言っている香奈の姿がまざまざとありありと浮かんできて、少し笑いそうになる。
 本当に、俺は、もうどうしようもないな、と思った。