付き合い始めて三年程してから、香奈は稀に「高校を卒業したら一緒に暮らしたい」と言うようになった。 正直、当時の俺にはその言葉が重たかった……と言うよりも、同じ場所で生活するなんて全く実感が沸かなかったといっていい。 付き合うという事だけで必死だったから。 そんな先の事なんてわからない。 けれど、否定する理由もなくて「そうなったらいいな」程度には答えていたと思う。 そして高校三年の現在初春。高校卒業まであと一月。 神奈川ではなく、東京の専門学校への入学を決めた香奈は、氷帝学園大学部に程近いところに物件を見つけて、既にご両親には俺との同棲の許可を取ってしまっていた。 確かに、俺が夕飯をご馳走になるときもそんな会話を軽くしていた家庭だし、あっさりと許可したのも頷ける。 いつもはもたもたしているくせに、こういう行動だけは早いのだから、本当に感心してしまう。『若のお父さん達が許してくれなかったら、仕方ないけどね』と苦笑を浮かべていたけれど。 でも、俺達ももう六年……ろくねん? ……(数え直し中)……六年、数えると凄いな。軽く二千日越えるじゃねぇか。 とにかく、俺のあまり長くない十八年の人生の内、六年。 それだけ長く付き合っているし、お互いの家へ行き来してその人となりは知れているのだから、母は、多分、やんわり否定はするだろうが強硬に反対はしないだろう。それに、香奈の母親と俺の母は仲が良のだけれど、つまり、その程度にも家族づきあいみたいなものもある。 香奈が遊びにくるたびに『娘が欲しかった』だの『香奈ちゃんがお嫁さんに来ればいいのに』だの言っていたし、俺たちが二人で旅行に行く時も膳立ててくれた。――でも、兄嫁が嫁入りした時も同じような事を言っていたな。 それでも、これから、その事について両親を説得しなければならないのは、やはり気が重い。 けれど、香奈は少し緊張気味に、それと無くそんな話題を俺の両親の前で口にしていたので、いきなり、と言う訳でもない。――ちなみにやんわりでもそんな話を聞いた父は眉を顰めた。 父は、とても潔癖な人なので、簡単に許しそうにないけれど、昔、兄と兄嫁の交際を認めなかった際、家出をしたと言う――兄嫁はあまりにマイペースな人で、そのペースが父と合わなかったのだ――、行動的な反発を食らった事があるので頭ごなしには否定しないだろう。多分。 まあ、あのときの大喧嘩は凄かったが、そこまでの反発はない……と思う。俺は次男だから、別に家も道場も継がない。 それでも、説得は大変だろうと思えば溜息を吐く。けれど、当たり前のように同棲することを前提に、断る気など一切ない自分の思考に少し笑う。 きっと、お互いの今まで見えなかった部分が見えてきて、喧嘩もするだろう。それでも、まあそれもいいかなと思える程度に前向きに考えていた。 進路の決まった香奈は今頃、立海でのんびりと授業でも受けているだろう。 夜になったら電話が来るだろうな、とぼんやり思った。 『でね』 俺は、母に入れてもらった濃いカフェオレを嚥下しながら香奈の話を聞く。ブラックコーヒーは胃に悪いらしい。真偽の程は定かではないが少なくとも母の知識ではそうなっているようだ。 ちなみに香奈の話していることは一言で表現するなら“くだらない話”だ。もう少し好意的に言い換えると“世間話”。 『赤也ってば立海大に行かないでテニス留学しようかな、とか言い出してねー』 もう慣れたと思っていても、楽しそうに切原の話をする香奈に、ほんの少し苛立ちを覚える。 俺の心が狭いという事なのか。それとも、香奈に会えなくてイラついているだけなのか。俺は滅多に香奈に会えないのに切原が毎日のように香奈と顔を合わせている事に嫉妬でもしているのだろうか。 本当に、ほんの少しの苛立ちなので、原因がどこから来ているのか自分でも解らないし、寝るまでもなく、このカップを空にした頃は苛立っていたことも忘れるだろうな、と思う。 香奈は昨年ゴタゴタがあってから、きちんと俺以外の男に対して線を引くようになったし、そういう意味では、さほどの心配も要らない。 こうやって、毎日、少しずつ色々な事を感じて少しずつ忘れていくのだろう。 三日に一度はかかって来る香奈の電話の内容ですら、意識しなければ思い出せない。付き合う前は香奈の声一つに耳をそばだててその綺麗な雫のような音を一つ一つ丁寧に自分の中の一番綺麗な場所に宝石を隠すようにしまっていたものだけれど、人間は色々と慣れるらしい。 ああ、そうだ。 「香奈」 俺の反応が薄かった所為で、香奈が少し言葉を止めた。そこで声を掛ける。 『なに?』 俺から声をかけられることが珍しかったのか、問い返す声は僅かに驚きを纏っていた。香奈には見えないけれど、俺は少し笑ってしまった。本当にわかりやすい。 きっと、俺が言葉を発したら、今度は歓喜した声が聞こえるだろうと確信しながら口を開く。 「一緒に暮らしてもいいって」 『ほんと?!』 間髪入れずに俺の予想した声音で、俺の予想した言葉を吐くものだから、次いだ俺の声も、ほんの少し笑い含みのものになってしまう。 「家賃とかは折半したいらしいから、そっちの親と話したいって。都合のいい日を教えて欲しい」 少しだけ、受話口から耳を離す。くだらない会話をしていたときよりも、香奈の声のボリュームが上がっていたので、その対策だ。 香奈は弾んだ声で、恐らく、電話を握って頷きでもしたのだろう。その柔らかい髪が送話口に当たったらしき音が聞こえた。 『わかった! 言っとくね!』 「ああ、頼む」 俺の言葉を最後に、会話が止まる。 それは別段重苦しい沈黙ではなく、冬特有の澄んだ静寂でもなく、多分、俺たち特有のものだと思う。 しばらく無言で、それでも、どちらからも電話を切らない。 端から見れば変な風景だろう。会話の内容につまってしまったかと、思われるだろう。 電話し始めた時にカップに七分目だったカフェオレが、半分より少なくなった頃、香奈が口を開いた。 いつも、会話を始めるのは香奈からだ。別に決まりがある訳でもないけれど。 大抵、この後は二言三言交わして電話を切ることが多い。これも決まりがある訳ではないけれど。 『あー……わたし、若がすきだなー……』 大体予想のついていた台詞なので、口に含んだカフェオレを嚥下してから、答える。 「知ってる」 一度、香奈のお母さんにも言われたことがある。“家だと若くんの話ばっかりするからパパが拗ねちゃって困るの”と、なぜか、楽しそうに言われた。 その時の事を思い出して、恥ずかしいやら困るやらといった気持ちで息を吐く。暖かかったカップも、カフェオレも、ぬるいを通り越して冷たくなりかけている。 『ありがとう』 その返答は予想外だったので、思わず「何が?」と問い返す。香奈は電話の向こうで笑う。 『私が若をすきだってことを知っててくれて、ありがとう』 その声が、とても幸せそうだったので、俺は何も言えなくなる。俺が何か一言でも発したら、香奈のその砂糖のように甘い幸せが、ザラザラと崩れてしまいそうに思った。 『今度、若の家にお母さん連れて行くね。今日はありがと。じゃあ、おやすみ、また電話するね』 嬉しさに弾んだ声で、少し早い口調で香奈が言う。それを耳にして、ああ香奈の幸せを作っているものには俺も含まれているのだなと漠然と感じた。 「ああ、おやすみ」 その幸せを、より長く味わわせてやれるように、なるべく優しい声で、応えた。 電話を切った後、カップを煽る。 多分、今、少し顔が赤いだろうなと、思う。 数度深呼吸をして、熱かった頬が冷えた頃、ゆっくりと立ち上がって空のカップを流しへと持って行き、洗う。タオルで拭いて棚に戻してから、居間にいる父母に声を掛けた。 「ご両親に伝えるように言っておいたから」 それだけ言い、自室へ戻ろうとすると、声を掛けられた。 母からだ。 「よそ様の娘さんなんだから、はしゃぎすぎて粗相しちゃだめですよ」 ……俺は、犬か何かか? 母の言葉に眉が寄りそうになるのを堪えて、軽く頷く。 父は、何度か口を開いては閉じていた。多分、言いたい事があるのだろうと思って辛抱強く待つ。 父親なりの葛藤があるのだろう。思ったよりもすんなり承諾したものの、不本意そうではあったからな。婚前交渉はご法度だとか言われたらどうしようか。既に遅いと告げるべきか。 「節度を、守るように。向こうのご両親に顔向けできないような事は、するな」 苦渋に満ちた、とはまさにこの事かと思うような顔と口調で、釘を刺された。この場合の顔向けできないようなこと、が何を示すのかが、残念ながらと言うべきか、わかった。 無茶言うなよ、俺だって思春期の健全な男なんだぞ、とは、言わない。曖昧に頷くに限る。それなりには守るつもりだけれど、絶対に父と俺では“それなり”のレベルが違うことが感ぜられる。 「若、お父さんもね、昔……」 母が少し身を乗り出して、息子の俺から見ても、まるで少女のように瞳を輝かせた。父の失態や、そういったものは母にとっては顔を輝かせるに値するものなのだろう。 けれど、それは最後まで言うことはできず、父に遮られる。 「余計なことは言うな」 「はいはい」 「返事は一度でいい」 「はいはい」 二人のやり取りに少し笑う。 うちの家系の男は、惚れた女に弱いらしい。駆け落ちした父親と、家出した兄と、高校卒業と同時に同棲する俺か。 阿呆らしい。馬鹿ばっかりだ。俺も含めて。 軽く頭を下げて居間を後にし、自室へと足を向ける。 入居は三月二十五日だと言っていたなと思い出し、逆算してあと一ヶ月と少ししかこの家にいないのかと思えば少し惜しいような、寂しいような気もする。 けれど、香奈と一緒に暮らす生活に変えられる訳もない。一緒に暮らせば喧嘩は増えるだろう、もしかしたら香奈の嫌な面を沢山見つけてしまうかもしれない――それでも、きっと努力して楽しく過ごせるようにしたいと思う。そう思えるほどに、俺は香奈が好きらしい。 恐らく、父母に絶縁されたとしても、俺は香奈と別れない。それは多分香奈も一緒だと思う。 自室に戻れば壁にかけてあるシンプルすぎるカレンダーを眺めた。 そろそろバレンタインデーだと、気付く。 中学一年の時から、俺がチョコレートを貰っては香奈が食っている。これは、香奈以外のチョコレートを俺は食っていないと証明するためのようなものだけれど、最近は香奈がチョコレートが食べたいから……となっているような気がする。 バレンタインデーが休日だった年には「チョコは?」と目を輝かせて聞いて来た挙句「ない」と答えると拗ねていたなと思い出す。「お前はやる方だ」と何度言いたかった事か。 今年は休日ではないから、食わぬと宣言したとしても幾つかはチョコが貰えるはずだ。そうしたら日曜に会うときに渡してやろう。 Tシャツとスウェットという楽さに流れた寝巻きに着替え、カレンダーを捲る。 机の上の四色ボールペンの赤で三月のページの二十五に簡単に丸をつける。 その瞬間 『私が若をすきだってことを知っててくれて、ありがとう』 頭の中で幸せそうな香奈の声がリフレインした。 こちらこそ 俺を好きになってくれてありがとう。 なんて、死んでも言わないけれど。 無愛想といわれる俺と、ここまで長く付き合っているのだから何も言わなくても香奈には伝わっているだろう。 結局、俺たちは、お互いが自分の世界の全てと匹敵するほどなのだから。 君の為に世界を喪う事はあっても、世界の為に君を喪いたくは無い。――ジョージ・ゴードン=バイロン
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