香奈、落とすなよ」
 その言葉とともに何か小さいものが投げられて。
 何とか掌に収める事に成功すると、その小さいものがキラキラ光を反射させた細かい意匠のボタンだという事に気付く。
「え?」
 首を傾げて若を見ると。
「第二。中学の時はやれなかったから。お前、こういうの好きだろ?」
 ああ、若の制服の第二ボタン。
 そう思って、もういちど手のひらに視線を落とす。
「あー……ごめん。若」
「何だよ」
「泣きそう」
 嬉しくて。
 どうしよう。嬉しすぎる。若の心臓に一番近いボタン。私とは過ごせなかった、高校生活の三年間、若の心音を聞いていたボタン。ああ、どうしよう、嬉しすぎる。
「馬鹿」
 悪戯が成功した小さな子供のように、若がおかしそうにそんな事を言う。
「……っさい」
 涙目の私を若が笑って、何だか悔しくて可愛くない返事を返してしまう。
 かみさま、私は本当にこの人が大好きです。大好きです。


  こころのあるところ

 三月になってからほとんど学校には通っていなかった。ただ、制服を着れるのも最後だし、あんまり意味なく制服を着てみたり、平日は専門のお店で買ったなんちゃって制服で出かけたりもした。
 涼香ちゃんは、なんでそんなに制服にこだわってるのかって不思議そうに私を見てたけど、やっぱり高校生だし、もう二度と高校生なんてしないし、いっぱい着ておきたかった。
 高校生活が楽しいだけだったかと聞かれると、楽しくないこともいっぱいあったし、思い出せないこともある。けど、でも、二度とないものならせめて一番最後だけは楽しみたいなと思った。
 個人で大会に出たりするために若は受験が終わってもテニスしてたし、私は何度も応援に行った。受験が終わってからの方が、高校生という立場を謳歌した気がする。
 本当は、立海の大学に進学するのが一番よかったんだと思う。でも、怖かった。誰もいないところに行きたかった。色々あった。色々ありすぎて、立海は好きだけど、怖い。
 氷帝の大学でも良かったのかもしれない。若がそうしたように。でも、学部がちがければキャンパスも違う。若とか、若のテニス部の先輩方は都内のキャンパスだからそのまま進学したのもあると思う。私の希望する学部じゃ、都内ではあっても、ちょっと山の方で遠かったから、だったら氷帝の大学に近い専門の方がよかった。
 学校自体も、私は少し怖い。色々あった。全ての苦しみは自分の実になると思ってた。でも、そんなことないんだなって、今では思う。すくなくとも、私は。
 でも、あのまんまじゃいけないと思ったから。一生、ママとパパの庇護の下にいるわけにはいかないと思ったから、一人暮らしを決心した。若がオーケーをくれたから、急いで二人暮らしになることを連絡して、余っている部屋を探してもらったんだっけ。
 若と、これから一緒に暮らせるって考えると、頭がふわふわするほど幸せで、顔がにやけてしまう。それを聞いた真田先輩と涼香ちゃんは「同棲?!」とか、なんか、ちょっと“はしたない”って思ってるみたいだったけど。
 パパは一人暮らしなんて絶対させたくないみたいだったけど、一生このままじゃいられないよ、って、私は自分で立てるくらいの強さが欲しいよ、って言ったら、イヤだ認めない! と怒りながら物件を探し出してくれた――と、いうか、最低これくらいセキュリティがないと駄目だ! ってことらしいけど。パパは、若も一緒に住んでくれることに安心したみたいで、妙に若に香奈を頼むとかそんなことばっかり言ってた。
 仕方ないかな。
 色々心配させすぎちゃったし。
 でも、記憶のとんでる私には、厚いガラスに囲われた大きな水槽の中の出来事を観ているような感じだった。たぶん、思い出せない色々なことがあったんだろうって思う。けど、それは事実として私の中にあるけど、真実としてはそこにない感じ。たぶん、私の心の一部は壊れてしまったんだと思う。
 もしくは、回路が潰れてしまって、そこにはたどり着かないようにされたのかもしれない。でも、それでいいと思う。思い出して、私が苦しくなると、若が辛そうな顔をするから、思い出さないほうがいい。
 たまに急に記憶のカケラが突き刺さって、私がおかしくなってしまうと、若が抱きしめて大丈夫だといってくれる。そういう時の若は辛そうだから、思い出したくないなって思う。
 そんな私を見ているからママもパパも一人でなんて! って反対したんだろうな。
 でも、やっぱり、このままじゃ駄目だから。
 頑張りたい。
 それが独りよがりだって、わかるくらいには私は大人になったんだと思う。
 それでも、私の周りには、私を傷つける人と、私を大事にする人と、私に無関心な人しかいないから、私くらいは自分に厳しくしないといけないって、思うんだ。間違ってるのかな。でも、他に正しいと思えるものも、なくて。

 赤いチェックのスカートに白いブラウス。ベージュのカーディガンにネクタイ換わりの赤いリボン。紺色のハイソックスに、ローファー。もちろん、立海の制服じゃない。そんな格好の私を見ても、若はもう何も言わない。実は、ラクちんだから、こういう制服風の格好が好きなのもあるけど。
 やっぱり立海のじゃない大きな学生鞄につめたお弁当と水筒が重かったけど、打ち合っている若とチョータを観ていたら、あんまりその重さも気にならなくなった。頑張っていて、二人ともかっこいいって思う。
 かっこいいためにテニスをしているひともいるし、それはそれで努力だと思う。でも、こうやって強くなろうとしてる二人は、違う意味でかっこいい。
 タイマーの音が鳴ると、二人は打ち合うのをやめて、ベンチまで来てくれる。
「おはよう。ちょっと遅れちゃった。ごめん」
「おはよう。どうせ打ち合ってるだけだから、もっと遅れてくれても大丈夫だったのに」
 二人を見ているだけの私は暇だろうって、チョータはすごく気を使ってくれる。私が好きで観に来てるんだから、そんなに気にしないでって言うと、若が「牛蒡のヤツと蓮根のヤツ作ってきたか?」って、おはようを言う前に聞いてくる。顔は無表情っぽかったけど、なんか、わくわくしてるちっちゃい子みたいで可愛かった。私の若対応ニューロンは甘々だ。脳がそうなっちゃってる。きっと、普通の人なら無表情でこんなこと言われたらちょっと引くだろうな。まあ、若も私だけにやってるんだけど。それがわかってるから、なんだかもっと可愛く感じる。
「ちゃんと作ってきましたよー。だから、練習頑張ってくださいませ」
 言いながら鞄からお重を取り出すと――食べ盛りの高校生男子なので、どれくらい食べるかわからなくてめいっぱい作った――チョータが少し情けない顔をして「お腹減ってきた……」と呟いた。
「だーめ。まだ十一時だよ? せめて一時くらいまでは頑張ってください」
 うん、やっぱり私の心も身体も全部若にだけ過剰反応するように出来てしまっているようだ。若がそんな顔したら、もう絶対胸きゅんですよ。きっと抱きついちゃう。
 途中から樺地くんと、ナヲミちゃんと、まどかちゃんも混ざってみんなでわいわい打ち合ってた。まどかちゃんとチョータは、ちょっと、大丈夫かなって思ってたけど、普通に話してたし、なんだか安心した。別れた理由はきちんと聞いていないけれど、私が聞いていいものかわからないので、フツーに二人と喋って、何も聞かなかったけど。
 私もちょっとだけ混ぜてもらって若と組んでダブルスしてみたり、ナヲミちゃんに色々教えてもらったりした。でも、ナヲミちゃんの必殺技というか……ボールが止まるショットはすごすぎる気がする。樺地くんとナヲミちゃんのペアは強くて、若がチッて舌打ちしてたりした。
 お遊びなのに負けると本当に悔しそうで、どうして負けたのか二人プチ反省会をしたり、勝ったらすごく嬉しそうに笑う若にときめいたり。ああ、かわいいなあ。私の好きな人は本当にかっこよくて可愛くて優しくて頼もしくて、でもちょっと意地悪で不器用で融通がきかなくて天邪鬼で。
 にやにやしてたら、コートに打ち合いに、神尾君と伊武君と杏ちゃんまで来てしまったものだから、神尾君がじゃあ桃城と海堂も呼ぶか! とか言い出してちょっとしたテニス大会みたいになってた。みんないいなぁ。
 テニスで繋がっているんだ、みんな。
 そして、そのうちテニスがなくなっても、思い出が繋がって。
 卒業しても、大人になっても、ずっと、続いていく何かがあればいいな。
 ああ、でも、お弁当、ママと一緒に多めにお重につめて持ってきたけど、えーっと、若・チョータ・樺地君・伊武君・神尾君・桃城君・海堂君・まどかちゃん・杏ちゃん・ナヲミちゃん・私……十一人分はさすがにないや。食べ盛りの男の子がいるってことで八人前くらいにはしたけど……立海でのマネージャー経験を活かしてもってきたドリンクも底をつきそう。
 まったくもう、男の子ってこういう所、気がきかないんだから。お昼に解散するならそれでいいけど、しないなら、コンビニにでも行こう。みんなに食べてもらってる間に私が買い出しに行けばいいか。
 神尾君と伊武君のダブルスに若と桃城君のダブルスが負けて、ちょっと喧嘩してる。ああ、若ってばかわいいなぁ。なんか今日の若は、友達の前だから可愛く見える。私の前だと男の人になっちゃうけど、友達の前での若はまだまだ男の子なんだなぁ……かわいい、やっぱり。
 うふふー、みたいな、漫画みたいにふわふわした幸せなにやけ顔をしてたら、若干まどかちゃんとか若とかが引いてた。いいよーだ。幸せなんだもん。
 ダブルスを変えて、休憩に入った伊武君が私の隣にどさりと座る。乱暴で、ベンチが揺れて、ちょっとだけ変な声が出た。
「あ、ごめん」
 伊武君がすぐに謝ってくれたので、いい人だなぁ、と思って「大丈夫です」って答えてたら「あんまり俺の顔見ないでくれる? 日吉がすごい睨むから」と、言われてしまった。若の顔をみると、もう既にゲームを開始してて、別に私のほうは見てなかった。
「見てないですよ?」
「今はね。ああ、嫌だなあ、鈍感な人って。会話するのが面倒臭いよ。一から十まで説明されなきゃわからないわけ?」
 あー、伊武君だ。何のかわりもなく伊武君だ。みごとに伊武君だ。伊武君でしかありえない。パーフェクト・イブ。若の“下剋上”並の、個性。やっぱり笑ってしまった。
「何? 罵倒されて嬉しいの? キミってマゾ? さすが、日吉と付き合えるだけあるね。理解できない」
「……すみません。ところで、お昼はどうなさるんですか?」
 伊武君の彼女は年上のお姉さんか、私みたいに軽いマゾだろうなぁ。こういう伊武君のちょっとした罵倒を可愛いって思ったり、若の馬鹿に愛情を見つけちゃったりする人は、絶対に少しマゾだ。じゃなかったら、わざわざ愛情を、馬鹿なんて言葉に込めるな! って怒っちゃうはずだし。でも、私は軽いサドでもあるので、私の我が侭にちょっと困った顔をする若を見るのも、少し好き。可愛いし、愛されてるな、って、思う。伊武君も、ちょっとマゾでちょっとサドな彼女に困らせられて可愛い顔をするんだろうなあ……妄想ちっくなことを考えてしまった。
 私が急にお昼のことを聞いたから、伊武君は少し思案顔で空を見上げて、それから神尾君を見て交互に自分と神尾君を指差して「何も考えてない」と答えた。何そのジェスチャーって、笑うと「意味はないけど」とつまらなそうに言われた。
「そっかぁ、お弁当がね、足りないんだ。伊武君とか海堂君とか、食べてくならちょっと買い足さなきゃいけないなって思ってたの」
 そんな会話をしているところに、ジュースを買っていた杏ちゃんがやってきて、伊武君に「はい」ってジュースを渡す。とても自然な感じで、友達らしさに溢れてて、ああ、いいなあ。羨ましいなあ、って思った。私は友達を作る能力が絶望的になくて、どこかに出かける友達なんて、まどかちゃんと涼香ちゃんくらいしか、いない。
 人付き合いが下手なんだろうなあ。
 小学校の頃にそれに躓いて、中学では上手くやろうと思ったけれど嫉妬とか女の子の気持ちとかを上手く捌けなくて、立海でも、それで、赤也だけじゃなくてテニス部のみなさんにご迷惑をかけて。――だから、学校は怖い。そんな上手く出来ない私を若は心配して疲れちゃっただろうな。若も、そんなに人付き合い、上手くないのに。泳げない人が溺れてる人を助けようとしたら、二人とも死んじゃうんだよ。ああ、でも若とならそれもいいなぁ――……、っと、白昼で変な妄想をしてしまった。
 駄目だなあ、やっぱり、回路が少しおかしくなったかな。破壊的思想? 破滅的思想? わからないけど、そういうのがたまに頭をもたげてくる。
 はやく、若と一緒に暮らしたい。
 少しでも沢山、一緒にいたい。
 また、何かが壊れちゃうかもしれない。
 せめて、それまでの間だけでも、少しでも長く、幸せに、二人で一緒にいたいな。
 こうやって、楽しそうにテニスをする若を見れるって、すごく幸せなことだ。
「杏ちゃんたちは、もう卒業式終わったの?」
「うん、終わったわ。昨日ね。香奈のところは?」
「ご卒業おめでとうございます! 私はまだなんだ。次の月曜日だから、あと三日かな。女子高生」
「なんちゃって制服が、コスプレになるわね」
「うん、だから、土日はもう制服で出かけることにしたんだ。早く卒業したいって思ってたけど、こうやって目前まで迫ると寂しくって」
「わかるわかる。歳とったって感じするしねー」
「するよね!」
「女って、よくわからない……」
 私たちの会話を聞いてた伊武君の呟きに、おもわず杏ちゃんと二人で笑ってしまった。春からは若と一緒に暮らすんだよ! って自慢気味に言ったら、二人に少し引かれてしまった。私には嬉しくて幸せなことだけど、やっぱり、他の人から見たら常識はずれなのか……もう、言うのよそう。別にすごい引かれたわけじゃないけど。この程度のことでビクビクしちゃうから駄目なのかな。
 ふぅ、と息を吐いて、ポイントが決まって小さな笑顔で、小さなガッツポーズをしてる若を見たら、まあ、なんでもいっか、と思えた。
 結局、お昼にはみんなに、少し足りないお弁当を振る舞って「みんな、卒業おめでとう」って言ったら、エッ? みたいな驚き顔をされてしまった。
 まだ卒業式が終わっていないのは立海だけだったみたいで、桃城君に慰められて励まされてしまった。桃城君、学校好きそうなのに、不思議。それとも、お休みも好きなのかな。
 みんなの進路を聞いてみると、四年制大学とか六年制大学とかが多くて、すごいなー、って思う。私はもう、あんまり学びたいという意志もなくて、働きたいという気持ちが強いから、その向上心になんとなく感動した。みんな、すごい。
 みんなの未来がキラキラしてるように見えて、昔ならすごいすごい! ってなったんだろうけど、今は何か、凹んだ。

 ◆◇◆

 もう少し、若と一緒に居たかったけれど、若が心配して早く帰れというので、少し寂しかった。
 そんな私に気付いた若が、素直に帰るならいいものをやる、と言ってくれた制服の第二ボタンを両手で抱きしめながら、二人で駅に向ってゆっくり歩く。
 中学の時は私がいたからボタンを乞われるまま奪わせていたけれど、今年は私がいなかったから思いっきり拒絶したらしい。別に制服自体には興味はないらしいけれど、誰かが自分の欠片のようなものを持っているのが、若には気持ち悪くて煩わしいことらしい。愛情をそんなふうに感じるなんて、私の彼氏はひねくれものだ。
「俺は別に……香奈だけでいい」
 昔よりも、こういう台詞をさらっと言うようになった若に、私のほうが夕焼け並に赤面しそうになる。手を繋ぎたかったけれど、人通りが多かったので若は繋いでくれなくて、街路樹と私で若をサンドイッチにしながらてくてく歩く。車道を、家に帰る子供たちが自転車で滑るように駆けていくのを、ぼんやり眺めて。
 ああ、世の中平和だなあ……第二ボタンも貰っちゃったし。あ、また勝手に顔がにやける。はにかみ笑いがとめられなくて、隠すみたいにほっぺたに片手を当てたら、隣を歩いていた若が少し呆れたような声で「末代までの家宝にしろよ」すごい偉そうなこと言った。
 そっと、もう片手を開いて、ボタンを眺める。うん、本当に家宝にしてもいいかも。顔の前まで持ち上げてみたら「匂いを嗅ぐな」と言われてしまった。匂いとか嗅いでないんだけど……ああ、若、照れてるのか。
 もうちょっとわかりやすく照れてくれると嬉しいんだけど、まあ、いっか。
For where your treasure is(あなたのたからのあるところに), there your heart will be also(あなたのこころもあります).」
 家宝、という言葉で思い出した一節を口にする。
 うーん、結構覚えてるものなんだなぁ。そう言えば、パパも高校くらいまでに覚えたことは大人になっても良く思い出せるって言ってたっけ。そう言えば、昔見た歌舞伎の笑っちゃった台詞とか、オペラの歌詞の一部とか、ぽんっと思い出したりする。
「……Don’t be afraid(安心しなさい), I am with you(私があなたと一緒にいるから).」
 若の言葉に、ちょっとだけビックリして顔を見た。若は目を眇めて「このあたりはまだ一般常識だな」と言った。映画をよく見る若には、聖書くらいは読んでおかないと海外映画の表現の機微やならではのジョークがわからないだろうから、知ってても覚えてても当たり前なんだけど。

 急に、本当に唐突に、メジャヴを感じた。

 この道に。
 若と一緒に帰ることに。
 このオレンジ色に染まりかけた空に。
 あれ?
 なんでだろう。おかしい。だって、若とこうやって駅まで向かうことなんて、何度もあったのに。
 なんだろう、これ、あれ、いつも若ってこうやって隣にいたっけ?
 この道って、こんなアスファルトで、街路樹なんてあったっけ?
 ここから見る夕焼けってこんな色で、こんなふうにビルに切り取られてたっけ?
 なんだろう、急に、初めて若と一緒に帰ったときみたいに、胸がドキドキし始めた。
 顔が熱くなるのを止められない。
 ウソだぁ。だって、こんな、こんなの、いつものことなのに。
 初めて歩く道で、初めて一緒に歩いてるみたいな、えええ、なにこれ。困る。困るよ。
「若……」
 かけた声が弱弱しいのは自分で気がついたけど、あああ、若って呼ぶのにもドキドキする。あれ、なんで? 私は六年近く、もう、日吉、じゃなくて若って呼んでて、なのに……
 私の顔を覗き込んでくる、若の表情がわからない。いつもならわかるはずなのに。ええ、本当にどうしよう。デジャヴならよくあるけど、メジャヴなんてはじめてた。えー、なに? 日本語……ていうか漢字あてると何だっけ? 未視感? 既視感? 一緒に道歩いてるだけでどきどきするなんて反則だ! ずるい。若もどきどきしてよ。ちょっと、もう、なに?
香奈?」
 えっと、若がこういう声……ああ、えっと、たぶん訝しんでるんだと思う、けど。
「若、ちゅーしたい」
 うわあああ、心臓が壊れるかも。痛い。胸が、心臓が、頭と胸に……!
「は? 馬鹿か? ていうか、何かあったのか?」
 心配された……わかんない。わかんないけど、若が好きすぎて泣きそう。ここはどこ。いつもの道の癖に。いつもの若のくせに。ドキドキさせないでよ、馬鹿。
 ボタン一つで女の子泣かせるなんて、懲役四〇〇年レベルの極悪人だよ。
「……ホワイトデーの礼もかねてたのが気に入らなかったのか?」
 そんな話してないじゃん! なに、若、このボタン、本当はホワイトデーのお礼のつもりだったの? たしかに今日はホワイトデーだけども。大体、ちゅーしてって、別に拗ねて言ってるわけじゃないし。なんか、口走っちゃったというか、一緒に帰ってるだけでこんなにどきどきくらくらするなら、キスしたらどうなるんだろうって、思って……なんだよー。もう、やだ。未視感なんて、嫌いだ。これも未視感って言うのかわからないけど! ここから駅まででキスできるとこなんてないよ。トイレの影とか、なんかいかがわしいところか、衆人環視になっちゃうよ、それはやだよ。何言ってるんだ私。
「本当にどうしたんだ」
 心配そうに、若が私の手を取って、顔を覗き込んで、触れられた手にドキドキする。
 高校卒業直前に、中学入学した頃と同じときめきと緊張を味わうなんて、どんな神様の悪戯なんだろう。ああ、もう、私、ほんと、若のこと好きだ。耐え切れなくなって、私の手を取っている若の手の甲に唇を押し付けて、愛情を発散させた。
 いろいろ難しいことを考えても、結局最後は、若大好き! になっちゃう。今ならきっと二度目のファーストキスができる。ああ、もう、ほんと、好きだよ。宝物はボタンじゃなくて、若だ。