どこに行こう。
 実家には帰れない。
 だって、私が頼んで若と一緒に暮らさせてもらったから。心配そうなパパとママを押しきって、大丈夫だよって言い張ってオーケーしてもらったのは、私だから。
 若と喧嘩した、なんて、言えないよ。
 私が怒られるのはいいけど、若が怒られるのは、絶対嫌だし。だって、全部私の我が侭で、この生活は始まったんだし。喧嘩したからって、若には……とばっちりみたいなの、受けさせたくない。
 どこに行こう……。
ティアハイムと、みなしごケッツヒェン
 ぱたたん、と雨の音。
 顔を上げて、とんとん、ぱたたん、と落ちて、トタン屋根を叩く雨の音を目で追う。
 駐輪場の脇の、大きくもない木に雨が触れて、仲間同士で集まって、トタン屋根をみんなで叩いてる、夜の中できらきら光るしずく。
 今は、それが、なんだか、切ない。怒ってたはずなのに。
 怒ってた、はずなのになぁ……。
 もっと、言い方があったよね、とか。なんでもっと、ちゃんと話さなかったのかな、とか。色々、思う。喧嘩しちゃったのは、なんか、ちょっとした間違いみたいなものだったけど、いつもなら、ごめんねって謝れたし、今までなら若もあんなに怒らなかった。だから、きっと、お互いに色々溜ってて、それで、あれをきっかけにして、なんか噴き出しちゃったというか、そんなかんじなのかもしれない。
 家族以外の人と暮らすのが、こんなにすれ違って、こんなに大変で、こんなに難しいって、知らなかった。幸せで楽しい想像ばっかりしてた。馬っ鹿みたい。
 若だって、私だって、全然違う。性別だって違うし、全然違う家で育って、全然違う親戚に囲まれて、全然違う境遇で、全然違う友達がいて、全然違う本が好きで、全然違う趣味で、全然違う自分の世界を持ってるのに。
 私以外の人間は私じゃない。
 私のこの思考もこの嗜好も、誰も持ってない、私だけのもの。
 他人の気持ちなんて超能力者でもないのに、私に、わかるわけない。
 それは全部、若だって一緒なのになぁ……。
 なんで、あんなくだらないことで喧嘩しちゃったんだろ。
 普段なら、若は仕方ないなって感じで溜息をついて、ぎゅってしてくれたのに。
 私は、普段なら「ごめんね」ってちゃんと説明できたのに。

 私の気持ちなんて、私以外にはわからない。わかって欲しかったら、ちゃんと説明して、アクションしなきゃいけない。そして、自分をわかってもらいたいなら、相手を思いやってわかってあげなくちゃいけない。当たり前のことなのに、なんでできなかったんだろ。言い辛かったとしてもちゃんと話すべきだった。今なら、そう思えるのに、それがわかるのに。
 コンビニで買った透明な傘みたいに、むこうについたしずくや、ビニール越しにフィルターがかかって見える町並み。
 人間の心は、そんなふうにはいかない。嘘の仮面とか、綺麗な仮面とかを被って、嘘の言葉とかホントの言葉を言う。その人のホントの心なんて全然だれにもわからない。
 ついた傘の先端から、雨のしずくがじわじわと、アスファルトを濡らしていく。
 雨はただの雨で、私の心は、天気じゃ表せない。
 若は、好きだからって、盲目的に何でも許容して認めて相手の言いなりになるなんて、違うと言う。私もそう思う。なら、衝突して当然だ。衝突したあとが、大事なのに。
 握り締めた携帯は震えない。

 課題を言い訳にして、バイトの後は学校に泊まってしまったし、これ以上、家に帰らないなんて、友達の家に泊まるなんて、迷惑はかけられないし。ホント、どうしよう。
 課題じゃないけど、創作系の小さなフェスタでみんなそれぞれ出品する作品作りをしてた。私もほとんど終わってたけど、自分の作業が終わったら友達の作品の袋詰めを手伝ったりとかして、ごまかしごまかし学校で一晩明かした。
 ネットカフェとか、漫画カフェって言葉は知ってるけど、行ったことはない。ネットは学校でできるし、一応、家でもできる。学校の課題で必要だから、ちびちび貯めてたお金で買ったし。漫画は友達から借りるし、どっちかというと図書館に行く方が多い。私はあまり図書館を利用するタイプじゃなかったんだけど、若がよく利用するから、真似するようになって。ああ、そういえば図書館でもネットできる。
 とにかく、だから、私はそういうカフェを利用したことがない。利用したことがないと、値段とかわからないし。お金だってそんなに持ってないし。ビジネスホテルとかがあるのも知ってるけど、お金がなぁ……。そういうことを今の学校の子に言うと、箱入り娘だといわれる。みんなそんなに、そういう場所を利用するのかな。必要がなかったから、わからないけど。
 いつまでもバイト先の駐輪場で雨宿りしてるわけにも行かないし。ここに立ってても、それじゃ問題は解決しない。
 ほんと、どうしよう。

 ◇◆◇

「鳩って可愛いよね」
「どこが?」
 俺の怪訝な声に、香奈は「可愛いよー」と同じ言葉を、間の抜けた感じで重ねた。
 とても気持ちよく晴れたその日、足りなかった調理器具や掃除用具や、絆創膏などがセットされた救急箱を買いに香奈と連れ立って家を出た。
 安くていいの安くて、でも可愛かったらもっといい、と何度も言いながら売り場を総なめして、ボウルとザルとまな板と洗い桶、色々な物に使える洗剤と食品にも布にも使える消毒液などを買った。女と言うのは本当に買い物に時間をかける。しかし、俺の気づかないような生活に必要な細々としたものを見つけていく香奈に、こういうところは目端が利くのかと感心した。
 包丁は、幼い頃に母親にプレゼントされたものを大事に使っていると、香奈が二本持参していた。救急箱は、それなりのものが適当に入っているセットを買おうとしたのだが、香奈はわざわざ雑貨屋で可愛らしいケースを買い、薬局で絆創膏や湿布、包帯、軟膏などを買い足して詰め込んだ。無駄な出費だと指摘すると、幸せな気持ちで使えないようなものは嫌だとわがままを言い始めた。俺が折れた。香奈は、とても甘やかされて育ったようで、相手がどこまでの我が侭ならば聞いてくれるのか、なんとなく察しているように思える。もしくは、俺が香奈に弱いだけか。
 その帰り道、香奈は道で群れている鳩を見て、急にそんな事を言い出したのだ。春らしい柔らかい桃色と白を基調にした服を着た香奈は、どこか楽しそうだ。その所為か、普段よりもより愛らしく見える。
「私、あれ好きだな。鳩が、ひなたぼっこしてるの。羽がふわふわで」
 軽いものの入った買い物袋を抱く香奈と、キロあるスパゲッティと精米と重い荷物を手にした俺と、なんとも言えないほど普通のアスファルトの歩道と、適度な車の行きかう音と排気ガスの香り、等間隔で植えられた街路樹と、やはり等間隔の今の時間は用をなさないただのオブジェになりさがった街頭。
 香奈が片手で指を指した場所には、歩道に座り込んだ鳩が、羽毛に首まで埋めて気持ちよさそうに目を閉じて、暖かい太陽の洗礼を受けていた。
「俺は鳩はあまり好きじゃない」
 俺の言葉で、拗ねたように話題を止めた香奈に、好きではない理由を示すことにした。そのために、ふくふくと日に当たっている鳩やら、せわしなく歩いている鳩やらのたっぷりといる一角に足を踏み入れる。その瞬間に、俺の鳩が嫌いな理由が起こる。
 擬音としては、ぶわっ――と、一斉に、軽く飛んだ鳩が壁のように俺に迫ってくる。まるで妖怪の塗り壁だ。そして、エサをもっているのか?! と、今度は妖怪百目に匹敵するほどの瞳が俺を注視していた。正直に言う、気持ち悪い。どこの寺だっただろうか、両親が沢山のパンくずを、やけに黒茶系の服で全身を覆った老爺から買い、俺と兄に渡した。そこで、鳩の総攻撃にあったわけだ。三歳程度だった俺は、鳩にも舐められ、馬鹿にされ、そのときの写真は、俺の形をした鳩の合体形のようになっていた。あの時、俺は鳩相手に泣いたらしい。三歳の頃など、あまり記憶にはないが、今でも鳩が好きではないのはきっとあれの所為だ。
「これが嫌いだ」
 鳩は、ぶわっと飛んだものの、俺が手ぶらなことを知ると、アスファルトに着地してから、しばらく俺の周りで、ククだのココだの鳴き、興味もなさそうにまた好き好きに動き出す。
「あー……確かに、今のはちょっと怖いかも。でもほら、鳩って一匹一匹模様が違って面白いよね。大体はみんな濃い灰色に首の後ろがうっすらグリーンがかってて、おなかの方は薄い灰色で、前の首のとこは薄く赤くて、でも実は真っ白が混ざってる仔って少ないし。あっちの仔はすごく黒くて、嘴が赤いオレンジみたいだし、あっちの仔は白地に水玉みたいな灰色だし、みんなちょっとずつ違って、人間みたいだよね」
 だから? 、と聞き返そうかと思ったが、自分でもそれは感じが悪いなと思って無言を返す。香奈はそれを気にした様子もなく、機嫌がよさそうに歩き出した。なので、鳩の糞害については、そのときは言わないでおいた。香奈も知っているのかもしれないが。

 生活については、大分変わった。空調はリビングのみに取り付け、妙に寒い日、暑い日などは香奈が、わざわざ俺に“エアコン動かしていい? ”とお伺いを立ててくる。共用部だから気を使っているのかもしれない。なので、俺は大抵“嫌だ”と答えることにしている。香奈は寒ければタオルケットを身体に巻きつけ、そういう人形のように室内をほとほと歩いている。
 俺が自室にこもりきりでいると、わざわざ食事を作って持ってくる。沖縄の曽祖父母が、あれを食べろこれを食べろと言ってくるのに、よく似ている。ようは、俺と会話をしたいのだろうと思うけれど、しかし、毎日同じ家で会っているのに、そこまでの話題は、俺は持っていない。
「若ー、パスタ、これに移して。お米は、そのままでいいよ。虫湧いちゃうかもだし」
 料理に関しては、美味い不味いはわかるものの、調理法やら保存法に関しては全く知らないので、言われたとおりに大型のガラス瓶のようなものにパスタを入れる。何本か折れてしまったが、気にしないことにした。入れ終わると、香奈が脱酸素剤と除湿剤を入れて蓋を閉めた。
「お昼どうするー? お引越しの時のお蕎麦とおうどんの乾麺のセットが残ってるけど、それでいい?」
 その頃には、購入したものはおおよそ片付け終わっていたので、それでいい、と頷き返す。香奈の調理中は、洗濯をするのに丁度良い。昔ほど泥のついた体操服だのを手洗いすることはなくなったが――母は、俺が中学に上がってから泥のついたものは自身に洗わせていた――さすがに、下着から何から香奈のものと一緒に洗うのは、何と言うか、うまく言えないのだが、気持ち悪い。断じて、香奈の衣類が汚いだの気持ち悪いだのと思っているわけではない。けれど。
 家族と、そうでない人間の違いなのだと思う。もしくは、年月の積み重ねの差か。ならば、あと十二年一緒にいれば、違和感を感じなくなるのかもしれない。

 ◇◆◇

 最初はなんだっただろう。
 家の中のインテリアをちみちみと凝っている私に、若が「金がないんだから安ければ何でもいいだろ」と言って、私はちょっとカチンときたけど、黙ってた。喧嘩したくないし、価値観の違いだしって。
 引っ越し自体は、まどかちゃんやチョータや、からかいに来た忍足先輩と向日先輩や、樺地君やナヲミちゃんとかが来てくれて一気に終わった。沢山の空いたダンボールをゴミ出しに行ったり、本を本棚に詰めたり、パソコンの配線を繋いだり、フローリングを拭いたり、一日がかりでお引越しが終わって、みんなで店屋物をとってわいわい騒いだ。楽しかったな。
 毎日暮らしていく中で、色々足りないねってものがどんどん見つかって、それを若と買いに行くのも楽しかった。近くのお店をぷらぷら歩いて発見するのも楽しくって、でも、若はそういう時間は無駄だって思ってるみたいだった。三十分くらいは付き合ってくれるけど、それ以上になると、目に見えて若の機嫌が悪くなるから、ちょっとびくびくしつつ顔色をうかがって、それも、良くなかったのかな。
 大きなことは何もないと思う。けど、ちっちゃなことも、積もるんだなって。今更だけど、思う。こういうこと、重なってなかったら、きっとあの程度のことで喧嘩なんかしなかったはず。気をつけろよ、とか、それくらいで、いつもみたいに、ちゃんと言え、とか、きっと、そのくらいですんだんだと、思う。
 くだらないことだけど、トイレの便座の上げ下げから、玄関の靴を並べる位置や、食事の内容や、二人の生活時間がちょっとずれてることや、本当にちっちゃなちっちゃな色んなことが、お互い目に付くようになったんだと思う。
 洗濯物を洗うときも干すときも、若の目にとまらないようにって気をつけたり、若も若で自分のものは自分で洗うから、洗濯する時間とかもちょっとずれると困ったことになったり。
 きっと、若も私も家にいても、なんとなく落ち着けなくなっちゃったんだ。
 お互い、部屋の中にいるのが一番安心してられたりして、会話が減っちゃったのもダメだったんだ。好きなのにちゃんと思いやれなかった。若が私の事を好きだからその気持ちにあぐらをかいてたとかそんなんじゃなくて、たぶん、私もちょっと疲れてたんだと思う。
 だから、ご飯を作ったり部屋を掃除したりお花を生けたり、それまですごく楽しくやってたことが急に苦痛になって、こんなに頑張ってるのに、なんで若は黙ったままなんだろうとか、ご飯が美味しくないとか、何で言うんだろうって、感謝してほしいって気持ちを押し付けてた気がする。
 だって、そりゃ、ご飯が美味しくなかったら指摘するよね。若なら。このまま下手で、美味しくないままでいいって思う人や、相手の機嫌を損ねないようにって人なら言わないかもだけど、若は言う人だし、そんなこと知ってたのに、それで不機嫌になるなんて、素直じゃないなぁ、私。
「さむ……」
 四月の雨は冷たい。お昼はそれでももうちょっと温かかったのにな。昨日は学校に止まって、今日は朝一番で銭湯に行って、コンビニで下着を買って、時間を潰してまた学校に行って、それでバイトして……さすがにちょっと疲れてしまった。明日はお休み、だけど……
 雨の音を聞きながら、どうやって家に帰ろうって、思う。
 へんな考えだけど、理由がなきゃ、家に帰れないような、なんだろうこれ、強迫観念? だめだ、よくわからない。なんか、泣けてきそうだ。わからないけど、私みたいなのが、いけないんだって、わからないのに、ホント、なんだろうこれ。
 家を出た時は、すごく、若に怒ってて、何で私のことわかってくれないの、みたいな偉そうなこと思ってたのに、そんなの、ただの我がままじゃん。押し付けの押し売りの……――ああ、なんかもう、疲れちゃった。

 ◇◆◇

 大学というのは、必修以外は好きな科目を取れるらしい。事前に連絡をいれなければならないものもあるので、気をつけなければならないし、そもそも氷帝は中学から選択授業が他の学校に比べて多めにあったので、残念ながらその自由度に感動することはなかった。
 結局、体育系ではなく、俺は数理科で数学専攻することにして受験したわけだが――持ち上がりではあるけれど――結局、鳳も樺地もなんだかんだで氷帝に入り有田だけが更に学力の必要な勉強馬鹿とでも言える人間の進むB型が多いと噂の大学の、倍率の高い学科に入った。新入学者の俺や、院からは有名音大に編入したいと言っている鳳への向日さんからのアドバイスは「気合入れて最初に詰め込みすぎると後で死ぬ」だった。この人に有用なアドバイスは期待できないと悟った。
 向日さんはすでに屍のようだ。だが、それなりに大学生活を楽しんでもいるようで、露天のアクセサリーショップでバイトをしているから遊びに来いと言われた。もちろん行く予定はない。
 テニスの方は遊び半分になっているイメージのあるサークルに入らずに、今まで通りにスクールに通い個人で大会申し込みでもしようかと考えているが、先はどうなるかわからない。サークルに入ったとして新歓なんとやらで金がかかるとすれば、それは両親にも話さねばならないし、遊ぶ余裕はない。遊ぶために貯金を切り崩したくはない。香奈にはせっかくの大学生なんだからたっぷり遊んで青春しちゃえばいいのに、みたいなことも言われたが。
 まあ、まだ時間だけは余裕があるしゆっくり考えていこう、と結論を出す。教科書代程度なら、手持ちの金で出せないこともないが、やはり出費としては痛いし、学校に必要な金は親に請求するしかないか。先進諸国では十八は成人年齢で、日本人ほど親に頼ることは少ないというが、俺もどうやら日本人らしい日本人のようだ。
 そうして説明会後に、第二外国語はどうするかと考えていると、隣にいた香奈が瞳をきらきらさせて「フランス語!」と言い出した。香奈は、いわゆる“おフランス”に憧れを持っているようだった。そして、その内その理由がわかった。食料自給率百三十%で、食べ物がうまいからだそうだ。本当に動物のような女だ。中学高校とドイツ語、イタリア語を選んだので、今回はとりあえず先の事を考えて中国語にし、教職を履修すれば中学・高校の一種免許が取れるので、試行錯誤して科目を選んだ。
 香奈は大学ってすごいねー、とおおらかに笑っていたが、立海大附属高を出たくせに立海大を受験する気がまったくなかったらしいので、呆れてしまう。せっかく、大学附属の高校なのにもったいない、と思う。
 俺は“女には学は必要ない”と言いきる父を持っているので――ちなみにそれを言った日の父の夕食は母によって若干質素にされていた。それに何も反論しない父を見ると、両親の力関係がうかがえる――、専門だろうが大学だろうが構わないが、せっかくなのだから大学に進めばよかったのに、と言うと「普通の勉強嫌いだもん。好きなことだけしたい」と、分別のない考えのない頭の悪い若者のように切り返された。好きなことだけをやって生きていけるわけではないし、どんな知識も己の糧になりこそすれ邪魔になるものではない、多少の苦労をしなければ碌な大人にならない、と叱ると「若、お説教臭いよ」と言われた。お前が楽天的過ぎるんだと、ちょっとした喧嘩になった。
 後日、ちょっとした、だと思っているのは男のほうだけで、女は大抵忘れてないから気をつけろと、これもまた向日さんに言われた。付き合った女性の人数は向日さんに比べるべくもない俺なので、素直に「わかりました」と返した。これが忍足さんだったら頭から反発しただろうなと思う余裕があった。
 それよりも、何故同棲に踏み切ったのかについて、向日さんは興味津々といった様子で、根掘り葉掘り聞かれた。それについては、大学と住居の立地関係や交通面での便利さに加え、向日さんが好きそうな下世話な利点を適当に言って説明した。下世話な利点は、けれど、香奈を鑑みれば利点とは言いづらいのだが、そこまで言う義理もない。
 本当はただ、香奈を独り暮らしさせるのがとにかく心配だという親心的なものが大きかったのだけれど、それはなんとなく言わなかった。言えば、からかわれそうな気がした。彼女が独り立ちしたいと強く思っていることは知っていたし、できるならばそれを近場で見守ってやりたかった。両親が自分より先にいなくなってしまうことに、たぶん、恐怖していたのだろう。そして、俺自身が怖かったのもある。香奈を一人にさせることが。とても怖い。

 そんな日常会話を口にしながら、よくよく考えると、俺は香奈が大学へ進もうとしなかった本当の理由に思い当たって、どうしようもなく無神経な発言をしたことに頭を抱えたくなった。しかし、口から出てしまった言葉は戻せはしない。何故あんな大事に思い至らなかったのか。久々に、後悔した。というか、香奈も言えよ。
「どーした?」
 俺が黙り込んだことに違和感を感じたのか向日さんの不思議そうな声に、なんでもありません、とそっけなく返す。

 ◇◆◇

 だいたい、若だって我がままだよ。
 ごはん、美味しいの作るために奮発していいお肉買ったら無駄遣いするなって言うし。なのに、国産以外の牛肉は食べないとか、養殖の魚は食べないとか、梅干しは三年漬けのやつじゃないとダメだとか、それ以上なら甲申年の梅干しじゃないとヤダとか、そんな高価なもの買えるわけないじゃん。どこの美食クラブの海原雄山先生ですか。
 冷蔵庫の中でスーパーの半額シールが貼ってあるパックとか見るとみっともないとか言うし。お肉は熟成した方が美味しいよって言っても安売りシールのは嫌がるし。お金は巡って回るものだから、こういうとこでケチるなとか、でも無駄遣いするなとか、わけわかんないし。特にご飯は美味しくないと怒るし美味しいお米は高いし精米の時期が大事なのに、無理だよ。近くの商店街に毎日買いに行けば別かもしれないけど、さすがに無理だよ。
 仕方ないから、輸入もののお肉とか安売りしてた鶏肉とか半額シールのパックを、シールを剥がして使ったりとか、野菜も、頑張って安めの探して、中国産とか、駄目かなって思ったけど、でも、今の日本で中国産を避けられるわけないし、色々頑張ったけど、若、意地悪な姑みたいなこと、重箱の隅つつくみたいなこと言うし、だけど、私が気になって聞いたことはどうでもいいとか全然気にしないし。クイックルワイパーやコロコロ使ったら手抜き掃除だとか言うし。
 そうだよ、若だって悪いじゃん。私は万能家政婦じゃないよ。手抜きしないで安くて美味しいご飯を作って、手抜きしないで家をピカピカにするとか、バイトもして、専門とはいえ学校も通いながらだよ? そんなのできないよ。そんなに器用じゃないよ。要領よくないよ。いつかはそうなるかもしれないけど、私、別に花嫁修業したわけでもないし。努力はしてるけど、でも、そんなにすぐには無理だもん。
 若だってワガママだ。
 私だけじゃない――けど、これって、みんなやってるから、で悪いことする人たちと一緒だよね。
 それに、若、失敗した料理を捨てようとしたら、厭味言いながら全部食べてくれるし……や、普通なら、別に食べてくれって頼んでないとか怒るところなんだろうけど。でも、物を無駄にしないところとか、そういうとこは好きだなぁって思う。掃除だって、私の帰りが遅ければ、若がきちんとしてくれるし、ご飯のあとの洗物も手伝ってくれる。私が指を怪我していたら若が全部やってくれる。宿題で遅くまで起きてたら、一緒に付き合ってくれるしお茶だって淹れてくれる。
 やっぱり、好きなんだよね、若のこと。
 たんぱく質的に情熱的な恋愛は一年しかもたないとか、脳内ぴーいーえー? だっけ? 的に恋愛の寿命は四年だとか、色々言われているわけですが。若以外の人と一緒に暮らしたいともキスしたいとも思わないし、いまだにドキドキすることもあるし、意地悪なこといわれたり、わがままな態度とられても、やっぱり私はまだ若のことが好きなんだよね。昔ほど、一緒にいるだけで泣きそうとか、指が触れただけで心臓が口から出るとかはないんだけど、でも、やっぱり大好きだなぁってしみじみ思うほどには、大好きだ。
 あーもー、泣きそう。なんで、本当に、なんであんなに喧嘩しちゃったんだろう。なんで、若もあんなに怒ったんだろう。今までなら、赤也と遊んでたとかだけなら軽いお説教とデコピンと、ちょっと乱暴なキスくらいで許してくれるのに……やっぱり、私と一緒に暮らすのに我慢が多かったからなのかな。
 このままじゃいけないってわかるのに、動けないし。
「かえらないと」
 そう。かえらないと。でも、冷静に喋れるか、自信ない。
 ぐー、っておなかが鳴って、余計虚しい気分になった。
 雨はやまない。空は暗くて黒くて闇色だ。

 ◇◆◇

 ちょうど、夕刻と、子供らの帰宅を促すチャイムの時間だったことを良く覚えている。熟れた桃の、雫の滴る果肉のような色と艶の空が眩しく、丁度太陽の位置は蜂蜜のように濃く透明に光り、空気の澄んだ晴れた日だった。
 相手の都合でバイトがなくなったため、テニスに精を出してから少し早めに帰宅すると、丁度香奈の新しい学校の友人らが帰るところだった。香奈よりは大分身長の高い女が、高い声で俺に「お邪魔しました」と頭を下げた。そいつらに「どうも」と失礼にならない程度に返す。あまり家に人をいれない香奈にしては珍しいことだった。別に約束があるわけではないが、俺も香奈もあまり友人等を家には呼ばなかった。なんとなく、だろうけれど。
 そうして、灯りのついていないリビングのソファに荷物を下ろすと、影の長さ以外に朝と変わりないその部屋に、香奈とその友人らは香奈の部屋にいたのかと思い当たる。
 自分の洗濯物を洗濯機に放り込んでボタンを押してから、香奈が取り込まなかったらしいベランダに干しっぱなしにされている布団を取り込み、自室のクローゼットの上段に畳んでしまう。ついでに書籍類をチェックして本棚の整理をしてから、洗面所でコンタクトレンズを外す。消毒液兼保存液を、その透明な固めの寒天のようなレンズに垂らして軽く洗って仕舞い、目薬を差してから眼鏡に掛け代えた。ソフトコンタクトレンズは便利だし、装着している分には違和感は少ないが、外すとどっと眼球に疲労と渇きを感じる。本当は普段も眼鏡の方が目にはいいのだろうけれど、どうも眼鏡はあまり好きではない装着したまま寝てしまっても良いらしい新しく出たコンタクトレンズを試してもいいかもしれない。
 普段、香奈は、帰宅しているときは、俺がそうこうしているうちに、もそもそと部屋から出てきて“ごはん何する? ”だの“ごはん食べる? ”だの“ごはん食べてきた? ”だのと聞いてくるのだが、今日に限っては、まだ自室にこもっているようだった。
 そういえば、香奈はやけに食事に気合を入れている。俺が不味いといっても、美味いといっても、妙に過剰反応しているような気がする。そこそこは美味いし、たまにどうしてよりによってそれを選ぶのか、と思うようなレシピで大失敗する以外は、問題もないと思うのだけれど。もしかすると、料理は香奈のプライドの拠り所なのだろうか。
 そしてあまりにも、物音一つしない香奈の部屋を、少し悩んでから、そのドアをノックした。すると、数瞬の沈黙の後、男が一人、出てきた。驚いた。素直に言えるが、かなり驚いた。けれど顔の表情は変わったりはしなかった。表情筋が驚きで強張っていたのかもしれない。
 俺が帰っていることは、香奈も気付いていただろうし、そこですぐに逃げなかったのだから、やましいことはないのだろうと思う。思うけれど、そういう問題ではなかった。
「すいません、お邪魔しました」
 そう、男に言われ、その声で同年代ぐらいかとあたりをつける。背は俺よりも低い。百七十程度で、中学時代の俺と切原の中間程度の、どちらかと言えば大人しそうな顔つきだ。適当にどうも、と答えると男は室内を振り返って「じゃ、小曾根さんのデータ渡しておくから」と言った。俺の位置からは見えないが香奈は「ん、よろしくー」と軽い調子で、けれど俺にだけわかる、困ったような戸惑ったような声で言う。
 その時に俺の堪忍袋の緒は、ほとんど擦り切れそうだった。先ほどまでは日常に摩滅された無感情だったのに、この急激な感情の熱に目の奥が白く明滅する。絶対零度から太陽の表面温度まで、一瞬で熱が膨張したようで、その負荷に、俺は一度目を閉じて、大きく呼吸して、耐えた。なぜ、こんなにもいらつくのかと、自分に自答して冷静さを引き戻そうとしたが、腹が立つからだと即座に自答してしまった。
 まったく、意味がない。
 男が帰ってから、香奈にあれは誰だと聞くと「同じ学校の人だよ?」と、なんで俺がこんなに詰問口調で言っているのかがわからないかのように――本当はわかっているのだろうことに気づける程度には冷静だった――少々わざとらしく小首を傾げて俺を見上げてきた。
「どういう関係だ」
 不機嫌を強調したいわけではないが、平静を装うという無駄なこともしたくなかった強い俺の口調にも、香奈の瞳は困惑の色を深めるだけだった。
「インテリアデザイン科の同じグループで、近代建築についてのなんとか〜って発表するんだ。私が資料になりそうな本とか持ってたから集まったの。変な関係じゃないよ」
 すらすらとよどみなく答えられる。それがまた、癪に障る。
「なんであの男と二人っきりだったんだ?」
 あの男、の発音に蔑んだような色を滲ませると、香奈は小さく溜息をついた。堪忍袋の緒にやすりをかけるようなその態度に俺は舌打ちで返す。舌打ちされた香奈は、それが聞こえると叱られた犬のように眉尻を下げてあからさまに困った顔をする。慌ててはいない。
 時代劇のような、殿様に申し開きしているようなソファに腰かけた俺と床に腰を下ろしている香奈の図に、一瞬ドメスティック・バイオレンスという言葉が思い浮かんだが、まだそこまでではないだろうと、それにこれは家庭内ではないと、そう決め付けて、怒鳴らなければ平気なはずだと都合よく結論付ける。
「先に同じグループの女の子が、バイトがあるからって帰っちゃったの。若、すれ違わなかった?」
「なんでそこで解散しない?」
 香奈は、そこまでは、あからさまに困ったなあという顔をして、けれど叱っている俺にちらちらと俺を覗っていたが、この三度目の詰問で、目に見えて落ち込んだ。
 いや、何でそこで落ち込むんだ。暗い顔の香奈の返答を持っていると、急に「若、ぎゅう」と言い出した。あまりにわけがわからず、咄嗟に香奈を睨んでしまった。
「ぎゅーしろー」
 めげずに香奈は、半泣きになりつつも要求してくる。
 なんなんだこの態度は。何かを誤魔化そうとしているのだろうか。なにか疚しいところでもあるのだろうかと、とうとう俺の堪忍袋の緒が香奈の態度にやすられ切れた。
「お前ふざけろよ。俺たちの家で、なんで男と二人っきりになれるんだ? どういう神経してる? 本当、信じらんねぇ。最低だな」
 苛々して舌打ちとともに低い声でそう言えば、そんなんじゃないもん! 、と叫ばれた。
 それから、深夜までお互いの罵詈雑言と、日々の生活への文句と、短所の上げ連ねを行い、香奈は途中でボロボロと大泣きして、呼吸もできないほどになり、俺は怒鳴らないようにと意識しながらもかなり語調が強くなり、最終的に香奈が攻撃的に喚き、俺が「で?」と「だから?」と「それで?」だけで返すというわけのわからない展開になっていた。いや、もう少しはっきりと香奈を傷つける意図の言葉も投げつけてしまったが。ここまで自分を制御できないほど怒ったのは久しぶりで、どうして自分が、ここまで腹を立てているのかが、不思議でならなかった。確かに香奈の危機管理能力の低さは頭に来るほどのものもあるけれど。
 そうして、疲労困憊して夕食も食わずにお互いの部屋に引きこもった。こんな馬鹿馬鹿しい喧嘩をしたのは初めてかもしれない。

 ◇◆◇

「ただいま……」
 すごく、気マズイ。どきどきしながら、玄関のドアを開けると、私が本を見ながら、コンテイナーにいけてみた花が、瑞々しいけどかすかな香りで、出て行った時そのまんま私を迎える。ここのペンダントライトも、家具が揃わないうちから私がわがままを言って買ったのを思い出して、若はきっと、口に出さないだけで、色々我慢してくれてたんだろうなって思うと、なんだか、申し訳ない気分になってくる。
 喧嘩したとき、若は、私と同じくらい色んなことを指摘して、怒ってた。私が反論しても聞いてくれないほど怒ってた。私も、頭の中が熱くなって、あんなに怒った――というよりも、喚いて興奮したのは初めてかもしれないってくらいで、色々言った。だから、だからこそ、ちゃんと仲直りしないとって、思う。
 でも、まだ、若に対する反発心もあって、どうしよう。
 でも、けど、喧嘩したままなのはやだし。
 でも、その、素直に謝れるか、ここまで来て不安になる。
 でも、私は、若と仲直りしたいから、がんばらなきゃ。
 ぱたぱたとスリッパで廊下を歩いていく。不思議だけど、パパとママのいる実家よりも、ここの家のほうが、帰ってきたって感じがする。
 それが、なんでかはわからないけど。でも、若は、私がそう思えるくらいに二人の生活に対して、妥協して、私の考えを尊重してくれてた。バイトで遅い日は、迎えに来てくれた。一緒に帰ると、料理しなれない若の、不味くはないけど美味しくもないって言うのがピッタリな精一杯の料理があったりして、すごく嬉しかった。
 なのに。

 やっぱり、仲直りしないと。

 おそるおそる、若の部屋に足を運ぶ。音がしないようにって、なんでかわかんないけど必死になって。けれど、ドアの前に立ったら、やることは一つで。ノックしなきゃいけなくて、何度も何度も深呼吸して、冷たい木目に手のひらを当てたり、いろいろ、した後に、心臓が破裂してしまうんじゃないかってくらい緊張しながら、ドッドッて血流の音が体中に響いて何かの楽器になっちゃったみたいな、それで、ノックした。

 いち、
 にい、
 さん、
 しい、
 ご、
 ろく、
 しち、
 はち、
 きゅう、
 じゅう。

 静寂は、静寂のままで、若が無視しているのかって思うと、本当に泣きそうだ。私、よく覚えてないけど、叫んでるとき、いっぱいいっぱい酷いこと言った気がする。もう、許してもらえないのかな。勝手に出そうになる涙を手の甲で拭って、それでも、今頑張らなきゃって、このままじゃやだって、頑張って出した声は震えてた。
「わか、入る……よ?」

 ◇◆◇

 バイトを終えて帰宅したのは夜の十一時を過ぎていた。雨がやんだのは僥倖だった。
 最近の塾は夜遅くまで授業があるが、さすがに最終の授業となると両手で足りる人数の生徒しか集まらなかった。親が車で迎えに来るエンジン音が、ドアの外から響いてくる。残っていた社員に今日の授業内容と生徒の様子とを書いたノートを渡し、軽く話してから帰路に着いたのだが、念のためにコンビニでカップ麺を買った。弁当と一瞬迷ったが、香奈が返ってきていたときの事を考えて日持ちのするカップ麺にする。
 香奈のご両親には俺と大喧嘩して家を出て行ってしまったと、申し訳なくなりながら伝えたが、むしろそんな事で連絡した俺に驚かれた。香奈はまだご両親の保護下にあるのだから、当たり前のことだと思ったのだが、俺の感覚は若干ずれているのだろうか。
 それに悩み始めたところに、香奈のお兄さんから折り返しの電話があり「大丈夫、高校の時から、子供用のGPS付き携帯しか持たせてないから。すぐに位置確認できるし、参照してみたら今は学校にいるっぽいよ」と言われた。無事で何よりだと思ったが、心配した俺の胆の潰れそうな気持ちが無駄になったかと思うと少々癪だった。

 さて、帰宅したところで室内のあまりの暗さに、ああ、香奈はまだ帰っていないのかと溜息が漏れる。昔からの癖で「ただいま」と口に出したが、誰もいない家でそれはむなしく響く。
 まずは台所で鍋に水を張り、湯を沸かす。IHというのは、専用の鍋が必要だし、火力もわかりづらくて未だに慣れないなどと思いながら、IHの利点を最大利用して火元から離れ、鞄を自室へと運ぶと、そこに、死体もとい幽霊もとい、うずくまった香奈がいた。
 正直、かなりびびった。
 点灯された明かりにか、香奈は顔を上げ、泣きはらしていたことがよくわかる瞳で俺を見つめると、また泣き出した。そして、鬱陶しいことに香奈はボタンでも連打しているのかというくらい、俺に謝り倒し始めた。
 その様子に、先ほど無駄に強く脈打っていた心臓も段々と落ち着いてくる。
香奈、お前ちょっと気持ち悪いぞ」
 そう指摘すると、ぐっと泣くのを堪えて、香奈は待てと言われた犬のように、正座して膝と膝の間にその小さな握りこぶしを置いた。
 それから、馬鹿って言ってごめんなさい、嫌いって言ってごめんなさい、料理不味いって言ってごめんなさい、などと一つ一つ、先日の罵倒の言葉について謝りはじめた。結局こいつ、謝ってばっかりだな。そう思うと、またしてもふつふつと苛々してくる。
「一方的に謝るな」
 そう吐き捨てて、火を止めるために台所に行こうとした俺の背中に「い、いなくなったらやだ!」と、駄々をこねている幼児のような声がぶつけられた。本当にワガママで本当に鬱陶しいな、こいつは。いなくなったのはお前の方だろうが。
「どこにも行かねぇよ」
 そう答えても、ぴーぴー泣いている香奈に溜息がこぼれる。それを放置して、台所でカップ麺を作り、小さな椀に取り分けてから部屋に戻ってそれを渡すと、うっうっと嗚咽を溢しながら、時折喉を詰まらせながら大人しく香奈は食べた。
 そして、食べ終わった後に、泣いて疲れたのか、腹がくちて眠くなったのかはわからないが、香奈はスイッチが切れたように眠り始めた。
 俺は溜息をついてから、冷やしたタオルを赤くなった目蓋に乗せてやる。冷たかったらしく、いやいやと首を振るような仕草を見せたが少々強引に押し付けると、ほてった目蓋に気持ちよかったのだろう。大人しく寝息を立て始めた。
 こうして眠っているときの香奈は、愛らしい。
 先ほどのように無意味な謝罪をぶつけられるほど、無思慮で頭の悪い香奈だけれど、結局俺は、そんなことを許容できるほどには好きだ。
 けれど、先ほどのように謝られてしまうと、対等の立場が崩壊していくような嫌な感覚がある。俺が一方的に香奈を許すのでは、何の意味もないと思うのに――俺は多分、香奈が思っている以上には、香奈が好きだし、対等でありたい。そう思うのだが。
 俺が許すのではなく、香奈が許すのではなく、理解できればいいのに。本当に、香奈は馬鹿だ。俺が、何も言わずに香奈の傍からいなくなるわけがないという事さえ、まだ理解できないのだから。
 本当に馬鹿だ。

 ◇◆◇

 目を開けたのに、白しか見えなくてすごく慌てた。それで、目元まで手を運ぶと、濡れたざらりとした感触で、目の上に濡れタオルが乗っかってるんだって、わかった。
 あんまり力の入らない手でそれ掴んで、どかす。光が眩しい。
「あれ……?」
 ここ、どこだろう。ていうか、私、いつ寝たんだっけ?
 すごく体がぎしぎしした感じで、とても、疲れてるというのだけはわかった。
 ああ、学校行かなきゃ。今、何時だろう。
 ごろり、と寝返りを打ってから、凝り固まってしまった筋肉を無理に稼動させて立ち上がると、ここが若の部屋だって気づく。シンプルなデスクにシンプルなデスクライトにシンプルな棚に、お布団。若の匂いがするような気がする。若はどこだろう。
 のろのろと歩き出して、足に力が入らないまま壁にぶつかりながらリビングまで行くと、テーブルの上に、ラップにかかったおおぶりなおにぎりと、メモが乗ってた。お味噌汁は温めて飲めって、それだけのメモだった。
 それだけで、泣けてきてしまって、乱暴に掴んだままだったタオルを目に押し当てた。ひくって喉が震える。

 ◇◆◇

 今日の家庭教師のバイトは三時限目が終わってダッシュしなければ間に合わないタイトスケジュールというよりはハードスケジュール。ハードスケジュールというよりは無謀なスケジュールだった。テスト前だったので特別に組んだスケジュールだったがなんとか間に合わせ、その後は大学にとんぼ返りして六時限を受けた。
 家に帰ると、まだバイトから戻ってきていないらしい香奈の、手書きのメモがリビングのテーブルに置いてあった。メールではないところがある意味で香奈らしいと思う。
 七時にバイトが上がるので迎えに来てほしいというだけのそれだった。今日は普段より少々早いのだなと確認して自分の洗濯をして、その間に簡単に部屋の掃除をして、洗い上がった衣類を乾燥機にかけ、香奈があげてくれていた布団を敷いた。

 勉強をする気も起きず、かと言って鳳の誘いを断ってテニスもせずに帰ってきてしまったため、香奈を迎えに行く時間までの暇つぶしを考える。家庭教師時のテストでも作ろうかと、思考をめぐらせる。
 香奈はもう、落ち着いただろうか。どちらかと言えば、最後の方は香奈の方が激昂していたが、最初は俺の方が香奈の行動に腹を立てていた。あの男についても、別に浮気を疑っていたわけではなく、香奈の危機管理的な能力の欠如に苛立っていただけだが、しかし、あの態度はなんだったのか。香奈はいまだに俺以外の男に怖がっているし、二人きりになれば大抵怯えた瞳をして何とか二人きりと言う状況から逃れようとする。いつもならば。そしてあの態度。
 香奈は喧嘩のことを流そうとするだろうけれど、俺としてはここは譲れない。香奈も一人の人間なのだから、もちろん心理的に肉体的に隠したいことも言いたくないこともあるだろうと思う。
 その、香奈の言いたくないという気持ちと俺の知りたい欲求と、どこで折り合いをつけるか。それを考えると頭が痛くなる。もしかして、何かまた変なことに巻き込まれているのだろうか。跡部さんにトラブルメイカーとまで称されたあの体質はどうにかして欲しいものだ。
 心配してもし足りない。
 これは愛情なのか恋情なのか執着なのか。もちろん香奈は好きだ。けれど好きの種類がわからない。どんな男でも香奈の傍にいれば不愉快だし、香奈の機嫌が良い時は、ただ傍にいるだけで幸せに似たようなものを感じる。
 けれど。
 やはり喧嘩をしているとき、香奈が不機嫌な時は、本当にむかつく。手を上げたいと思ったことは今のところないけれど――恋愛感情があれば、香奈の涙に苛立ったりはしないのではないだろうか。
 この感情をただの執着ではないと、香奈に証明してやりたいのに、その方法が思い浮かばない。

 ◇◆◇

 迎えに来てくれた若に、若の顔を見て、ものすごくホッとした。
 来てくれなかったらどうしようって、すごく怖くて、今日は仕事のタイムカードを押した後に、どうでもいいことを社員さんとしゃべったり、時間稼ぎみたいなこともしちゃって、なんか、ホッとして、嬉しくて、少しだけ、目がうるんだ。駄目だなぁ、私。泣きやすくて。ダメだ。
 ビルの一階のエントランスで、若は夜の外をぼんやり眺めていた。朝は降っていなかった雨の所為か、透明ブルーのビニール傘と、私の傘を片手に持っていて、青い傘の先端からこぼれた雨が水溜りを作って、若の靴を濡らしていた。
 一歩、一歩、怯えて逃げ出しそうな猫に近づくみたいに、視線を外したままゆっくり若の場所へ向かう。
 そんなおどおどした私に気づいた若は、両目を薄めて、それから一度ゆっくり瞬きした。
「おつかれ」
 そう、言いながら、差し出された私のジェリービーンズみたいにカラフルな傘を受け取って、うなずく形に首を動かすことしか出来なかった。しゃべったら、泣いちゃいそうな、気がした。
 若は、そんな私を見て、少し首を振ってから外に向けて傘を広げた。目の前に一瞬で青のフィルターが広がる。
「……ごはん、食べた?」
 思わずかけた言葉はそれで、若は私に背中を向けたまま「まだ」とだけ答えた。
「そっか」
 それだけ言って、私も自分の傘を広げる。白地にカラフルな水玉模様。なんだか、すごくかわいいと思って買ったのに、今は逆に滑稽な感じがした。ベージュに黒い模様の傘の方が、今はまだましだったのに、なんで若、これ選んだんだろう。私の傘は、ベージュの傘以外は、ピンクと黒のと、メロン色の四本で、若はビニール傘だけしか使わない。ビニール傘は、コンビニとかに置いておくと盗られちゃうよって言っても、特に傘を買いに行こうとは思わないみたいだった。
 そんな会話をしたことを思い出しながら、若の背中をぼんやり眺めると「それだけか?」と聞かれた。やっぱり、まだ怒ってるんだと思うと、切なくなって「ごめんなさい……」と反射的に謝ってしまった。そんな私の言葉に、若は溜息をついた。
「そうじゃなくて。普通、夕飯がまだだって聞いたらどうするか相談するだろ。どうするんだよ」
 なんて、言われて、ああ、そうか、と思った。そうだよね、聞いたんだから、問題解決しなきゃ。
 歩き出した若の背中を追いかけながら、問いかける。
「何か食べたいの、ある?」
「三つ葉のサラダと喜知次の煮付け」
「キンキ、季節今じゃないよ。今一番美味しくないよ。メバルでもいい?」
「メバルでもいい……ああ、そういえば、春告魚だったか」
「うん。若詳しいね」
「いや、お前の方が詳しいと思う」
「んっとね、毎日スーパーとか見てると、旬のお魚が並ぶから、覚えられるよ」
「そうか」
「うん……帰り、一緒にスーパー行こっか」
「ああ」
「あのサラダ、ナンプラー使ってるけど、大丈夫?」
「気にならない」
「……ごめんね」
「今更言うな」
「うん……」
「……とりあえず、手伝うから、材料買って、帰ろう」
 帰ろう、という言葉に、やっぱり、泣きそうになってしまった。あの家が、今、私と若の帰る場所。そのことが、嬉しいのに、苦しくて、辛い。幸せなのに、切ない。
 誰も、あの家を居心地のいい家にはしてくれない。私が、しなきゃいけない。若と、私で。
 できるのかな……。

 でも、一緒に料理をしていると、それだけで、幸せだった。なんだ、私達、ちゃんと、こんなふうに幸せにも一緒にいられるじゃんって、思って、嬉しかった。
 お皿を渡すときに指が掠めるだけでも、ドキドキした。
 なんで、こんなに好きな人と、あんな喧嘩をしてしまったのか、全然わからない。どうして、こんなに好きなのに。悪口がいっぱい出た。いっぱい言われた。言われたことは悲しかった。若は、私のことをそんなふうに思ってたのって、思うと、すごく悲しかった。でも、それは私も一緒で、若のこと好きだって、今でも思うくらいなのに、いっぱい、たくさん悪口を言ってしまった。なんでだろう。家族との喧嘩でもあんなに悪口を言ったことはないのに。過呼吸をおこしてはあはあ言いながら、それでも若に悪口をぶつけた私は、あの時絶対に異常だった。
香奈?」
 若に差し出したお皿を握り締めていたままだったことに、若に声をかけられて、気づく。
 顔を上げて、彼の顔を見上げる。不思議そうな顔。綺麗な顔。少なくとも、私はそう思う。高校の頃、前髪の所為でおでこにニキビができちゃった若は、それでも可愛かった。欠点があると可愛くて、ないと綺麗で、結局、私は若の顔がすごく好きなんだと思う。昔は怖かったのに。どうしてだろう。好きになったから、好きだから、だから、若のことを可愛く思って綺麗だと思って格好よく思って。もう、ずっと、そうやってて。そうしてて。
 なのに、一緒に暮らしはじめて、すぐだったのに。なんで、喧嘩しちゃったのかな……。
 ああ、だめだ。泣きそう。ダメだ。
 涙が零れないように、ぐっと顔を上げて、若の目を見つめる。色素の薄い、胡桃みたいな色の綺麗な瞳を見つめる。
「若好みに甘さを控えてしょっぱめにしました。ショウガもきかせました」
「それはどうも」
「私のは、少し甘めに作りました」
「さっき渡されたやつだよな」
「そうです」
「そうか」
「美味しいですか」
「まだ食べてないだろ。でも、たぶん美味しいと思う。いい薫りだ」
「そうですか」
「どうせ後で泣くんだから、今はまだ泣くな」
 目を、若の手で覆われた。なんで、私はすぐに泣いちゃうんだろう。ていうか、後で泣くって、予言するなー……。ずるって鼻を啜ると若は私の目から、そっと大きな手のひらをどけて、もう一度私の持っているお皿を支えた。蛍光灯の光が、目に刺さる。反射的にうつむいてしまった。
「ほら、もう飯もよそったし、とりあえず食べよう。香奈は腹が減るとすぐにナーバスになるからな」
 強引にお皿を奪われて、私はとぼとぼと食卓へ向かう。
 ごはんの味はよくわからなかったけど、若がたくさん食べてくれたので、ちゃんと美味しく出来たんだろうなって思った。三つ葉のサラダ、ボウル一杯分くらい食べてた。若も、私みたいに、お昼ご飯とか、喉を通らなかったのかな、なんて、都合の良い妄想をしてしまう。
 最後の一粒のごはんも、若は綺麗にさらって、ご馳走様でした、と手を合わせた。もたもた食べていた私は、それに追いつけなくて、まだもそもそごはんを食べてる。それに、これを食べ終わったら、ちゃんと話し合わなきゃいけない。それは嫌じゃない。必要なことだってわかってる。でも、怖い。やっぱり、同棲はやめようって言われたらどうしよう。いきなりは引き払えないから、そうなったら、えっと、家庭内別居? みたいになっちゃうのかもしれない。それは、絶対にいや。
 一緒にいたくて、一緒になったのに。
 私はいつまでも守られているわけにはいかないから、家を出たかった。でも、やっぱりそれが怖いから、若を利用した。若の、私を好きだって気持ちを。私のことを守りたいと思ってくれてる気持ちを。
 卑怯者のくせに。あんなことまで言うなんて、私は何様だろう。若はいつも私を守ってくれてたのに、それが嫌だったことなんてないのに、真逆の言葉を言ってしまうなんて。
香奈、それ以上食べないなら風呂入ってろ」
 お箸を持ったまま固まった私の頭を、若が軽く叩いた。
 普段どおり過ぎて、逆に怖い。
 最後に普段通りにしてるんだったらどうしよう。
 別れを切り出されたらどうしよう。
 私、嫌われる覚悟もないくせに悪口、いっぱい言っちゃった。
 頭上から溜息が聞こえて、もう仲直りできないのかなって思ったら、あの時若に反論した自分を無くしたい気持ちになって、でも、だからこそ、一生懸命泣かないように我慢した。
 さらりと、若の手のひらが、私の前髪を上げた。潤んだ瞳が、空気に晒されて、少しだけ冷える。
「ちゃんと話そう。言いたいことあるだろ? 俺もある」
 子供に言い聞かせるような言葉で、若は私を嫌いになったんじゃないってわかって、耐え切れなさそうだった。もうちょっとで、涙を堪えようと頑張ってる下目蓋の堤が決壊しそうだ。
 それを見た若が、風呂は落ち着いてからにするか、と言って、私のおでこを軽く叩いた。
「私と暮らすの、ヤダ?」
「……嫌ではない。だから、話し合いたいんだろうが。これからも続けていく為に」
 呆れたような声音で、でも、口に出して言ってくれたことが嬉しい。思わず、頑張りきれなくなって、ぽろりと一粒だけ涙がこぼれてしまった。涙はいつでも熱くてくすぐったい。
「それよりも、香奈、お前、熱あるんじゃないか?」
 若の手のひらが冷たくて、額に気持ちいい。
「ん、べつに具合は悪くないけど?」
 そう言ったのに「いや、熱い」と体温計を渡されてしまった。耳に当ててピピッとすると、まあ、大体三十八度くらい。たしかにちょっと高いなぁと思ったら、結果を見た若に叱られた。まだ死ぬまでに四度以上も余裕があるのに。
 着替えてベッドで寝てる私に明日が休みでよかったな、って若が言った。若は心配性だと思う。でも、たしかに平熱よりはずっと高いから、自己管理できてないことに、ちょっと凹んだ。
 でも、その日、若はコンビニでおかゆを買ってきてくれたり、冷えピタをおでこに貼ってくれたり、解熱剤を飲ませてくれたりして、体調不良もたまにはいいかなって思った。だって、こんなに優しくしてもらえる。若に嫌われてないって、実感できて、すごく嬉しい。良かった。本当に良かった。
 咳も出なくて、熱だけだったから、たぶん色んな心配とか、最近の疲れとかが溜まって熱が出たみたいだった。でも、若は週明けに病院に行こう、と私の手を握ってくれた。インフルエンザだったら洒落にならない、なんて、でも、私のことを心配してくれてるんだって、わかった。わかれた。嬉しかった。

 次の日、枕元に来てくれた若と、ゆっくり、いっぱい、色んな話をした。気になったこととか、気にしてたこととか、嬉しいと思っていたことや、ありがたいと思っていたこと、嫌だなってことも、ほとんど全て、話し合えたと思う。
 私の言葉に、若が反論して、それで若の気持ちを理解して、でも、私はやっぱりそれはやだと言うと、じゃあ妥協点を探そうって、いっぱい話した。疲れた。難しい話もして、私は全部は理解できていなかったと思う。でも、まだ、お互いに話し合える余地があることが、嬉しかった。
 安物の低反発ベッドマットは、ずっとずっと寝ているには寝心地が悪くて、何度か体勢を変えるたびに、顔にかかってしまう私の髪を、若が指で梳いて耳に掛けてくれた。それが、涙が出るほど幸せだと思った。
「ちゅーして」
 キスと言うのは、いつもなんだか恥ずかしいから、ちゅーって言うことが多い。それか、目をつむって「んっ」て唇を向けるか。大抵、若は私の望みどおりにしてくれるけど、今日は「まだ聞きたいことを全部聞いていない」って言われてしまう。恥ずかしかった。断られるのがこんなに恥ずかしいってことを、久々に思い出して、勝手に顔が赤くなってしまう。自分でも熱くなってるなと感じるほっぺたを、若は少しおかしそうに撫でてくれた。
「なに?」

 ◆◇◆

 まだ少し赤く腫れた目元は、あまり可愛らしいとは言えない。
 それでも、気恥ずかしさに潤む目で見上げられれば、ああ、可愛いなと、ことりと俺の心に落ちてくる。それと同時に、家に男を連れ込んだ香奈への怒りも、ぶり返して来る。嫉妬の炎? 嫉妬のマグマ? そういう言葉をくだらない小説で見つけたことがあったが、どれもどこかしっくりしない。一番近かった表現は縊り殺したいというものだったが、それでは俺が香奈を己のものにするために奪われるくらいなら殺すという思考を持っているようではないか。それは正しくない。俺は香奈を殺せるようには好きじゃない。痛めつけることが出来る程度には好きだけれど。香奈と、できればずっと同じ道を歩いていきたい程度に、それだけの覚悟が出来る程度に好きだ。
 俺は香奈に裏切られたと思った。あの時、そう感じた。背中から切られたという表現が近いか。ただ、浮気を疑ったわけではない。浮気を疑うことそれ自体を、俺は禁忌としていないけれど。

「怖がってたくせに、なんであの日、あの男と同じ部屋にいたんだ」

 そう。
 香奈が傷つかないように、香奈が裏切られないように、そうやって俺がどんなに苦心しても、腐心しても、香奈は一己の人間として、ああして、我慢する。
 俺の努力が、これでは報われないではないか。俺が大事にしているものを、香奈は傷つけ、脅かす。それがとても許しがたい。

 俺の質問に、香奈は、あの日と同じように「ぎゅう」と言ってきた。何を甘えているのか、そう思ったけれど、一つだけ思い出した。
 香奈は不安になると俺を抱きたがる。触れたがる。甘えたがり、側にいろと命令してくる。
「好きにしろ」
 そう答えれば、もそもそと起き出して、幹にしがみつくカブトムシのようにがしりと抱きついてきた。その背中に手を置くと、少し湿っていることに気づく。やはり、まだ熱が高いのだろう。そんな体温さえ、俺は、手放しがたく思うほど、香奈が好きなのだと、思い知らされる。
 ああ、本当に、こいつは卑怯だ。卑劣で、悪質で。それを愛しいもののように感じる俺が、哀れだ。
「こくはく、されたんだ、あのひ……」
 俺の胸に鼻がつぶれるほど抱きついていた香奈の声はくぐもっていた。泣きそうでもあった。辛そうでもあったし、悲しそうでもあった。そして、苦しそうだった。
 だから、すぐわかった。

「気持ち悪かったのか……」

 告白が。
 その相手が。
 そう感じる自分が。
 可哀想に。
 愕然としたんだろう、自分の気持ちに。
 香奈は俺が“好き”なくせに、他人の“好き”は気持ち悪いと感じてしまったのだと理解した。
 だからあの日、俺に慰めて欲しかったのか。
「ともだち、なのに、こわ、くて……」
「ああ」
「本当は、誰も、この家に入れたくなかった。けど。資料のことで、ちょっとだけ、てゆわ、ゆわれ、て……」
「いわれて、な」
 発音間違いを訂正すると、香奈は少し笑ったように息を漏らした。
 たどたどしい説明を聞いていると、あの日、女友達と一緒に男の方も帰るはずだったのに、携帯が見つからないと言われて探す羽目になり二人になってしまった。少し嫌だった。携帯はそんな場所にあるはずがないだろうと思われる場所で見つかったが、そのタイミングで男に告白された。それが嫌で嫌で怖くて気持ち悪くて、好意をそう感じる自分がすごく嫌で、でもちゃんと断ったから、本当に何も変なことはしてないよ。男の人と女の人の友情って成り立たないの? というのが香奈の気持ちと当時の状況だったらしい。

 普段は普通に過ごしているのに、稀にこうやってスイッチが入ったように変なことで怯える。まだ、あの時のことが香奈の中にわだかまっているのだろう。普段は忘れていても、何かの瞬間に思い出した香奈は、言葉通りに壊れたようになる。可哀想に。けれど、何故か、可哀想であればあるほど、より可愛がってやりたくなる。こんな女は俺の手にしか負えないと、思いたいだけなのかもしれない。けれど、そんな幼稚な自尊心だけで、付き合っていけるほど、俺は香奈をなめていない。
「私って、酷い人間だね」
「これだけ俺を怒らせて、これだけ心配させるんだから、酷い人間を通り越してる」
 言いながら、何度か背を撫でてやると「がっこう、いきたくない……」とべそべそ泣いていた。つい先日までは俺のいる家に帰りたがらずに、今度は学校に行きたがらない。どんな引き篭もりで、どんな登校拒否だ。
「甘ったれるな。香奈が告白される隙を作ったんだ。自分で対処しろ」
 香奈に告白したという男は、香奈のどこに惹かれたのだろうか。こんな、我が侭で、甘ったれで、打たれ弱くて、頭も弱くて、空気も読めないし、泣き虫で、馬鹿で、運動も出来なくて、盲目的で、自罰的で、偽善者で、八方美人で、自己卑下している割に馬鹿にされるとすぐに拗ねて、感情的で、自己主張ばかりしていて、問題があればすぐ逃げて、危機管理能力もないのに、どうして、俺は彼女がこんなに好きなのだろう。
 ああ、あの男、あの時殴っておけばよかった。くだらない告白で香奈をここまで悩ませやがって。いや、本当は男自体に大きな非があったのではないと分かっているけれど。片っ端から告白して当たったら付き合うという馬鹿男もいれば、一世一代の告白をする男もいるが、香奈が俺と付き合っていると知っていて告白したのならその男を殴りたい。
「若なんて、私よりいっぱい告白されてたじゃん……」
「中学時代のことを何度も言うな。しつこい」
「で、でも、やっぱり……つら、つらっ……」
 そこまで言うと、鼻を鳴らしてぐすぐすと泣き始めた。頭頂部を俺の胸にゴリゴリと押し当てて来るので少し痛かった。この刺激で馬鹿な頭も少し使えるようになればいいのだけれど。
 ゆっくりと頭を撫でてやっていると、しばらくして鼻を啜るのを必死で止めようとしだしたらしく、ぐずぐずとした音が、犬が匂いを嗅いでいるようなふんふんという音に変わって来て、あまりの間抜けさに笑ってしまう。笑われたのが嫌だったのか、急に香奈は顔を上げると、なぜか俺の手を握って、俺の親指をがじがじと齧ってきた。正確には、歯で噛んでいたわけではなく、唇で強めに挟んでいたと言う感じだけれど、昔から急にボディランゲージに切り替わるのはなぜだろうか。背中を殴ってきたり、抱きついてきたり、腕を引っ張ってきたり、服の裾をつまんで揺らしたり、先ほどのように頭をぐりぐり押し付けてきたり。
 とりあえず好きなようにさせてやっていると、すぐに噛み付くことをやめた香奈が、恨めしそうに俺を見上げてきた。どう考えても俺より香奈の行動の方が異常だ。
 けれど、恨めしそうな表情はすぐにくしゃりと崩れて、わかりやすく泣き出した。
 震える嗚咽を聞きながら、痙攣する背中を撫でてやっていると「若以外の人なんてだいっきらい!」と喚いた。その言葉が嘘だということはわかる。ただ、そう思いたいだけなのだと、知っている。可哀想に。嫌うことが出来れば、楽なのだろうに。
 これでまた感情が高ぶったのか、嫌いになったらちゃんと言って、だの、嫌わないで、だのを必死に伝えてきた。取り乱す様子を哀れに思うし、正直に言うと若干引く。
 泣きじゃくってぐったりした香奈は、それでも俺と目が合うと、またほろほろ泣き出した。本当に愚かで哀れだと思う。罵詈を口にすれば自分が傷つき、好意を与えられれば怯え、平穏に一筋でも陰りがさせばこうやってパニックを起こす。
 昔からその傾向はあった。それでも、ここまでではなかったのに。記憶がない。記憶をなくして自衛している。それでも、そこまで器用ではない彼女の脳は、記憶をなくしたわけではなくて、蓋をしているだけなのだろう。だから、こんなふうに乱れるんだろう。
 ただの喧嘩一つだぞ。これは。本当に、ただの喧嘩だ。兄と俺のほうがもっと激しく罵りあい拳で主張しあった。それなのに、香奈はただの喧嘩一つでこんなふうになってしまう。哀れを通り越して、馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。

香奈、目玉焼きには何をかける?」
 俺の唐突な質問に、ふぐふぐ言っていた香奈は、ぽかんと顔を上げた。無防備な口元が本当にぽかんと開いている。
「俺は塩と胡椒だ」
 言葉を重ねると。
「わ、たしも……塩コショウだけど?」
 失敗した。
 目論見が真っ向から失敗したので、少し困って視線を上げる。けれど、まあ、香奈は昔から違う話題を振るとそちらに思考が向くので、この話を続けることにした。
「カレーにソースはかけない派だけど、目玉焼きも俺は許せない」
「……? 目玉焼きは好きだよ。辛くなくなるし」
「酢豚のパイナップルも嫌いだ」
「お肉やらかくなるから、好き」
「そうめんに具とか、理解できない。ハムとかキュウリとか……冷やし中華じゃない」
「んー……ウチではカッペリーニ代わりにそうめん使ったりするよ。タラコのサラダと混ぜても、そうめん美味しいよ。鯖の水煮をつかったアジア風のも美味しいよ。あ、あとてんぷらと一緒でも美味しいよ」
 語尾がすべて「美味しいよ」になっていた。馬鹿だなと思いながら、それでも愛らしく感じる。
「今回の喧嘩も、そんなものだろう」
「てんぷらと?」
 俺の彼女は馬鹿で、愚かで、哀れで、可哀想だ。
「今度、アサリのそうめん作ったげるね。ベトナム風なの」
 無言の俺に気づかないかのように、香奈は少し笑った。
 なんだか、どうしようもなくなって、より一層抱きしめた。