Please kiss me.
 ごはんもお風呂も着替えも終えて、さあ寝るぞとベッドに寝転がった。でも、ふと肌寒い夜気を感じて、ベッドの縁に腰をかけて腕時計を外そうとしている若の名前を呼びながら両手を若へ向けて伸ばす。このジェスチャーは“ぎゅーしてほしい”という意味。
 すぐに意図を察した若の目が、何を甘えてるんだ、とでも言いた気に細められる。
 でも、私が諦めずに手を伸ばしていたら、仕方ないな、って感じで抱きしめてくれた。基本的に若は私に甘い。私も若に甘いからおあいこ。
 しばらく、ご満悦状態で若の体温を感じる。二人とも少し前にお風呂に入ったから若から私とおんなじ石鹸とかシャンプーの匂いがする。なんか、こういうのって幸せだなぁ。よかった、甘い香りの石鹸とかにしなくて。
 若の体温とか、抱きしめてくれる手の感触とか、色んなのに満たされて、もういいよって意味で肩の辺りを叩いてあげる。
 私の合図に若はゆっくり身体を離して、離れぎわに軽いキスをくれた。
 予想外の若の行動に、驚くよりも早く、思わずその首に手を伸ばして、離れようとするのを阻止して、訝しげにする若の瞳を見つめる。
「それだけ?」
 今、ちょっと顔赤いかも。恥ずかしいし。でも、あんな風にキスされたら、もっと欲しくなってしまった。
 若は一瞬だけ意外そうな顔をして、でも、すぐに意地悪っぽく笑ってキスしてくれた。
 私は少し唇を開いて、ぎゅって若を抱き寄せて、若を受け入れる。
 キスは気持ちよかったんだけど、でも、若の行動に思わず抱き寄せたその背中を“やめろ”という意味をこめて強く何度も叩いた。私の行動に、若は、それはそれは勝ち誇った顔で、ゆっくりと唇を離してく。

 この男、ぼーっとご飯食べてて、噛んでしまって出来た口内炎を狙いました。
 本気で痛い。
「何でそういう意地悪するかなぁ……」
 若を睨みつけると、面白そうに意地悪そうに彼は笑っている。笑みの形に細められた目が可愛いなぁ、とか思ってしまう。機嫌はすごく良さそう。
「ねだったのはどっちだよ」
 それ、私が悪いみたいな言い方ですけど、口内炎をわざわざ狙う若が悪者だと思うこの場合。
「……もっと若とちゅーしたかっただけだもん」
 はぁ、って呆れたみたいな溜息。語尾に“もん”とかつけたり、“ちゅー”とかそういう単語は、若はあんまり好きじゃない。甘ったれるなってよくたしなめられる。
 ベッドに寝転がってる私の顔の横に着いている、若の手が視界に入る。その大きな手に自分の手を重ねて、小さな子の頭を撫でるみたいに優しく撫でる。
 若は、体勢が辛くなったのか、私の上に馬乗りになって、そっと顔を寄せて、今度は優しくちゅーしてくれた。
 たまには口内炎に掠っちゃうけど、それ以外は優しくて暖かくて幸せなキス。若が好きでよかったなぁって実感するキス。
 でも、ちょっとずつ、少しずつ優しかったのが激しくなってくる。ちょっと辛いなぁって顔を背けて逃げようとしたら、顎を押えられて、きもちいんだけど、かなり無理やりなキスになっていく。
 さすがに全体重はかかっていないものの、若にマウントポジションとられて簡単に逃げ出せるわけもない。それでも、必死になりつつ若に応えていたけれど、息をしてる暇もなくて、どうしていいか分らない。わからなくて、涙出てくる。
 思わず軽く若の舌を噛んだ。

 若の動きが止まって、顔が離れた。こくん、と口の中の液体を飲み込む。ぐい、と手の甲で口を拭って、大きく深呼吸。
「、もー……っ――」
 苦しかったからか気持ちよかったからかよくわかんないけど、滲んでいる涙に視界が歪んだ。少しはマシにならないかと目を瞬かせてみる。さすがに涙が零れたりはしなかった。

「泣くな」
「泣かせないでください」
「気持ち良いからな」
 微妙に私に責任転嫁な答えになってない言葉を吐きつつ、満足そうに若が微笑む。その笑顔とか、言葉とか、色んなものに私はときめいたりとかして、結局負けてしまう。
「――もっかい」
 未だに私のお腹のちょっと下あたりに陣取って座っている若に両手を伸ばしてせがむ。その伸ばした手の片方を、若に掴まれて、手のひらに軽く何度もキスされた。でも、若の顔が近付いてくる気配はない。
 恥ずかしい思いをしてもう一度ねだったのに、欲しいものを貰えなくて、段々恥ずかしさよりも焦燥に似た感情のほうが強くなってくる。絶対に若はこの状況を楽しんでるんだ。
 若を睨む。
 それでも若は指先や手首にまで唇を落としてくる。くすぐったいし、もどかしい。
「ちゅー! もぉ……っ」
 ぎゅっと目をつむって早くして欲しいと訴える。
「ネズミか、香奈は」
 それなのに、私の手を掴んだまま、若は可笑しそうに喉を鳴らして笑う。
 どうせ、意地悪そうな顔で笑ってるんだと思って睨んだら、すごく優しい顔をしていた。一瞬見惚れた。すごくレアな表情。
 機嫌いいんだなって思って、だから、もう一回お願いしてみる。
「ちゅー、して」
「ちゅー、して」
 けれど小学生の低学年がやるような、相手と同じ言葉をからかうように馬鹿にするようにそのまま返される。
 おうむ返しに言ってきた若に、私はもう我慢の限界で。
 普段余り使われない(咳をするときに酷使するくらいな)腹筋を無理やり稼動させて上半身を起こす。ちょっとお腹が痛くなって苦しくなった。
 捕らえられていないもう片方の手で若の肩を掴んで、ぐっと、顔を上げてキスしようとしたら、ふい、と顔をそらされた。

 今度、若がキスしようとしたときに絶対、私がそれやり返してやる……

 でも、今キスしたいのは私の方で、若は逃れる立場を楽しんでいる。
 一瞬だけ、若が楽しそうならそれでいいかー、とかも思ったけど、でも、やっぱりキスしたい。
 ああ、なんていうか、もう。ほんと。

「なんでしてくれないの……」
 本格的に腹筋を酷使しているお腹が辛くなってきたので、若の肩に手を乗せたままぼすん、とベッドに沈みながら、若に拗ねてみせる。
 若は面白そうに笑って、少しだけ首を傾けた若のサラサラの髪の毛が私の手の甲をくすぐる。
 何か、今日はホントに機嫌がいいみたい。

香奈が何度もねだってくるのが面白いから」
「それ、なんか、台詞、サディストっぽい」
 若の台詞に思わず笑ってしまう。
 確かに、私がこんなに何度も若にねだるのは珍しいかも。あんまり沢山はないよね。
 でも、今はすごくキスしたいんだもん。仕方ない。
「ちゅー、しようよ」
「自分でしろよ」
 しようとしたら、逃げるくせに。
 私の彼氏は、きっと、小さい頃は好きな子をいじめてたと思う。
 あー、もう。

「じゃあ、もういい」
 拗ねて見せても、若はやっぱり面白そうに私を見下ろしている。
 その視線に、いまさら、こんなふうに駄々をこねているのが、キスをねだってばっかりいるのが物凄く恥ずかしくなってきた。恥ずかしいというか照れるというか、とにかく、なんだかこの場所から逃げ出したい気分というか……あああ恥ずかしい。
 思わず、若の視線から逃げるように顔を背けると、耳にやわらかい感触。
 驚いて視線を向けようとすると耳を若の唇に挟まれて、それで、さっきは耳にキスされたんだなって気づいた。
「耳まで赤い」
 可笑しそうに、耳元で言わないで欲しい。

「若のばか」
香奈に馬鹿にされるのは心外だ」
 そんな事を言いながら、でも若の声は笑ってる。若の肩に乗せていた手を下ろしながら、ため息。
「――なんで、意地悪するの?」
「そんなの香奈が可愛いからに決まってる」
「なっ?! ……ぇ、ええっ?!」
 若は意地悪モードから、からかいモードに移行したようです。あああ、私の心臓、もたないかもしれない……ああ、もう、だめだ、嬉しい。
 若が可愛いって言った。私のことを可愛いって言った。嬉しい。からかわれてるってわかってても嬉しい。
 でも、私だけ恥ずかしい上に照れちゃって、しかも心臓がパンク寸前なんて、そんなの悔しいから。
「……若も、かっこいいよ?」
 逆襲。
「ありがとう」
 でも、若のが一歩上で、笑顔でさらりと返されました。
 私は若の“可愛い”って言葉に心臓ドキドキなのに、ずるい。
 若は私にかっこいいって言われてもドキドキしないのかな。
 それとも、男の子はこういうことでドキドキしないものなのかな。
 なんだか悔しくって、やっぱり若を睨む。
 若は私に睨まれたのに、もっと面白そうに笑って、ほっぺたにキスをくれた。けど、私が欲しいのはそこじゃない。
「そこは違うの。ここ」
 人差し指で自分の下唇にちょっと触れてから、その指で若の唇を辿る。
「今日の香奈は積極的だな」
 今日はよく笑ってる若が、やっぱり目を細めて可笑しそうに言う。
「うるさいです。早くキスしなさい」
「顔赤くして何を偉そうに――はいはい。香奈様の好いように致しますよ」
「もー、からかっ……」
 若は私の掴んでいた手を無理に引っ張って、腕に引き摺られるように起こされた私の背中に腕を回して、やっと、ちゃんとキスをしてくれた。
 欲しかったものが与えられる。私も、若の背中に両手を回してぎゅうっと抱きしめる。
 何で好きな人とのキスってこんなに気持ちいいんだろう。
 なんだか、心まで充たされる、というか。
 幸せと愛しさと気持ち良さと心地よさと、とにかく、そんな世界中の幸せなものが自分の中に溢れてくるみたいになる。

 だめだ、止まらない。
 ぎゅって若の頭を抱きしめるようにして、ちょっとだけ離れても、またすぐにキスをして。
 気がついたら、もう口内炎も気にならないくらいキスに夢中になって。
 顎とか舌とか唇とかが、ちょっと辛くなるまで頑張ってみました。
「――はぁ。……んー……も、ギブアップ。とける……」
 やっと唇を離して、ぎゅう、って若を抱きしめて、その胸に顔を埋めて。同じ石鹸の匂いに顔がにやける。
 そしたら若が私の頭を撫でながら、呆れた声を出した。
「……馬鹿だ」
「んー?」
「四十六分」
「ん?」
「俺たちがキスしてた時間」
「え……ホント?」

 びっくりして若を見上げると左手首の時計を見下ろしていた若が、文字盤を私へ向けた。
 四十六分とまで正確にはわからないけれど、最後にベッドに寝転がる前に見た時刻から軽く一時間くらいは経ってる。
 じっと、文字盤を見たあとに、若を見上げてみた。
 そして目が合って、若は溜息を一つ。
「これって、新記録達成?」
「知るかよ」
 苦々しい顔をした若は、腕時計を外しながら、また溜息を一つ。
 でも、すぐに笑ってくれた。やっぱり、今日は機嫌がいいみたい。私もつられて笑ってしまう。
「寝よっか?」
「そうだな。一時間無駄にしたし」
「え……有意義、だと、思うんだけど……」
「人生、無駄も必要って言うからな」
「……意地悪」
「なら、嫌いになるか?」
「……大好き」
 やっぱり意地悪に言う若に、顔を見られないようにぎゅーって抱きついて言う。と、頭の上で若の笑う声が聞こえた。
 若の機嫌がいいと、自動的に私の機嫌も良くなって、二人でベッドにぼふって横になって、笑いあう。
 変なテンションで、それがまた可笑しくて。

「今から新記録、作っちゃう?」
「遠慮する」
 そんなやり取りにも、お互い笑ってしまう。
 それから、軽いオヤスミのキス。
 ああ、本当に幸せ。
 若にも、この幸せな気持ちが伝わるといいな。
 今、私に若の上機嫌が移ってるみたいに。
 寝辛いなんて文句をいいながらも、私の希望通りにちゃんと抱きしめてくれる若を抱きしめ返す。
 私は若の体温を感じながら、おそろいの石鹸のにおいを感じながら、世界中の誰よりも幸せなんじゃないかって思えるほど温かな気持ちで目をつむる。
 起きたら、まず一番に若にキスをしようと心に決めて。