良い鯵が手に入ったから、お刺身にしようか。
 それとも、生でサラダにしようかな。
 梅干叩いて、胡瓜と水菜で……
 あ、でも、なめろうもいいなあ。ご飯に合うよね。
 ネギと紫蘇と茗荷入れて……サラダはサラダで別に作ろう。
 メインは、牛肉でいいかな。ま、これは普通に焼くとして。
 味付けにはポン酢に大根卸しと浅葱を用意して……んーと。箸休めは何にしよう。
 あ、金平牛蒡も残ってたんだ、悪くなる前にアレも出しちゃおう。
 うんうん、あとは雑穀米に、お味噌汁にしようか、澄まし汁にしようか。
 今日はいい昆布と鰹でお出汁とったし、ちょっとだけ塩と醤油で味付けして……うん、片栗粉入れて卵をといて、それでいいや。
 足りなかったらパプリカを焼いて塩をかければ一品になるし。


 マ ジ カ ル ロ ジ カ ル

 こうやって、若の為の食事を、メニューを考えるのはとても幸せ。
 若は、食べてる時はそんなに色々言わないけど聞いたらちゃんと応えてくれるし。
 現金だけど、一緒に暮らして……暮らさせてもらえて、よかったな、とか。
 結婚、という事をきちんと話したことはないけど、いつか、そうなったらいいなって私一人でそんな事を考えてたり。まあ、まだまだ先のことだろうけど。やっぱり少しは考えてしまう。
 若は全然そんなこと話さないけど。

 そろそろ雨戸を閉めてしまおう。
 そう思い立って、夜気が忍び込む窓を開ける。
 愛しい恋人は、七時まで家庭教師をやってる。時給を聞くと結構割のいいバイトのようだ。
 私は人に何かを教えられるほど頭は良くないので、ちょっと羨ましい。
 頭が良いってそれだけで、能力、というか……うん、羨ましい。
 でも、羨ましがってても仕方ないので、私は私に出来る事をしないと。
 ガラガラと音を立てて雨戸を閉めて鍵を掛けて、窓も閉めてやっぱり鍵をかけて、タッセルを外してカーテンをしめて。
 帰ってきた若に「おかえりなさい」って言って、美味しいご飯を用意する。
 ――私の出来る事、それだけですか。
 まあ、いっか。

 若が帰宅して、一緒にご飯を食べて、順番こにお風呂に入る。
 今日はお風呂掃除が私の当番だったので、私が後。
 私が後だと入浴剤を入れられる。
 若が後だと入浴剤は入れられない。
 だって、若、温泉のもとくらいしか入れさせてくれないし。
 ラッシュのバスボムなんか入れようものなら「くさい」の一言だし。
 実はちょっと一緒に入ってみたい気もするけど、恥ずかしいので言いません。

 お風呂上りにテレビのニュース番組を見てる若の横にちょこんと座る。
 ソファがあるのに、何で床に座ってるんだろ、私達。
 ブラウン管の光で目に負担をかけないために眼鏡を掛けた若は真剣にニュースを見ている。
 ニュースの内容は、商店街の屋根に乗っちゃった猫の救出劇とか、私達と同い年の男の子が家族を……とか、飲酒運転の車が……とか、ちょっと心の痛くなるものが多かった。あとは、スポーツ関連やゴシップ系のものに地球環境系。
 若は真剣にそれを見てて、私はそれがつまらない。
 うー……ちょっと、構って欲しいんだけどな。
 宿題なら仕方ないけど、そのニュース、今朝も見たじゃん。
「ニュースになりたい」
 ぽつん、と呟くと、若が、横目で私を見た。
 目は口ほどにものを言うっていうのはこういう事かと納得してしまうほど若の瞳は饒舌で素直。
 “お前、馬鹿か? ”って感じかな、今の視線は。
 なんだか私だけ若を好きみたいな――そんな事ないって知ってるけど――そんな気持ちになって悔しくなって、ふい、と若の視線から顔を逸らすと、隣から溜息が聞こえた。
 確かに解りやすい子供っぽい拗ね方だとは思うけど、全然構ってくれない若が悪いんだ。なんて、責任転嫁してみたり。
「アナウンサーになりたい、か、テレビになりたい、の方がいい。落第点だな」
 何のテストですか。落第て。でも、つまんないんだもん。若、構ってくれないし。だって、今朝見たのとほぼ同じニュースに負けるくらいなら、本とか映画とかに負けた方がいいよ。って勝ち負けじゃないけども。
 ふいに、テレビの音が聞こえなくなった。若が電源を落としたらしい。ちらりと若をうかがうと眼鏡も外してる。

「ニュースもアナウンサーもテレビも、特に好きじゃない」
 それって。
 遠回しだけど。
 なんて。
 魅惑的な言葉。

 たまらなく嬉しくなって振り向いて、若の唇に、ちゅ、っと音を立ててキスをする。
 顔を離すと、今度は苦笑気味の若から軽くキスしてくれて、それだけでもう拗ねた甲斐があったなって顔がにやけてしまう。
「よく、あんな風に音が出せるな」
 若が私の唇を人差し指でゆっくり辿りながら、感心したように言ので、ちら、と私は舌を出して、若の指先を軽く舐める。
 それから、言葉の意味が解らなかったので、ちょっと首を傾げて聞いてみた。
「うん?」
「キスの時」
 ああ、“チュ”って音か。
 さわさわと唇を撫でられる感触がくすぐったくて、ちょっと笑ってしまう。
「出来るようになりたいの?」
 尋ねると、少し思案げに私の唇を見つめる若。
「――微妙」
 その答えに笑って、もう一回キスをして、また、音をさせて、唇を離す。
 なんだか、キスしてるなって実感があるから、私は何となく音を立てるほうが好き。
 そんな事を考えて笑ってしまったら、また若の指が私の唇をなぞる。
 軽く、若のごつごつした手の骨ばった指先に噛み付いて、離して、指先に、やっぱりチュと音をさせてキスをした。
 ぎゅう、と若を抱きしめる。
 若の胸に私の顔。
 規則正しい心臓の音が、布越しに私の耳に届いた。
 んー……なんか。

「若さぁ――」
 抱きしめ返しもせずに、私にされるままに任せている若に言う。ちょっと懺悔な気分だった。
「私がこんなだから、しっかりしなくちゃいけないって、いつも頑張ってくれてたよね」
 目を瞑って。
 心地いい若の体温と心音。
 慣れ親しんだ音。
 二つの身体が一つになるようで嬉しい。
 あったかい。幸せ。
「そうか?」
 初めてあった時、声変わりは終わってたはずなのに、あの時よりも低くて心地いい声が若の体を通して、若の胸にピッタリとくっついている私の耳に直接響いてくる。
 大好き。
 だーいすき。
 ああ、もう、ホントに若が好きで好きで仕方ない。
「うん、えっちしたくても言い出さなかったり。私が我侭言ったら聞いちゃったり。拗ねたら構ってくれるし」
 ちょっと顔を上げて、瞼を上げて、若の顔を見て言うと、若は少し笑って「そうだな」って素直に頷いた。

 きっと、自覚があるんだ。
 私を甘やかしている、という。
 私を大事にしている、という。
 私を庇っている、という。
 私を護っている、という。
 私に迷惑をかけられている、という。

「私がもっと確りしてたら、若も我慢とかしなくて良かったのにね。ごめん」
 丁度いい位置にあった、若の細い顎先に、キスをする。
 私がしっかりしてたら、こんなふうに子供みたいにかまって欲しくて拗ねたりしないんだろうな。若だって私じゃ不安だから、色々自分で頑張ってるんだろうな。
「馬鹿か――香奈に確りされたら、今度は俺が香奈みたいな立場になるだろ」
 若は、私を抱き返さないまま、ずるずるとフローリングに寝そべるような形になって、私がその上に乗っかってるような。
 ああ、これ、マウントポジションだ。
「えー、なんで? 二人で確りしてたら若の負担が減ったでしょ?」
 私が何も解らなくて、これしたい! とか、あれしたい! だけ言って、やり方を調べたり、周囲の説得はいつも若がやってるし。同棲についてだって私がほとんど強引に決めちゃったし。
 私が失敗したら、頭がガンガンするほど叱りながらも全部若が庇ってくれるし。
 私が自分で何かやるとき、すごく心配そうにしてるし。
 若、私の所為でやりたい事、出来ない事、沢山あっただろうなって、思う。

 私がもっと確りしてたら、若の負担、絶対軽くなってたはず。
 若に依存しすぎてるなあって、思う。したくないのに。何かつらい事があっても、若がきっと助けてくれるって無意識に、馬鹿みたいに思っちゃってる。勝手に、そんなこと。でも、若は私のその思いを裏切った事は、ない。
 私ばっかり若に支えられてる。悔しいというよりも、少しだけ悲しいし、もどかしい。なんで、私はこんなに役立たずなんだろうって、いつもはそんなこと思わないのに、考えちゃって、なんか凹んだ。

 マウントポジションで若のお腹に乗っかったまま、手を伸ばして若の長い前髪を掃う。
 切れ長の涼しげな目元が現れて、視線が合った。
「そうかもしれない。けど、どうでもいい。――俺は結構嫉妬深いし」
「うん、しってる」
 私は、若の言葉に笑って、床に投げ出されているその手を取る。私の両手に抱きかかえられた若の左手は、大人しくされるがまま。
 手のひらを合わせてみたり、その手のひらの中央にキスしてみたり、マメが潰れて固くなってしまった部分を舐めてみたり。好き勝手にしてると若がくすぐったそうに手を引いた。

 仕方がないので寝そべってる若の上に重なってみる。
 胸に耳を置くと、とくん、とくんと一定のリズムの心音が聞こえた。安心する。なんか顔がにやける。
「俺は結構、余裕なくなってたり、するしな」
 若が、ちょっと可笑しそうに言ってるのが、その胸越しに聞こえる。
 その、大きな若の手が私の半そでのシャツのそで口から侵入して、私の脇の下辺りの腕を撫でる。
「……ん、そう・・なの?」
 くすぐったいな。うー。 あ、つままれた。
 なんですか、肉が余ってるって言いたいんですか。
香奈香奈だから、俺はしっかり出来るし、余裕を作れる。こういうのは、片方が支えてもう片方が甘えるって役割分担してる方が長く続くらしいし」
 うーん、私が私じゃなかったら余裕皆無なのかな? そんな事無いと思うけど。私のこと慰めてくれてるのかな。

 そんな会話をしながら若の手は、やはり私の脇の下に近い二の腕のお肉を揉んでいた。
 これ、地味にコンプレックスに直撃するんですけど。若はダイエットなんてするなとか太ってないとか言うくせに、こういうふうに地味にコンプレックス突いてくるんだよね。どっちなの、ホントにもう。
「余裕って、優しさだって、っまえ、いってた、っけ――ていうか、くすぐったい。さっきから」
 ぐい、と腕を動かして若の手から逃れると上体を持ち上げて、マウントポジション・アゲイン。
 若をちょっと睨んでも、どこ吹く風で。
「ああ、悪い。香奈が気持ちよかったから、つい」
 さらりと、悪びれもせず。
「――嬉しくない」
 二の腕がたぷたぷしてるって言いたいんですか。
 二の腕がぷにぷにしてるって言いたいんですか。
 ああ、ホント、食事制限でも始めようかな。
「俺が褒めてるんだから、素直に喜べよ」
 複雑な顔の私に、若が悪戯っこのように笑う。しかも台詞が過剰に尊大なんですが。
 じと目で若を睨むと、やっぱり可笑しそうに笑ってる。
「……ね、若が“可愛い”って言われたら嬉しい?」
「しくない。」
 即答。
「そう! それと一緒!」
 って力説すると、若はゆっくりと私に手を伸ばした。
 それで、ぺた、と私のほっぺたに触れる。フローリングで冷やされた若の手のひらの冷やりとした感触に身体が一瞬震える。

「でも、俺が触って気持ち良いと思うのは香奈だけだ」
 ああ、もう
「そんなこと言われたら、喜ぶしかないじゃん……ヒキョーモノ」
 若は笑う。
 私の頬を撫でて、髪を梳く。
「こんな事をしたいと思うのも、香奈だけだ」

 からかわれてるって解ってますよ。
 けど、 でも、
 あなたが口にする言葉に導かれて、私は幸せな気持ちになる。
 きっと、若は、もう、私の一部みたくなってて、だから、キスすると嬉しくて安心する。
 触れ合うと戻ってこれたような安堵感が私を包む。
 凹んでいた思考だって、いつの間にかにやけちゃうほどの幸せ思考にかわってしまう。

 私はふと反撃を思いついて、身体を落とす。
 ちゅ、と若の眉間にキスしてから、さらさらの若の髪の数本に、はむ、と噛み付いて、ちょっと引っ張る。抜けなかった。
 でも、細くて柔らかくてサラサラ。
 将来が心配な髪の毛だ。

「っ……香奈、やめろ。痛い」
「髪の毛の一本まで愛しいから?」
「なら噛むな」

 でも、満更じゃない顔だよ、若。
 若の頬を撫でながら、笑う。

 若がここにいる。
 それだけで、もう私を幸せに導く。
 私がここにいる。
 それが若にとっての、それであればいいと思う。