すぽると×がーる
 ある日、香奈の様子がおかしかった。
 おはよう、と言ったときでさえ、少々疲れたような困ったような顔をしていた。
 しばらくして、もっと様子がおかしくなった。
 時折、動きを止めるのだ。
 テーブルで何か書いていたかと思うと、ペンを握り締めてうつむく。調理をしているときでさえ、一旦、火を止めて固まる。そしてしゃがみ込んで小さく唸る。
 それはお互いがバイトをおえて帰宅してからもかわらなかった。

「どうかしたのか?」
 そう聞くと、ソファの前の床の上でぼけっとしていた香奈は「何が?」と聞いてきた。
 ぼんやりした瞳でソファに腰を下ろしている俺を見上げてくる。どこかとろりとした光を帯びているそれは、濃い睫毛落とす影を揺らめかせながら眠そうに瞬いていた。眠そう……いや、眠いんだろうな、確実に。今朝の朝食は気合が入っていたし――量が多いとか難しい調理法だとかではなく、妙に品数が多かった――バイトも忙しかったようだから、きっと疲れているのだろう。
「今日はよく電池が切れてただろ」
「あー……お腹痛いんだよね。波がある」
 その返答に、言うべきか言わないべきか迷っていると、俺の思考を先読み香奈が「変なものは食べてないよ」と、付け足した。
 それ以上は答えず、香奈は俺の脚に軽く肩を寄せて、またぼけっとし始めた。
「体調悪いのか」
 聞くと、香奈はしばらく黙り込んだあと、んー、と唸った。
「……悪いといえば、悪いかな。でもまあ、平気だよ」
「無理するなよ。病院行くか? 鎮痛剤もある」
 心配と、惰性の二つを混ぜてそう問うと「撫でて」と、本を読んでいた俺の、腿の上に置いていた手に、香奈は顔を乗せた。本当に香奈はわけがわからない。けれど、言われたとおりに頬を撫でてやる。
 すると香奈は「大丈夫。痛くなくなったよ」と言って、俺の手から顔を離して、またぼけっとし始めた。テレビ番組を、けれど興味はなさそうに、香奈はまた見始める。
 俺が自室に篭っていると香奈はかなりの確立でほろほろとやってきては「若、寂しいから一緒にいよ?」とリビングに呼ぶ。幼い頃にあまり両親と一緒にいなかった所為なのか、香奈の性格的なものなのかはわからないが、一人でいることを、さほど香奈は好まない。それが面倒でうっとうしい時もよくあるが、まあ、性格の違いで、それは仕方がない。強要はされないので、嫌であれば断ることにしている。
 きっと香奈は、一人で寝るのが嫌で、今は俺の読書に付き合いたいのだろう。
香奈
「んー?」
 呼びながら、俺が何度か軽くソファを叩くと、香奈はのろのろと隣に腰掛け「なぁにー?」と間延びした声で問いかけてくる。もたもたした声だ。媚びてはいない。むしろその真逆に位置する声音だったが、それが俺達の親しさを存分に表現していた。親しくない知人や普通の友人の前では出されない、けだるげで興味のなさそうな、あっさりした調子。媚びてくる声も好きだが、こういった声も嫌いではない。どちらの声も、俺の前でだけ出されるものだからだ。
 友人の前の香奈、先輩らの前の香奈、バイト時の香奈、親の前での香奈、色々と見てきたが、親の前でだけする媚びた態度と、俺の前でだけする媚びた態度は似ているようで全く違うことに気づいたのはいつだろうか。

 そんな香奈の声は無視して、彼女の手首と腰の辺りを掴み、強引に俺の脚の間に座らせた。そして、その女性らしい脂肪が薄くついた腹に手のひらを乗せる。香奈は俺の行動に驚いたらしく「え、なに?」ときょとんとして俺を見つめてきた。しかし、何も答えないでいると「ありがと」と言い、俺の首筋に額を当ててくる。
 首筋に触れる香奈の髪がこそばゆく、顎先で香奈の頭部を叩くことで抗議する。香奈は「痛いよ」と文句を言いながら、頭を動かし、今度は肩口に頭を乗せてきた。そうして、まったく警戒心なく、俺の胸に身体をもたれかけてくる。
 ただただ、ゆっくりと、のんびりと、まったりと、ゆったりと、じっくりとそうしていると、香奈は「本当にお腹、楽になった。あっためるのっていいんだね」と眠そうな蕩けた声で言ってくる。
「俺が腹痛を起こすと……親がこうしてくれた記憶がある」
 母親と言いそうになったけれど、親と言い変えたことは気づかれていないだろう。言えば香奈に笑われそうだが、男心とはこれでも複雑だ。無駄な方向に。
「痛みの原因がちがくても利くんだー」
 俺の心中に気づかぬまま、感心したように、けれどやはり眠そうに香奈は言う。
香奈は本当に眠いらしく、けれど、俺が起きている間は眠る気がないのか、眠気をとばすように何度か頭を振っている。
「寝るか?」
「若も?」
 即座に聞き返してきた。お互いの部屋にそれぞれの寝具あるのだが今日は一緒に寝たいらしい。ある意味では、恐ろしく独占欲の強い。それを本人が意識していないことが、とても恐ろしい。
 恋人が不実なことをすると疑って、寝床まで監視しなければ、眠るまで監視しなければ、安心できない訳ではないだろうけれど。
 特に今日は、腹痛で俺に甘えたい気分なのだろう。香奈は具合が悪いときと精神が下向きのときは、静かに老猫が寄り添うように甘えてくる。逆に体調がよく、精神的にも高揚していると、仔犬が興奮してじゃれかかってくるように甘えてくる。
 どちらにしても、甘ったれだ。香奈は。
 どちらにしても、それを享受するのは、俺は。
 甘やかされて、愛されて育った、それなのに変に奢ることのない、香奈の卑屈で卑怯で堕落したところが、俺は好きなのだろう。出逢ったときよりはずっと警戒心が強くなり、あの時の天真爛漫さはないけれど、やはり、女だということに甘えているところはかわらない。こうやって、俺に好かれているということを存分に理解して甘えてくる。
 それを魅力的に感じるのだから、俺は本当に壊れている。
 まあ、正直、若に嫌われたくないだのとウジウジしているよりも、こうやって好かれている事を利用するくらいの精神の方が、香奈は鬱陶しくなくて良い。

「ああ」
 軽く顎を引いて首肯を返す。
「じゃ、寝る。だっこして」
 幼子が親に抱擁を求めるように腕を伸ばされた。
「……誰がするか」
「お腹痛いんだもん。だっこー。だっこしてー。若のだっこー……」
 ふてくされたように、馬鹿すぎる、程度の低い言葉を、こうやって甘く媚びて言われると――言われると、もう、どうしようもない。俺は、香奈に調教されているのかもしれない。不本意なことだ。それでも、眠気を必死に耐えている姿はどこか愛嬌があった。
 普段は重いから抱き上げるなと言ってくるが、眠いときは歩くのも億劫なのか、どこぞの姫君のように俺に君臨しようとする。今も眠くて眠くてしかたがなく、若干幼児退行している。これが香奈でなければ鬱陶しく気持ち悪いと感じただろう。
 それでも、抱き上げてやると俺に負担の少ないように俺の首に腕を回して柔らかく、けれど弱くはなく、抱きついてくる。こういうところを、当たり前ではなく、いじらしいと感じるあたり、俺の脳は本当に香奈にだけは採点が甘い。
 しかし、やはり腹が痛いのか、香奈は時折、唇を噛み、眉を寄せて、きゅっと目を瞑っている。そんな表情も、可哀想と言うよりは、普段と違うものを見れて興味深いと感じて観察してしまった。珍しいから、きちんと覚えておこう。

 結局、香奈は、ベッドに下ろされる前、抱き上げられて自室へ向かうまでの間に寝入ってしまった。
 何もかもを香奈の思い通りにさせるのは癪で、香奈を彼女の部屋のベッドに運んで、肩まで布団をかけてやり、しばしば歪むその寝顔にあわせて腹を何度か撫でてやってから、自室へ戻って眠ることにした。