| 既に夜の一時を回っていた。 何かを調理する音と、油っぽい香ばしい匂いが寝室に僅かに漂ってきて、薄く目を開けた若は、隣で寝ているはずの同居人兼恋人である小曾根香奈がいないことに気付く。 しばらく瞬きをして、視力が暗闇に慣れてくると、思考がゆっくり回りだす。 身重の香奈がこんな時間に置きだして料理を作る必要など全くない。学校のない時間帯は祖母が香奈の面倒を見ていてくれているし、食事もその祖母の作り置きがある。 若は、深呼吸とも欠伸ともつかない息を吐いてから、掛け布団をそっと剥いで床に足を下ろした。 柔らかい黄色のライトの間接照明以外点いていない、暗いリビングのソファに座って両手でグラスを持つ香奈が、ローテーブルの上で湯気を立てている皿を眺めていた。強いバジルの香りに、若は一瞬眉を潜めた。 「香奈?」 呼びかけながら、若が香奈の隣に腰を下ろすと、香奈の細い肩が小さく揺れる。 「酒か?」 香奈の手の中のグラスがぷくぷくと小さく気泡を浮かべているのを見て、問う。若は自分の口調が少し叱るような成分を混ぜていた事に、発してから気付いた。 「んん」香奈が首を横に振る。「ペリエに、ライム絞っただけ」 香奈の返答に、若はほっと息を吐いてから、グラスを両手で抱いたまま、ぼーっと湯気を立てる皿を眺めている香奈の肩に手を伸ばして、抱き寄せた。 「食べないのか? 作ったんだろ?」 「……おなか減ったかなって思って作ったんだけど、作ったらおなか一杯になっちゃって」 抱いた肩を軽くさすりながら「そうか」とだけ若は返す。最近の香奈の情緒不安定な様子を彼は理解していたし、だから、ただ現状を受け入れるに留める。 「ごめんね」 「何が」 「大学、とか、勉強とか、大学院、とか、将来、とか……色々……何か、わたし……大丈夫なのかな……こんな……私が、親とか……どう……」 言っている事の真意は、若にはわからなかったけれど、とにかく、香奈の思考が悩む方向に向いていることぐらいは、彼にもわかった。 若も若で考えすぎてしまうきらいがあるけれど、基本的に前向きな若はさほど深刻に鬱々としたりはしない。しかし、基本的にあまり考えない、楽天的な香奈は時折酷く落ち込んで思い悩む。しかも、現在は妊娠中で、その傾向が強い。外では好奇の目に晒されながらも明るく振る舞っているのだから、ストレスもあるのだろうと、若は思っている。 「勉強しようと思えばいつだってできる。香奈はこいつらの事だけ考えていればいい」 若は言いながら、肩に回していた手を下ろし、膨らんできた香奈の腹を優しく撫でる。 「俺の両親も、了解したし、何も障害はない。何も困った事はない。法的にも婚姻できる歳だし、何も問題はない」 そう繰り返していると、若の言葉に何度かうなずいた香奈が、ちびちびとグラスを傾け始めた。 経済力のない二人は結局、親に頼るしかない。先払いだった出産費用は若と香奈の貯金でまかなえたが、生活費については、学費についてはほとんど両家の両親に頼りきりだった。若は、それを借りだと解釈していて、はやく返してしまいたいと思っているが、香奈はどうだろうか。今の状態だと、親に申し訳ないことをしたと考えているかもしれない。 さて、香奈になんと声をかけようかと、静寂の中で思っていると、先に彼女が口を開いた。 「これ、食べてくれると嬉しいんだけど」 「この時間にか?」 「あーでも、食べてすぐ寝たら心臓に負担かかるんだっけ……」 皿の中身は大分冷え始めているらしく、湯気はもう見えなかった。バジルの匂いも、麻痺してしまったのかさほど感じない。匂いを排出する為に回っている換気扇の音だけが、やけに大きく響く。 「スパゲティなんだよね……なんか、作りたくなっちゃって」 肩を竦めた香奈の腹を最後にもう一度撫でてから、若はゆっくり立ち上がり、皿を持ってキッチンへ行くとラップをほどこして冷蔵庫にそれをしまった。 それから、また香奈の隣に戻り腰に手を回して最後に腹に指先を触れさせる。 「温めなおしても美味しくないよ」 「明日の夕飯だな」 「美味しくないのに……」 不服そうに言う香奈を宥めるように、若はその腹をゆっくりと撫でる。 「香奈」 「ん?」 「俺にも一口」 若の言葉に、香奈は手に持っていたグラスを若の口元まで持っていく。若はそれを香奈を抱いていない空いた手で受け取ろうとしたけれど、香奈が強引に彼の唇にグラスの縁をつけて傾けてしまう。何とか零さずに流れる液体を口に含みながら、若は強引に彼女の手の上からグラスを握り、主導権を奪った。 ごくり、と若の喉から少し苦しそうな嚥下の音がした。喉の奥で液体がしゅわっとはじけた。 「――っ……馬鹿」 香奈の手ごと、グラスを下ろしながら、危うく変な場所に液体が入りそうになった若が悪態をつく。 香奈はそれに少し肩を竦めてから、彼に寄りかかる。 二人の手の中のグラスが、暗いリビングの中、柔らかいライトの光に照らされる。ぷくぷくと弾ける泡と、グラスのカットされたガラスと、高い音を奏でるロックアイスを通して、光りがキラキラと泳ぐ。 いつものリビングが、今この時だけ、別の場所になったように、若は感じる。明るい蛍光燈を点ければ、崩れてしまう程度の。 「テニス、好き?」 急な香奈の問い。 「ああ」 「いいの? プロ、諦めて」 「最初から……」 若は、少し戸惑うような困ったような様子を、素直にして見せて、口をつぐんだ。家族の前でも、ここまで素直に表情や態度で現しはしない。それを、香奈はもう知っているし、若も自覚している。 「最初から?」 先を促がすように、香奈が若を見上げる。 若は少し迷った様子を見せてから、小さく息を吐いた。 「チビ助や、跡部さんや、切原や……俺は、ああいう才能のある人には――才能もあって努力もできるやつには、勝てない」 「そんな、こと……」 香奈の声が僅かに震えたことに気付いて、若は腹を撫でていた手を上に滑らせて、抱きこむように彼女の頭を撫でた。 「十回に一回くらいは、勝てるかもしれない。努力や経験で、補えるかもしれない。自慢じゃないけど、俺はこれでも強い」 最後の一言は、少しふざけた調子だった。香奈は「そんなことないもん。リョマはただの生意気だし、赤也は馬鹿だし……」と拗ねたように反論して、若を笑わせる。 「俺は強いから、相手との力量差くらいわかる。それに……テニスは高校までって、本当は決めてたんだ」 「なんで?」 「プロでもかなり有名にならないと、それだけじゃ食えないからな」 「現実的デスネ」 「金がなかったらデートも出来ない」 若の普段よりもずっと柔らかい口調と態度を香奈は気付いていた。若も、それを意識して何度も優しく彼女の髪を撫でる。 「跡部さんも時期を見て二年くらい留学するらしいし、鳳は大学院は別の大学に進みたいとか言ってるし、向日さんは“何で俺大学はいったんだろう”とか退学寸前だし、このメンバーでテニスできるのも後少しだと思ったら、テニスサークル入ってた」 だから、プロを目指しているわけではない。 なれるものならば、なりたかったと、今は言えはしない。 「テニス、好き?」 同じ質問を、香奈が繰り返す。 「ああ。 すごく楽しかった。面白かった。中学から、今まで、青春のほとんどをテニスと香奈に費やした気がする」 少しふざけた調子の言葉に、香奈が照れた。 「……恥ずかしい事言うなー……」 若は、香奈のそんな様子に少し笑い、落ち込んでいたらしき彼女が少し浮上した事に安堵する。 「香奈は?」 急に聞かれ、香奈は意味を捉えかねて「うん?」と聞き返す。若は彼女の手の上から握っていたグラスを手放すと、両手を香奈の腹部にまわして、抱き締めるようにした。 「いいのか?」 続いた言葉も、香奈には意味が解らなかったようだった。グラスを両手で握ったまま、若に寄りかかり、香奈はゆっくりと考えるように目を瞑った。そして、彼の言葉を反芻する。一拍よりも長い沈黙の後、彼女は若に答えた。 「いいよ」 香奈は、幸せそうに笑う。 まるで光がはじけたようだった。 横から自分を抱き締めているような格好の若を見上げて、香奈は笑う。 「私、若が好きだから」 やっと笑ってくれた事に安堵し、その答えを聞いた若が強く言い切る。 「なら、何も問題はない」 「そう?」 少し悪戯めいた笑みを香奈が浮かべて、若は溜息を一つ吐いた。 「金欠以外は」 演技がかっているほど真剣な若の言葉に、香奈が噴出して大笑いした。若も、笑った。 |