起きた瞬間に、それに気がついて、溜息が零れてしまった。 布団をめくって、それが夢じゃない事を確認してしまう。ああ、シーツ汚しちゃった……。 情けなさみたいなもので、なんかもう項垂れてしまう。 しばらく、掛け布団の上をぼーっと眺めてから、そっとベッドから降りて、シャワーを浴びるために部屋を出た。 いつもと同じく、隣で寝ていたはずの若は、今はランニングに出ているだろう若は、このことに気づいているのだろうか。 汚れたパジャマを普通の洗濯物とは別のかごに避けてから、もう一度出そうになった溜息を噛む。そして、熱いシャワーを頭から浴びた。身体を温めてから浴室を出て、タオルを身体に巻きつけると、ランニングから戻ってきていたらしい若が、ベッドのシーツを片手に脱衣所へやって来た。 やっぱりバレてたらしい。勝手に顔が赤くなるのがわかった。 「……見た?」 どきどきしながら聞いてみる。 「生理、来たんだな」 淡々とシーツを洗濯機に放り込みながら若は言った。 「見ないでよ、馬鹿」 今更ながら先にシーツを洗濯に出していれば、と後悔する。頭上では、若が呆れているような気配がして、何だか悔しくて押し黙っていると、濡れた前髪を若の手が避けて、額に宥めるようなキスをされた。 わずかに香った甘酸っぱいような若の汗の匂いと、珍しい態度に、何となく照れてしまう。 「湯冷めする。早く着替えろよ」 そう促されて、シャワーを浴びるためにシャツを脱いだ若の逞しい背中が見えて、妙に慌てて脱衣所から逃げ出した。 一応、お医者様にエッチしても大丈夫だとは言われたんだけど、若と話して生理が来るまではしないようにと決めていた。別に産道が傷ついたわけじゃなくて――結局お腹切ったわけだし――私の気持ちの問題だったんだけど。なのに、完全に母乳ではないにしても、まさか若菜ちゃんたちが産まれてからたった二ヵ月ちょっとで生理がくるなんて思ってなかった。 少なくとも私は、一年だって、待つつもりはあったのに。 通りで昨日から身体が妙に重かったんだ。 バイトは勿論していないし、産褥期も終わったけれど、単位を落とさない程度に学校に行くだけで疲れてるのに、お昼は若菜ちゃんたちをママに預けてても疲れてるのに、その上、生理ですか……。 そう思うだけで更に疲れてしまう。 着替えを終えて髪を乾かそうとドライヤーを手にした途端に寝室で若菜ちゃんが大声で泣き出して、何だか溜息。赤ちゃんは泣いて食べて寝るのが仕事だってわかってるけど。 「はいはい、今行きますよ〜」 濡れた髪をピンク色シュシュでぎゅっと纏めて、若菜ちゃんの元へと急いだ。育児してると女を捨ててるなって思うときが、結構ある。それはもちろん覚悟していたけれど、実際にそうなると、ちょっとだけ、不安。 いつもより早めにシャワーを終えた若が、キッチンで朝ご飯を作ってくれてるのを、ミルクもあげておむつも換えたのに泣いてる龍星くんを抱きながら、ソファに座ってぼーっと見る。 赤ちゃんって、おむつが新しくて、お腹もいっぱいなら静かだと勝手に思い込んでいたけれど、やっぱり、気分とかあるみたいで、こうやってずーっとぐずられると、どうしていいのかわからなくて、正直、途方にくれる。泣き続ける龍星くんの声も何のそのの若菜ちゃんは、自分の喉から大きな声が出るのが楽しいみたいで「あー!」とか、テレビに出てくる格闘家の人みたいに叫んでる。二人合わせるとかなりの騒音。 ……あ、ここに居たら若もうるさいか。 今更に気づいて龍星くんと若菜ちゃんを抱っこして一度寝室に戻る。 生理だからお腹痛いし張るし、腰も痛いし、だるいし、おっぱいあげてるから身体の栄養すぐになくなっちゃって最近エンドレスで貧血気味だし、龍星くん泣きやまないし、若菜ちゃんは元気でいいことなんだけど、その大声も何だかずーっと聞いてると頭痛がしてきた。 結構、楽天的なつもりだったけど、あんまり泣かれると病気かなと心配になってきたりとか。 子育てって本当に大変で、人間を育てるって責任重大だ。 今まで気にならなかったことが気になったりして、神経がとても磨り減る。 でも、若には、なるべく迷惑かけたくないし。 「香奈? できたぞ」 コンコンって、ドアをノックされて、はーいって答える。 まだまだ泣きつづけそうな龍星くんと、元気に大声を出す若菜ちゃんを順番に抱いて、リビングに戻る。 リビングに移動させておいたベビーベッドに若菜ちゃんを寝かせて、龍星くんは泣き止まないので、左手で抱っこして若の作ったご飯をいただきますって食べる。 シソとゴマを混ぜただけの玄米の混ぜご飯に、昨日私が作っておいた鰯豆腐バーグのタネを焼いたやつと、悪くなりそうだったからとりあえず全部盛ったって感じの根菜のラタトゥイユに、あと三日は持ちそうなママの持ってきたヴィシソワーズ。簡単なサラダ。若が最近つけてる糠漬け。 ……とっても和洋折衷だけど、朝からこの量なのは、最近ずっと、ふわふわというか、ふらふらというかな体調不良の私を心配しての事なんだろうなー、と思う。そう気づくくらいには、まだ回りを見たりする余裕があって、安心した。 生理きててちょっと気持ち悪いけど、食べなきゃ。若、私を心配して折角作ってくれたんだし。 もそもそと食べていると、先にさっさと食べ終わった若が龍星くんを抱いてくれた。 龍星くんは、ずっと泣いていたのだけれど、若に抱かれるとぴたりと泣き止んだ。それを見て、安心すると同時に、なんだか恥ずかしくなる。 私は何だか苛々してたから、龍星くんは敏感にそれを感じたのかもしれない、とか、思って。 「こいつらは俺が預けてくるから、ゆっくりしてていい。戻ってきたら、香奈も学校まで送る」 黙々ともそもそとご飯を食べてたら、まだ濡れてる頭を撫でられて、言われた。 暗に髪を乾かせって言われてる気がする。 「や、いいよ。若、若菜ちゃんたち送ったら授業、間に合わないでしょ」 私が即座に断ると、若は龍星くんをあやしながら、言う。 「一限くらいどうにかなる」 「ならないよ。若はちゃんと学業に専念して下さい」 んー。ご飯が美味しいのか不味いのかよくわかんない。でも、ちゃんと食べないとおっぱいでないしなぁ。日本では妙に母乳の素晴らしさを説かれるし、まだ完全にミルクだけには、したくないしなぁ……別に、してもいいんだろうけど。 「けど、香奈、お前――顔色、悪いぞ」 若が私のほっぺたを人差指と中指の背でゆっくり撫でてくれる。 心配そうな声が少しくすぐったい。 「生理きたからね。病気じゃないから大丈夫。 私、授業遅いし、私が若菜ちゃんたち送るよ。ご飯も作ってもらっちゃったし」 元気そうな声を出してみる。ていうか、まだ朝なのに、私疲れすぎだなぁって、元気な声を無理やり出して気がついた。 「俺が送る」 若は、そう言うけど、でも、双子ちゃんたちを送ってから学校、なんて絶対遅刻してしまう。 そんなの若にもお義父さんや義母さんにも申し訳ない。 「いいってば。折角、お義父さんたちが、学校のお金出してくれてるんだから、頑張らないと駄目だよ?」 「香奈、自分では気付いてないかもしれないけど、本当に顔色が悪い」 大きくてごつごつした手の甲で、ほっぺたをすり、と撫でられた。 撫でてくれる若の手に、自分の手を重ねながら、笑ってみせる。 「ありがと。でも、本当に平気だから、ね?」 まだ何か言いたそうだった若の反論を聞きたくなくて、食器を手にキッチンへと逃げる。 後ろで、若が溜息を吐いたような気がした。 ◇◆◇ どうしよう。 最近、些細なことで、苛々する。 若も、忙しいのに、何でだか私だけが忙しくて辛いような、そんな気持ちになる。 双子ちゃんに一緒に泣かれてしまうと、もう、どうしようもなく、なってしまって。 私も泣いてしまったり、とか。いけないって分かってるのに。 少し前までは若のお祖母ちゃんが、泊まりこみで双子ちゃんの面倒を見てくれていたんだけれど、最近、若のお祖父ちゃんが風邪をこじらせてしまって、その看病にと実家に帰られて、あんまり迷惑もかけられないから、もう双子ちゃんは大丈夫ですよってお話したんだけど――こんなんじゃ、ダメだなぁ。 うとうとしてる若菜ちゃんと龍星くんを抱いて、学校の課題をパソコンで黙々と作る。 今日は3DCGで、本とテーブルとマグカップを作るとか、そんな。これが上手くなったら建築物とかになるんだろうな。 配置は好きにしていいと言われたので、慣れない作業で頭が痛くなりながら、マウスを操作してキーボードを打つ。 さて、保存しようかと言う所で、若菜ちゃんが泣いてしまって、連動するように龍星くんも泣いてしまう。 まだ、大泣きではなかったので、腕が辛いけど、二人とも抱いたまま、ゆすってあげたり、背中を叩いてあげたりすると、またうとうとし始めた。 部屋の掃除をしたいけど、でも、今は無理。あと三十分くらいは一緒にいてあげないとちゃんと眠れないだろうし。 外に連れて行ってあげたいけど……でも、こんな時間に二人を連れて外に出るなんて、ちょっと無理。若がいれば、また別だけど。 「……ご飯作らないと……掃除が先かなぁ……」 でも、多分、若が帰ってくるの九時位だし。 今七時……四十七分かぁ。微妙。 掃除機大丈夫かな。うるさいかなぁ……ぱぱっとかけちゃえばいいか。 ご飯は、簡単なのにして、課題は後だ。 「ごめんね。ちょっとうるさいけど、いいこでねんねしててね」 ベビーベッドに二人を寝かせて、ブランケットをかけて、ベビーベット全体に夏物のタオルケットをかける。まずは和室に掃除機をかけて……あー、そう言えば、帰ってきてすぐに和室の押し入れ開けて画材引っ張り出したんだった…… 押し入れ回りの物を順番通りに、いつもの場所にしまってから、画材を専用のバッグに入れて、パソコン用の椅子に乗せて掃除機をかける。 次に私たちの寝室……洗濯物中途半端にたたんでる……私、やり始めた事はちゃんと終わらせようよ。まあ、いいや、ベッドに洗濯物を避けて、掃除機、と……で、子供部屋になる予定の空っぽの部屋も掃除機かけて……で、最後に双子ちゃんが寝てるリビングも……ああ、龍星くん、泣いてる。やっぱり、もうちょっと抱っこしててあげないと駄目だったか。 でも、若菜ちゃんは寝てるみたい。良かった。 「龍星くん、眠れない?」 抱っこして、でも首が据わってないから横に揺らしてみたりしても、龍星くんは泣き止まない。 おしりのあたりを触ってみる。うん、おむつは大丈夫。 ミルク……うーん、さっき飲んだけど……飲むかな? 若が急に帰ってきたら何となく恥ずかしいので、寝室でおっぱいをあげてみる。 最近、ああ、栄養足りてないなぁって思うのは、多分、この所為。 ちょっと飲んだけど、まだ上手く飲めないみたいで、すぐにぐずってしまう。最近は慣れてきたと思ったんだけどなぁ。 試行錯誤しておっぱいを飲ませて、でも、もういらないと言うそぶりをしたので背中をポンポンと叩いてあげて、けぷってしたのはいいんだけど、なんだか、虫の居所が悪いみたいで、龍星くんはぐずぐずしてる。 時間を見るともう、八時四十分で、片手で龍星くんを抱いて、リビングに何とか掃除機をかけて、お風呂掃除もしたかったけど、急いでご飯を作る。 炊き立てのたけのこご飯に、余り物の肉じゃがを温めて、とりあえずほうれん草をゆでてポン酢でもかければ一品になるよね。じゃがいもを電子レンジに放り込んで、冷蔵庫からたらこを取り出して、混ぜてサラダにしよう。 メインディッシュ……ああ、もう、いいや、鮭と……真鱈……うーん、半切れずつって微妙……えーっと、きのこ、あったよね。 あとは玉ねぎはいっぱいあるから、ホイル焼きにしよう。包めば後はオーブンがやってくれるから、おつゆも何か作らないと。 ヴィシソワーズも、もう無いし……出汁もとってないや。顆粒のでもいいかな。若、あんまり好きじゃないけど。 そんなことを考えながらわたわたと夕食の用意をして、でも、ずっと、龍星くんが泣いてて。 「――ああ、龍星くん、泣かないで」 私が泣きそうだ。 抱き上げて、首の位置に気をつけながら泣いてる龍星くんの背中を撫でる。リビングから、若菜ちゃんの泣き声も聞こえてきて。あー、もう、ほんと、泣きそう。 とりあえず、急いでお鍋に水を張って、本当は熱してからしてからだけど、適当に出汁の元をいれて、具は、とりあえず、あさりをそのままぶち込んだ。最後に入れるはずのお味噌を、入れてしまう。 適当すぎる……ごめんね、若、こんな奥さんで。あー……明日は双子ちゃん迎えに行く前にスーパー寄ってご飯の材料買わないと。 「若菜ちゃん今行くからね」 IHのボタンを押して、急いでリビングへ戻る。 泣いてる若菜ちゃんに、ほうっておいてごめんねって、頭を何度も撫でて抱きしめる。おしめ換えないと……大きい方だ。リビングじゃだめだ。これからご飯なのに…… 若菜ちゃんと龍星くんを抱いて……二人ともまだ首が据わってないから、これも結構気を使う。 とりあえず、キッチンに戻って鍋の中身をかき混ぜて火力を弱めて、和室によって紙おむつを(布のおむつなんて使ってる余裕ない)ゲットして、浴室へ行く。 おしりふきのシートだと、やわらかい肌が傷ついてしまいそうだから、お風呂で温度に気をつけながら、ふわふわですべすべのおしりを洗ってあげる。 「はい、すっきりしたね」 全部終わって、笑いかけたら若菜ちゃんが、にこーって笑い返してくれて、ちょっと安心して、ああ、幸せだなって思うけど、でも、龍星くんがまだぐずってて、今度は一気に泣きそうになる。 それでも龍星くんと一緒に若菜ちゃんも抱き上げてリビングへ戻ると、若がキッチンで食事をよそってくれていた。 嘘。帰って来たことにも気付かなかった……ああ、ほんと、だめだ、私。 「おかえりなさい……」 「ただいま。――せめて、沸騰してから味付けしろよ」 若の、呆れたような声に、何だか惨めな気持ちになって、ごめん、と謝ると、若が変な顔をした。 私は笑ってる若菜ちゃんをベッドに寝かせて、泣いてる龍星くんに、どうしていいかわからなくなりながら。 「もう、全部、よそったら食べられるから、座ってていいよ。あと、私するし……」 「わかった」 入れ替わりでキッチンに足を踏み入れると若が龍星くんを抱いてくれて。で、やっぱり龍星くんは若に抱かれた途端に泣き止んだ。 それを見てたら、なんか、また泣きそうになって、若に気付かれないように手を洗って料理をよそっていく。 小鉢に入れたほうれん草に鰹節をかけて、ホイル焼きは耐熱ガラスの器にのせて、肉じゃがはもうなくなりそうだったので、全部陶器の器によそってお鍋は水につけて、ご飯とお味噌汁は若がよそってくれていたから、とりあえずそれをテーブルに並べる。 「先に食べてていいよ。今日も学校とバイトお疲れ様」 言いながらレンジの中のじゃがいもを手早く剥いて包丁で切って自作のマヨネーズと皮を取り除いたタラコを和えてサラダ完成。 テーブルに持っていくと、若は龍星くんをあやしていて、まだご飯を食べていなかった。 泣いてる子供がいても、平気で放っておくお父さんもいるという話だから、若はかなり育児に協力的なほうだと思う。それが誇らしいし嬉しいけど、私の力不足を感じたりもする。もっと私がしっかりしてたら、若にも大変な思いをさせないですむのにって。 ささっと食事を終えて、大急ぎでお風呂を洗う。 若が若菜ちゃんを入浴させてくれてる間に、食事を後片付けして、龍星くんを洗っててくれてる間に若菜ちゃんを着替えさせて、寝る前にお湯を沸かしてミルクをあげる。 龍星くんもそうしていると若がお風呂から出てくるから、今度は私が入る。ずきん、と痛んだお腹に、生理っていつまで付き合えばいいんだろう、とちょっと項垂れた。 ちゃちゃっとお風呂から出て、出しっぱなしにしてた本を、若に叱られつつ片付ける。 課題に必要なテキストだけはパソコンの所において、洗濯乾燥機から乾いた洗濯物を取り出して畳む。 レポートを書きながら、家庭教師として、次は何をどうやって教えるか考えてる真面目な若の横顔を眺めた。 ふと、若が、こっちを見て、ペンを置くと、乾いた洗濯物の入った籠の横に座って、一緒に畳み始めた。 「ありがと」 「俺のもあるし」 「もう、全部一緒に洗うようになったもんね」 一緒に暮らし始めた頃は、お互いの下着を別々に洗ったりしてたんだけど。 今では、それを畳むのにも――「慣れた」。若の言葉にちょっと笑ってしまいながら、一緒に洗濯物を畳む。 途中で、珍しく、眠ったはずの若菜ちゃんが泣き出したので、抱き上げる。 「あまり、抱きすぎるな」 「うん、でも、夜だから……静かにさせないと迷惑だし……」 若は、溜息を一つ吐いて、仕方がないなって感じ。 でも、若菜ちゃんはなかなか泣きやまない。 「ごめん、うるさいでしょ。寝室、行くね。洗濯物は私が後でやっておくから、課題してて」 そう言って、寝室へ行って若菜ちゃんをあやす。凄い泣き声で、なんだか苛々するやら悲しいやらで、何が悲しいのか何が辛いのか何が嫌なのか何が欲しいのか何をしてもらいたいのか、全然わからなくて、結局若菜ちゃんが泣き疲れて眠ったのは二十五時過ぎていた。 若菜ちゃんを抱いてリビングに戻ると、洗濯物は若がちゃんと畳んでしまってくれていた。 ありがたいなぁ……私、若にこうやって助けてもらってなかったら、きっと大変なことになってたと思う。 「俺、もう寝るけど」 ソファに若菜ちゃんを寝かせていると、若が軽く伸びをしながら言った。 「あ、私まだちょっと起きてる。おやすみなさい」 課題、終わってないし、とは言わなかった。ただ、軽く手を振って、笑う。 「香奈」 呼ばれて、軽く首を傾げて若を見上げてみる。 若は、見えにくいものをその目に映そうとするみたいに少しだけ目を細めて私を見てた。 「大丈夫か?」 「何が?」 言われたことの意味がわからなくて聞き返すと、若は小さく息を吐いた。 「いや、平気なら、いい」 「うん? 平気だよ? おやすみー」 ひらひらと手を振る私に、若はちょっと変な顔をしていたけれど、おやすみ、と返して寝室へ。 結局、途中から抱いていないとぐずってしまう若菜ちゃんを抱いたまま、三時過ぎまで課題をして、何度か泣いた龍星くんと若菜ちゃんにミルクを上げたりおむつを替えたり、二人を寝室に連れて行って私も、やっと眠れた。 でも、生理の所為でお腹が痛くて、何度か目が醒めてしまったけれど。薬は飲めないから、我慢した。 それでも、少し寝たら、すぐに龍星くんが、泣き出してしまって、全然眠れなかった。 「龍星くん、なんで泣いてるの?」 はあ、と溜息がもれた。 今日はミルクを上げてもおしめを換えてもあやしても笑いかけても外に連れてっても、ずっとずーっとずー―っと、龍星くんが泣き止まない。 今も、リビングのソファに座って抱っこして揺らしてあげたりしてるんだけど、全然泣きやむ気配がない。 トイレに行きたくても、泣きやんでくれないから、泣いてる龍星を抱いてあやしながら、ってなってしまう。 寝室では、若が寝てるからうるさいかなと思ってリビングにいるんだけど、なんかもう―― 私、何か間違ってるのかなとか、これでいいのかなとか色々ぐるぐる考えて、家事の事とか、育児の事とか、学校の事とか、将来の事とか。 「泣かないで……」 不安になって、怖くなってきた。 なんか、頭がぐらぐらする。お腹も痛いし。 あれ? おかしいな…… 生理終わったのにお腹痛いって。変なものは食べてないと思うけど。双子ちゃんの栄養になるから、食事には気を使ってたし。 ……そういえば、最近、何か食べるとお腹が痛くて――もしかして、ご飯の量減ってた? それでもおっぱいあげてたから貧血でぐらぐらしてるのかな。なんだろ、これ。でもまあ、平気かな。 死にそうって訳じゃないし。 それよりも、 「龍星くん、何が悲しいの? ママわかんないよ……」 あー、もう、やだ。 龍星くん、泣いてるのヤダ。 どうすればいいんだろう。あー、もう、涙出てきた…… 病気とかなのかな……病院つれてってあげた方がいいのかな。でも、この間の検診では元気だって太鼓判押されたし。 お昼はママやお義母さんに預けてるけど、元気にしてたって、いい子にしてたって、言ってるし…… わかんない。何が赤ちゃんの元気のバロメータになるかとかもわからないし、病気とか、どうやれば見つけられるのか分からない。 育児雑誌を読んでみたりもするけど、特にコレといった病気みたいなのがみつけられない。口の中もべろも綺麗なピンク色だし、お風呂も気を使ってるからお肌だってぴかぴかだし、怪我だってしてない。 だけど、なら、なんでこんなに泣くんだろう。それとも、龍星くんは私のことが嫌いなのかな。若に抱かれると泣き止むし。 いつからぐっすり寝てないんだろう。三時間寝れればラッキーで、でも、二人とも一緒に泣いてくれることが多いから、それは嬉しいんだけど、でもやっぱり生活全部が双子ちゃん中心で、ご飯だってトイレだって二人を抱きながらで、若が居ない時は料理もお風呂も面倒になっちゃうくらい疲れてるのに、龍星くんは泣きやんでくれない。 泣いてる理由もわからない。こんなに泣くなんてどこか変なのかな。普通の病気じゃなくて先天性の何かなのかな。そうしたら、私はどうすればいいんだろう。学校行きたいなんて、我がまま言っちゃダメだったのかな。二人の為に学校は辞めるべき? でも……卒業したい……ああ、お腹も痛いけど頭も痛い……――私、何でもかんでも求めすぎたのかな――若も赤ちゃんも学校もって……だから、罰が当たったのかな。だから、龍星くんは泣きやまないのかな。だとしたら、龍星くんが可哀想だ。こんなにいっぱい、私に泣かされて、私に、ご飯も睡眠時間も赤ちゃんに奪われてるなんて八つ当たりじみたこと思われちゃってて、双子ちゃんがかわいそうだ。私なんかが、親になったばっかりに――すごく、すごく、二人のこと可愛いって思うのは本当なのに、同じくらい身体も心も辛くて、苦しい。二人がいなかったら好きなものをいっぱい食べられるのにって、二人がいなかったら好きなことがいっぱいできるのにって、二人がいなかったらもっと眠れるのにって……若菜ちゃんも龍星くんも可愛いのに大好きなのに、自分の子なのに、こんなこと、思うなんて、最悪だ。ああ、本当に頭も、お腹もいたい…… そんな身体を叱咤して学校へ行ったら。 授業の途中で意識が消えた。 次に目が醒めた時には病院で点滴打たれてて、かなりびっくりした。 どうやって運ばれたとか、全然記憶がない。本当、意識がなくなるなんてあるんだ……。驚いてる暇も無く、色々とお医者様に叱られる。 それで凄く情けない気持ちで凹んでいたら栄養失調&脱水症状気味だから、おっぱいあげちゃいけないって言われて、余計凹む。 でも、たしかに、最近はおっぱいでなくてほとんどミルクだったんだけど―― あぁ、ほんと、私って使えないなぁ…… 胃腸炎って言われて、でも、痛み止めは一応貰ったけど死ぬようなものではないから我慢できるなら飲まないほうがいいって言われて、水は沢山飲みなさいって言うのと、また明日も点滴をしに来るように言われた。 生理と重なってたから気付くのが遅れたみたいで、ウィルス性ではない……ということはストレスなのかな。 とりあえず、電車に揺られて学校に戻って荷物を持って、双子ちゃんをナーサリー ――今日はママもお義母さんたちも都合が悪かったので――へ迎えに行って家に帰る。 今はすやすやと眠ってくれている双子ちゃんをベビーベッドに寝かせていると、連絡を受けた若が、サークルとバイトをキャンセルして、即行で帰ってきた。 とりあえず、私は開口一番に“馬鹿”って言われた。 顔を見ればわかる。連絡がきて、若はすごくすごく私を心配してくれたんだって、わかった。 ごめんね、心配かけて。 ごめんね、使えないお嫁さんで。 ごめんね、体調管理も出来なくて。 そう言ったら、若は溜息を吐いて、ぎゅっと私を抱きしめてくれた。 胃腸炎はウィルスのじゃないし、たまたま栄養失調とかとかぶっちゃっただけだし、脱水症状はおなかが痛くてあんまり水を飲んでなかったせいだから、ちゃんと気をつけたらすぐ治るよって、安心させたくて言ったら、ウィルスじゃなかったらストレスなんだろうってすぐにばれちゃったみたいで、心配そうな声で言われた。 「何で、俺がいるのに無理するんだ。きつかったら頼れ。甘えろ」 最初は、心が麻痺してるみたいにぼーっとしてたけど、服越しに伝わる若の体温に、何だか、じわじわ涙が出てきた。 でも、ぐっと堪える。 それで、若の肩に手を置いて押し返そうとしたら、もっときつく抱きしめられた。 絶対、他の人じゃ、無理だと思う。 若じゃなきゃ、抱きしめられて、こんなにほっとしない。 でも、 「わたし、若の邪魔、したく、ない……」 そう、私は若の重荷になんかなりたくない。 私は学生で、あの子達のママで、若のお嫁さんなんだから、ご飯だって育児だって勉強だって、ちゃんとしなきゃいけないのに、私の力が足りないせいで、若に負担なんてかけたくない。 学生であること、あの子達を産むこと、若と一緒に生きること、全部全部、私が自分で選んだんだから、私が“やる”と決めたんだからちゃんとしなきゃいけない。それなのに、若にこんなにも心配をかけさせてしまう、なんて。 「邪魔なんかじゃない」 すぐにそう言われて、やっぱり涙が出そうで、でも我慢する。 泣いたら、若にもっと心配をかけさせるだろうから。 「でも、だって、わたしたちがいなかったら、若は普通に学生でいられて、お義父さんと喧嘩とかしなくてすんだし、もっと、テニスとかにも打ち込めたでしょ?」 声が勝手に震えてしまう。 押し返そうと思っていた手で、若のシャツをぎゅっと握って涙を堪える。 若は、また溜息を吐いて。 「そうかもしれない。それでも、香奈と一緒にいる方がいい。俺は子供達がかわいいし、香奈の力になりたい。香奈が俺にかけてくる負担なんて、俺にとっては些細なことだ」 いつもより、全然、すごくすごく優しい声で言われて、涙が出るのを我慢できそうになくて、若の腕の中から逃げようと、シャツを握っていた手を離して、ぐいぐいと、またその肩を押す。 でも、やっぱり、力で叶うはずがなくて、抱きしめられたまま、涙が零れてしまって、若は目尻にキスをくれた。 駄目だ、涙腺が決壊する。 勝手にしゃくりあげてしまう。 「た、助けて、ほしくな・っい……若、は、若の……好きなことやって、て欲し っ……」 涙ぼろぼろ出たけど、何とか思いを伝えると、若が頭を撫でてくれた。 押し返そうとする私の手を取った若は、自分の首にその手を回させる。 何かもう、心では若に依存したくないって思うのに、身体が私の意思を振り切って若に縋ってしまう。 若は、縋りついた私の身体を優しく受け入れてくれて、それが嬉しいのに、悔しい。 「俺は、香奈を助けたい。香奈の力になりたい。それが俺のやりたいことで、それが俺の好きなことだから。変に遠慮するな。それに香奈の手助けをする程度で日常に支障が出るほど、俺はヤワじゃない」 よしよし、と頭を撫でられて、勝手に溢れる涙が、若のシャツを濡らしてしまう。 子供をあやすみたいに、小さな子供を泣き止ませるように、ぽんぽん、と背中を撫で叩かれる。 大きな手のひらから伝わる体温に、安心すると同時に、すごく申し訳なくなってくる。 「でも……でも……」 若だって、忙しいはずなのに。 出産祝いのお返しの内祝いだって、若がわざわざ届けに行ってくれて。生活力はないけれど、少しでも実家に負担をかけないようにとバイトもして。 大学もあるし、テニスだって、昔ほどじゃなくても、まだまだ、頑張ってるのに。家事だって、出来る限りで手伝ってくれて、こんなに頑張ってくれてるのに。 これ以上負担なんて掛けたくない。 これ以上、若からテニスや学校や……色んな大事な時間を奪いたくない。支障が出ないはずなんてない。うぬぼれではないけれど、誰かのために何かをするのは自分のためにする何かを犠牲にしないと出来ないんだから。 私が睡眠時間や、今までしていた買物や、読書や、全ての娯楽を捨て去って双子ちゃんの世話をしてるみたいに、絶対に、若の何かを犠牲にしてしまう。そんなことは耐えられない。 「でもも何もない。辛い時は、俺に頼れ。もう何も言うな。反論するな。休め」 それなのに。耐えられないのに。 何で私は、いつも若に迷惑かけちゃうんだろう。今日だって私が倒れなければ、若はいつも通りにバイトだって出来たのに。 全部、私が、しっかりしてないせいなのに。 若の撫でてくれる手のひらが優しくて、触れ合った場所から響いてくる声が優しくて。 「ご、ごめなさ……っ」 「何が?」 濡れたほっぺたを両手で包むみたいにして、若が私の顔を上げさせた。私はこの世で一番ブサイクな泣き顔を若に見せてしまう。でも、もう涙が止まらない。 「ちゃ、ちゃん、と……おかあさん、できなく、て……ごめ……」 それを言葉に出したらもっと情けなくなってきて、涙がぼろぼろ出てくる。 若菜ちゃんたちにも、こんなママでごめんって謝りたくなった。産んだだけで、ちゃんと育てられないなんて。泣かせてばっかりいるなんて、母親失格だ。しかも、双子ちゃんたちがいなければもっといっぱい眠れたのにとか、思っちゃったことがあるなんて、若には言えなかった。 なんか、情けなくて、恥ずかしくて、若の胸に顔を寄せて必死で泣き顔を隠す。でも、情けないのに、恥ずかしいのに、こうやって抱きしめてくれることが嬉しくて、なんだかほっとして、涙が本当に止まらない。若のシャツは、私の涙でぐしょぐしょだ。 「……情緒不安定になるだろうから気をつけろって医者に言われてたのにな。 若がぼそぼそ何か言ってたけど、聞こえなくて、なに? って聞いたらまた頭を撫でられる。 「なんでもない。――今まで、身体辛いのによく頑張ったな」 そう言われて、私は何かまた泣いてしまった。 ◇◆◇ 「母さん? ――そう。……香奈が結構参ってて――……ありがとう。――え? いや、決めてない。……まぁ、確かに、それもあるけど……なるべく、香奈のこと、支えてやりたいし。……悪いけど、頼みます……っは?! ……――いや、好きじゃなかったら一緒にならないし……ああ、詳しい日取りはまた……じゃあ」 通話を終えて、ベッドで眠る香奈を見下ろす。 頬に涙の痕は残っているものの、大分落ち着いたようだ。 まったく、無駄に意地っ張りと言うかなんというか……頑固か。特に俺に対しては。 俺は香奈を甘やかしてしまうから、香奈はそれを俺の重荷と勘違いするのだろう。 けれど、少し考えれば解るだろうに。そう言う意味では、かなり視野が狭い。 しかも内罰的で、自罰的すぎる。 まあ、男は広く浅く、女は狭く深く考えるとは言うけれど、香奈は少し狭く考えすぎているような気がする。 お互い学校に通っているのなら、育児も家事もシェアするのが本当なのに、何を一人で背負い込もうとするのか。 両親は近くに住んでいるし、俺にだけではなく親にももっと相談して頼ればいいのにと思ってしまう。俺の祖母が実家に戻ってしまったのは仕方のないことだが、それも双子の面倒を見るのが嫌だというわけではないのだし――香奈が倒れたと聞いて、俺の家族も香奈の家族も、やはり結婚は早すぎただの、ほら見ろ自己管理も出来ないくせにだの、やはり勉強との両立は不可能だったんだだの……は、言わずに香奈のことを純粋に心配してくれた。それだけ、俺たちは恵まれているのに。 本当に、俺に負担を掛けたくないという、その気使いが間違ってる事に早く気付いて欲しいのだけれど、これは昔から変わっていない気がする。 それよりも、赤ん坊は泣くもので、体調もよく空腹でもなく身体もきれいで、けれど、ただ不機嫌なだけで泣いているのだと、香奈が何か悪いわけではないと教えなければいけない。 とりあえず、明日は一緒に病院へ行くとして、この連休に双子を実家に預けて、息抜きさせてやろう。 若菜が泣き出したので、リビングへ戻ろうと、ゆっくりと腰掛けていたベッドから立ち上がる。 寝室を出る前に、泣き疲れてベッドに沈んだ香奈を一度振り返り、よく眠っている事を確認してから、扉を閉めた。 |