うさぎ
 若が語学研修でカナダに行ってしまいました。
 バンクーバーだかハリファックスだかケベックシティだかモントリオールだか知らないけど。
 私が知ってるのはカナダの公用語がフランス語と英語だって事くらいだ。
 んー……あとは、世界的に高い教育水準とか治安がいいとか物価が安いとかバンクーバーは世界一暮らしやすいとかカルガリーとエドモントンは世界一キレイだとか。
 そんな事が若の持ってきた資料の中に書いてあった。
 ような気がする。
 カナダの英語は世界の中でも伝わりやすいとか……。
 んー。
 でも、私、英語できないし。

 と言う訳で、私は二ヶ月もの間、専門学校に通いつつ若菜ちゃんと龍星くんを一人で面倒見ます、頑張ります。
 夏休みとかぶっているし――若は夏休みほぼ全て。だから、今年の夏は旅行とかにはいけないし、花火も見れないけど――若は私を心配していたけれど、私が平気だからと送り出した。
 のだけれど……まどかちゃんや涼香ちゃん、若のおばあちゃんが手伝ってくれてても、学校の間はママに二人を預けてても、やっぱり一人はキツい。予定がないときは若のおばあちゃんがうちに泊まってまで、双子の面倒を見てくれるけど、それでも、きつい。
 若菜ちゃんも龍星くんも、離乳食の初期に入っているから、ミルクやジュースだけ、と言う訳にもいかないし。スプーンに慣れさせたりするのにも大変だ。若菜ちゃんはスプーンを口に運ぶだけでいやいやってするし。
 一応、私だって来年は就職を控えている訳だし。バイト先ではあるけれど、社員とバイトは違うから、今から少しずつ教えてもらっているし。
 卒業制作もあるし。まあ、これは不真面目な先輩に「出来ているところで、これで完成です! ってごり押しすればオーケー」と言われているんだけれど、出来ればちゃんと作りたい。
 でも、やっぱり、若菜ちゃんも龍星くんも、勿論、若も大好きな私なので、へばりつつも結構頑張れてたりして。我ながら単純だなあ。
 それに、最近は、自分が追い詰められてるなって気付けるようになってきて、そういうときは、両親に甘えてしまう。本当に、すごく、私は周りの人に恵まれているなって、すごくすごく思う。プレ幼稚園の情報とかも、わざわざ乾先輩とか杏ちゃんとかが調べてくれたりして、嬉しいけど、たまにちょっと情けない。誰かに頼りきって子育てしている私はまだ子供だと思う。だから、子供が子供を育てていると言われても、いつも反論できない。

「ぎゃぁああん」
「あらら、若菜ちゃん、お腹減ったのかなー? おむつかなー?」
 泣き出したのは若菜ちゃん。泣き方ですぐにわかる。
 私はテーブルの上の課題を一時放置して抱き上げる。
 おむつに手を当ててみるとずっしりと重い感触……うん、おむつ変えなきゃ……。
「ちゃんとでたね。きれいにしてあげるから」
 もう五ヶ月以上繰り返した作業をこなして、お風呂場で温度を調節したシャワーをかけてお尻を綺麗にしてあげると若菜ちゃんは、やっと泣き止んだ。綺麗になって嬉しいねー、っておむつをつけかえてあげる。気をつけないと、こういうのも作業になっちゃって、すぐに辛くなっちゃうから、おむつを変えるときに見えたまんまるのおなかのおへそにキスをしてみる。くすぐったかったのか、若菜ちゃんがきゃっきゃと笑う。癒された。単純だけど、うん、癒された。

 ご機嫌な若菜ちゃんを抱っこして、ふと、壁に掛かった時計を見ると既に十八時。
 カナダは五時。朝五時なら、若は必ず起きてる。電話しようかな、と参考書に目を落としながら思っていると、タイミングばっちりで電話が鳴った。
 ある種の確信を込めて、若菜ちゃんを抱いたまま電話にでた。

「はい、日よ――おはよう、若」
 大当たりだった自分の確信に少し笑って。
 久々に聞いた気がする――電話代が掛かる為、手紙でやりとりをしているので――若の声に、不覚にも涙が出そうになるくらい嬉しい。若菜ちゃんたちがいても、やっぱり若がいないのは、寂しい。帰ってきても、若はいない。ご飯を作っても食べてくれる人はいない。実家や、若の家にお邪魔すれば、寂しさもちょっとはまぎれるけど、若菜ちゃんたちが笑ってくれてるときはとても満たされるけど、辛くて泣いてしまっても、抱きしめてくれる人はいない。双子ちゃんの成長を間近で見ているのは私しかいない。具合が悪くても、無理をしないといけない。やっぱり、誰も若の代わりにはならない。
 でも、少しでも心配をかけたくない。
 若が帰ってきたら、いっぱい甘えればいい。
 だから、今は我慢。
 若菜ちゃんが受話器に興味しんしんでお手手でつかんだりして、お父さんですよって電話をお顔に近づけても、よくわかってないみたいだった。かわいい。
「――うん。平気平気。――うん。二人とも元気にしてるよ。――私も元気だよ。若は? ――あはは、そっか。今度日本食送ろうか? ――そう? ならいいけど。若、ちゃんと勉強してる? ――私はしてるよー失礼だなぁ。 ――うん、そうだね。……うん、じゃあ、またね……ばいばい」
 言い終えると、送話口に、音を立てないようにキスをして電話を切った。

 ホントは言いたい事とか、沢山あったけど。
 でも、若は勉強を頑張っているのに、心配かけさせたくない。
 それに、若だって、慣れない中での生活で、色々大変なこともあるだろうけれど、私に、そんな事は話さない。
 あと、一ヶ月弱の我慢。
 電話で声を聞けるのはとても嬉しいけど、その後が寂しいから、少しだけ電話は嫌いだ。龍星くんや若菜ちゃんも、少しは寂しいと思っていたりするのかな。お父さんがいないって、わかるのかな。私は、昔、若にうさぎと喩えられたほどの寂しがりなので、若菜ちゃんたちに遺伝しててもおかしくないし。

「お父さん早く帰ってくるといいね」

 ベビーベットに寝かせてあげると、若菜ちゃんはじっと私を見る。最近は、はいはいができるようになってきて、放っておくとあっちこっちいっちゃって危ないので、私が一人の時で、一緒にいられない時は、嫌がらない限りはベビーベッドに寝かせてしまう。ちょっと可哀想かな。その分、お昼は若のおばあちゃんが気を使って運動しやすい環境を作ってくれて、すごくありがたいけれど。ちょっと、申し訳ないなって。
「ごはんつくってあげる。いいこでまっててね」
 笑って、若菜ちゃんのほっぺたをふにふにと突いてから、龍星くんのおむつをチェックして、私は夕飯を作ることにした。課題は後回し。

 一人分の夕飯を作るついでに、龍星くんと若菜ちゃんの離乳食も作る。
 先に若菜ちゃんと龍星くんにご飯を食べさせて、スプーンを嫌がる若菜ちゃんを宥めて、なんとか食事を終えてから、食器を洗って、二人をお風呂に入れて、ちょっとだけ夜の散歩。そうじゃないと、二人ともなかなか寝付いてくれないので。治安が良いと言われるこのあたりじゃなきゃ、怖くてできないけど。
 若がいなくなってから気付いたことは、双子用のベビーカーって結構重いんだなってこと。
 きちんとバランスをとって腕に力を入れないと曲がる時とか、不安定になってしまう。

 と、
 前を見ずに歩いていた男の人がぶつかってきた。
 ベビーカーは簡単には倒れないけれど、今のは結構危なかった。
 私にぶつかった男の人は、結構な暴言をまくし立てて、怒鳴って、叱責して、そして再び歩き出して行ってしまった。
 一瞬の出来事。

 ちょっと呆然としてる私に、大丈夫? 、と声をかけてきた人がいた。
 ……あ、不二先輩と裕太くんだ。ぼーっとしてる私とは反対に、不二先輩は心配そう、裕太くんは「なんだあいつ」とかちょっと怒り気味。
 リョマが不二先輩というので私にも移ってしまって、今までずっと、そう呼んでいるけれど、不二先輩はあんまり気にしてないみたいだった。なので、同じ学校だったことなんて一度もないのに不二先輩と呼んでしまう。
 裕太くんは、同い年だったこともあって、結構仲が良かったんだけど、私の結婚式(の二次会)で会ってからは、今日が初めての再会。もともと、私が妊娠したことを知ったとき、すごく若に対して怒ってたから――いい加減なことしやがって、とか、そんな、当たり前の感じで、私を心配してるからって感じだった。だから、若も煩そうにしてたけど一度も反論はしてなかった――二次会に呼ぶのもどうなのかなって思ったんだけど、不二先輩ときたとき、裕太くんは若菜ちゃんたちを抱きこそしなかったけど、可愛がってくれた。

「こんばんは。二ヶ月ぶりです」
 ぺこ、と頭を下げて挨拶する。
 すると不二先輩が軽く頷いて答えてくれた。
「うん、二ヶ月ぶりだね」
 裕太くんはいまだにちょっと憤っている。男の人が消えていった方向を睨んでいる。
 けど、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「それより香奈、大丈夫か?」
「怪我はないよ。二人とも。私も」
 裕太くんの言葉にこくりと頷く。
「精神的には?」
 不二先輩がつっこんで聞いてきた。
 裕太くんが”ちょうど手の置き場に良かったから”って感じで私の頭に手を置いた。
 いや、多分撫でてくれてるんだと思う。裕太くんは、言葉で励ましたりするのが苦手で、言葉で怒ったりするのも苦手で、行動で示そうとするから、そうだと思う。
「悲しいです」
 不二先輩の質問に答えたら、ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。
 赤の他人にあんな事を言われて平気な人ってあんまりいないと思う。
 なんか、ムカつくよりも悲しくなってしまった。
 しゃくりあげて手の甲で涙を拭く私に、裕太くんが困った様子で
「うわ! 泣くなよ!」
 と言って私の頭をぐりぐり撫でた。【うわ!】って、けっこうひどいし、いたい。
 幼稚園の妹が泣き出して困ってる小学生のお兄さん、みたいなこの構図はなんだろう。

「ご飯食べとけばよかった……」

 場違いな私の言葉に裕太くんが不思議そう。
 不二先輩はベビーカーの車輪止めを探して動かないようにしてくれてた。
 それから
「ああ、おなかがすいてるとナーバスになるよね」
 と、深く頷いて同意してくれた。
 でも、裕太くんは意味がわからなかったようで首を捻ってる。
 その姿がおかしくてちょっと笑ってしまったら、裕太くんは怪訝そうな顔。
「あー……ごめんなさい。ちょっと不安定な思春期なんです」
 ぐしぐし、と目を擦りながらいうと、不二先輩が首をかしげた。

「思春期にはちょっと遅すぎるんじゃない?」
 不二先輩って結構きつい……。
「見た目は思春期だから大丈夫だって」
 裕太くんのフォローも的がおかしい……。

「裕太くんと不二先輩が一緒って珍しいですね」
 精神的に違う意味でダメージを受けて、これはまずいと慌てて話題を逸らそうとすると、裕太くんがちょっと眉を寄せて、不二先輩が肩を竦めた。
 聞かない方が良かったの、かな? なんて、いまさらビクビクしても遅い。

 とある筋では有名な不二兄弟は合コンに無理矢理連れて行かれてお疲れの様子だったけれど、私と龍星くんと若菜ちゃんを家まで送ってくれました。ご飯食べるなら二人を見てようか、って提案されたけど、きっと若が居ない間に男の人を入れたら、すごく怒られるだろうなって思って、気持ちだけ頂いておいた。
 合コン……行った事ないし、これからも行けないけど(子持ちが行ったらしらけさせちゃうだけだし)さすが、不二先輩と裕太くんは大学はいってからも、人気あるんだなぁ、と、しみじみ感じた。


 ◆◇◆


 電話を切った後、俺は小さく息を吐いて、今日の授業の用意をする。
 それが終われば、いつもならランニングに出るのだが、そんな気分になれずに、日本から持ってきた緑茶のティーバッグで茶を入れた。
 なぜか、この国のペットボトルの緑茶にはハチミツが入っていたりして、安心して飲めない。しかし、俺の緑茶は不評で世話になっている家の娘がたどたどしく「おいしいとちがいます」などと言ってくるのだから、味覚がちがうのだろう。ペットボトルの水が甘かった時は、本当にどうしようかと思ったものだ。
 マグカップを手にして青く澄んだ窓の外を見て、唐突に中学の、文化祭の事を思い出した。

   『うさぎですね。俺が構ってないと死にそうですし』

 馬鹿にした口調の、幼い自分の言った台詞。
 おかしくて笑えてしまう。
 勿論、表情には表さないが。
 何しろ、今年で二十になる妻子持ちの男が、緑茶を飲みながら、一人の部屋でニヤけていたらおかしいだろう。
 少なくとも俺はそれを快いと思わない。
 なので、表情には出さない。
 けれど、

 本当に兎なのは俺だ、とは思う。

 たった一ヶ月と少し会えなかっただけで、会いたくて仕方ない。あまり電話はしないと約束しているのにもかかわらず、かけてしまうほど。
 高校の頃、香奈が俺に会いに来るまでの三週間は、同じ国内で、同じ関東で、俺が先に会いに行ったら、負けると思っていたし――今考えると低レベルの思考だと思うが、あの頃は何でも勝負に関連付けてたような気がする。今でも多少それはある――それにやはり、神奈川なんて会いたければすぐ会いにいける距離だったから、会いたいな、と時折思い出す程度だった。
 今回も二ヵ月と決まった期間の中だから、帰国するまでの辛抱だと我慢できる。
 これが、いつ帰れるか解らないという滞在だったら一ヶ月持ったかどうか危うい。

 下手に声を聞いてしまったせいで、大きくなった、会いたいという衝動をどうにか押さえ込むと、この早朝の時間に借部屋のドアがノックされた。
 相手は誰だか解っている、善意で俺を泊めてくれているホームステイ先(つまり、ここだ。)の娘だろう。
 こんな朝早くに珍しいと思いながらドアへ向かうと「ワカシ、アケル――イイ、デスカ?」と尋ねられた。
 最近、俺にへばりついて日本語を教えろと煩かったのだが、日本語の発音は難しいらしく、妙にテンション高く和菓子と言っているように聞こえる。
 そう言えば、フランス語を主として喋ってる人は“は”が上手く発音できなくて“あ”に聞こえるし、イギリス人の言葉は“こ”が“か”に聞こえる。元々発音の仕方が違うのだから仕方ないのだが、聞き取り辛い。だが、俺も、日本人訛りの英語なので、特に聞き取り辛い以外に悪感情はない。
 返答する前にドアを開けると、日本人では絶対似合わないような金髪の少女が笑っていた。少女と言っても、すくなくとも香奈より年上に見える。香奈が甘ったれで幼く見えるのは昔からだが、やはり北米・カナダの人間は、日本人から見ると発育がよい。
「セブンイレブン、イキマス。ワカシ、イキマスカ?」
「行きます。貴女は日本語がとてもうまくなりましたね」
 こんな子供に、一人で道を歩かせるわけにも行かず、答える。カナダは治安の良い国だが、それでも。
「アリガトゴザイマス」
 俺が来た日に「忍術が使えるか?」と聞いて来た少女はさらりと礼を述べ嬉しそうに笑う。どうでもいいが、一応千葉に忍術道場があることは知っていたが、国外にまであることは知らなかった。日本びいきなのだな、と思う。
 そう言えば、彼女に漢字を書けとせがまれて言うままに色々書いた事を思い出す。やはり、少女らしく、意味と兼ね合わせて“愛”と言う漢字が気に入ったらしい。今では香奈よりも上手に愛が書ける。
 次に気に入った漢字は、意味関係なく“品質管理”がとてもクールだと言っていた。どういう感覚なのか俺にはわからない。

 先に歩き出した少女に続いて俺も歩みを進める。
香奈のように、姿勢がよいのに子供のように見えるとてとてとした歩みではなく、スッスッと大股で、颯爽と歩く少女の揺れる金髪を見ながら、俺はふと思いついたことを尋ねる。
「Do you know the shop where the weaning food is sold?」
 離乳食を販売している店を知っているかと聞いた俺に、不思議そうな顔で振り向く少女。その顔は確かに子供らしい。こんな年頃の娘と、どこの馬の骨とも知れぬ留学生の男が一つ屋根の下にいることをよく許せますねというようなことを一度聞いたが、日本人なら大丈夫、という訳のわからない返事をもらったことを思い出した。
 ――ああ、そういえば、妻子持ちだと言っていなかったな。
 きっと、俺が帰る頃には、龍星若菜も、離乳食の中期に差し掛かっているだろうし、早ければ歯も生え始めている頃だと思いつつ、少女の疑問に満ちた目に答える。
「I want to buy the souvenir for my children.」
 俺の歳でwantはまずかったか? 英語は難しい。
 けれども、少女はそんな事は気にならなかった様子で子供に土産を買ってやりたいと言った俺の言葉に酷く驚いたらしい。きっと、俺が日本人で若く見える所為もあるだろう。
 青い目を見開いていたが、途端に子供の写真が見たいと言い出した。
 結局、折角出たばかりの俺の部屋へ戻り、香奈が手紙と共に送ってきた写真を見せる。スプーンで食事をできるようになった龍星と、嫌がって泣いている若菜の写真に、パステルカラーのペンで香奈の文字が書き加えられているものだ。
 少女は、そういうことなら学校が終わったらベビー用品を見に行こうと鼻息荒くしていた。

 その後コンビニへ向かいながら見上げた空は明るい。
 日本はもう夜もふけてくる時間だろうと思えば、空が繋がっているとはあまり思えなかった。

 その後、学校から帰ると少女とその母親に笑顔で連れまわされ、一体どうやってこの量を持ち運べばいいのかと悩むような品のベビー用品を購入してもらった。(俺の名誉の為に言うが集った訳ではなく、何度も断った。)
 特筆すべきは縦、横、奥行きともに一メートルはある大きなウサギのヌイグルミだ。それを後日、日本へ宅配すると購入していたのには驚いた。送料もかなりかかってしまうだろうと今更ながら進言すると、娘に日本語と古武術を教えてくれている礼だと聞く耳を持たなかった。浴衣型の肌着姿の双子に“日本人ねぇ”となぜかにこにこしながら言われもした。
 好意自体はとてもありがたいとは感じながら、若菜龍星よりも、香奈が喜んで飛びつきそうなヌイグルミを思い起しているとハイテンションな和菓子の発音で呼ばれた。
 車に荷物を積み込んでいた俺は、俺を呼んだ少女の母親を振り返る。
「Please bring your children and your wife when you will come next time. 」
 俺に解りやすいように、ゆっくりと教科書に準じた文法で言われ、笑って頷く。
香奈は日本語が出来ないから、俺が帰国するまでに彼女に日本語を覚えて貰わなければならないなと、冗談めいた思考で考える。言われた通り、若菜龍星がもう少し大きくなったら、香奈と二人で連れてこよう。


 ◆◇◆


 運命の日とは言わないけれど、若が帰ってくる日。
 時間は夜で、私は龍星くんと若菜ちゃんがいるので迎えに行けない。
 でも、こうやってワクワクしながら待っているのはとても楽しい。
 カナダから送られた大きなヌイグルミをどういう経緯で購入して、うちに送ってきたのかも是非聞きたかった。
 意識したわけではないけれど、出回り始めたサンマの塩焼きをメインに、今日の夕食は純和風。
 若の好みに合わせてお味噌汁も赤味噌で、お出汁は蜆。

「お父さん、もうちょっとで帰ってくるよー」

 にへらにへら笑っている私をどう思ったのか解らないけれど、わたしのあとを追いかけまわしている若菜ちゃんはにこにこしていた。今、だっこしている龍星くんに、ちっちゃな白い歯が生えたのを早く見せてあげたい。最近、龍星くんも若菜ちゃんも、だっこすると人の顔をぐにゃぐにゃぺたぺた触りたがるから、きっと若は困っちゃうだろうな、とか、ズダダダダダってものすごい勢いではいはいする若菜ちゃんにびっくりするだろうな、とか想像すると、またにやけてしまう。
 夕食の準備は万端。若が来たら焼いて温めてよそうだけ。
 私はローテーブルで課題をこなしながら若の帰りを待つ。
 コレぐらいの事でどきどきわくわくしてる私はお手軽な女だ。
 でも、そんな自分は嫌いじゃない。

 ほら、ドアが開かれた音を聞くだけでこんなに幸せになれる。
 私は、そんな自分が好きだ。

「おかえり」
「ただいま」
「喋りたい事がいっぱいあるの。聞きたいことも沢山あるの」
「ああ、それより、荷物を解くのを手伝ってくれないか」
「うん、うん。私ね、すごい若に会いたかったよ」
「それはお互い様だ。悪いけど、そっちの鞄、服が入ってるから片付けてくれ」
「うん。おかえり」
「ただいま」
「おかえり」
「――しつこいんだよ」
「いたっ! ……もー、こうしてやる!」
「…っ……ああ、もう――タダイマ」
「うん、おかえりー」

さて、若がいなかった約二ヶ月間。
何の話から聞いてもらおうか。