――夢を見た。 それが真実で無くてよかったと、心から思える夢だった。 肘をベッドへと着き、ゆっくりと上半身だけ起き上がらせる。 シーツに着いた手が、わずかに震えているのがわかる。 潮騒のような血流の音と どくどくと脈打つ心臓の音と 浅い自分の呼吸の音と 香奈の穏やかな寝息が、聞こえる。 眩暈のせいか頭が揺れるような視線の定まらない感覚と、こめかみの少し奥にズキズキとした鈍痛を覚える。 季節は秋なのに、じっとりと汗ばんだスウェットが気持ち悪い。 鼻をつく痛みに、俺はいま泣きそうになっているのだと理解した。 子供の頃は、怖い夢を見ると、その日一日、夢の内容を覚えていなくても、漠然とした不安を拭えなかった。 母に縋る事は、安っぽいプライドが許さず、眠れないまま、夢の内容を覚えていないのに、布団の中でまんじりとせず、天井を睨んでいた。 夢の内容は覚えていなくとも、ただ、恐怖を感じた事だけを覚えていた。 子供が出来て、結婚をして、何が今更怖い夢だ。 いい年をした男が。 夢一つに、なぜこんなにも恐怖している。 そんな事を考えながらも、呼吸を整えられない。 それが、荒唐無稽な夢なら良かった。 絶対に有り得ない、化け物に襲われるとか、そんなものなら。 けれど 俺の夢は 理不尽な現実を如実に表し 有り得てもおかしくない、その未来が、俺に恐怖を感じさせた。 そっと、傍らで眠る香奈を見下ろす。 汗ばんだ手で、そっと、柔らかいその頬を撫でた。 指先に感じた生きている熱に、心底安堵する。 そして、正夢を見る体質でないことを、感謝する。 香奈が死ぬ夢を見た。
起こさないように、そっと、その顔の形を指先に覚えさせるように、香奈の顔を撫でる。 額から、瞼から、鼻梁から、頬から、唇から、顎から。 撫でられる事がくすぐったかったらしく、わずかに香奈の長い睫毛が震えた。 起こすことは本意ではなく、香奈の柔らかく温かい皮膚からそっと手を離す。 本当は、今すぐ、体温に熱ささえ覚えるほど、その骨の感触さえ伝わるほど、血液の脈動さえ感じられるほど、抱きしめてしまいたい。呼吸を感じるキスをしたい。 けれど、大の男が「怖い夢を見た」なんて、どうして言える? 俺は、香奈がいなくても 自分が生きていけることを知っている。 俺も香奈もいなくとも 子供達が、育つことを知っている。 俺も、香奈も、子供達もいなくても 世界が変わらないことを知っている。 それが悲しいと思うほど若くはない。 それが当たり前で必然なのだと知っている。 それでも、俺は香奈に健康でいて欲しい。 あんな風に理不尽に俺の前からいなくならないで欲しい。 世界は変わらないし、俺も生きていける。 けれど、 だから、 俺の傍にいて欲しい。 いなくならないで欲しい。 そんな事、中学時代以降掠めもしなかった思考だけれど。 死なないで、ほしい。 気付けば頬が濡れていて、思春期を過ぎた男が、情緒不安定で泣くなんて、背筋が薄ら寒くなるほど引いてしまう。 ああ、 でも、 本当に、 本当に怖かった。 本当に怖かったんだ。 気持ちを落ち着けるように、強く目を瞑る。 握り締めた手に、暖かいものを感じて、それは、確かめるまでも無く、香奈の華奢な手だと、確信した。 「のど、かわいた?」 寝起きの、鼻にかかった掠れた声で問われ、俺は目を開けて、香奈を見下ろす。 「こわいゆめ、みたの?」 視線の合った香奈は、舌足らずに聞いてきた。 恐らく、俺の瞳が、頬が、濡れていることに気づいたのだろう。 何も答えない俺をどう思ったのか知らないが、寝ぼけた声で言葉を紡いだ。 「こわいのこわいの、とんでいけー」 なんだ、その慰め方は。 「もうこわくないよ」 勝手に断定するな。 「ねよ?」 甘えるように促し、常より体温の高い香奈の手が、俺の握った拳を包む。 わかっている。 今が幸せだから、 失うのが怖い。 未来の喪失に怯え、現在の幸福を恐怖するのなら。 いつか亡くすものなら。 それならば、 少しでも長く。 少しでも幸福に。 「ああ」 軽く頷き、ゆっくりと上半身を再びベッドへ沈める。 香奈の隣へ。 香奈は満足そうに笑うと俺の腕を抱いて、あっという間に再び眠りに落ちていった。 置いてけぼりを喰らった俺は、すやすやと眠るその顔を眺める。 香奈は生きている。 だから、死ぬ。 それは、俺も、子供達も、全ての人間に平等なことだ。 ならば、 この、 泣いてしまう程の、 恐怖するくらいの幸せを、 死ぬまで、 この幸せを、 忘れないように、と 祈るような気持ちで、 眠る温かい身体を抱き寄せた。 |