恋の事なら、どんなにロマンティックでも良いのです。

 結婚して、初めての旅行らしい旅行に、香奈は楽しそうにしていた。
 中学時代の修学旅行や、高校のとき、お互いに貯めたバイトの金で宿泊した、あの時とはまた違う新鮮さがあった。
 観光も多少したし、香奈の采配でその土地の有名なシェフの店に野菜を下ろしている農場を見学したりもした。そうして、土産用の地域限定の菓子をいくつか買うと、俺たちは勉強からも育児からも離れた、のんびりとした一時を過ごす事が出来た。
 別段、子供たちといることが嫌と言うわけでも、勉強が苦痛と言うわけでもない。香奈は、子供たちに似合いそうな地元の洋服店も楽しそうに巡っていた――けれどやはり、それらに熱心でいれば気が休まないことが多い。特に香奈は、育児に疲れ果てていることもあるので、気分転換は必要だろう。
 一泊二日の旅行の初日に、既に室内でごろごろしているのもどうかと思うが、香奈の命令で勉強道具も何も持ってきていないので、本当に二人でのんびりとだらだらと過ごすのみだ。
 毛足の長い絨毯は心地よく、床だというのに香奈は、これすごいすごいふわふわーきもちいーと、やけにまったりした口調で感想を言ってから、まるでホラーゲームの悪霊のように絨毯に寝そべっている。こんな、至福顔で絨毯を撫でている小さな体躯の悪霊がいたところで怖くもなんともないが。
 あまりに気持ちよさそうなので、俺も咎める気が失せて、ソファに身を沈ませる。

 つい、眠ってしまったらしく、腕時計のアラームにゆっくりと目を開けると、寝る前と同じ体勢で、香奈が絨毯に寝そべっていた。アラームは夕食の一〇分前に設定していたので、眠っていた時間は二〇分ほどか。うたた寝など、久しぶりだった。
 この俺が寝ていたのだ。香奈は育児を始めてからは特にうたた寝の達人となっていたので、寝ているだろうなと確信にも近い予想をしながら、ゆっくりと立ち上がってその傍に膝を落として、頬を突いてみる。
 くすぐったそうに身をよじって、寝息を立てた。さらには絨毯にほおずりするような仕草まで見せてくる。よほど、この滑らかな手触りを気に入ったのだろう。我が家ではすぐに涎でべとべとになってしまうために、絨毯ではなく汚れの落ちやすいブロック状の防音シートを敷いている。
 しかし――完全に眠っている。
 気持ちよく眠っているところ申し訳ないが、夕食の時間が迫っている、起きて貰うしかない。
香奈、起きろ」
 肩に手を置いて軽く揺する。無反応だったので、もう少し強く揺する。起きる気配がないので、そのまま肩にかけた手に力を入れる。ごろりと仰向けになった香奈は、龍星の寝顔にそっくりだった。
香奈、起きろ。夕飯の時間だ」
 そのまま、ゆさゆさと全身が軽く揺れるほど乱暴に揺するが、起きる気配がない。
 普段はそこまで深く眠っていないのに、と不思議に思うが、すぐに答えを見つける。
 確かに普段は、龍星若菜がいるため気を張っている。だから、その反動が今、来ているのだろう。
 こんなに気持ち良さそうに寝ているのに起こすのは偲びないが、夕食を食いっぱぐれるのは遠慮したいし、このまま寝かせておいたとしても、用意してもらった食材が無駄になってしまう。
 さて、どうやって起こそうかと考える。
 ふと、悪戯を思いついて、軽く口の端を持ち上げた。
 ゆっくり屈むと、香奈の唇に口付けを落とす。最初は軽く擦り付けるだけの、押し付けるだけのそれ。けれど、香奈が起きる気配を見せないので、俺の行動はエスカレートしていく。軽く下唇を噛み、閉じたままの唇を舐めてやるとくすぐったそうに、首を振ろうとする。その頬を手で押さえて、顔を固定すると、ゆっくりと唇へ舌を侵入させた。噛合っていた歯は、少し乱暴に舌で押し開き、香奈の舌に俺のそれが触れ合ったあたりで、うっすらと目を開ける。
 ぽーっとした顔をしているので、そのまま舌で上顎を擦ってやるとぞくりと背筋を震わせた。
「……っん」
 ぐい、と肩を押されたので、俺は素直に引き下がる。
 もう少しこうしていたいような気もしたが、時間も十分ある事だし、あせる必要はない。そして、夕食の時間が迫っている。
 多少なら遅れても平気だろうが、できれば料理が出来たてのうちに食べたい。
「えっち」
 顔を赤く染めて上目遣いに睨んでくる。俺はゆっくり立ち上がり部屋のキーを手にしながら答えた。
「起きないお前が悪い。夕飯、食いっぱぐれたくないだろ?」
 悪びれずに答えると、香奈は悔しそうに目を擦って、軽く衣服を整えて俺の後についてくる。
 背後の“だからってあんな起こし方……”とぶつぶつ言っている言葉は黙殺して、玄関口にかけてあったジャケットに袖を通すとコテージを出る。
 カーディガンを肩にかけた香奈がコテージを出るのを見届けると鍵をかけて、徒歩で本館に向かった。
 たまには、歩くのもいいだろう。
 東京では見られない景色であることだし。

 腐っても元氷帝生。マナーは完璧に叩き込まれている。そういった授業もあった上、特に俺は家庭で厳しく躾られた。
 本館内のレストランは、雑誌で取り上げられたこともあるというものだったが、俺たちは特に気負うことなくフレンチを平らげていく。別段俺はフランス料理は好きではないが、文句が出ない程度には美味い。
香奈は、油っぽいとフォアグラが苦手だったけれど、今日は前菜にほんの少し出てきたそれを美味しそうに食べているので、確かに料理の質は高いようだ。この季節には珍しく野菜のゼリー寄せが出されたが、これはとても俺好みの味だった。
香奈は、それを一口食べると「若、こういうの好きじゃない?」と聞いてきたので、ああ、と肯定を返す。そうすると、香奈は、コンソメだけど、不思議な匂いがするだのぶつぶつ呟いてレシピを考えているようだった。家で作りたいと思っているのだろう。
 季節の白身魚を使った料理がとても美味しく、それだけでここに来た甲斐があったなと思った。
「美味いな」
「うん、美味しいね。これ、ちゃんとフランスの有名な美味しいお塩だよ」
 幸せそうに料理を平らげていく香奈を見て、やはり、来た甲斐があったなと思う。
 魚料理にも合うといわれた赤ワインは確かに美味かった。絶対に魚に赤ワインは似合わないと思っていたのだが、やはり、そこはそれ、プロには色々と知識あるのだろう。香奈がポリフェノールがどうとかの理由で赤ワインにしたことに少し感謝する。
 見て見ると、珍しくグラスワインの半分を飲み下しているようだ。他人から見れば少量だろうが、これは快挙と言っていいほどの酒量だ。酒が苦手な香奈には珍しい。また泣き出さないといいが……
香奈は残念ながら酒は苦手な上に、泣き上戸で手に余ることがある。香奈は大抵酒が入ると泣くか、ぼんやりとして眠そうなまったりとした様子になる。
 心配しつつもボーイが焼きたてのパンを持ってきたので、二つほど見繕ってバスケットに入れてもらう。冷えた陶杯の中のバターを塗ると、さらりと溶けた。
香奈がパンに手をつけないことを不思議に思い問う。
「食べないのか?」
「一つ食べたら、たぶん、デザート入らないから」
 コース料理を頭の中で反芻したのか、悔しそうに胸の下当たりに手を置いて言う姿に少し笑ってしまう。
 一口分ちぎって、バターを塗って、その口元に差し出した。
「一口なら食べられるだろ?」
香奈は一瞬きょとんと俺を見たが、ちらりと周りを窺って、おずおずと口を開いた。
 その口の中にパンを押し込んで、俺は何もなかったように食事に戻る。
「美味しい……」
「良かったな」
 うん、と嬉しそうに頷いた香奈は、出会った時と変わらない。たとえば、少年じみていた頬が丸くなり、化粧が上手になり、そんなふうに香奈の見た目は変わったし、色々あった経験の中で、立ち振る舞いに無防備さが少なくなったが、嬉しそうな顔は、出会った、十二歳の頃のまま。そのことに、とても感謝もするし、とても嬉しくも思う。今、ここで、こうやって。
 結局、グラスワインは半分以上は減らなかったけれど、コース料理を完璧に平らげた香奈は満足そうな顔をしていた。
 さほど小食と言うわけでもないが、確かにフレンチのコースは小柄な女性にはきついものがあるらしく、顔に達成感を滲ませていたので、少し面白かった。

 ◆◇◆

 コテージに戻り、二人でのんびりと過ごす。香奈は酒が入った所為で、また少しだけソファでうとうとしていたが、先ほど起き出して目を覚ますとウッドデッキへ出て行った。
 俺は、読み終わっていなかった本を多数持ってきたのでそれを消化することに時間を費やす。久々の自由な時間に、はっきり言ってどうしていいか、分からなくなってきていた。
 今頃は龍星若菜を寝かしつけている時間だな、と思えば、世帯臭くなった自分に笑ってしまう。
「若!」
 呼ばれて、声のした方を向くとウッドデッキに出た香奈は空を見上げていた。目をキラキラと輝かせて空を見上げている。こういった無邪気さも、変わらない。
 唇からは白い息が漏れていたが、紅潮した頬は寒さからではなく、感激からのものだろう。香奈に続いてウッドデッキへ足を向けると弾んだ香奈の声が聞こえて来た。
「綺麗だね!」
 空を見上げて、嬉しそうに発せられた言葉と、空を仰ぐ仕草に習って、俺も空を見上げる。
 東京では見ることの出来ない真っ暗な空の中に、驚くほど沢山の星が見える。
 オレンジから、黄色から、白から、青から、色々な色彩の星と、驚くほど大きく見える明るい月。
 これは、確かに、ちょっとした感動ものだろう。
「ああ」
 答えた俺の口からも白い呼気が漏れた。
 冬の山なんて、寒いだけだと思っていたけれど、これは確かに一見の価値があると思う。
 寒さすら、一瞬忘れることが出来た。
龍星くんと若菜ちゃんも連れて来たかったね」
 木の柵に手を掛け、香奈は空を仰いで、ほんの少しだけ惜しそうに口を開く。
香奈の父母に預けた龍星若菜は、大丈夫だろうかと少し心配になりながらも、頷いて言葉を返す。
「今度、つれてくればいいだろ」
 さすがに、室内着のまま、外にいたのでは寒い。香奈を引き寄せると暖を取る為に抱きしめて、デッキチェアに腰掛ける。
 大きめに作られているそれは、二人分の体重を軋みながらも受け止めた。
 俺の脚の間に腰を落ち着けた香奈は、遠慮なく俺に寄りかかって空を見上げる。
「来年は家族でね」
「ああ。でも、あいつらには、まだ分からないと思うぞ」
 そう言ってやると、俺を振り返って、それから、もう一度空を見上げて、唸った。
「そうかも……」
 もったいない、と言わんばかりの声に、軽く笑う。
香奈の腰の辺りで組んだ腕に少し力を入れて、自分の方へ近づける。より密着して、暖かさを分け合う。
「これが、綺麗だって分かるようになったら、連れて来ればいい」
 さらさらと聞こえてくる葉擦れの音が耳に心地よく、二人でいれば寒さも気にならない。
「若、あのさ」
 星を見ていた香奈が、体を捩って、手を伸ばし、俺の頬に触れてくる。
 空を見上げていた俺は、ねだるようなその仕草に視線を落とすと、目が合った瞬間、香奈は恥ずかしそうに視線をそらし、手を離した。
「あのね」
 歯切れの悪い言葉。
 何が言いたいのか、すぐに分かってしまう俺も俺だけれど。
 その言葉を言わせたいので、解らないふりをして寒さにか感動にかそれとも他の何かにか紅潮した香奈の頬を眺める。
 反応を返さない俺に、香奈はもどかしそうに身体を伸ばして、俺の胸に、そっと細い手を置き、喉元や首筋、頬や鼻、そしてもちろん唇にも口付けてくる。何度も何度も、それが何をねだっているのかは、わかる。けれど。
「若……」
 もどかしく呼ぶその声に、何も気づかないふりをして「どうした? 眠いか?」と子供にするように、やんわりと聞く。そんな俺の態度に焦れた香奈の紡ぐ言葉は。
「……したいな」
 それが、香奈の精一杯だったのだろう。
 いつもはキスをして雪崩れてしまうから。そして香奈はあまりねだらない上に、たぶん、それほど好きではないのだろう。淡白なのではなく、恐らく、苦手で、たぶんまだ、怖いのだろうと思う。だからこそ、滅多にないからこそ、きちんと言葉で聞きたかった。
「何を?」
 別に、サディストではない。けれど、たまにはこんな意地悪もいいだろうと、作った真顔で尋ね返す。
 更に顔を赤くした香奈は、俺を睨む。
 内心では“わかってるくせに! ”とでも言いたいんだろう。先の言葉を促すように紅潮した頬を撫でてやる。
香奈は手を伸ばして、俺の頬を摘んで、少し伸ばした。俺にこんな事をしたのは生まれて二十年、香奈だけだ。
「若くんとえっちがしたいんです」
 やけっぱちのように紡がれた言葉。
 まるで幼い子供にするように、よく出来ました、というように、頭を撫でてやる。
 すると耳まで赤くして、俺の頬をつねっていた手を離した。
 悔しそうに俺の胸を叩いて来るので、それが可愛らしく、また面白くて、叩いてくるその腕ごと抱きしめる。
 背中を撫でてやると、胸を叩いていた力が弱まり、大人しく腕の中に納まった。
「恥ずかしいこと、言わせないで」
 恥ずかしさのあまりに、俺の胸に顔をうずめて泣きそうな声で言うものだから。
 俺も悪いことをしたなと反省する。
「悪かった。香奈から言うなんて珍しかったから、つい……俺も香奈としたい」
龍星若菜が生まれてから、滅多にそういう事をしないから。もともと好きではない上に、苦手で、しかも怖がっているので、俺が求めるまで、香奈は何ヶ月でも全くしたがらないことも多い。いろいろな経験の所為で、そうなってしまったのだろうと思う。けれど、俺が求めれば香奈はまず拒否をしない。
 宥めるような俺の言葉に首筋まで赤くさせた香奈の頭を撫でる。
「あの……だって……ほ、星が綺麗だから……だから、えっと……感動して、それで、若と一緒に見られて嬉しかったし……えっと。ご飯も美味しかったし……すごい、今、全部……素敵って言うか、満たされてる? って、言う、か……うー……」
 しどろもどろに喋る香奈
 その頭を撫でていた手をそのままゆっくりと下ろして服の上から下着のホックを外す。無駄にこういうことが上手くなった。香奈が薄手のニットを着ていたからできたことだが、初めての時はお互い自分で脱いだのだった。その後、俺は下着の構造を理解するまで随分かかった。
 俺の行動に香奈が、がば、っと顔を上げた。
 真っ赤な顔で、潤んだ瞳で睨まれても、怖くも何ともないのだが。
 それに、さすがに俺にだって節度くらいある。
「首に腕回せ」
香奈の腕を取って首に回させると、ぎゅ、っと抱きついてきたので、そのまま抱き上げる。
 コテージに戻り、足で窓を閉めると「行儀悪い」と、ふてくされたように注意された。
 でも、俺も結構いっぱいいっぱいなので、即座に無視。片手で抱くのはさすがにきつかったが、鍵をかけてカーテンを閉め、寝室のベッドに香奈を落とす。
「わっ……!」
 落とされた香奈が、何か言葉を紡ぐ前に口付けて言葉を防ぐ。
 それは軽いもので、すぐに唇を離した。
香奈は俺をじっと見て、言った。

「若、愛してる」

 俺は、答える変わりに、紅潮したその頬に口付けた。
 それだけで、答えになることを、俺は知っている。
恋の事なら、どんなにロマンティックでも良いのです。――バーナード=ショウ