回想レミニセンス
 よく、聞かれる。
 “その年でよく結婚したな”
 “辛くないか? ”
 “自分の時間が減って大変そう”
 “遊び足りないだろう”
 そんな事を。

 答えは明瞭簡単で、香奈がいればそれ以外のことは些事、だ。

 実際、結婚などしなくても――それは俺の心情的な問題だ。体裁的にはしなくてはならなかっただろう。結婚と言う制度自体に疑問がないわけでもないが、それを考える余裕はあの時にはなかった――良かった。しても良かった。しようがしまいが俺は、香奈と共にいたいと思う程度には彼女が好きだし、未来において香奈を好きかどうかは、今はわからないけれど、そんなことは今考えたって仕方がない。
 産まれてきた子供を愛せないと解っていて産む母親は然う然ういないだろうし、産まれてくる子供を虐待でするつもりで産む母親も然う然ういないだろう。きっと、おおよその母親は腹の中の子供を愛せるという希望をもって産むんだろうと思う――現代日本では少なくとも。俺たちのように流れ弾に当たるように妊娠してしまって堕胎する決意のつかないまま産んだ人間や、跡継ぎの問題で色々ある人間もいるかもしれないが、普通は少ないはずだ――だから、俺も、香奈を愛し続けられるだろうと希望をもつことしか出来ない。
 結局、先の事なんて何もわからないのだから、今の最善を選ぶしか俺には出来ない。
 確かに自分の時間は格段に減ったし、それをうとましく思うこともあるけれど、そんなものは結婚をした人間全員にあるものだろう。それに俺は一生を独りですごそうとは思っていなかった。それなのに、香奈はなるべく俺の時間を増やそうと苦心してくれている。
 誰かが言っていたが、自由は金のようなものだ。持っているだけでは役に立たない。貯めているだけでは意味がない。使わなければ意味がなく、だから、俺は、自分の手のひらの中にある、自分と言う自由を、自分だけで使うのではなく、自分の家族――香奈と子供に分けることにした。
 しかし、まあ、たしかに二年前の俺は、よく決断したなと、思う。
 子供が出来たとき、正直、何で出来たのかが解らなかった。そういった事は、きちんとしていた。きちんとしていてもできてしまうことがあると様々な例を忍足さんに教えてもらったが――なんでそんなことを知っているんだろうかと思ったが訊かずにいた――それでも納得しきったわけではなかった。香奈を疑うとか、そう言う次元ではないけれど、ただ、何故、と。
 けれど香奈が病院に向う途中で俺の手を握りながら「これはもう宿命だね」と軽く笑って見せたので、そうか宿命なら仕方がないかと何となく受け入れられた。今まで納得できなかった事象なのに、不思議なほど単純に“なるべくしてなってしまったのだ”と乾いた地面に落ちる慈雨のように、抵抗なくその言葉が、染みた。
 妊娠中に不安になったり不機嫌になったりする香奈に少しばかりうんざりとしても、当たり前のように許容できた。それをどこか誇らしく思う。俺はいまだに大人になりきれていないんだろう。二十にもなって、困った事だけれど。
 そして、さほど子供は好きではないという自己判断が覆されるほど、産まれてきた実子は可愛く、それを授けてくれた香奈をより一層愛しくなったようだった。これは言葉にして言わないけれど。それでも、俺が双子の相手をしていると、香奈は安堵したように嬉しそうに俺たちを見ていることが多く、少々照れるような、なんとも言いがたいが、こそばゆいような気持ちにもなった。
 今のところ、自分の判断は何も間違っていないと確信ができる。
 今後はどうかわからないけれど、そんな事は考えたって栓ない。できる限りの予想と想像と努力と思考と経験則と先達の助言と想いから、できるだけ未来により良い選択肢と思えるものを、選ぶだけだ。間違っているか当たっているかはわからない。だから俺は最善と思える努力をして、その選択を“当てさせる”ように、するしかない。

 ◇◆◇

 台所で一人忙しそうに動いている香奈は、そのせわしげな動きは、まるで独楽鼠のようだ。
 双子の喧嘩を両成敗した俺は――ちなみに若干、若菜の優勢だった――いまだにわあわあ泣いてる二匹をどうしたものかとソファの上に寝かせ、両手でごろごろと転がしてみる。若菜の方はたったこれだけで幾分機嫌を治したらしく、涙を止めて俺に転がされるままにはしゃいでごろごろしていたが、龍星には逆効果で怯えて泣き声が更に大きくなった。顔を真っ赤にして、鼻水も伴って泣いている。
「若ー、お蕎麦、あったかいのと冷たいのとどっちがいー?」
 台所から、龍星の泣き声に負けないように声を大きくして問う香奈に、双子を抱き上げてあやしながら思考する。
「俺はもりの方が好きだけど、こいつらにも用意するならかけがいいんじゃないか?」
 産まれたては“ふあ”とか“にゃあ”とかに近い泣き声だったくせに、最近は一人前の大声で泣く龍星に遮られながらも、何とか俺の言葉は香奈に伝わったようで「りょーかーい」と返ってくる。
 香奈や俺の両親に双子を預けられない時は、近場のナーサリーに世話になっているチビどもだが、回りの年上の赤ん坊に触発されたのか、既にそれなりに移動できるようになり、あっちへうろちょろこっちへうろちょろして手間がかかる。若菜は歩きはしないものの掴まり立ちもできるようになっていて、より一層身の回りの危険物に注意するようになった。
 若菜が何か言っているが、残念ながら俺には理解不能なので「今、ママが蕎麦茹でてるから」と、現状を説明してみた。自分に話し掛けられていることを、きちんと理解できている若菜は俺の言葉に嬉しそうに手を上下に振り、その手が泣きやみ始めた龍星の頬にヒットして、龍星が再び泣き始める。

 ああ、煩い。

 大泣きする龍星のみを腕に残して若菜をソファに乗せる。背中を叩いてやり「男なんだからそれくらいで泣くな」とか声をかけてやりして、どうにかこうにか龍星を泣き止ませると、今度は台所から香奈に大声で呼ばれた。なんなんだ、まったく。
「おとうさーん! 若菜ちゃん、危ないから取りに来てー」
 若菜はいつの間にか台所まで這って行っていたらしい。犬みたいにケージで囲ってしまいたいと思いながら今度は龍星をソファに乗せて、香奈の足にしがみつく若菜を無理矢理抱き上げる。母親から引き剥がされ不満そうにじっと見上げてくる娘に「ママは料理してて危ないから、あっちに行こう。若菜はいいこだから我慢できるだろ?」と声をかけてリビングに連行する。愛娘はなんとなく納得いかない雰囲気を漂わせながら唇の端に泡を作っていた。まぬけな顔だった。

 溜息を漏らしながらもフローリングに直接腰を下ろした俺の膝に、掴まり立ち上がった若菜が、俺と視線を合わせてまた宇宙語を発する。まだ、口の筋肉が発達していないからきちんとした会話は望めないと聞いているが、若菜はとにかくよく喋る。“あー”だとか“うー”だとかそれらを繋げた電波っぽい言葉など矢継ぎ早に色々と伝えてくる。しかし残念ながら十中十理解不能だった。
 若菜の言葉に適当に「そうか」とか頷いて、ソファでぽぅっとしている龍星を降ろしてやると、ぺたんと俺の隣に座り指をしゃぶっていた。龍星は指をしゃぶってさえいれば幸せなんじゃないかというほどしゃぶっている。一歳に満たない子供のすることなので放置しているけれど、大きくなってもこの癖が抜けないと、もしかしたら歯並びや親指にも影響があるのでは……と思考している途中に、若菜は俺が話を聞いていないことに気づいたらしく大きな声で不満を訴え始めた。ように見える。ただ大きな声を出したかっただけなのかもしれないが。
 きっと若菜は将来とても煩い女になるだろうと思いながら、それでも小さな両手を俺の膝に乗せて一生懸命何か話してくる姿は可愛い以外の何物でもなく、目に入れても痛くないという言葉は妙な表現ではあるものの、それほどの気持ちだというのが今なら良く解る。
 フード付きの幼児服が贔屓目で見てとても似合っているし可愛いと思う。若菜の話に適当に相槌を打ってやりながら、そのフードを被せると薄桃色のうさぎの耳が立ち上がって、それがまた恐ろしく可愛い。顔が笑いそうになるのを引締めて、すべすべとふわふわともちもちとした赤ん坊特有のその気持ちの良い肌を指先で撫でていると、これ以上ないのではないかと思えるほどの幸福感と――自分の父性の強さに驚くしかない。香奈にだってこんな気持ちを持ったことはない。それは、妻と、娘とに対する俺の持つ種の違う感情の所為なのだろうけれど。
 あうあう喋っている所為で若菜の口の周りは涎でベタベタだが、それを汚いと思わずに可愛いと思ってしまう自分はもう、駄目だ。
 そう思うが、我が子を愛しく思うことが駄目なら駄目でいい。
「あーぁ〜ぅあぇいぁ〜」「そうか」「うーぁー……ぱっ! ぱっ!」「ぱっ? (少なくともパパじゃないな……)」「んまぁ〜あーうぇ」「ママはお節と年越し蕎麦を作ってる。若菜はまだ蕎麦はやめておくか?」「あーきゃー……んまぁ〜ぁまー」「ママは台所だよ」「ぶぅー」「どうした?」「ぶーばー……あーぃぇうぁ〜だぁ!」「お前は本当に小さいな……」
 本当に、会話を試みている自分が虚しくなるほどわけがわからない。けれど、これも少しのことなのだろう。数年できっと若菜はきちんと言葉を発して、もしかしたら俺を罵倒するようになるのかもしれないと思えば、この喃語もどこか愛しく感じる。自分がここまで子供好きとは知らなかった。香奈は昔から好きなようだったけれど。
 ふいに、電車でガキの大群と乗り合わせるてげんなりする俺に、香奈は「まあまあ」と笑顔で宥めていた昔のことを思い出した。あれは多分、通学ではなく、二人で出かけたときだ。あれから何年、香奈と付き合っているのだろうか。
 過去を振り返れば、色々あったと思う。幸せな経験もあった。なければ良いと、あっても仕方ない経験というものもした。全てが途方もなく昔のことで、霞がかったようにしか思い出すことが出来ない。すべてに思い出のフィルターがかかっている。そう感じられることに感謝した。
 時の流れに畏れも感じたが、それと同時にその強大さに安堵もする。
 過去があって今がある。それは理解できる。過去がなければ今がなかったとまで思えるほど俺は達観していない。けれど、今が幸せならば、それでも過去は、ただの過去だ。そう思えることは、やはり幸せなのだと思う。

 ◇◆◇

「じゃあ、頂きます」
「頂きます」
 そんな言葉を交わして背の高い椅子に座った若菜にはうどんを野菜と共に粒状の離乳食を食べさせてやりながら、香奈へと視線を向けると、香奈の隣の龍星は自分で椀を掴み、スプーンを駆使して自分で食事をしていた。もちろんうまくいってはいなかったし、龍星の周りは汚れが飛び散っている。けれどいままでは手で食物を、粘土のように弄ぶことがほとんどで“ぐちゃぐちゃにしたがりますけど、させてあげてください”と保育師に言われて、その食事風景にげんなりしていたのだから、それに比べれば大きな進歩だ。
 そんな様子に、こいつらも成長しているんだなと実感して、勝手に心が嬉しがる。若菜が離乳食をもごもごと咀嚼している間に自分も食事を開始する。香奈は、自分には出汁を張った温かい蕎麦を、俺には薬味を添えたもり蕎麦を出してきた。俺の好みに合わせてきちんと固めに茹でられた蕎麦は、美味い。
「これ、神田の店の蕎麦か?」
「あ、わかる? 美味しいよねー。あと、あの昔ながらのお店って雰囲気が好き」
 まるで自分が蕎麦を打ったかのように照れる香奈に「買いに行ったのか?」と聞くと、無駄に元気に頷かれる。我が家から神田までは、そう近くはない筈だ。香奈のことだから年越し蕎麦には美味しいものをとでも思って足を運んだのだろう。通りで今日は散歩と称して双子を妙に長く連れ回していたわけだ。帰ってきたとき、双子の頬に寒風に煽られてカサカサになっていた理由がよくわかった。問題になるほどの遠出でも時間でもないが、帰ってきた香奈を頭ごなしに叱ったことは、少々反省しなければならないかもしれない。
「自分で打ちたかったけど、お節も作らなきゃだし、大掃除もあったし、ね。子供たちが大きくなったら家族で作りたいな。年越し蕎麦」
「蕎麦なんて、家で作れるのか?」
「……作れるよ?」
 俺の質問に、頭大丈夫? とでも言いたそうないぶかしげな表情をして、香奈がうかがってくる。しかし、すぐに微笑むと軽く首をかしげて「景気回復祈願に、金柑と銀杏と柚子で、金銀融通そば風にしてみました。美味しいですか?」そう、上機嫌に訊いてくる。薬味皿に乗っている柚子の皮の下ろしたものと、丸ままの銀杏と、つゆに絞るよう添えられた半切りの金柑の香り。それを全てそばつゆに投入して、味わってから、言う。
「正直、海苔と山葵だけでいい」
 最後に不味くはないが、と付け足した俺の返答に、香奈は溜息のような吐息を漏らして「龍星くん、スプーン上手になったねー」と会話をそらして、にこにこと龍星に拍手を送っていた。俺はテーブルに上ろうとする若菜を叱りつけ、大人しく食べ始めたことを褒めてやる。褒めてやると若菜は嬉しそうに、さきほどの香奈を真似て手を叩き始めた。
 食後、口の周りから喉の周りから手首までべたべたになった双子を拭いてやり、香奈に請われて二人を散歩に連れて行った。特に若菜は外が好きだ。興奮して身体を上下に揺する娘をなんとかベビーカーに収めるも、嫌がって泣き始める。夕食過ぎの時間に大声で泣かれてはたまらないので渋々抱いてやるとぴたりと泣き止んだ。仕方ないなと溜息を吐いて、龍星だけベビーカーに乗せると、今度は普段大人しい龍星が顔を歪めた。
 どうしようもなくなったので、ぐずる双子を問答無用でベビーカーに押し込み、さっさと散歩を終えてしまう。冷たい空気の中を歩き始めて二分で若菜は泣きやみ、若菜が泣き止めば龍星も泣き止む。まるでまんじゅうのような両手を握ってぶんぶん振り出す若菜と、指をしゃぶり始める龍星は、本当に対照的な性格だ。

 帰宅すると風呂を掃除したから双子を寝かせてくれと言われ、素直に従う。
 少なくとも大晦日くらいは香奈の言うとおりにしようと決めていた。なぜならば香奈は冬休みに入ってからその時間を大掃除にあて家事にあて育児にあて正月の準備にあて、今も、元旦に俺の家を訪ねるための御節を作ってくれているからだった。
 休みに入ったことと、結婚して双子が生まれ初めての正月であることと、たぶんこの二つの所為で香奈は異様に頑張っていた。まるでシンデレラのように朝から晩まで、双子と俺の朝食を用意するところから、この寒いのに“これなら音しないよね”と夜中に窓の桟の埃をねちねち取る所まで働きすぎている。
 一度指摘すると、お嫁さんだから頑張るとか何とかわけのわからない理論の展開を見せてきた。いわゆる屁理屈。本心は張り切っていることが半分と、おそらく俺や俺の家族に至らない嫁だと思われたくないことが半分だろうと想像している。俺が手伝おうとすると、やはり”お嫁さんの仕事! ”などと言いながらやんわり拒否してくる。まあ、拒否しても大掃除は結局、二人で交互に双子の面倒を見ながらやったのだが。
 双子は、大抵夜の散歩の後にはすんなりと寝付いてくれる。今日もそうだった。夜に急に泣き出すこともあるが、それは赤子なので、仕方がない。仕方がないと思えるほどには、俺はそれを受け入れている。
 頂き物の柔らかいシーツに、若菜は仰向けで、龍星はうつ伏せで眠る。何度も香奈龍星を仰向けにしようとしたが、最近は諦めたようだった。確かにその度に大泣きされるのではこちらの精神力もそげてしまうので、それもやはり仕方がない。それでも思い出したように香奈龍星を仰向けに寝かせてはぐずられていた。
 時折痙攣のようにぴくっと震える双子の手足が面白く、少しの間眺めていると、香奈が「ふたりとも寝ない?」と、戻りの遅い俺を心配して顔を出してきた。おそらく食事の後始末や風呂の掃除や、そういったものを全て終えて手持ち無沙汰になったのもあるだろう。
「いや……寝顔を見てた。寝ているときはいいな。起きていると大変だ」
「赤ちゃんは泣くのと寝るのと大きくなるのが仕事ですから」
 俺の言葉に笑いながらそう返した香奈は、双子の眠るベビーベッドを覗き「若のお父さんとお母さんも、こんな気持ちで若のこと見てたんだろうね。私なんかが貰っちゃって悪いことしたかも?」冗談めかして言いながら、香奈は急に振り上げられた若菜の手を、人差し指でつついてから、俺を見て笑う。
「だから、それは俺の台詞だ」
「んー、でも、ほら、私と若で新しい戸籍でしょ? 私が若を貰ったって言ってもあながち間違いじゃないと思うんだけど、そう思われるの、嫌い?」
 どうしてか、香奈は自分が嫁に貰われたのではなく、俺が香奈のものになった、という考え方が強いらしい。独占欲の強さか、それとも、罪悪感でもあるのか。自分が、俺の自由を奪っている――そういう思考に結びつけるのも、この考えが原因だろう。
「ほんと、この子達もいつか結婚しちゃうんだよね。想像するだけでドキドキしちゃうなー」
 そう言って香奈は笑い「まだ寝ないなら、二人で年越ししようよ。去年は私のおなかが大きかったから、お正月どころじゃなかったし」ベッドに腰を下ろしている俺の足元に膝をついて小首を傾げてお伺いを立ててくる。むしろ、幼子がいるほうが正月どころではないような気がするのだが、香奈はできる限りの安静を医者に言い渡されていたので、確か、俺が寝ろ大人しくしろと口をすっぱくして言い聞かせたため、去年の正月は寝ていたはずだ。俺の祖母が御節を持ってきたくらいで。
 ああ、そういえば、香奈の御節を食べるのは明日が初めてになるのか。
 誘われて居間へ行くと、ちょっとした酒のあてが小皿にちまちまと乗せられていた。椅子に腰を下ろすと、香奈がどこかで覚えたらしい凍らせたグラスに、金色の缶をしたビールを注いで一所懸命泡を作って注ぎ――その所為で少量テーブルにビールをこぼしていた――「飲んでのんで」と勧めて来た。
 勧められるまま口をつけて、煮切りに浅く漬けられた赤身に箸を伸ばす。テレビは、やはりというか、紅白歌合戦が映っていた。香奈は俺の正面に腰を下ろして「美味しい?」と上機嫌そうに聞いてくる。
「少しからい」
「そっかぁ……お酒のおつまみだからしょっぱくしてみたんだけど、難しいね」
 言いながら香奈は、俺の手から箸を奪って赤身をつまみ、味わってから炭酸水に濃縮果汁を混ぜただけのものを飲んだ。香奈は、炭酸はそこまで好きではないはずだったが、おそらく気分だけでも酒を味わいたかったのだろう。
 箸をおいてから、香奈は興味もなさそうにテレビを眺め始めた。知っている歌が流れると軽く口ずさみ、時折俺にくだらないことを話しかけながら。そんな香奈の横顔を見ていると、額の丸みがとても龍星に似ているなと、思った。それを口に出すと、香奈はきょとんと俺を見てから、くすぐったそうに笑う。
若菜ちゃんは、眉とか目元とか若そっくりだよね。たまに笑っちゃうもん」
 言いながら、伸ばされた手を、けれど俺は避けなかった。
 香奈は俺の目の辺りに触れたかったらしいが、眼鏡に阻まれて、一度指を引いてからつるに指を伸ばして眼鏡を取り去った。それを丁寧にテーブルの上に置くと、人の眉を撫でてから瞼に指を乗せて「目が入ってるー」とまるで酔っ払いのように馬鹿なことを言ってから手を引いた。
「眼鏡してるのも好きだけど、してないのも好きだな」
 そう言って、テーブルに置かれた俺の眼鏡を、冗談半分でかけた香奈は「似合う?」と訊いてくる。男物のデザインのそれが、似合うはずがなかった。
「明日、何時ごろお伺いしようか。行くとは言ったけど時間は伝えてなかったし」
「行かなくていい」
「そういう訳にも行かないよ。孫の顔見せに行かないと――家が近いんだし」
「どうせ、三が日が過ぎたら、俺の実家の人間は沖縄本家に挨拶に行くんだ、それまでの間に行けばいいだろ」
「うん……でも、私たちは沖縄には行かないし、年始のご挨拶は早い方がよくないかな。三日目だと、旅行の準備でお忙しいだろうし。私の実家なら別の日でも全然いいけど」
「明日だと初詣に連れて行かれそうな気がするから、嫌なんだよ。断るのも面倒だし」
「初詣、嫌い?」
 香奈は軽く首をかしげて、眼鏡を外しながら問いかける。それには、溜息を返した。
「そうじゃなくて。チビ共には元旦の初詣なんて耐えられないだろ」
 そう言うと、香奈はにやにやした口元を隠そうとグラスに口をつけた。言葉にされなかった意図をなんとなく察して、憮然と訊く。
「なんだよ」
「ううん。じゃあさ、最初に私の実家に行って挨拶だけして――って言っても、何か食べさせられるとは思うんだけど。それから、一度家に帰って子供たちお昼寝させて。そのあと若の家にご挨拶しよっか。お夕飯を頂くにしろしないにしろ、そんな時間なら、誘われないでしょ?」
 それはわからなかったので軽く肩をすくめる。
「まあ、誘われた時はお断りするしかないね。元旦に全部やっちゃったら、二日と三日は家族でごろごろしようよ」
 香奈があまりににこにことして上機嫌に言うので、そこに一石投じてみたくなり、言った。
「卒業制作は?」
「卒製は五日から始める……」
「二十五日までだろ? 終わるのか?」
「終わらせなきゃ、学校卒業できないし……終わるか終わらないかじゃなくて終わらせるの。作るの」
 偉そうに言った香奈は、少々困ったような顔で、それ以上話題を続けたくないと意思表示するようにグラスに唇をつけてテレビに視線を向けた。この歳にしては釣り合わない幼い態度に少しだけ笑うと、香奈も俺につられて屈託なく笑う。
 それから、テレビを見ていると、香奈が明らかに眠そうに欠伸をし、指先だけで目元をこする。椅子の上に体育座りをして、己の膝に顔を乗せてうつらとし始めたところで「寝るか?」と訊くと「もーちょっとだから、頑張る」と返ってきた。朝から動き回っている所為で疲れたのだろう。子供らが腹にいる頃は、まだ、子供に影響があってはいけないと、香奈はあまりな無理をすることは少なかったが、一人の身体になると、動き回るようになってしまった。
「無理するな。眠いなら寝ろ。俺も一緒に寝るから」
「んー……大丈夫。本当は初日の出まで起きてたいけど、我慢するから」
「初日の出って……七時近いだろ。年が明けてからすぐ寝れば六時間は眠れる」
「うん。だからちゃんと寝るよ――体調管理も出来ない嫁だって、思われたくないし」
 くあ、と鼻の上に皺を寄せて、猫のように欠伸した香奈は、欠伸してから口元を手で覆った。遅すぎる。くしゃみだと間に合うことが多いが、あくびの時の香奈の動きはゆっくりふくらんでいく餅のようで、いやにもどかしい。
 それから、唐突に「今年は色々お世話になりました」と、香奈がテーブルに頭をつけた。礼をしているというよりは、なんというか、砂浜に流れ着いた海藻のような姿だった。それから、眠気を飛ばすように、空元気に顔を上げると「来年もどうぞ宜しくお願いします」と、グラスを持つ俺の手を勝手に掴んで、変な握手をした。
「こちらこそ」
 とだけ返すと、やっと始まったゆく年くる年に、少し安堵した。あと十五分程度で年明けだ。気合の入った人間はすでに初詣で神社にいるのだろう。初詣は嫌いではないが、睡眠を削るほどには、すくなくとも今は好きではない。
 ビールをあおり、ヅケを完食して流しへ持っていこうとすると「これも」と香奈に空のグラスを差し出された。受け取って流しで洗うと「明日私がやるからいいよー」と慌てたような声が居間から飛んできた。それは無視する。タオルで拭いて食器は仕舞い、缶は潰して捨てる。
 居間に戻ったときにはすでに年明け五分前だった。ソファに移動した香奈が「ごめんね、ありがとう」と言ってくるのには、軽く首を動かして返す。それが感謝に対する首肯なのか、謝罪に頭を振ったのか、自分でもよくわからない。
 それから香奈に誘われるままに、その隣に腰を下ろす。少し前までは己の体温で温まっていた椅子に腰を下ろしていたので、冷えたソファの感触に息を漏らす。香奈は俺の手を取ると、上機嫌そうにテレビに視線を向ける。

「ぜろー! あけましておめでとうございます!」
 カウントダウンすらしていなかったのに、急にテレビ触発されたように声を上げた香奈に驚くと、今年も宜しくお願いします! と、香奈はにこにこと小学生のように無駄に元気に言ってきた。しかも、それから「あ、ちゅーしとけばよかったね。年越しキス……あーあんまりロマンチックじゃないな。もっといい言い方ないかな……」と能天気なことを言ってきた。ああ、馬鹿だな、と思う。去年も馬鹿だったが、残念ながら、香奈は今年も馬鹿なようだ。
「来年はキスしとこうね」
「……年越しで?」
「それまでに、なんかいいネーミング考えとく。早くしないと子供たちと一緒に年越しするようになっちゃうしね」
 それを言うならば“名前を考えておく”だろうに。ああ、馬鹿だな、と年が明けて五分もしないうちに二度も伴侶の可哀想な面を見る羽目になってしまった。
 溜息をかみ殺して「ほら、早く寝るぞ」と促すと、香奈は「あけましておめでとうございます」と、もう一度言った。
「さっき聞いた」
「あけましておめでとうございます」
 三回目。何がとは言わないが、何かと何かが、丁度三回目になった。あけましておめでとうございます、が鳴き声のようになってしまっている新種の動物に、ほとほと呆れて立ち上がると、新種の動物が前脚で俺の手首を掴んでもう一度鳴いた。
「……あけましておめでとう。今年も宜しく――これで満足か?」
 俺の言葉に、香奈は嬉しそうにうなづいて「満足です」と言って立ち上がった。
 俺が溜息をこぼす前に「今年も大好きだから」と香奈は言う。そして笑う。特に二人きりの時には、香奈はいつまでも恋人気分でいる。それに呆れながら、それでも香奈の望みどおりに、今年の初めての口付けをすることになってしまった。