昼にも近い夕方、帰宅すると香奈の姿も双子の姿も見えなかった。今日は香奈も学校が早く終わるため、既に帰宅していると思ったのだが。 もともとは香奈の部屋だった、けれど今は双子の部屋になりつつあるそこに行くと、子供用の布団に転がっている双子と、その横に寝そべって、いかにも気の抜けたぼうっとした顔をしている香奈がいた。 香奈は、俺の姿を認めるとゆるゆると頭をもたげ、人差し指を口元に添えた。それから、また一定のリズムで双子の腹をブランケットごしにぽんぽんと撫で叩き始める。双子は、ふくふくとした、むちむちとした指でシーツを握っている。小さな爪は、まるで精巧な人間のミニチュアのようで、無駄に過剰なほど愛らしい。それを見て、そっと扉を閉めた。 洗濯乾燥機から乾いた服を取り出してたたんでいると、双子を寝かしつけたのかあくびまじりに香奈がリビングにやってきた。 「あー、洗濯物、ありがとう。ごめんね」 「いや」 簡潔に会話を終わらせ、それから、香奈は台所でなにやらもぞもぞとやっていたが、俺が洗濯物をたたみ終わり、簡単に家の片付けをしたころには、終わったようだった。 ソファに腰掛けている俺の、珍しく隣に腰を下ろした香奈は「ねねね」と手中にある箱を見せてきた。一目でわかる。それが何か。 「海外の煙草か」 しかも、おそらく名前からして女性向けだ。 「うん、お土産のハズレ」 「俺は吸わないぞ」 「私も吸わないけど、一度吸ってみたくない?」 「みたくない」 俺の即答に香奈はつまらないといった表情でむくれてみせる。こういったしぐさは、およそ母親らしくないもので、どこかちぐはぐな印象を受ける。しばらくして、これがギャップと言うものか、と何故か納得した。 「じゃあ、ちょっとだけ吸ってみてもいい?」 中学生のような頭の悪い単純な好奇心だが、香奈は成人しているし、好きにすればいいと答える。幼い子供がいるのだから、毎日吸われてはかなわないが、と釘を刺すと、香奈は、それはそうだよ、と苦笑してきた。しかし、何故、いちいち俺に許可をとるのか。それとも、香奈の中で煙草は罪悪であり、後ろ暗いものなのだろうか。だからオープンにしたいのか。よくはわからない。 よくはわからないが、それくらい自分で決めろ、と思う俺は心が狭いのかもしれない。どうでもいいけれど。 香奈は煙草の箱を俺に渡すと、来客用の灰皿をいそいそと取りに行った。 「このアッシュトレイつかってみたかったんだよね」 なぜか、わくわくした様子の香奈に思わず溜息が漏れた。なんだ、ただ灰皿を使いたかっただけか。そういえば、香奈が好きなコレクタブルの灰皿で、香奈が自分で状態のいいものを見つけて半ば衝動買いのように買ってきたものだった。厚い強化ガラス製のそれは、同じシリーズのカップと同様に落としたくらいでは割れない強度と耐熱性を持っている。 なぜか俺も連れ出して香奈はベランダで煙草の封を切った。リビングの床に直接腰を下ろし、足だけをベランダに投げ出して、俺はそんな香奈の様子を眺める。 煙草のパッケージの中からメッセージカードが出てきたが、香奈はあまり興味がないかのようにそれを放り「バニラの香りもするといえばするかなぁ……でも、やっぱり煙草のにおいだね」と犬のように鼻をひくつかせて、開いたパッケージから煙草の香りをかいでいた。 そうして香奈は、地面に灰皿を置き、俺のとなりにしゃがみこみ、煙草にライターの炎を近づけた。馬鹿なので、花火の火でもつけるようにつけていた。もちろん、火がつくはずもない。本当に馬鹿で、けれど「あれ?」とやっている姿が面白いのでしばらく眺めることにした。 しばらく香奈の阿呆さとも馬鹿さとも言うべきものを堪能した後、助け舟を出してやる。 「咥えろ」 言われたとおりに香奈は火のついていない煙草を咥えた。そして、まるでなりたてのホストのように俺がうやうやしく火をつけてやる。「吸え」と言うと、香奈は無駄に勢いよく吸い込んだ。今の香奈の顔は、欲張りすぎて頬袋がぱんぱんになったハムスターのようだ。 そのまま、ぷふともぱふともつかない音で煙を大量に吐き出した。肺には入れていないようだ。 「満足したか?」 聞くと、二・三度吸っては吐きを繰り返した香奈は「美味しくない……煙草の味。においも、煙草のしかわかんない」と不服そうに言っていた。 「そうか」 今までの香奈のライフスタイルにはなかったものなので、どうにも、香奈が煙草を吸う姿はしっくりと来ない。似合っていない。これは、香奈が昔フルフェイスのヘルメットをかぶった時にも思ったのだが、ちぐはぐで、しかしこれはギャップと言うよりも変な奇妙さがある。そういえば、香奈の腹がはちきれんばかりに膨れていたときにも似た感覚だ。 通常ではない――初めて着た服装や、初めて訪れた場所での振舞いなどと似ている。良家の御令嬢が初めてパチンコ屋に入ったときはきっとこんな感じだろう。 しばらく頑張っていた香奈だが「吸えるけど……やっぱり美味しくない。あげる」と俺に押し付けてきた。それは文字通り俺の唇に無理やり突っ込んできたようなものだった。 まだ吸いもする前から「美味しくないでしょ」と何故か自慢げににやにやしながら言われた。どうやら、美味しくなさの認識を、俺と共有したいらしい。共有も共感もとても女らしい感情だなと思う。しかし、酒も煙草も駄目で、香奈はきっと視点を変えれば人生の楽しみの八割を失っているといっても過言ではなさそうだ。俺にはどうでもいいことだけれど。 香奈の期待の瞳に従って、これ見よがしに、ゆっくりと、吸って吐く。子供のころ、祭で買ってもらったハッカパイプを思い出した。そういえば、俺はアレがあまり好きではなかった。食い物でも飲み物でもなく、美味い物でもない曖昧さが嫌いだったのかもしれない。 煙草を自分のメンテナンスに使おうと思うわけでもなければ、別に香りにも味わいにも執着がない俺は、嫌煙家ではないけれど、喫煙者とは反対の位置にいるのだろうと思う。 「だ、だめ!」 のんびりと物思いにふけっていると、急に切羽詰った声を出した香奈が、それと同時に俺の手から煙草をもぎ取った。 俺が口を開く前に、まだ細く紫煙をたなびかせている煙草の先端を灰皿に押し付けた。煙草を無理矢理俺に咥えさせたのは香奈なのに、またこいつは変な行動ばかりするな、と思ってぐりぐりと念入りすぎるほど火を消しているその細い指を眺める。 完全に火が消えると、香奈はかなりイイ笑顔で満足そうに顔を上げた。しかし、不思議そうにそれを眺めている俺の視線にぶつかると、その笑顔が気まずそうに固まる。 「で、何がどうした?」 俺の質問に、なぜか許しを請うような上目遣いで見つめられた。 「で、何がどうした?」 同じ言葉を重ね、引きつった笑顔の香奈の頬を、右手の親指でその顔の面積を広げるようにつまんで伸ばす。 「らんでもないお」 「なんだって?」 「だふぁららんでもないっへば」 「 な ん だ っ て ?」 往生際の悪い女だ。視線を外さないように、一音一音はっきりと発音すると、香奈も負けじと俺を見つめてくる。無駄に力強いその瞳は、夕日に濡れて光っている。その光が濃い色の睫毛に跳ね返り、瑞々しい質感で俺を誘う。 本当にこいつはどうしようか。馬鹿すぎて本当に可愛いんだが。追加で左手で香奈の右頬をつまんでこちらも引っ張ってやる。 「らんれもらいっぺば!」 既に言語として成り立ってない。香奈自身も自分の発言に首を傾げるような仕草をして、己の頬をつまむ俺の手を離させようとぐいぐいと押してきた。人間に抱かれた猫が、その腕から逃げようと肉球で無遠慮に反抗してくる仕草によく似ていた。 「素直に話すなら手を離してやる」 「はなふ」 あまりの即答で、いかにもうそ臭い。けれど、一応、香奈の柔らかい両頬を捕らえていた指を放してやると、その瞬間灰皿を抱えた香奈が部屋の中へ逃げようとした。 その行動は予測済みだったので、素早く腕を伸ばして、窓枠に手のひらを押し付け、腕で香奈の進路を断つと同時に、もう片方の手で香奈の腰を掴んで俺の膝の上に引き倒した。衝撃を軽くする為に、少々行儀悪く足を開き、引き倒された香奈の臀部から上を支えた。その瞬間に、灰皿の中の灰がふわりと浮かび、雪のように散った。ポトリと、火の消えた煙草がベランダの床に落ち、コロコロと転がる。少々汚れてしまったが、まあ、後で掃除すればいいだろう。 香奈はいきなりのことに目を丸くして、唇を引き結んでいた。ぱちぱちと大きくまばたきしながら、俺の膝の上で灰皿を両手で抱いたまま見上げてくる。まるで、そういうぬいぐるみか人形のようだ。 しばらくしてから、わなわなと唇が震え「あっ、あっ、あぶっ、あぶなっ」と振るえた声で訴えてきた。 それを無視して、膝の上で固まっている香奈の腹あたりに手のひらをおき、もう片手を額の上に置く。これで立てないだろうと、香奈の顔を覗くと、うっすら涙を浮かべていた。俺が無理矢理引き倒したのが、かなり怖かったらしい。 「で、なんだって?」 そこで畳み掛けるように問い掛けると、香奈は眉尻を下げた情けない顔で俺を睨み上げてくる。 「頭打ったらどうするの!」 「何で急に態度を変えた?」 重ねて問い掛けると、香奈は、一度視線を外し、しばらくして、涙を溜めたままの視線で訴えかけるように俺を見てくる。その視線の効果は抜群で「なんで、そんなに聞きたいの? どうしても言わなきゃダメ?」と懇願するようにいまだ震えた声で訴えてくる。 そんな顔を見ていると、別に言わなくてもいいと、言いたくなってしまったが、なんだか、それは悔しいので、思いとどまる。その代りに、額を押さえていた手を動かし、その髪を梳いてやる。 「聞きたい」 「言わなきゃダメ?」 「往生際が悪い。俺が聞いたらいけないことなのか?」 頬や髪を撫でながら訊ねると、香奈はぷいと顔をそらしてむくれてみせる。 「香奈」 呼ぶと、香奈は拗ねたように目を瞑った。煙草を吸いたいと言ったり、急に駄目だと叫んだり、本当に情緒不安定で挙動不審な女だ。 「香奈?」 腹に置いていた手のひらも、撫でるように動かし「理由を言わないなら、また吸うぞ。煙草」と言うと「それは駄目!」と、無理矢理身体を起こそうとした。そもそも、煙草など吸う気は、先ほどの一回で、もうない。力強く勧められれば吸うかもしれないが、基本的に俺には必要ないと判断した。が、このハッタリは香奈にはよく利いたようだ。 「もう、絶対、煙草吸ったら駄目」 結局立ち上がれなかった香奈は、俺の膝に上半身を預けたままで、偉そうに言ってくる。 「どうして」 何度目かの同じ問いを発すると、とうとう観念したのか、ぼそりと、弱弱しく、そしてふてくされたように香奈はその答えを呟いた。 意外すぎるその返答に、思わず、その額をはたいてしまった。その瞬間「いたっ」と香奈は眉を寄せる。 「お前……香奈、なんでそう、恥ずかしいことが言えるんだ?」 「だっ、だから言いたくなかったのに……!」 顔を真っ赤にした香奈が、本当に恥ずかしそうに、俺の膝の上でごろごろと身を捩る。俺の方も言われた言葉があまりに恥ずかしいものだったので、香奈の目元に手を置いたまま動けなくなってしまった。香奈はいまだに灰皿を両手で抱いている。 「だ、だって、本当にかっこよかったんだもん〜〜〜〜〜……――」 ヤングアダルトノベルでだって、今時そんな音引きはしない。 「あ、あのね、若っていつもちょっと不機嫌そうにキュって唇閉じてるでしょ? お箸とかも、ねぶり箸とか咥えたりとかしないし……だから、煙草とか咥えてると、すごい珍しいし、なんか、すごい……セクシーっていうか、すごい、かっこいいし……そういうのって、やっぱり、えっと、他の人には見せたくないし……だ、だってホントに色っぽかったんだもん〜〜〜〜〜……――!」 だから、ヤングアダルトノベルでだって、今時そんな音引きはしない。それに、そんなに、恥ずかしい言葉を連呼するな。恥ずかしさの余り、香奈の目元を力強く押さえつけすぎてしまった為に「痛いよ、若。ちょ、ほんといたい!」と、香奈に訴えられた。「悪い」と答えつつも手のひらの力を緩めるだけで、どかすことはできなかった。 「お前 本当に 恥ずかしいことを 言うな」 香奈は、何かもごもご言っていたが、そのうちにうにゃうにゃ言い出し「でも、若だって、私の、はd」「馬鹿か!」――こいつ、本当に馬鹿なんじゃないのか? 「何も喋るなよ。今喋ったら本当に殴るぞ」 早口で念を押すと、香奈は目を覆われたまま、それでも小さく頷くような素振りを見せた。 真冬のベランダで、俺たちは十分以上も、何をやっているんだと思うと、かなり情けなくなりつつ、動くことが出来なかった。本当に、土産物の煙草一箱、一本で俺たちは馬鹿か。 しばらく、そのまま固まった状態の、灰皿を抱いたまま、素直に大人しく身じろぎもしないでいる香奈の姿を眺めていると、どうしようもなくなってしまって、目元を押さえたまま、うっすらとやわらかく開いた唇に自分のそれを軽く触れさせた。その瞬間、香奈の身体がぴくりと震える。 厚いガラスの落ちる鈍い音がし、何だと思った瞬間、頭と首とを何かに押さえつけられた。それが香奈の手だと理解した時には、わずかな苦味と煙の香りをともなった彼女の柔らかい舌が口内にもぐりこんでくる。反射的にそれに応えると、甘い、鼻にかかった、ねだるような香奈の声が漏れ聞こえてきた。それに誘われて、より丁寧に香奈の舌と唇を味わう。 本当に、この寒い季節に、ベランダで何をやっているんだ俺たちは。 |