ドランカーの戯言
「なんで……なんで言ってくれなかったの?」
 ああ、もう、若を責めたいわけじゃないのに私の声はとても攻撃的で、ヒステリックで。それがとてもショックだけれど、気持ちが溢れて抑えきれない。
 どうして、相談してくれなかったんだろう。どうして若は、そんな大事なことを一人で決めてしまったの?
 私は役に立たないかもしれないけれど、でも、全部終わってから、こんな、人から、聞きたくなんかなかった。
 ああ、涙が溢れる。
「なん、で……っ」
 私は知っていたのに。若がとてもテニスを好きなことを。知っていたのに。若が私たちを愛してくれていることを。知っていたのに。
 二つの間で、若が悩んでいることを察せられなかった。それが、そんな自分が、すごく嫌いだ。
 ああ、ごめんね、若。
 そうだよ、私が気付ければよかったんだ。
 若は、もともと寡黙なほうで、だから私は若の視線や表情や声や態度から、本当に言いたいことを宝物を探すみたいに大事に探していたのに――あの時の私が、気付けなかったから。
 取り返しが、つかない。
 なんであの時のやさしい言葉をすんなり信じてしまったんだろう。若だって、いっぱいいっぱい悩んでいたはずなのに。なんで私は、それに甘えることしか出来なかったんだろう。
 言わなかった若が悪いんじゃない。気付けなかった私が悪いんだ。
 ごめん、と言ったら止まらなくなって、こんな、泣きながらごめんばっかり言ってる自分が、きっと他の誰かから見たら気持ち悪くて異常だってことはわかるのに、今の取り乱した私を見て、若はどう思うのか、想像するだけで恐くて、ああ、もう、高校生の頃から変わってない。
 若は、私を簡単には嫌いにならないといってくれているのに、それでも――恐い。
 結局、ごめんというのも恐くて、唇が動かないように必死で歯を食いしばってしゃがんで顔を手で覆う。背中にベッドの縁があたった。
 若は、すごくテニスが好きだった。頑張ってて、そのことに誇りを持っていて、私よりもテニスを優先することだってたくさんあった。それはとても寂しくて悲しい事だったけど、でも、若がそれだけテニスを愛していることが、嬉しくて、私にとっても、誇りのようになってた。
 だから、まさか、若が――
香奈
 ああ、困ってる、若の声。
 若がいっぱい悩んで決めたことに、私がとやかく言う資格はきっとない。でも、相談、してほしかったよ。
 私すら目に入らないほど、テニスを頑張っている若が大好きだったよ。私ね、若が中二の時に、リョマに負けちゃった時にね、あの時にね、若がコートに立って、リョマにワンゲーム負けちゃって、ああ、あと一回リョマが取ったら若が負けちゃうって時にね、どんな気持ちで若はコートに立ってるんだろうって、ちょっと想像しただけでね、泣きそうになったよ。
 あんなプレッシャーの中で、最後まで諦めないで頑張ってて、それが本当にとても若がテニスを好きなんだって、実感させてくれて、すごくね、すごくすごくとてもとても大事な思い出だよ。
 テニスは若にとってとても大事なものだって知ってるから……だからこそ、気付けなかった自分が悔しい。若からそれを奪ってしまった自分がすごく情けない。
 寝室には、私の嗚咽だけが響いてる。

 ◇◆◇

 夕食と入浴の後、ベッドで寝の体勢に入った俺に、香奈が泣いて訴えだした。
 俺に「おかえり」と笑った瞬間から香奈の様子がおかしい事には気付いていたし、何かあるなとは思っていたが、しかしまさか、俺が香奈の妊娠でプロの話を蹴ったことを、今更知られるとは思わなかった。向日さんめ……というか、打診が来ただけで、スポンサーもきちんとは決まっていなかった。とりあえず、その直前に出た大会の主催者が、若手の育成に力をそそいでいたようでテニス留学だの名門校だのの話はしたし、全米大会がどうだの、将来プロにだのの会話ではあったが、プロデビューが決まっていてそれを蹴ったわけではない。
 こうなることが予想できて、当時の妊娠で不安定だった香奈の様子に、あの時は言うことが出来なかった。それに、俺としても、香奈に話す精神的な余裕もなかった。
 ベッド脇のラグマットにへたりこんで涙を拭う香奈に、その前に膝を着いて「香奈」と呼ぶ。一瞬、香奈の嗚咽が止まった。
「ごめん、って何がだ?」
 香奈はなぜか昔からすぐに謝る。そして、自罰的だ。最初は俺を責めていた思考が、どこかで自分を責めるものに変わったんだろう。
「……わ、わたっ私、が……若から、テニ、ス……と……っちゃ……」
「取ってない」
 本当に、鬱陶しい思考回路をしている。
 なにもかもが、お前中心ではないのだとたまに説教をしてやりたくなるが、思い通りにならない事が他人のせいだと思う輩よりは御しやすい思考ではある。
 確かに今回は香奈のためだの香奈のせいだの言えることではあるが、俺が自分で考えて俺のために出した結論なのだから、泣かれる筋合いはない。
「俺が、テニスと香奈を比べて、俺が、俺の人生により良いと思う選択肢を選んだだけだ」
 ゆっくりと発声しながら言うと。
「うそ、つき……」
 嗚咽を漏らしながらも、香奈はすぐに返してきた。
 嘘ではないけれど、確かに単純に説明すればそうだけれど、きっと香奈は、選択するまでの俺の苦渋に気付いているんだろう。
「嘘じゃない」
「う・そだぁ……若、テニス、大好き、なのっに……」
 ああ、これは若菜の泣き方にそっくりだ。
 結局俺は、いくら鬱陶しいと感じても放って置けないほどには、いまだにこの女に惚れているのだろう。
「あのな、二十にもなって二人の子供のいる母親がそんな姿でどうするんだ。とりあえず泣きやめ。落ち着け。ホットミルクいれてやるから、俺が戻ってくる前に冷静になっておけよ」
「み、みるくてぃーが、いい……しなもん、いれ……」
「……わかった」
 泣きながらも図々しく言ってくる。思わず溜息が出る。
 それでもキッチンへ赴き、湯が沸き紅茶葉を香奈が入れている程度に目分量で適当に投入しつつ、なんと言って説き伏せるかを悩む。普通の女ならば、テニスよりも自分をとってくれたと喜ぶところだろうし、その方がこちらとしてもそう素直な方がとても楽だが、香奈は面倒な性格をしている。
 まあ、おそらく、その面倒な性格さえ、俺は許容できるのだろう。香奈は俺の事を意地悪だのサドだの厳しいだの言うが、俺ほど心の広い人間も珍しいのではないか。
 そういえば高校の頃も、香奈はこんな感じだったな、と思い出せば、少し懐かしいような気さえしてしまった。
 さて、とりあえずは香奈に好きなだけ謝らせてから、話を進めていくか。

 ◇◆◇

 若がいれてくれたミルクティーは甘くなくて、私は最近甘いミルクティーにボバを入れるのがマイブームだったので、すこしだけ物足りなかった。
 でも、若を待っている間に、色々ぐるぐる考えて、少し落ち着けた。
 ベッドに、ふたり並んで座って私はちびちびとあつあつのミルクティーを冷ましながら飲む。
「落ち着いたか?」
「――うん。ごめん、とりみだしちゃって」
 泣かないようにって、落ち着けって自分に言い聞かせながらちゃんと、呼吸。
 そうしたら、若が私の顔を覗き込んで、涙で張り付いてる髪の毛を、指の先でぱりっと剥がして耳にかけてくれた。
「そんなにショックだったのか?」
「ショックじゃないと思ってたの?」
「いや……どうだろうな。香奈は泣くだろうとは思った。ただ、お前はすぐに泣くから、ショックってのがどれくらいなのかいまいちわからない」
 なんだか、結構ひどいことをいわれたような気がする。でも、泣きすぎて酸欠の頭は、無駄なことを考える余裕がなくて、ただ「すごくすごくショックだった」て答えた。ああ、また泣きそうだ。
 本当に、大好きだったのに。若は、テニスが、本当に大好きだったのに。だめだ、涙でる。
「私、一人でも、ママとか、パパとかに、お願いして、学校やめて、少なくとも、若が、一人前になるまで、ふんばれたよ。頑張れたよ。どれだけ、時間がかかっても、待ってたよ。なのに、なんで、ひ、ひとりで、決めちゃ……」
「なんで俺の人生のことでお前に許可を得なきゃいけないんだ」
 即答、だった。
 その言い方が悲しかった。
 確かに、若の人生だけどでも、そんな言い方って、ないよ。
 だめだ、悲しすぎて声にならない。涙しか出てこない。なんでそんなこというの。あんなにあんなにあんなに――コートで泣いてた若を、今でも覚えてる。跡部先輩の話ばっかりで、テニスの話ばっかりで、私を放って馬鹿みたいにラケット振ってて。
 そんな若がすごく好きだったのに。
 私には、相談してもらえる権利さえないの? パートナーだと思ってたのに、私は、若にとって、なんなの?
 そんなこと聞いたら、きっと鬱陶しがられる。でも、聞きたい。
「言っておくけどな、プロの打診は鳳にもあった。あいつも蹴って音楽に進んだ。結局、跡部さんと樺地しかプロにはならなかっただろ。俺たちは皆、自分の進む道を自分で選りすぐってるんだ。香奈を巻き込む道なら言ったし、言う必要がないから言わなかった。それだけだ」
「で、も……」
 ああ、そうだ、私は、若がテニスの道をあきらめたことじゃなくて、その時に私に言ってくれなかったことが悲しかったんだ。
 若の話を聞いて、余計に、悲しい。言う必要がないって、私は、その程度の存在なのって、思って、しまう。私はいつも、若に助けてもらってばっかりだったから、だから、若は私を対等の立場だとも、思ってくれてなかったの?

 ◇◆◇

 面倒だったので、香奈の手からカップを奪ってサイドボードに置くと、すぐに口付けた。どうせくだらないことを考えているに決まっている。ならば、考えさせるだけ無駄だ。
 けれど、ベッドに押し倒されて、現状を把握できていない香奈は、歪んだ顔で俺を睨んでまだ泣いていた。と、思った瞬間に頬を張られた。ぺち、と音がする程度で痛くはなかったが、少々不快だ。
「ゆってほしかったよ」
 香奈はそう言って、己の体をベッドの上で転がすと、うつ伏せになってまた泣き始めた。本当に、すぐに泣く。鬱陶しい女だ。俺以外の男には気持ち悪いと思われそうだ。
 そう、俺以外は。
 俺は、この鬱陶しい女に、どうしようもなく惚れているのだから、何もかも仕方ない。受け入れるしかない。それを、俺は自分で選んだのだから。馬鹿みたいに可愛いと感じてしまうのだから。泣いていれば、どうにかして泣き止ませようと思うし、こうやって甘やかしてしまう。勝手に泣いていろと、放置も出来ない。本当に、俺は香奈のどこがこんなに好きなのか。ベッドに埋まった、線の細い身体の中で、唯一うなじだけが白く滑らかな肌を晒していて、齧ってしまいたくなる。
香奈に言って何がどうなるわけでもないし俺の気持ちも変わらない。俺は無駄なことはしない主義だ」
 そう、答えて、これから説明することを考えると、色々と面倒になったので香奈の上にのしかかる。と、二秒で「お、重……っ 降りて……!」と言われた。
 十三歳で百七十二センチだった俺は、その後、男子の十三から十七歳の四年間の平均伸び率十一センチをプラスした。けれど体脂肪率は十パーセント以下を保っているので重いと言われる筋合いはない。
 なので、香奈を圧縮したまま、会話を続ける。
「もう少し、俺にテニスの才能があれば、多分もっと悩んだ。十八のガキだった俺が、自分にはテニスの才能が少ししかないので諦めます、なんて言えるか」
 そう。跡部さん、樺地、チビ助、手塚さん、不二さん、白石さん、石田さん、遠山、千歳さん、真田さん、切原、幸村さん、柳さん、――彼らの強さは別次元の強さだ。そうでなくとも、海堂にすら、桃城にすら、俺は本当に匹敵できていたのかわからない。風の流れも読めなければ、ボールをジャイロ回転などさせられないし、心だって閉ざせないし、チンケだろうがなかろうがオーラだって纏えない。俺は、一線を超えられない。
 テニスよりも古武術や陸上をやればいい、とよく言われた。確かにそのほうが結果が残せたかもしれない。しかし、その道を選べないほどには、テニスが好きだったし、打ち込んでいた。負けたときには、何で生きているのかふしぎなほど悔しいこともあった。
 けれど、もう、その感情は戻らないし二度と手にできないと思う。それはわかっていて、けれど別のものでならあの時の一所懸命さをもう一度味わえるのではないかと、ちょうど、高校の部活を引退したときに考えていた。やはり、俺はませていたのかもしれないが。
「言葉にできる感情ばっかじゃねぇんだよ」
 相談して、二人で決める――その方が、お互いに、特に香奈にとっては満足いっただろう。けれど俺のプライドは。俺の感情は。相談などしたくなかった。大体、プロになるだけなら、なるだけならば、滝さんだってできただろう。
 自分が、ある一定の壁を越えられないことを、身を持って知ってしまったから。俺は、ああはなれないと知ってしまったから。頭では、頑張ればとか、努力すればとか、勝手に思うのに、身体が、無理だと、答える。教える。一生、無理だと、仕方なく、わかるしかない。知るしかない。
 あの辛さも、絶望も悔しさも、全て俺だけのものだ。俺だけのものだ。それさえも暴きたいというのなら、俺は香奈の傍にはいたくない。
 けれど、多分、俺が願えば香奈は暴こうとはしないだろう。あと、二年もすれば、おそらく俺の中でも笑い話に出来る。きっと。それまで待っていろ、と小さな耳に唇をつけ、直接吹き込んだ。
 それから、とあることに気付いて、思わず笑いそうになった。

 ◇◆◇

 若が重すぎて意識が遠のいた。
 次に意識が戻ったときは、若が、何か焦った声で私を呼んでた。若の顔を見たら、自動的に涙が出てきた。
 ら「まだ泣くのか」と驚いた声で言われた。そして、その瞬間、両方のほっぺたを叩かれた。というよりも、若はただ挟んだだけのつもりなんだろうけど……痛い。痛くて一瞬涙が止まる。
「どうでもいいけど、女の勘ってすごいよな」
 鼻の先がくっついたまま、私の顔を固定したまま若が言う。意味がわからなくて大人しくしてたら、ちょっとだけ若が笑う。
「お前、前に“プロ諦めていいのか? ”って聞いただろ。あの時、丁度、テニスで食っていく気はないって答えた三日くらい後だったんだよ」
 なんでかわからないけど、若は、本当におかしそうに笑ってた。
 香奈にも女の勘はあるんだなって、喉を鳴らして、笑ってる。意味がわからなくて。
「くだらないことで拗ねるな。必要なら言うし、傍にいて欲しい時は俺が行くし、香奈も必要なら俺に言えばいいし、弱ったらこっちに来ればいい。疑問があったら聴けばいいし、俺は答えたくなかったら答えない。香奈もそれでいい――そういう訳で、俺は香奈がそこまで俺のテニスを好いてくれていることを知ろうともせずにプロの打診があったときに相談しなくてすみませんでした。でも、俺も感情的にいろいろ言いたくなかったので許してもらえますか」
 なんか、勝手に、若の中ではこの話は完結しちゃったみたいで、でも、私の感情はぐるぐるしてて。
 だから。
「一生許さない!」
 って言って、またわーわー泣いた。
 そうしたら、若はなぜか大笑いして。
香奈、お前本当に可愛いな」
 って、ナニソレ、みたいなこと言われて、ぎゅうっと抱きしめられて、泣きながら逃げようとしても若は放してくれなかった。
 ずっとずっと、若を押しのけようとして頑張ってたら、自分がすごく疲れてることに気付いて、動くのをやめた。
 そうしたら、本当にちょっとだけ若の腕が緩んだ。背中から抱きしめられてる感じだったから、緩められた腕の中でぐるって身体を回して、向かい合う。若は、なんだかすごく機嫌が良さそうだった。なんでかは、わからない。きっと、今の若には余裕があるんだと思った。
 若にとって、私は助けてあげなきゃいけない、慰めてあげなきゃいけない、そういうヤツで、対等の人間としては、きっと見てくれていないから、だから、私が取り乱しても、ネズミがキーキーいってる程度にしか思わないんだろう。
 そういうふうに考えたら、また涙が出てきた。ひく、って喉が詰まった瞬間、若が親指で涙の後を撫でながら、またちょっと笑う。
香奈……本当にアルコール入ると泣き上戸になるな」
 そう言われて、一瞬、考える。お酒なんか飲んでないけど――そう言えば、キルシュワッサーのたっぷり染みたサヴァランを、ご飯の後にデザートとして若と食べたんだった。
 や、でも、さすがにそれくらいで酔っ払ったりなんか……
 若のおかしそうな目が私を見てて、色々言っても「はいはい。また今度な」としか返してくれなくて「チビ共が夜泣きするまえに少し寝ておけ」ってベッドに沈められてしまった。まだ、いっぱい聞きたいことも話したいこともあったのに……
 どれだけ、私が若が一所懸命テニスしてるところが好きだったのかって話してても、若は「はいはい」ばっかりで全然聞いてくれなかった。
 本当に、本当に、テニスにだったら若を盗られたって仕方ないって思うくらい、テニスしてる若が好きだったのに……本当に、好きだったのに……「はいはい。わかったわかった。だから、早く寝ろ」……ばかしめ……!