あまりに張り切っている香奈に、なにもそこまで、と言いたくなって、けれど、とても楽しそうなので口を挟むことは諦めた。 現在は幼い男児がいない、俺の実家からもらってきた古い節句用の鎧兜を着せられた龍星は、居心地悪そうにじっとりと俺を見つめている。けれど、龍星も、おそらくは母親がとんでもなく上機嫌なので、渋々我慢しているのだろう。我慢してやっているつもりは龍星にはないのかもしれないが、そのように見えてしまう。もしくは、どうしていいのかわからず、戸惑っているのだろうか。とにかく、普段ならば、嫌がってちいさな手を振り回して泣いているような状態だろう。 鎧兜が重いのか危なげに座ったまま、けれど龍星は微動すらしない。 午前中は香奈と俺の両親と連れ立って、スタジオに写真を撮りに行き――ちなみに二ヵ月前のひな祭りの時もそのようにした。香奈が。――龍星は素直におとなしくしていたが、一歳児とは思えない、釣り上げられ、甲板に放置されたまま忘れ去られた魚のようなじっとりとした視線でカメラマンの後ろで音の鳴る玩具を振っている女性を眺めていた。普段ならば、ふぇふぇと変な声を出しながらぐずって泣くのだが、今日はそうではなかった。カメラマンに大人しいですね、いい子ですね、とベタ褒めされるほど、普段のように泣きも動きもしなかった。 車の中でのけぞって、何が不快なのか大泣きしていた若菜は、帰宅して気に入りのタオルケットでくるんで抱いてやると、しばらくしてそれをいとけない手で握って、うつらとしはじめた。 しかし、龍星は未だに鎧兜を着せられデジタルカメラを構えた香奈の餌食になっている。何かを訴えるように、じっとりとした視線で俺を見る龍星に「香奈、龍星もそろそろ疲れるだろ。やめてやれ」と言うと、香奈は慌てたように素直にうなづいて「龍星くんかっこよかったよーかっこいい写真いっぱいだよー」などと言いながら、鎧兜を脱がせ始めた。 龍星は、身軽になると、そうするのが義務であるかのように両手を香奈へ向かって伸ばす。香奈は上機嫌で、ねだられたとおりに龍星を抱き上げ、膝を床につけたまま、腿の上に龍星を座らせ、鎧兜を、今度は壁際に飾り始めた。くまのぬいぐるみに着せて。 若菜が俺の腕の中で本格的に昼寝に入り始めたので、そろそろ子供部屋のベッドに連れて行くかと思った頃、室内に無味乾燥だがうるささの目立つ電子メロディが響いた。インターフォンの向こうでは、マンションの自動ドアの前で「日吉ー!」と俺の名前を呼ぶ芥川さんがやけに笑顔で立っていた。 何なんだ、一体。 「若、誰?」 香奈は、己の胸にへばりついている龍星をあやしながら、インターフォンの画面を覗き込んできた。それから、俺の顔を見て「今日、お約束してたっけ?」と首をかしげて聞いてくる。「してない」とだけ答えて、仕方がないので自動ドアを、ボタンを押して開けてやった。 「ほらー! 赤ちゃんめちゃくちゃかわいいだろ?!」 「そうだけど、でも……」 芥川さんが、夢の世界を飛び回っている若菜を腕に抱き、隣の女性に見せている。若菜は寝るとちょっとやそっとでは起きないので、龍星を抱かせるよりは安心だろう。 香奈はスリングを肩に掛け、その中に龍星を入れると、キッチンで茶を淹れて持ってきた。テーブルに四つのカップと、今日お義母さんに頂いた胡桃のクッキーを盛った皿を置き「どうぞ」と香奈が声をかけると「すみません」と恐縮したように芥川さんの連れてきた女性が言う。 龍星は、未だ人見知りで、スリングの中で、怯えるように芥川さんらを覗い、じっと見つめていた。小鳥の雛のような口が開いていたので、香奈が俺の隣の椅子に腰を下ろすと同時に、ごくごく軽く唇をつまんで閉じさせた。それを見て、香奈が笑う。確かに、少しすればまた開いてしまうのだろうけれど。 それにしても、まさか、後輩の家で、恋人に求婚する男がいるとは思わなかった。しかも、その後輩の愛娘を使ってのプロポーズなど、普通は考え付かない。 眠りの国で夢でも見ているのか、時折ぴくりと腕を動かす若菜の、ふくふくとした頬を芥川さんはつつき、ぷっくりと涎で光っている唇に「芥川さん、それをやったら本気で殴ります」。俺の言葉に芥川さんは拗ねたような表情をわざわざ作る。 「えー。超かわいいのに。俺も赤ちゃん欲しい」 「あのね、慈郎ちゃん、赤ちゃんは、簡単には作れないし育てられないんだ。わかるかな?」 幼児に道理を諭すような、芥川さんの彼女の言葉に、この人はなぜ芥川さんなどと付き合っているのかと不思議に思う。 「わかってるC。だから結婚すればいいじゃん」 すればいいじゃん、などと軽く言い放つ芥川さんに頭が痛くなりつつ「そろそろいいですか? きちんと寝かせてやりたいので」と言いながら立ち上がると、芥川さんは名残惜しげに若菜を俺の腕にそっと預けた。熟睡しているらしく、ぐにゃぐにゃとした若菜を抱き上げてベッドに運び、タオルケットを掛けてやってからリビングに戻ると、芥川さんは、絶賛プロポーズ中だった。 香奈は、そんな二人の会話にうまく混ざれるはずもなく、一人ソファに腰を下ろし、龍星が眠れるように背を叩いてやり、幼い耳を己の胸に当ててやって、小さく子守唄を口ずさみながら心臓の音を聞かせていた。眠り下手な龍星は、そう簡単には寝付かない。一歳未満の頃はそうでもなかったが、夜泣きが減るにつれてすんなり寝付かない日が増えてきた。それも個性なのだと、それも成長の証だと、香奈は笑って言う。 香奈の肩に手を置くと、彼女は驚いたように振り向いた。 「あ、若……びっくりした」 「眠りそうか?」 香奈の言葉を無視して、とろんとした瞳で中空を眺めている龍星に視線を落とす。幼い親指を、己の口に爪の先分だけ咥えていたが、今にもその手は脱落してしまいそうに見えた。 「うん、疲れてるみたい。もう寝ちゃいそう」 そう答えながら、香奈は龍星に視線を戻して、スリングに支えられている体を軽く撫でたたいた。 「私、興奮しちゃって、悪いことしちゃったかな……ごめんねぇ龍星くん。鎧重かったよねぇ」 先ほどの撮影会のことを言っているのだろう。香奈は本当に申し訳なさそうに幼い息子に謝っていた。けれど、息子の方は肩の辺りまで眠りの泉に浸っているようで、聞いてはいないだろう。 そんな二人を照らす窓からの光の、オレンジのクリームのような色に染まっていく色合いの変化に、そろそろカーテンを閉めなければ、と思っていると、芥川さんの連れてきた女性の笑い声が響いた。 それに、香奈と同じタイミングで視線を向けた。香奈は首を大きく動かし、顔をそちらへ向け、俺は顔はそのまま龍星へ向いていたが、視線だけを芥川さんらの方へと向ける。こういう時、俺と香奈のリズムが同じことを知る。思考も、嗜好も、思想も、理想も、何もかも違うけれど、この八年の間で、リズムとタイミングは同調してきたなと思う。 香奈もそう感じたのか、おかしそうに首を大きく反らせて俺を見上げて少しだけ笑った。意図していないところで全く同じ意味の言葉が重なり、意識しなくとも二人で歩く時の歩調はいつも一定になり、それが、稀に気恥ずかしい気もする。 愛の最終目的は、究極の到達点は、相手と同化し一つになることという見方もあるが、人間は死んで肉になりでもしなければそんなことは不可能だ。そして、俺にも香奈にも とにかく、ずっと香奈に合わせてきて、遅くなってしまった俺の歩みも、同じタイミングで口を開いてしまって、お互いに“お前から言え”となる状況も、口づけたくなるタイミングが合いすぎて顔をぶつけそうになる時も、俺にとっては、それほど、嫌なことではない。 ああ、もしかしたら、同化を具現化したものが、子供達なのかもしれない。俺と香奈は同化は出来ないから、同化させたものを作る。それが愛でそれが本能なのだろうか。考えても誰も褒めてもくれず、誰も理解もしてくれないことを、こうやって稀に考える。あまりに意味がないのですぐに止めてしまうけれど。 幼い息子が、半分ほど目蓋を落として、あまり可愛らしくない顔で眠気と、何故か闘っている。素直に負けて眠ってしまえば良いのに。ふてくされている時の香奈の顔にそっくりだと気付くと、それでも愛しくて仕方がない。 指を伸ばしてふくふくとした頬を撫でようとすると、香奈に「やっと寝付きそうなんだから、ちゃんと寝てからにしてあげて?」と窘められてしまった。 それから、替わりに触る? とふざけて己の頬をぷくりと膨らませてみた香奈は、口内から空気を追い出すと密やかに笑った。母親の目をして、幼子に眠るようにとわずかな振動を与えている。 「マジマジ?! やったー!」 「今すぐじゃないからね。二十五歳まで待つんだからね? わかってる?」 「わかってる! 二十五歳まで付き合ってて五百万円貯めたら〜、だろっ?」 「そー。結婚費用とかってお金かかるんだよ? ずっと働いてくれないと困るよ? 大学留年したらこの話はなかったことにするからね?」 「オッケー! 俺、もうマジマジ超すっげー頑張る! 五百万円とかすぐ貯めるから!」 「はいはいはい。期待してるから。その前に別れたらナシだかんね」 「俺、赤ちゃんは女の子がいいんだけど!」 「気が早すぎなんだけどー……」 ……どうやら、芥川さんも芥川さんで話がまとまったようだ。大学卒業から二十五まで三年と考えて一ヶ月で約十四万貯めないと五百万にはならないのではないだろうか……二人で七万ずつと考えても、彼女もなかなか厳しい条件を出したものだ。 する気があるのかないのか微妙なラインだが、俺には関係のないことであるし、気に留める気はない。 むしろ、さっさと帰って欲しい、洗濯はしてあるものの、芥川さんとその彼女の前で下着を広げる趣味はないし、勉強をするにしてもテーブルは埋まってしまっている。自室に引きこもって勉強をしてもいいが、それでは客人の対応を押し付けられる香奈に申し訳ない。 龍星は、いまだに夢と現の境をゆらゆらと揺れている様子で、香奈が穏やかな顔をして息子を寝かしつけようとしているその仕草が、俺にはとても好ましく映る。 ◇◆◇ しばらく後にやっと芥川さんらが帰って――またな! と欲しくない言葉をかけられた――、龍星は寝ついてベビーベッドで音をさせながら指をしゃぶって、俺たちは早めの夕食を済ませて、洗っておいた洗濯物を干す程度に、家のことは最低限しか行わずにベッドに横になった。 特に朝からはしゃいで、張り切っていた香奈は、疲れていたのだろう。少し前の龍星のようにとろりとした瞳で寝そべりやけにゆっくりと、しかし何度も瞬きをしていた。 「寝ないの……?」 本を読む俺に、香奈は不満げに模糊とした声をかけてきた。本を読む余裕があるのならば家事でもやれと糾弾しているのかと思ったが、その瞳を見下ろすと、どうやら一緒に寝て欲しいようだった。 ああ、これはまるで双子のようだな、と思う。思いながら、香奈の額を隠す髪をさらりとあげて、まるい額に目を落とす。 「眠くない?」 軽く首を傾げるような仕草をして聞いてくる香奈に「香奈は?」と聞き返すと「すごーく眠い……」と、わかっているだろうと言いた気な、ふてくされた声をかけられる。 それが可笑しく、そして愛らしく、少し意地悪をしてやろうと「俺は全然眠くない」と言うと、香奈はゆっくり目を閉じて、俺の腹を幼子にするように軽く撫で叩きながら、眠そうな声でのんびりと子守唄を歌う。 「お前な」 あんまりにもあんまりな対応に、はあ、と息をつくと、香奈は「いいこだから、ねんねしよう?」と、ずるく微笑んだ。 |