「おぉぉーわったっ!」 振り向くと香奈が、パソコンの前で大声を上げて、ついでに両手も挙げていた。 それから、くるりと振り返って双子の眠っているゆりかごを揺らしていたソファに座る俺に向って突進。 俺にぶつかる直前で減速し、ふわりと背中に抱きつかれた。 時間は十八時になる五分前。 窓からはオレンジ色の太陽光が伸び、室内に赤く細い影を作っている。 「癒し効果〜っ」 俺に抱きつきながら意味の分からない言葉を発する、香奈。 「お疲れ様」 今年で氷帝の大学に入って三年目になる俺は、二年までに出来うる限り単位を取り、就職活動でそれなりに忙しいものの、勉強については去年の比ではなく、それなりに家にいる時間も多くなったし、バイトの時間も増やした。 香奈はピカピカの社会人一年生で、バイトをしていた内装デザイン系の事務所に社員として雇われながらフリーのイラストレーターとしても地道に活動している。 とにかく、ノルマから開放され、幸せそうな香奈へと左手を背後に伸ばして、その頭を撫でてやる。香奈は、気持ち良さそうに笑声をもらした。 今回は、締め切りが酷く切羽詰っていたらしく、仕事期間中、双子の面倒と俺の食事以外、自分の事は全く放っておいた所為で、風呂に入る回数すら減っていたらしく香奈は少し髪が油っぽい。林檎にも似た香奈の香りが少し強く鼻につく。普段はほぼ無臭の彼女の香りが、珍しく感じ取れる程度に強まっているのに、わずかに煽られた。 いつもかけている音楽もかけずに耳が痛くなるほど静かな部屋で集中して仕事をしていた香奈は、この様子を見ると、どうやら締め切りに間に合ったようだ。 「うふふー♪ 文字も全部レイアウト完璧! あとはチェックしてもらったら向こうで入稿してくれるからねーネットって便利! 締め切り延びるし!」 寝不足の所為で嫌な感じのハイテンションだった。耳元だから、余計にうるさい。 「間に合ってよかったな。」 「うんっ♪」 語尾にハートマークが飛びまくっていた。香奈はもっと褒めてと言わんばかりに擦り寄ってくる。お前は犬か。 「今回、作者さんの方が遅れたんだろう?」 「そうそう。言われてた締め切りの半分だよ! 半分! ……でも、大変そうだしね、お話書くのって。仕方ないよ。――まあ、私が若造で舐められてるってゆーのも多大にあると思うんだけどね」 「頑張れ」 「頑張りまくる」 香奈は、ちゅ、っと音をさせて俺の耳にキスをしてから、回していた腕を解いた。 それから俺の隣に腰を下ろしながら、寄りかかってくる。ハイテンションも既に終わりかけているようで、今すぐ眠りたいと言うような様子だった。 「あ、そういえば、若、夕ご飯食べた? 作ろうか?」 今更、そろそろ夕食の時間だと気づいたらしく、欠伸交じりに言ってくる。 「目に隈作って何言ってるんだ」 「うん、実はしょぼしょぼしてる」 俺の眼鏡――ブラウン管や液晶画面の光で少しでも目の負担を軽減するためのもので視力矯正の用途ではない――をかけた香奈は疲れたように、俺に寄りかかったまま笑った。 実は少し前に冷蔵庫の中を漁りなどして、大体の用意は整えてあった。 「暖めれば食べられるようなの、簡単に作っておいたから、少し待ってろ」 そう言い立ち上がると、支えになっていた俺がいなくなったため、ぽすん、とソファに倒れる、香奈。 本気で疲れているようだ。 それでも、俺が暖め直している間に起き上がると雨戸を閉め、室内の電気をつけ、双子のゆりかごを脚で揺すっていた。一歳を迎えた双子は眠っていれば愛らしいが起きていると何をしでかすかわかったものではなく、正直、気が抜けない。 というか、脚は止めろ。 味噌汁なのか味噌味の煮物なのか悩むほど具が多い味噌汁と鰆の西京焼きと、香奈が作り置いたほうれん草の胡麻和え。五分程度で二人分の食事を整える。 「んー、若、明日、大丈夫なんだよね?」 味噌汁の、なけなしのつゆ部分を啜りながら香奈が尋ねてくる。 明日は香奈も店舗のデザインに携わった、大型ショッピングモールの完成記念のパーティらしい。 自治体系ではなく誰でも知っているような大企業が出資しているため、そんなパーティも開かれるのだそうだ。 香奈曰く、“私はほとんど何もしてなくて、先輩の仕事だよ”らしいけれど。 コネを手に入れよう、ツテを作ろう、という人間もそれなりに集まるらしく、俺が出ても何の問題も無いのだと言う。 氷帝学園大学部では、クリスマスパーティなどの催しもされるが、専門学校出身の香奈はあまりパーティに馴染がないため一人では不安だと、俺の分の招待状も貰ってきていた。 「ああ、空けてある」 「やっぱり、会社の人だけじゃね……みんな、他の会社の人に挨拶回りもするみたいだし……私も、顔見せ位はするけど、やっぱりさ。若がいると、安心だから」 自分の我儘で俺を連れまわすことに、僅かばかりの罪悪感があるらしく、言い訳がましく言い募っていた。 俺は、ただ、大丈夫だと頷いてやる。 食事が半ば終わった頃、若菜が物凄い声で泣き出した。 ◇◆◇ 香奈のドレスは、薄い藤色に、スパンコールがあしらわれていた。マーメイドタイプ、というのだったか。スカート部分は香奈の不健康そうに細い腰から、ここだけは女性らしい臀部のラインにピッタリと沿っている。 それは、まあいい。 胸元の露出が少ないのも、好ましい。 腕が出ているのはこの際許す。 ただ。 背が大きく開いており、腰に近い部分まで露わになっている。上の下着の部分は、クリスタルの散りばめられたチェーンが見えていた。 こうして、じっくりと香奈の背を見た事はなかったが、なんというか…… 手を伸ばしてその背を撫でると、香奈が身を捩って俺を軽く睨んだ。 「くすぐったいんですが若様。」 美容院へ行くか自分でセットするか悩んだ結果、自らの手で髪をセットしているために完全に俺を振り向くことが出来ない香奈は、首だけ振り向いている。 「寒くないのか」 普段日に当たらないためにか滑らかに白いそこを掌で慰撫する。いや、愛撫か。 「普通に夏って言われる季節なんですが。若様は暑くないんですか」 香奈はくすぐったそうに、俺の手から逃れようと身を捩っているが、その苦労は無駄に終わっている。 まだジャケットも羽織っていないのに、そこまで暑いわけが無いだろう。 「その呼び方止めろ」 人差指で、背骨の一つ一つをそっと辿ると、ふる、と香奈が震えて不機嫌そうな声を出す。 「じゃ、背中触るのやめて。くすぐったいんだってば」 「少しだけ我慢しろ」 そう指示して、顔を落とす。 そっと、その背中に唇を寄せ―― 「……ッぁ……わ、かし! ああー! もしかしてもしかしてもしかして!」 軽い痛みを感じたのか、香奈は大きな声を上げる。 「もしかして、だな」 白い背に残った赤い痕を、撫でる。 さすがに香奈も髪をコテで巻いている最中は自由に動けないらしい。俺は勝ち誇った気分で香奈から離れ、車の鍵を手にした。 しばらくしてから、香奈はコテを髪から離した。綺麗に巻けているようだった。 「ど、どーするの! こんなの!」 先ほどまで髪を整えるために対面していた鏡に背を映し、その中心にはっきりと赤い痕が残っている事を確認した香奈が声をあげる。 「困るのか?」 わざとらしくしれっと聞いてやると狼狽よりも怒りが強いらしく、キッと睨んできた。 「困ります! 困る! 困らないでか!」 まるで小さな子供のように怒りを露わにを俺を睨んでくるのが少しだけ可笑しく、何となく愛らしい。 「何か羽織れば良いだろう」 さらりと応えてやると、恨めしげに俺を見、唸っている。まるで威嚇する犬のように。 「うー……」 けれど、唸っていた香奈が、ふ、っと息を吐く。 それから苦笑し、コテの電源を落とすとまだ熱いそれを俺に向けた。 咄嗟に避ける。 手の甲を掠めた暖かい空気に、それ本体がどれだけ熱いのか予想がつく。 もちろん本気で当てるつもりは無いのだろうが心臓に悪い。 その上、かなりギリギリだった。 「危ないだろ」 眉を潜めて注意をすると、香奈は未だに不服げに睨んでくる。 「むしろ若が近付く方が危ないよ……若って、ほんっと、パパみたい」 「お義父さんはこんな事しないだろ?」 とんとん、と俺は自分の背中を人差し指で叩いて示してみせる。 香奈は肩を落として、じとりと俺を睨んだ。 「背中隠せって言いたいんでしょ。言いたいことは一緒だよ。あーあ、綺麗な天使の羽があるうちに背中の開いたドレス着たかったのにー」 「天使の羽?」 俺の問いに、香奈は、ぐ、っと身を捩り左手を右肩へ伸ばす。 そして露わになっている背中のでっぱりを撫でる。 「これ」 「肩甲骨?」 「そう。ママがね、天使の羽って言ってて――人はみんな、誰かの天使になれるって。ママにとっては私とお兄ちゃんが天使だったって」 話をしている内に幾分か機嫌を直したらしい。 はにかみ、それから、困ったように笑った。 「私の背中を傷物にしたのは若様ですから、ショールでもカーディガンでもストールでも、適当なものを持ってきてください」 わざとらしい口調で胸を逸らし、偉そうに命令する香奈。 俺は、これ以上、香奈を不機嫌にさせないために苦笑を堪え、恭しく頭を垂れてみせる。 「仰せのままに」 ◇◆◇ 名刺の交換などをしている香奈を、少し離れた場所で見る。特に俺を紹介する必要もないだろうし、仕事の邪魔になるのは御免だった。 しばらくして、香奈は疲れたのか、少し重い足取りで俺の元へと戻ってきた。 立食形式だったので、その手には野菜と、鶏肉の料理が盛られた皿を持っている。 「ごめんね、付き合わせちゃって」 香奈は申し訳なさそうに俺を見ながら、頬に落ちた髪を軽く梳いて整えている。 「気にしてない」 「うん、でも、ごめん。食べる?」 「いや、香奈を待ってる間に結構食べた」 「そっか」 香奈は小さく頷くと、もくもくと料理を食べ始めた。 パーティが開始されてから、仕事関係で挨拶やら何やらと歩き回りほとんど食べていなかったから、腹が減っているのだろう。 「何か取ってくるか?」 聞くと、香奈は口の中のものを一生懸命、急いで咀嚼し、嚥下し、首を横に振った。 「大丈夫」 「そうか」 水の入ったグラスを勧めてやると、ありがと、と答えて一気飲みしていた。 一息ついたのか、その様子を見ていた俺と目が合うと、屈託無く笑う。 「随分、仲良さそうじゃねーか」 その聞き覚えのある声に、俺たちは顔を上げた。 予想通り、跡部先輩だった。 「こんばんは。珍しいですね」 こんなパーティに出席しているなんて、と含めて言う。少し厭味ったらしく聞こえるように。 不思議そうに見上げる香奈に、跡部先輩は笑った。 「ここの会社とはそれなりに付き合いがあってな。それでだ」 跡部先輩の説明に、香奈は、合点行ったように頷く。 「なるほど。こんばんはです。跡部先輩」 「ああ。俺はそろそろ引き上げるんだが、お前らもこんなパーティ飽きてるだろ? 送ってやるよ」 「いえ、車で来てるんで……でも、一緒に帰るってことにしておいて貰えますか?」 香奈は、やはりそれなりに気を張っていたらしく、跡部さんの申し出に、半分だけ同意した。疲れているのだろう。用事は終わったから丁度いいタイミングで帰りたいという気持ちがわかり易すぎるほど伝わってくる。 俺は元々、こんな場所に用はない。香奈が良いのならいつ帰っても構わない。 「まあ、下っ端のお前が先に帰るのは気が引けるよな。――じゃ、行こうぜ」 跡部さんの言葉に、香奈は、会社の人たちに挨拶をして来ると行ってその場を離れた。 そうして二人きりになると跡部さんは意味深な視線を向けてくる。しかも「大変だなぁ?」と、さっきの反撃にか、厭味ったらしい口調で。 意味がわからず、無視を決め込もうとしたが「無視すんなよ」の一言でそれも出来ない。 仕方なく、首を傾いで見せた。 「なんです?」 「あいつも社会に出たばっかりで色々厳しいだろうから、支えてやれよ」 顎先を、香奈のいる方向へ向けた跡部先輩は、肩を竦める。 こういう時、香奈は社会人で、跡部先輩もこういう世界に慣れていて、俺一人が子供のような、言いようのない、なんだろうか……しいて言えば己の不甲斐無さだとか、焦りだとかが、胸中を占める。 しかし、俺はほんの軽く首を振ってその思考を追い払うと、頷きを返す。 「そのつもりです」 俺の答えに、跡部先輩は面白そうに笑う。 「ま、一人で来させなかったのは正解だな。下世話なパーティじゃねぇが……爺共は、若い女が好きだからな。あいつは疲れまくっただろ」 その言葉に、俺は、勝手に眉が寄った。 ◇◆◇ 双子を、香奈の実家に寄って、拾い、家へ戻る。 俺はジャケットをハンガーにかけると、ショールを取り払った香奈を背後から抱きしめる。 さすがに俺も、全く顔見知りの居ない所で、全く関係のない場所で、全く興味もない事柄のパーティとなると、酷く気疲れした。 女は外的要因でも癒されるというが、男は女でしか癒されないという話を聞いた事があるし、この位はパーティに付き合った代金として貰ってもいいだろう。 「んー?」 ベビーベッドに寝かされた双子が何も解っていなさそうな瞳で俺たちを見ている。あー、とか、ぱっ、とか、え〜っ、とか訳のわからない言葉を発しながら、それでも、どこかうつらうつらとした様子で、もう少ししたら寝入るだろうとすぐにわかる。 香奈は、いきなり抱きしめた俺に、不思議そうな声を上げて振り向こうとする。 「まあ、確かに、天使だな」 俺の言葉の意味が、一瞬解らなかったようだが、目の前のベビーベッドへ視線を落とすと、香奈は笑った。 「そうだね」 笑い、そして、香奈はベビーベッドの縁に手を乗せ、もう片方の手で双子の頬をつついている。“ママに会えなくて寂しかった? ”などと聞く声が、とても幸せそうで、俺もそれに引きずられる。 双子に気が向いているのを良い事に、わずかかに離れて、顔を落とすと、俺は、香奈の、その、天使の羽を唇で撫でた。 「っひゃ、くすぐった、ぃ……!」 大笑いする香奈を無視し、肩甲骨に軽く歯を立ててから、解放してやる。 香奈を見ると、笑い死にしそうになっていた。 まったくもって、本当に、自覚のない、しかも、色気もない。 「あはは、くすぐったかった! 龍星くんと若菜ちゃんだけじゃなくて、私も天使に見えた?」 冗談だったんだろう。 その言葉は。 まさか、俺が肯定の言葉を返すと思っていなかったんだろう。 俺の返答に、赤くなる様子が、おかしい。可愛い。愛しい。――面白すぎる。 狼狽え過ぎだ。 可笑しそうに笑う俺に、一矢報いようとしたんだろう。 それは、恥ずかしい台詞を吐くという逆襲。 「私だって若が天使だし王子様だし旦那様なんだからね!」 ……やばい、おもしろい。 かなり今、気が動転しているんだろう。 言ってて、自分で恥ずかしくなったらしい。 本気で馬鹿だ。 何だか訳の解らない事で拗ね始めた香奈の背中にもう一度唇を落とす。 「香奈、機嫌直せ」 「若がからかわなかったらね!」 思わず笑うと、俺の吐息にくすぐったそうに香奈が身を捩った。 そして、ふと、香奈が好んでいるクラシックオペラの、アーティストの曲の歌詞を思い出して、また笑った。 綺麗過ぎるきらいがあるけれど、その歌詞は、確かに、今の俺なら、少し理解できた。 そんな事を思うと可笑しく、また、香奈の背に、天使の羽に、口付けを一つだけ、落とした。 |