拝啓 お母様
 最近、どうですか?
 元気にしてますか?
 我が家は今、若の機嫌がすっごく悪いです。
 帰宅したときから機嫌悪そうだなぁとは思っていたのですが、双子を寝かしつけ始めたら、お父さんの仮面がはがれてしまったみたいです。
 眉間の皺絶賛増量中です。当社比200パーセントアップです。優しさ100パーセントカット。カロリーオフ。
 実はちょっと怖いです。


  理 系   v s   文 系             モチーフ企画:理系

「ひーよし、せーんせ?」
 ふざけて、どうしたの? って意味を込めて。きっとバイト先で生徒さんが若に使ってるだろうソレで彼を呼んでみたら、すっごいすっごい憎憎しげな大きな溜息で返されました。そして右手に持っていたボールペンの先を、メモ用の広告の裏にカツッと乱暴に突き立ててから、若は眉間と鼻の頭に皺を刻んで私を睨みつけました。うーん、威嚇する犬よりも凶悪な悪ーい顔です。……そんな顔、人前でしてないよね?
 てゆーか、私、悪いことしてません。睨まれるようなこともしてません。まったくもー、龍星くんが怯えてるからそんなに苛々しないでほしいなぁ……。
 敏感にも若の不機嫌を感じ取って、私に抱きついて離れない、一歳になってむちむち元気に大きくなってる龍星くんの背中を、さするように撫でてあげる。
 健康にすくすく育ってる龍星くんの健康すぎる重量に負けて、若の座ってるソファに私も腰を下ろすと、若がまた不機嫌そうな溜息を吐いた。いつも私に向ける、“降参”とか“呆れた”とか“仕方ないな”って溜息とは違う、黒い毒ガスみたいな刺々しい溜息。近くにある植物とか枯れそう。雷とか落ちそう。
「――絶対に出すと宣言した公式を、何で間違えるんだ」
 苦々しげに呟かれた若の言葉に、私は「あー……」と苦笑する。バイトの塾の生徒さんのテストの結果が良くなかったようです。
「こいつらみんな馬鹿じゃないのか」
 うわあ……。相当怒ってる。
 若はまたまた大きく溜息を吐いて、ソファの背もたれへ疲れたように上半身をぐったり凭れさせて、手のひらで乱暴に前髪を押し上げてから、隣に座ってる私と龍星くんを横目でちらりと見た。私は慣れてしまったけれど、他の人には睨んでいると受け取られてしまう、その視線を、私はあまり嫌いじゃない。
「……おとうさん、そんなにおこらないでー。こわいよー」
 子供っぽい声出しながら、私にしがみついてる龍星くんの腕をつかんで引き剥がし、その小さな手でハンコを押すみたいにぽんぽんと若の腕を叩いてあげる。
 そこでやっと若は龍星くんが、自分に怯えている事に気づいてくれた。まあ、いま私が龍星くんの手を若に触れさせようとしたときに「やっ」とまで言われたら嫌でも気づくんだろうけど。龍星くん、若菜ちゃんと違ってあんまり明確には喋らないし……若菜ちゃんが喋りすぎな気もするけど。
 とにかく、息子に拒絶されてしまった若は、ゆっくり息を吐きながら、少しだけ優しいお父さんの声で、龍星くんに話しかける。
「おいで」
 いまだに桑の木にしがみつくカブトムシのように、藁に縋る溺れた人みたいに、私に張り付いている龍星くんを、若は少し強引に引き剥がして抱き上げて自分の胸の上に乗せた。
 お母様、明らかに龍星くんが若にビビっています。若菜ちゃんなら絶対に若が不機嫌とか気づかなくてにこにこ抱っこされるだろうけど、神経質と言うか敏感と言うかよく気がつくというか、とにかく難儀な子です。あ、でも、若菜ちゃんだったら大泣きする可能性もあるかも。
 そんな難儀な龍星くんは助けを求めるように私を見ている。すっごい情けない顔で、捨てられた仔犬みたいな顔で、ジャンプに失敗した気まずい猫みたいで、とても可愛い。そしてとても可哀想。あんなに怒ってたら、そりゃあ怖いよね。
 泣きそうな龍星くんを宥めるように、若はちいさな背中を、まだ仔猫みたいにふわふわした髪を、撫でてあげている。若の真似をして、私がそのもちもちなほっぺたを撫でてあげると龍星くんは指をしゃぶりはじめた。この子の精神安定剤は自分の親指らしいです。
若菜は?」
「ベビーベッドの住人です」
 そうか、って小さく頷いてから龍星くんの頭を軽くこするように強めに撫でて、若は龍星くんを私に渡す。
 私に抱かれた龍星くんはあからさまにほっとして指をしゃぶるのを止めた。ああ、もう、この子ホントにすごく可愛いんですけど。小さなハンドタオルで押さえるように指を拭いてあげてから、抱っこしてぽんぽんって背中を撫でていると、うとうとし始める。そのままずっと抱いてゆすって撫でてあげて、やっと眠ってくれた。龍星くんは、たまにこうやってすごく甘えん坊になって、私としては可愛い反面、重い……やる事あるのに……とか思ってしまうこともある。
 ママやお義母さんいわく二人ともいい子で手がかからないらしいけど、それって私や若が赤ちゃんの頃はすごく手がかかったって事なんでしょうか。
 最近は、私と若が龍星くんの話をしていると“自分の事を話されている”ってわかるようになって来た彼は、色々と難しい事もあるけど、こうやって眠ってるともうホントに天使みたいに可愛い。思わずにやけてしまいながら龍星くんをベビーベッドに寝かせて、双子のほっぺたにキスをしてから洗い物をする為に腕まくりしてキッチンへ戻る。
香奈
「んー?」
 リビングでソファに座ったままローテーブルでなにやら作業している若に声をかけられて顔を上げると、こっちへ来いって手で招かれる。
「私、食器洗わないとなんですけど」
「いいから」

 よくない。

 よくないけど、若に呼ばれて無視はできない。惚れた弱みって奴です。ホント。それに、こんなふうにちょっとワガママな若はめずらしい。普段なら、終わってからでいいから、とか言うのに。しかたないなぁって溜息を吐いてから椅子に座ってる若のところまで行って、ローテーブルの上のプリントに視線を落としつつ彼のの右肩に左手を置くと、大きな手が私の手を覆うようにかぶさってくる。
香奈……1/x+1/y≦1/2、x>2、y>2の時2x+yの最大値を答えろ」

 無 理 。

 即行で聞かなかった事にして、若の肩から手を引いて逃げようとすると、ぎゅっと強くてを握られて逃げられなくなった。しかも、若が舌打ちしました。
 ていうか、私文系だもん。文系じゃないかもしれないけど少なくとも数学苦手だもん。ていうか今読み上げたそのプリント、早稲田大学教育学部門とか書いてあるんですけど。これ過去の入試問題? よくわかんないけど、こんなハイレベルな高校生だか大学生の数学の問題なんて無理ムリむり。無理すぎる。私が数学をしなくなって何年経ったと思ってるんですか。昔できても今は無理なものがたくさんあるのに、小学校でやる分数の計算ですら必死に思い出さないとできないのに、こんなの聞かないでほしいんですけど。出来ない事が恥ずかしくなっちゃうじゃないですか。もう……。
「いいから、考えろ」
 よくないよ! 髪の毛がほっぺたに当たって痛いくらい何度も首を横に振って回答を拒絶。……もしかして、解答を拒絶? 解答と回答がどう違うのかわかりません。いや今はそんなことはどうでも良くて。
「ええぇ……えっくすぶんのいち たす わいぶんのえっくす だいなりいこーる にぶんのいち……もー覚えてないよ……問題がなんだったか……教え方で悩んでるならまたあとで聞くから。とりあえず洗い物したい!」
 時間が空くと面倒くさくなっちゃうんだもん、掃除とか、洗いものとか。一気にしないとダメな性分なのに。めんどくさくなったら若に押し付けるぞ、って気持ちで軽く睨んでみたら、若はなんだか疲れた瞳をしていた。普通の人なら気の抜けた顔になるのに、彼のそういう顔は半眼で睨んで見えてしまう。
「俺より洗い物を取るのか」

「……なに? ホントにどうしたの? 落ち込み?」
 予想外すぎる変すぎる言葉に、少し困ってしまう。こんなパターンの若は、もしかしたら初めて見るかも。何だかいつもより覇気がない。若にしがみつくみたいに、ソファに座りながら横からぎゅって抱き締めたら、若が溜息を吐いた。ちょっと酷いような気もするけどそのまま抱き締めてても、文句は言われなかった。ああ、これは、若さん、だいぶ弱ってます。
 たぶん、設定した平均点に届かなかったんだと思う。先生と言うのはもちろん生徒の頭を良くするためにいるんだけれど一応テストや試験では平均点だか目標点だかを設定しているらしく、あまり簡単でも難しくてもいけないらしい。
 今更、場所やお金や色々な問題で教育大学の教育学科には行けないけれど、それでも教職を目指すことにした若は、塾講師として成果を上げたいみたいだった。その為に、色々なボランティアに参加したりとかもしてて就職に向かって頑張ってる。主流の一対一の塾でなくて、大人数を相手にする塾を選んだのも、先生になるためにだと思う。
 就職できなかったら、出来てもワーキングプアみたいなことになったら、双子を抱えての生活は、私か若のどちらかの実家に身を寄せなくては保てない。お義父さんも、パパも、ママも、けっこうお金を稼いでいるみたいで――若のお祖父様は土地も持ってるし――下剋上を身上としている若には、そんな生活は耐えられないし考えられないんだろうって思う。きっとお義父さんよりもお金を稼ぎたいと思っているはず。お義父さんを超えたいって思ってるはず。
 今回の結果は、将来を必死につかもうとしてる若にとってはすごく悔しいものだったんだなって、今更気づいた。若は、つらいことがあった時、人を自分から引き離そうとする。辛いから近づかないで欲しい。つらいことを知られたくない。苦しいことがばれてしまうのが、弱みを握られたように感じるんだろうなって。多分、そんな感じなんだと思う。
 でも、天邪鬼なはずの彼は、つらいことがあるとこうやって私には甘えてくれる。
 その為に、私が側にいることを理解して知っていてくれてる。支えあうことは出来なくても、でも、今、この一点だけなら私は若を受け止められる。いっぱいいっぱい、甘やかしてあげられる。そういうことができるって、すごく嬉しい。
 若がつらいのは悲しいけど、こうやって甘えてくれて、私にも役割を与えてくれることが、嬉しい。子どもたちだけじゃなくて、若がそうやって私を私として必要としてくれてるような、そんな嬉しくて誇らしくて幸せな気持ち。
 抱きしめて、撫でて、好きだよって、元気出してって、若に伝わりますようにと祈りながら、強く思う。無理をしないで。きっと全部うまくいくよって。若は素敵な先生になれるよって。
 若は私を楽観的だと言うけれど、だって、そう思っていなきゃ、生きていくのはきっとすっごく辛いことになってしまう気がする。
「今なら、ちょっと失敗しても大丈夫だよ。本番の予行演習なんだし」
 そう言ったら。
「今の生徒だって、本番だ。あいつらの人生に関わる」
 なんて、切り捨てられてしまった。
 私の言葉は、いつも薄っぺらい。本質とか、本当とか、真実とか、真理とか、そういうものからはかけ離れた、口先だけの言葉だという自覚はある。そういうのが嫌いな人も沢山いて、適当なこと言うなよ、とか、わかったようなことを言うなって思われてしまうのも知っている。私の言葉は今しか見ていない、現在をちょっとだけ取り繕うための、未来も過去も無視した言葉。それでも、願いは込められるんじゃないかなって、思う。真実じゃなくても、私が若の『大丈夫』や『ずっと守ってやる』や『一緒にいる』や『助けてやる』に救われたみたいに、それが真実じゃなくても、心が軽くなる事ってあるから。
 適当にならないように、一所懸命考えながら、一所懸命想いながら、それでもやっぱり薄くなってしまう言葉を口にする。
「そんなの、勉強しなかった子たちが悪いんだよ。若の所為じゃない」
「勉強する気にさせるのも、俺の仕事だ」
「うー……そうかも……」
 そうやって切り返されてしまうと、頭の悪い私には慰める言葉が出てこない。降参するみたいに同意したら、若が少しだけ笑ったような気配がして、私は嬉しくなってしまってもっとぎゅっと抱きつく。たぶん、知らない人から見たらベタベタしすぎって思われるだろうけど、双子ちゃんがいない時は、どうしても奥さんやお母さんの仮面を被ることができずにいたりする。照れてしまって、まだうまく、若だけの前で、お母さんできない。パパやママの前でも、照れてしまって、お母さんになり切れなかったり、若と夫婦っぽくできなかったりしてしまう。
「一緒に勉強していけばいいんじゃないかな。先生だって、完璧じゃないし、私みたいな子を天才に出来たら、お給料上げてもらわなきゃやってられないよ」
 やっぱり、若が笑ったように感じて、私は抱きついていた腕の力を少し緩めて、でも若の身体に腕を纏わせたまま、少し顔を傾けて若の顔を覗き込む。
 若は、壁に掛けた文字の大きいシンプルな時計を見上げていた。そろそろ寝なくちゃ、とかそんなことを考えてるのかな、こんな時に。私の言葉なんてどうでもいいってことですか、なんて思って「こら、若」って声をかけたら、すぐに瞳の光を私に向けてくれた。どうして、もう八年も一緒にいるのに、視線で繋がるだけでこんなに好きだと感じさせられてしまう。
「大好きだよ」
 反射で言う。
「知ってる」
 反射で言われる。
「ありがと」
 反射で言う。
「どういたしまして」
 反射で言われる。
 いつものパターン。こんな風に、相手の感情がわかって、いつもの会話をすると安心しちゃう私は、実は理系なのかもしれない。いつものパターンだけじゃなくて、さっきまでみたいな甘えたいっていう意思表示とか、そういうのが、すごく嬉しくて安心する。
 若はたぶん、実は文系で、だから戦略的撤退を嫌ったり、若のご実家で私達がお世話になるのが本当なのに凄く嫌がったり、感情で道を決めたりする。負けたくないって言う気持ちが強すぎて、見てる方は心配でハラハラする。頑張りすぎないでって思うけど、その意地で、科学的なトレーニングや理論じゃなくて、その意地と負けず嫌いとワガママで結果を出してきた人。気合だ、なんて言わないけど、と思ったら少しだけおかしい。
 大手の塾とかに就職するのだって、バイトじゃないのなら、結構大変だから、若は今すごく色々頑張ってる。私みたいに、バイト先の人に気に入られて入社するなんて、そんななりゆき任せは、好きとか嫌とかそういう次元ではなく、若には考えられないことなのかもしれない。
「洗いもの、手伝う?」
 冗談めかして聞いてみたら「報酬は?」と、冗談めかして返された。あ、若、少し機嫌良くなってる。私と会話したことで、気持ちが浮上したんなら、こんなに嬉しいことはないなぁって思う。
「朝ごはんは紅マスの西京焼きにしたげる」
「それ、もう仕込んであるんだろ」
 若は西京焼きみたいな味噌の味のものが好きなので、対価としては充分だろうと自信満々に言ってみたら、溜息と一緒に言葉を返されてしまった。まあ、確かに何もなくても明日は紅マスの西京焼きなんですが。
「駄目?」
 さすがにもう八年も一緒にいれば、若をわかりたいと願っていれば、こういうお願いみたいな言葉を、砂糖をまぶしたみたいにべたべたした甘い声に乗せて、その上に不安のエッセンスを落とすのが、若に気に入られてることくらいはわかる。
 若も私がそれをわかっていていると知っていて、それでも……うん、予想通りに溜息ついた。でも。
「馬鹿が」
 若なりの降参の声。でも、降参するのは嫌じゃないみたいで、少しだけ声が可笑しそうだ。
 ゆっくりと立ち上がった若の肩から、手を滑らせて下ろす。と。
「報酬は、さっきの問題を香奈が解けるまで俺に教えさせろ」
 ……だから私は文系なんですってば……。
 口の中でもごもご反論してみても、若の機嫌がよくなっちゃうと、今度はまた不機嫌になられたり拗ねられるのが怖くて反論できなかったりして。それをわかっている若は、軽く私の頭をぽんと撫でてからキッチンへ向かってしまった。
 結局、対私用に緻密なルート計算とパターンを構築している若のが一枚上手なのかもしれない。