昼寝から目が覚め、母親を呼ぶ龍星の声が家中に響く。若菜のような絶叫ではないものの、半分泣いているような声だ。どうしてか、こういった時は龍星も若菜も俺ではなく香奈を呼ぶ。それは、きっと母親と父親の違いなのだろう。 その呼び声に、簡単な焼き菓子を作り、それを包んでいた手を止めて、香奈は双子の眠る寝室へと向った。 しばらくするとべそをかいていたような龍星の声が聞こえなくなり、また、しばらくすると香奈が、大発見をした科学者のように、大好きな菓子を与えられた子供のように、瞳をキラキラと無駄に輝かせて、龍星を抱きしめてリビングに戻ってきた。 二歳になった息子は、外で母親に抱かれることを好まなくなってはいたが、家の中では甘え癖が抜けない。まあ、まだ二歳なのだから、そんなものだろうと思う。いや、むしろ二歳にしてはませているのかも知れない。 そうして、香奈はなかば興奮した面持ちで、まだとろりとした寝起きの瞳で己の胸に頬を寄せる龍星をソファに降ろし、座らせる。香奈は、俺を一瞥すらせず、けれど俺の服を抓んで軽く引いて意識を向けさせる。 何だと思って視線を向けると、フローリングに膝をつけた香奈は、ソファの上の龍星と目の高さを合わせ、視線を合わせ「龍星くん、ママにちゅーして?」と問う。 龍星が、少しためらってから、幼くたどたどしい発音と声で「どこ?」と香奈に聞き返す。 そのやりとりに、驚く。 今まで、香奈にそう請われればためらいもせずに、それが当たり前として彼女の唇へと口付けていたのに。 「龍星くんは、どこがいい?」 香奈が、更に、追い詰めるように聞く。 「まま、どこ?」 龍星は、やはり少し困ったような照れたような様子で、ママはどこにしてほしい? という意味で香奈に聞き返す。 「龍星くんの、ちゅーしたいところ」 そう言われて、龍星は、一瞬迷ったような仕草をしてから、普段のように香奈の唇ではなく、香奈の頬に、自分の幼い唇を押し付けた。キスというよりも、柔らかい肉と肉のぶつかりと言ったほうが正しいような、それ。 一連のやりとりが終わると、香奈は、自身もソファに腰掛けて、膝の上に龍星を乗せて、抱いた。 「おませさんでしょ」 香奈が、俺を見てどこか得意げにそう言うのに思わず笑ってしまいそうになる。なぜ、そこで香奈が得意がるのか。けれど、こういった精神的な成長の兆しは、親としてはどうしようもなく嬉しいものだと、双子が会話らしきものをするようになってからは、強く理解してもいる。 不思議なものだと思う。そもそも、親になるとはどういうことか、どうすればいいのか、子育ての知識などなかったし、香奈の妊娠からは“父と子の〜”だの“親になる〜”だのと銘打った書物を読み漁りもしてみたが、事実を認識はしたものの、実感は湧いていなかった。 それでも、こうやって成長を目の当たりにすると勝手に心が嬉しがるのだから、人間とはなるほどよく出来ている。 龍星は自分の事を言われ笑われているのだと、おぼろげに察したようで「いやっ」と言うと、眼前にある香奈の胸を、それなりに本気で殴っていた。俺がそれをたしなめると、今度は俺まで殴りだしたので、叱る。 叱られた龍星は、駄々をこねたが、最終的には俺と香奈に暴力を振るったことをしぶしぶ謝った。正確には、謝罪の言葉をとりあえず言ってみていただけだったが。 叱るというのは本当に難しい。怒れるのであれば、楽なのだけれど。 程なくして、若菜も昼寝から目覚めたらしく、寝起きにいきなり大声で泣き出した。壁やドアを隔てているのに、絶叫して泣いているのが、リビングにいてもよくわかった。自分を絶叫して呼ぶ若菜を、香奈は、龍星を俺に任せて迎えに行った。 龍星は寝つきが、若菜は寝起きが、とても悪い。けれど十分ほど香奈にあやされて泣き止む。それまでは、先ほどの龍星と同じように香奈の細い腕に抱かれて、わーわー泣きながら、涙と涎と鼻水でベタベタの顔を、香奈の胸に押し付けていた。 香奈が、最近、室内でエプロン姿でいることが多いのは、その所為だろう。それにしても、たった十分だが、大音量の甲高い喚き声を聞くには長すぎる。 寝汗を含んだ双子のパジャマを着替えさせ、出かける準備をする。すでに午後三時を回り、殺人的な暑さは、拷問的な程度には落ち着いていた。 二時間ほどは双子は寝ていたか。これ以上だと夜更かしをするので丁度良いだろう。寝かせすぎると、俺や香奈が勉強やら家事やらをしている夜中に起きだして、ママだのおとーさんだの言いながら、なかなか寝付かなくて困る。 その後は、遊べだのテレビを見せろだの我が侭三昧で、叱るのも疲れる。 香奈が、外出の荷物を簡単にまとめている間、俺は思いたって、香奈が龍星にした質問を、若菜にしてみる。若菜は何のためらいもなく、思い切りが良すぎるほど俺の唇によだれまみれの唇を押し付けてきた。幼い若菜は、あたりまえだが唇も小さい。口付けと言うよりも、カワハギか何につつかれているような感じさえする。 そう言えば、忙しい時期に、色素が薄く目立たぬから、少しなら大丈夫だろうと洗願後に顔をあたるのをサボった時、俺に口付けた若菜に「ちくちく、いや!」と言われた事があるのを思い出した。結局、若菜はいやだと言いながらも、それがめずらしかったのか、何度も俺の顔を、幼い両手で撫でてきたのだけれど。 そんなことを思い出しながら、龍星にも同じ質問をしたが、香奈が龍星としたやりとりをなぞる事になっただけだった。 なるほど、龍星はませている。 普通、こういうのは女の方が早いのではないだろうか。俺は二歳の時、こんなにませていなかったような気がする。二歳当時の俺は一人で本を読むことが出来ていたらしいと聞いたことはあるが、そのときは本質的な意味など理解せずに文字を形として追っていただけだろう。もしくは兄の真似か。覚えてはいないけれど。 そもそも、日吉の家には他人に口付けるかたちのコミュニケートはなかった。これは、香奈の家のものだ。 もしかすると、女兄弟がいると早熟なのだろうか。 少なくとも、若菜は歳相応だと思う。口から先に生まれてきたのではないかと思われるほどのマシンガントークさえなければ、だが。 ◇◆◇ 胴着に着替えた龍星と若菜が、祖父に型を教わる。 俺の基盤となった、武道の心を身につけさせたいだけで、今は実力の方は特に何も考えていない。やりたければ、続ければいいし、嫌ならばやめればいい。 本当はテニスだの、特に若菜は鳳のようにピアノだのを習わせた方がいいのかもしれないが、俺が就職するまではそれは難しいだろう。 俺に似たのか、とても負けず嫌いな双子は、幼いなりに一生懸命やっている。手合わせの真似事で祖父や父に負け、悔しく泣かされ、発狂したように暴れまわることも多い。途中で飽きてしまう上に、言うことを聞かずに三十分程度しか練習できないこともザラだった。 道場にいる間、双子はまるでアイドルか何かのように可愛がられているので、その間は俺も自由に練習できる。人が多い時間は、双子を連れてくるのはやめてくれと言われるために、それは気をつけているが。空いている時間ならば引退した祖父が隅で丁寧に双子に型を教えてくれる。 古武術は、見ている専門の香奈だけが、祖父や母や兄嫁の小間使いじみてちょろちょろ働きまわっていたが、最近、双子が手合わせから喧嘩に発展した攻防を繰り返すことが多くなったため、道場の隅で、はらはらと見守っていることが多い。 そんな心配性の香奈に、祖母と母は、なぜか“やっぱり良いところのお嬢さんはねぇ”と可笑しそうに話しているのだが、香奈は気付いていない。そして、香奈は中流家庭なのだが、お義父さんもお義母さんも海外出張だの何とかパーティだのが良くある為に、特に祖母には“良いところ”に思えるらしい。俺もわざわざ訂正はしないが。 「龍星! 人の顔は踏んだらダメ!」 びーびー泣いている龍星を、香奈が叱り飛ばす。“ちゃん”やら“くん”やらの接尾語をつけていないときの香奈は、本気で慌てているか怒っている。 若菜は俺にされるがままに鼻血を拭かれていた。濡れタオルを持ってこなかったのは失敗だった。きれいに拭き取れない。鼻が折れてないか心配だったが、曲がっても凹んでも腫れてもいなかったし、龍星が、それほど力の入った――力を上手く伝えられると言い換えてもいい――蹴りを放てるはずもなく、少し血が出ただけで、すぐに止まった。変なあたり方をしたのだろう。 念のために、少々乱暴に若菜の小さな鼻をつまんで確かめてみたが、大丈夫そうだった。鼻骨は折れた瞬間よりも、治す方が痛いので、これには安心した。 鼻にティッシュを詰められた若菜はフガフガしながら泣いていたが、抱きながらあやしている途中で、古武術の型を確認するためにしつらえてある大きな鏡に映った自分の顔を見ると笑い出した。タオルで拭かれた後がはっきりわかる血の染みた顔と、鼻に詰まったティッシュは、なるほど滑稽だ。 龍星の方は、叱られても聞かずに、ただただ香奈にしがみついてずっと泣いていた。若菜に噛まれて血の滲んだ指は重傷ではなかったが、おそらく、とても驚いたんだろう。そういう意味で、若菜の方が豪胆だ。 練習後、夕食に誘われたが、断ろうとすると若菜と龍星が食べていくと強く主張したために、曾孫をとても可愛いがっている祖母の手料理を食べていくことになった。 祖母と母の料理は、一応は和風を基本にはしているものの食い合わせとしてはちぐはぐに感じることが多い。 今日は、春らしい筍と鶏の炊き込み飯に、金沢料理の 香奈は、どちらかと言うと洋食好みのようで、祖母や母に料理のレシピを聞いてはいるものの香奈の好みに改造された料理に慣れた今の舌には、逆に新鮮に感じる味だった。 食事中、若菜が治部煮の鴨の皮を、龍星が炊き込み飯の横に添えられたイナゴの佃煮とを、それぞれ除けているのを見止めて食べるように促す。 「いっぱい食べたら、蹴られたり噛まれたりしても痛くなくなるよ」と香奈に変な促され方をした若菜は「なんで? どうして?」と至極不思議そうに尋ね、龍星は、けれど「まま、ころぎ、たべない」と反論してきた。それは その様子に、祖父は「佃煮はイナゴが一番だ」と龍星と香奈を促した。 哀願するような瞳で俺を見てくる香奈を、即座に睨み返す。結局、香奈は、涙を浮かべながら食べていた。幼い子供の手前、好き嫌いを主張できなかったのだろう。目を瞑って一気に口に入れ、炊き込み飯と一緒くたに強引に嚥下してから、吸い物を一気飲みするという行儀の悪いことをし、兄嫁に同情の視線を贈られていた。 ちなみに兄嫁も母も通った道らしく、兄がにやにや俺を見る以外は、俺を含めて誰もフォローしようとはしなかった。 龍星と若菜は抵抗したり、腹が痛いと仮病を使ったりしながらも、一通りのものを食べ終えた。ちなみに双子が、どうしようもなく残した食事は、全て俺が片付けることになった。 虫を食べたショックで――美味しかったのが、また嫌だと言っていた。我侭な。――壊れたロボットのようになった挙動不審な香奈を助手席に転がし、後部座席のチャイルドシートへ双子を座らせる。 普段はチャイルドシートが嫌だと駄々をこねる若菜も、青い顔で唸っている香奈を見て、おとなしくしていた。女は男に比べて空気を読むのが上手いらしいが、若菜もその通りのようだ。 龍星はと言えば、香奈が普段と違う様子なのを不審に思っているのか、じっと香奈の様子を覗い、時折「まぁま」だの「ままぁ」だの呼びかけている。その度に香奈は「なぁにー?」と明るい声で答えていたが、顔色はまだ悪かった。 帰宅してからも「カリってしてたぁぁ〜……!」などと歯を磨きながら言いつつ、俺に甘えることでショックを緩和させようとする香奈に辟易する。それでも、適当にその頭を撫でてやった。 若菜は若菜で、帰宅直後に「わんわ!」と言いながら、俺にディズニーの南極物語のDVDをねだってくるので、とりあえず香奈が落ち着くまでと、若菜の好きな犬のマヤが活躍している場面からを映してやる。歯磨きは後回しだ。 ちなみに、香奈が犬のことをわんわんと言い、俺が犬と言うので、若菜は「犬って何?」と香奈に聞かれると「えっと、えっと……わんわ!」と答え、逆に「わんわんって何のこと?」と訊かれると「うーんと、うーんと……いぬ!」と言う。この頭の悪いやりとりが好ましい俺も、かなり頭が悪い。 若菜は、画面に食い入るようにテレビのごく近くに腰を下ろしたので、それは抱き上げてソファの位置まで下げさせた。若菜は、それを少し嫌がったが、前に進んでは俺に戻されるのを四回繰り返したところで、しぶしぶ諦めたようだった。癇癪を起こさなかっただけで儲けものだと思ってしまうほどに、普段の若菜はとても強情で我が侭だ。香奈の様子がおかしいので、若菜なりに譲歩したのかもしれない。 そして、歯磨きを終えてソファに座り「虫は、私は、無理だよ……!」と、いまだにウダウダ言ってくる鬱陶しい香奈の隣に腰を下ろして、はいはいと適当に相槌を打ちながら、宥めるように背中を撫でてやる。 すると、急に龍星が邪魔をしにくる。 先ほどまで、香奈が歯を磨いているのについていき、自分も歯を磨いていた龍星は「だめっ」と言いながら、俺と香奈の間に強引に割り込んで必死に俺たちを引き離し、それが成功すると香奈の足に抱きつく。 香奈はその龍星の様子に頬をほころばせた。おそらく、可愛いだの何だのと思っているのだろう。 その隙に俺は香奈に声をかけて、彼女のノートパソコンを借り受けた。そうして、ソファの前のローテーブルで、卒論の資料集めを開始する。良さそうな書物のタイトルを表形式でメモをする。 そのうちに、香奈に抱きついていることに龍星自身が飽きてきたらしく、若菜と一緒に南極に取り残された犬共がアザラシと闘うシーンを、とても真剣に見始める。 きっと、内容はよくはわかっていないのだろうけれど、緊迫したシーンは、食い入るように見るので、なんとなく、このシーンは重要だと思っているのかもしれない。 それを見計らって、香奈が俺の隣にやってきた。作業の邪魔ではあったが、仕方がないので許容してやる。 そして香奈は「お義母さんに、私たちがいるときはイナゴ出さないでってお願いしてもいい? いい?」と半分泣きそうに尋ねてきた。 このあたりはとても素直な香奈に、少々感心する。いい大人の癖に、食べたくないから出さないで下さい、と配偶者の親に言う覚悟があるらしい。アレルギーでもなんでもないくせに、しかも美味だと自分で認めたくせに、それでも嫌なのか。 我が侭に過ぎると思うのは俺だけだろうか。 「好き嫌いするな」 そう切り捨てると、まるで中学の時のように「だって……だって……」と、どれだけイナゴが嫌なのかを切々と訴えてくる。 その訴えを聞くのも面倒だったので、母には俺から伝えてやるというと、香奈はまなじりが裂けそうなほど目を丸くして、頬を茹でられたタコ並みに紅潮までさせて、口の端には我慢しきれない笑みを乗せて「若だいすき! ありがとう!」といきなり抱きついてきた。 そんなにイナゴは嫌なのか。 ザザ虫か、蜂の子でも、母にリクエストしてみようかと思っていると、抱きついている香奈と、抱きつかれている俺の間に、テレビ画面を見つめていたはずの龍星が手を突っ込んでいた。 なんとか俺たちを引き剥がそうと努力している。いつの間に来たんだ、こいつは。 「だめー! だめー! だめぇぇぇええええ!」 ……あまりに必死の形相で泣きながら鼻水までたらしながら俺と香奈を引き剥がそうとする姿に、思わず笑ってしまう。本当に、こいつはマセガキだ。父親に嫉妬してどうする。 香奈が、満面の笑みで、俺を悪の手先とでも思っているかのような龍星を宥めながら、その幼い体躯を抱きしめ、己の膝の上に乗せる。龍星はそれで満足したのか、香奈にやもりのように必死にしがみついた。 すると、今度は若菜が映画よりもこちらに興味がいったのか「若菜のまま!」と言いながら、龍星と、本気で香奈を取り合う喧嘩をし始めた。この程度のことで、こんなことで、本気の喧嘩が出来るというのはある意味貴重だと感心してしまう。 そして双子は、俺たちが本気で喧嘩を止めていないことに気づいたように、本気でお互いを攻撃し始めた。これ以上ヒートアップしたら、夕方のように鼻血でも出しそうだ。 そんな中で、双子を宥めていた香奈が、何を思ったのか急に「ママはお父さんのだよ」と言った。 その言葉をどういう意味で理解したのかは知らないが――俺にも意味はよくわからない。少なくとも配偶者と言う意味で言ったのではないとしか、わからない。おそらく、適当に言っただけだろう。――今度は「若菜のおたあしゃん!」と香奈を殴る若菜と「いやぁ! だめっ!」と俺の膝にへばりつく龍星が、本気で泣き出した。 最後は龍星が「あああああああままあああああ」と泣き叫び、若菜が「いやあああああ!」と絶叫しながら香奈を殴るという、自分たちもどうしてこんなに興奮しているのか理解できていない阿鼻叫喚で、俺は若菜を抱きとめて振り回される幼い拳を押さえるために握り締めながら、笑いが止まらない。 そんな俺に「殴ったんだから叱らないとでしょ」と言いつつも、香奈も震えながら笑っている。この程度のことでも、双子には大問題だったらしい。本気で泣きじゃくり、とうとう興奮しすぎて若菜は漏らしてしまった。 そんな二人を、それを笑ってしまったことに少々罪悪感を感じ、香奈とともに泣き止むように宥め、若菜を寝巻きに着替えさせてやってから大好きなアイスを饗してやった。 それから、何故か、狭い浴槽に四人で詰まるという暴挙をしでかす羽目になったのは、誰の悪意なのか、未だに分からない。 |