| もしかしたら子供たちよりも香奈の方が楽しみにしているのではないか。 一ヶ月前から香奈に打診され、三週間前に俺が受諾した潮干狩りは、潮干狩りがなんなのかをわかっていない子供たちよりも、香奈の方が断然に楽しみにしているように見えた。 子供たちは、香奈の――母親の浮かれ具合に引きずられて、楽しみにしているように見える。母親があそこまで待ち遠しそうにしているのだから、潮干狩りとはきっと楽しいことなのだろうと、そう、思っていそうな気がする。 佐伯さんやら天根やらとも日付を合わせてゴールデンウィークだけは避けて、みんなで千葉の穴場の潮干狩り場へ行こう、ということに、いつの間にかなったらしい。 「エスピーエフとピーエーが、もっと高い日焼け止め……あったはず……」 まだ先だと言うのに、潮干狩りバッグなるものに必要なものを詰め込んでいる香奈は、けれど、詰め込んだものが日常で必要になるたびにそこから引っ張り出している。なんと要領の悪い女だろうか。馬鹿なんじゃないのか。 それを口にして言いはしない。 その代わりに、髪や身体は洗いたくないが湯船には入りたいと、先ほど風呂に入ったにもかかわらず言い出した若菜が、すでに湯船の湯が洗濯機に回されてなくなっているのを見、何故か俺に対して怒って半分泣いているのをあやしてやる。 最近、若菜にとって風呂はプールと同じようなものらしく、浮き輪を持ち込もうとする上、クレヨン状の石鹸で浴室の床や壁に絵をかき、あわあわがどうだのと語り、浮かぶ遊具を沈めては浮かばせして楽しんだりしている。油断していると俺や香奈が一人で風呂に入っているところにいきなりやってきて「ちゃぽんするよ」と、自分も入ると言ってくる。しかし、いざ髪や身体を洗う段になると、いやを連呼するのだから子供はよくわからない。 俺の前で怒り泣きして不満を訴えている若菜とは対照的に、龍星は静かに、家の中をうろちょろ歩き回る香奈のうしろをカルガモの仔のように、せわしげな足取りでとちとちとついてまわり、時折「だっこー」と言っては、両手を伸ばしてそれをねだっていた。 「若菜ちゃーん、こっち来てー」 きらいと、やだと、いやの三つを使いまわして、脱衣所の前で風呂の湯がないことに不満を示していた若菜は、やはり「いやっ!」とむくれてリビングに居る香奈に言い返す。 が、結局は俺に小脇に抱えられて、香奈の元へ行く羽目になった。若菜は、幼児に捕らえられた芋虫のように嫌がって、ぐりぐりとうねうねと動いて俺の腕から逃げようとするので運ぶのも一苦労だった。 「じゃーん。日焼け止めー。パッチテストしようね」 リビングに連れて来られた怒り絶頂の若菜に、香奈はそれを気にした様子もなくドラえもんの道具のようにもったいぶって、白いパッケージの片手でつかめる程度の日焼け止めと、スプレーのように吹き付ける大型の日焼け止めを取り出した。そして、てきぱきと若菜に腕を上げさせ、半そでのパジャマからあらわになった短く幼く柔らかい二の腕の内側に、それぞれほんのわずかに塗りつけ、若菜の好きなキャラクターのプリントされた円形の絆創膏を貼り付けた。これだけであっと言う間に若菜の機嫌が直る。 先日、このキャラクターがプリントされているだけで異様に高価になっている絆創膏を家中に貼って回った若菜は、俺に叱られてからはさすがに手をつけていなかったようだ。 「ミニーちゃんがお顔用の、マリーちゃんが身体用の日焼け止めね」 そう、若菜に説明すると、若菜は何もわかっていないくせに「はぁい!」と元気よく答えた。元気だけは無駄にいい。 見てみると、龍星にはミッキーとスティッチの絆創膏が使われているようだった。香奈は無駄に芸が細かい。ただし、龍星は別段それらのキャラクターが好きという訳ではないので、香奈の趣味だろう。無駄遣いとしか言いようがない。 香奈は節約だのどうのこうの言う割には、こういった無駄なものに無駄な金を使う。しかし、大黒柱のすることなので、目に余るほどでなければ、口を出さないようにはしている。 「じゃ、次は……お父さんもね」 一瞬、俺のことを名前で呼びそうになったのか、香奈は一度固まり、まじまじと俺の顔を見てから、言葉を続けた。その言葉に即答する。 「必要ない」 「だめ、荒れちゃうかもしれないし、日焼けで痛くなりたくないでしょ」 ……俺が中等部時代、テニス部の中でも焼けていた方だということを、香奈は忘れたのだろうか。向日さんと跡部さんは驚くほどの肌の白さで、鳳も野外スポーツの選手とは思えない程度に白かったが、忍足さんと樺地と俺は、それなりに焼けていたはずなのに。今まで日焼け止めで肌が荒れたことなど一度もない。 俺の無言をどう思ったのか「脱皮しちゃうから、ね。ちゃんと、やろう?」と、何故か幼子にするように説得された。これでは俺が駄々をこねているようではないか。 しぶしぶシャツの肩を捲り上げてやると、若菜たちにしたように、俺の腕に施していた。ただ、違うのは俺に使った絆創膏は百円均一よりも安く売っていた味気ない肌色のものだった。誰に二の腕の内側など見せる予定もないが、キャラクターのものではなくて安堵したことは確かだ。 「明日の夜、お風呂の前に剥がしてチェックして、荒れてなければ大丈夫だから」 作業が終わったことを示すように、香奈はとても機嫌が良さそうに俺の肩をぽんと叩いた。本当に、潮干狩りのどこがこんなに楽しみなのか、不思議だ。 ◇◆◇ 潮干狩りの前日、香奈は、まず真っ直ぐに千葉の香奈の祖父の墓に足を運び、それから、やはり千葉の祖母の家へ、俺と双子を伴って訪れた。 庭木の 本当に、性格と言うのは、腹の中ですでに決まっているのかもしれないと思う。もしくは、これが男女の差なのだろうか。ああ、でも、寝巻きのボタンについてだけは、二人ともどんなに時間がかかろうとも自分で外そうとする。変なところでは似ているようだ。そして、あまりの拙さと長い時間の経過に俺と香奈が手を出したくなってしまう。 そうして、何やかやで、近くに住んでいる佐伯さんらと夕食を共にすることになり、佐伯さんが友人まで呼んだので、香奈の祖母の家の庭では、ちょっとしたパーティでもしているかのようになった。 龍星は香奈の傍に常についていたが、若菜はあちこちでちょろちょろし、葵にあやされてきゃっきゃと笑い、佐伯さんの生後半年の長女を見て「あかちゃん!」と言い出し、首藤さんに生っている枇杷をもげと命令していた。幼いながら人をよく見ている。 香奈のスカートを掴んだままの龍星を何とか笑わせようと天根がある意味才能のある駄洒落を言ったが、龍星は笑うどころか、激しく突っ込みをいれた黒羽さんとセットで天根に怯えているようだった。天根か黒羽さんが近づくと、大慌てで香奈の後ろに隠れるようになった。 結局、龍星は最終的に樹さんにのみ心を許したようで、香奈が台所へ立つと「おばーさん」と龍星にとっては曾祖母のところへとちとち歩くか「おとーさん」と俺のところにとちとち歩くか「いっちゃん」と樹さんのところへとちとちと歩いていた。俺が樹さんと呼び、香奈がいっちゃんと呼ぶものだから龍星は時折混ざって「いっさん」などと言って回りに笑われていた。 そんな様子を見た天根が、龍星に嫌われたとひどくショックを受けていたようだったが、そのうち、若菜がどんな駄洒落にも笑うので、いつの間にか自信を回復していた。鬱陶しい。一生回復しなければいいのに。 夕食後に子供たちを風呂に入れると――香奈の祖母がやる気満々で二人を風呂にいれた。浴室から爆笑が聞こえたが、何があったのだろうか――興奮して疲れたせいか、若菜も龍星も、普段よりもずっと早く寝入り、これはきっと明日の朝は馬鹿なんじゃないかと思うくらいに早起きをされてしまうだろうなとすぐに予想がついた。ただでさえ、予定のある日は不必要なほど早く起きて俺たちを泣き声でたたき起こしてくれるのだから。 その後、同じように幼子から自由になった佐伯さんに、香奈は夜釣りに誘われたようだった。香奈の祖母が、せっかくだから行ってらっしゃい、と言ったのだが、香奈は子供たちが心配らしく優柔不断に悩んでいた。俺は特に佐伯さんらと仲が良いわけではないし、香奈が行かないのならば行く気がないというと、葵が「うわぁ仲が良くてすっごく羨ましいです!」などと言ったので、とりあえず睨んでおいた。俺の視線にひるんだ葵を見、黒羽さんが豪快に笑い、その反応の意味がわからない天根がぽかんとしていた。 香奈は、色々と話していたようだが、佐伯さんらから先日の釣果を聞かされて、結局はついていくことにしたらしい。 「サエさんサエさん、五目釣りだよね? 今だとなにが釣れるの?」 運転席についた佐伯さんに、後部座席に並んで座った香奈が、弾んだ声とわくわくとした表情で尋ねる。香奈が意外にも釣りが好きらしいことに驚いた。釣りやらゴルフやらは男の、それも年配の趣味のような印象が、すくなくとも俺にはあったのだろう。 しかし、よく考えれば、夏休みのたびに千葉の祖母の家に預けられていた香奈やお義兄さんが、近所の佐伯さんらに混じって釣りを嗜んでいてもおかしくはない。おかしくはないが、本当に、幼い頃から女の友人が少なかったのだなと思う。 香奈の女の友人は、有田、橘、原、鳥取あたりしかすぐに思いつかない。赤月や竜崎、小鷹、小坂田あたりは年下であるし、吉川や早川とも仲は悪くないようだが時折鬱陶しがられているようにも思える。ああ、不二の姉には驚くほど可愛がられているか。異様なほど少ないわけではないだろうが、香奈の友人は七対三か八対二で男が多いようだ。指摘する気はないけれど。 「うーん。アイナメとか、夜釣りだしアオリイカもかかるかもしれないな。少し早いけどフッコくらいのスズキが釣れるかも」 佐伯さんは車を進めながら、それでも楽しそうに答える。その様子は本当に海が好きなようで、俺にはわからないが釣り道具もめいっぱい積み込まれていた。 「あ、だからバネさん活け締めのために包丁とか持ってきたんだね」 「おう。最初の手間でずっと持ちが良くなるからな」 日に焼けている黒羽さんは、今は普通の会社員だそうだが、海の男と言う表現がぴったりしそうなくらいに逞しく、白い歯を光らせた豪快な笑みを浮かべた。 「日吉さんは釣りはするんですか?」 葵が、俺が会話に混ざっていないことに気を使ったのか、最後部席から声をかけてくる。正直ありがた迷惑ではあるが、昔のように邪険に扱うほど、俺の血の気は多くはなかった。 「いや……あまり経験はないな」 「しない方がいいよ。香奈は穴釣りされば根がかりするし、バッククラッシュしない竿を貸したら、おまつりするし」 俺の言葉に、木更津さんがおかしそうにそんなことを言うが、専門用語が多すぎてよくわからない。とにかく、香奈は壊滅的に釣りが下手なのだなとは理解した。 「ご、ごめん。でも、もう見る専門ですから」 木更津さんの言葉に、香奈は心底反省したような素振りで後ろを振り返って言った。その様子にか、天根が「俺はもう釣られたくない」と落ち込んだようなとにかく元気のない声で言い、香奈が慌てて謝りはじめた。やはりよくわからないが、香奈は天根に針を引っ掛けたことがあるのかもしれない。 血の気は少なくなったとは言え、気分が悪いというほどではないが、こうやって香奈が幼い頃から男と仲良く過ごしていたというのは、なんとなく微妙な気持ちになる。独占欲が強いのだろうか、俺は。さすがにこれは心が狭いだろう。香奈も昔、俺の女の交友関係に凹んでいたことがあったが、あれはまだ中学時代かそこらのはずだった。 少々情けない気分ではあったが、これから香奈とまた色々経験していけばいいかと思えば、気分は浮上した。その程度にはまだ俺は香奈が好きなようで、そのことに安堵する。 香奈が謝り、それに気を良くしてか、教師にクラスメイトの失態を嬉々として報告に来る学生のように、天根らは彼女の過去の無様を俺に報告してくる。その騒がしい車中で、俺の携帯が鳴った。一瞬だけ、車内からそれ以外の音が消え、少々居心地が悪い。しかし、失礼と言い置いて見慣れぬ番号のそれに出た。 「はい。――ええ、そうですが」「はい? 彼女がですか?」「ああ。はい。そうですね」「今は無理ですね」「そうですか……それは。ええ、わかりますが……」「いえ、無理です。他の」「しかし、何故」「……そうですか」「……」「はい、わかりました。ではそちらに向います。夜の十一時には。ええ」「いえ、こちらこそ生徒がご迷惑をおかけして大変申し訳ないことです」「すみませんが念のため、もう一度お名前を頂けますか」「ありがとうございます。はい――それでは失礼いたします」 しんとしていた車内の視線を全身に浴びていることに気付き、溜息を漏らす。不安そうな香奈の顔に、もう一度溜息をつきそうになったが、気を取り直して運転中の佐伯さんに声をかけた。 「すみません、近場の駅まで送ってもらえませんか。ちょっと仕事が入ってしまって。せっかく誘っていただいたのに申し訳ないのですが」 俺の一言に、男性陣は憐れみの視線とねぎらいの言葉を送ってくる。佐伯さんはすぐに駅へと車を走らせた。現在二十時。電車の本数が減っているとは言え二十二時には都内に入るくらいはできるだろう。 香奈は「それって絶対に若じゃなきゃいけないこと?」と理不尽に叱られた仔犬のような、困惑と戸惑いのような変な色を宿した瞳で俺を見つめてきたが「バイトとは言え、仕事に関係することなんだから弁えてくれ」と、言い捨てて、携帯と財布とキーケースだけを持ったまま、上りの電車に乗った。千葉まで運転してきた車は、明日回収すればいいだろう。 まったく――。 なんで、せっかくの休日に馬鹿のために俺が苦労しなければならないのだ。そう思いながらも、最初は俺を毛嫌いしていた小学生が、最近は俺を頼るようなこと言うほど懐いてくれたことを思い出せば、仕方がなかった。しかし、この時間に小学生の親が捉まらないというのは多大な問題だ。親が悪ければ子供も悪いとは思わないが、親が馬鹿で迷惑をこうむるのは子供と教師だけだと思っていた。まさか、家庭教師にまで及ぶとは――学校は何をやっているのかと思ったが、あいつのことだから、俺を呼べと言いまくったのだろう。本当に子供は手間がかかる。――否、俺はそこまで親に手をかけさせた覚えはないが。 それでも、電話を無視して小学生を交番で一晩明かさせるのは、ただのバイトの家庭教師としても、あまり正しくない気がした。いや、子供に頼られている大人としては、かもしれない。 親の所為で苦労している生徒は、塾でも少なからず見る。学力至上主義で子を道具のように扱う親や、努力もなく先祖代々の土地からの家賃などの収入のみで一生何もしていない上にそれが己の実力だと思い込んでいるために要求ばかりが多い親に、子供が邪魔だからとりあえず塾に置いておきたいなどと言い放った親もいるらしい。 もちろん、今の俺には、子供にそれなりの学校に入って欲しいなどと思う気持ちは、多少わからないでもないが――それでも、親がなくとも子が育つとは思う。むしろ、害になる親ならばいない方がいいと思う。親になって強く、そう思う。己が完璧でないことを子に教えられ、日々日々子供らに視野を広げられるようになってからは、子とともに成長する日々を送るようになってからは、より腹が立つ。 けれど――少し、可哀想なことを、したか。 電車の一定のリズムと、手持ち無沙汰な時間に、そんな思考が巡り、しゅんとした香奈の様子を思い出すにつけ、悪かったなと思う。けれど、わかってくれるだろう。きっと。 それでも、ポーズだけでも寂しがって、残念がって見せてやればよかっただろうか。それで何が変わるわけでもないが、それくらいの労力は払ってやっても良かったかと今更に思った。 職務だから仕方がないのだろうが無駄なほどに長い説明を警察から受け、生徒が犯罪を犯したわけではないが、補導を逃れようとして結果的に公務執行妨害だの何だのになってしまっただけということに安堵し、身柄を引き受けたあとは電車がなくなっていたために、なけなしの金でタクシーで家へ送ってやり、その後は生徒の頼みで両親を探す羽目になり、そのまま夜が明けた。金にもならないことを、なんで俺は必至にやっているのだろうか疑問がよぎったがそれを深く考えてしまうと虚脱感に襲われそうな予感がしたので、必至に耐える。 翌日は、やっと二人揃った生徒の両親と、警察とに面倒臭く説明して回る羽目になり、学校には内密にだとか、お前がちゃんと子供を見ていないからだとか、あなたばっかり外でどうだのだとか、そんなことを生徒の両親が言っているのを疲れ果てた目で見た。生徒が、それでも、ありがとうと言ったので、子供に頼られた大人としての義務は、一応果たせたのかもしれない。 それでも、理不尽さを感じるのは俺がまだ学生で精神的に未熟だからなのだろうか。その月は実際に生徒に勉強を教えた日数よりも一日分多い給料を生徒の両親からもらったが、あまり嬉しくはなかった。自給に換算すると悲しくなるのでそれは止めた。 そうして、結局、翌日の夕方まで理不尽に巻き込まれていた俺が潮干狩りに千葉に戻れるはずもなく、車は、香奈が寝こけた双子と、砂を吐かせている途中のバケツにずっしりと沈められているアサリやらハマグリやらを乗せて運転してきた。久々の長距離運転に、普段は近所周辺や決まったルートしか運転していなかった香奈は酷く疲れたらしく、その顔は強張っていた。 おかえり、と言うと、張りのない声で「ただいま」と返される。 双子を寝室に運び、貝が水を飛ばすので香奈の指示でバケツは風呂場に運んだ。夕食は食べてきたのかと訊こうと、リビングのソファに腰を下ろした香奈に声をかけようとしたが、けれど、ひどく不機嫌な顔で「なんで連絡、一つも入れてくれなかったの」とあきらかに怒っている声で問い詰めてくる。 正直、鬱陶しい。 こんなに疲労しているときに香奈の機嫌をとる精神的な余裕はない。また、いきなりこんな話題を振ってくる配慮のなさにも少々苛立つ。 「忙しかったんだよ。一睡もしてない」 そう言うと、香奈は睨んでいた視線を少しだけ揺らし「それは、おつかれさま。頑張ったんだね。――でも、それとこれとは話が違うよ。連絡してくれなかったら、私はすごく心配だし、子供たちも寂しいんだよ? 忙しくても、メールの一通くらいいれられるでしょ」と、攻撃的に一気にまくし立てた。 「仕事だからしかたないだろ。本当に忙しかったんだ」 疲れきっているところに、香奈の言葉は心底鬱陶しいことこの上ない。俺が携帯を弄くるのが好きではないことを、不必要な電話をかけることが好きではないことを、知っているくせに、今の香奈は異常に攻撃的だ。 そもそも、なぜ今話すのか。一度落ち着いてからゆっくり話せばいいと思ってしまう。 「私だって働いてるからそれくらいわかるよ。そういう事を言ってるんじゃないよ!」 けれど、俺の言葉が気に食わなかったのか、急に顔を赤くして怒る香奈が声を大きくして訴えてくる。溜息が、出る。鬱陶しい。 「なら、何に文句があるんだ」 溜息とともに吐き出すと、香奈はリビングを飛び出しながら「わからないならいいですもう! わかるまで若と一緒には暮らせません!」と、叫んだ。急な行動に少々焦る。こんな行動は普段の香奈らしくなく、つまり、これは相当機嫌が悪いということだ。しかし、この程度のことで怒るか、普通。 「待てよ。俺だって疲れてるんだ。休日に仕事したかったと思うのか」 「だから! それはお疲れ様って言ったじゃん! もういいよ! 疲れてるんなら寝れば?!」 香奈の後を追いながら言うと、香奈は、金切り声で怒鳴ってきた。同棲していたときの大喧嘩とは、中学の頃初めてした大喧嘩とは違う香奈の無駄な興奮の仕方に、そして久々の喧嘩に、俺も心底鬱陶しくなって「好きにしろ」と言い捨てた。なぜ、女は普通に会話が出来ないのだろうか。 しかし、予想外なことに、香奈はこのやりとりの後、寝室で寝ている双子を叩き起こして家を出て行った。この時の行動力には驚いた。 どうせ、今までのように部屋に閉じこもって不貞寝などして、翌日には俺に甘やかされて「怒ってごめん」などと謝ってくる、普段のパターンなのだろうと高をくくっていたが、今回はかなり怒っているらしい。 怒りすぎて行動の後先を考えていないし、実際に俺がならば離婚すると言い出すと考えなかったのだろうかと思うが、そんなことを考えていないくらい興奮して怒っていたんだろう。むしろ、してもかまわないほどに怒っていたのか。 どちらにしても、分が悪い。 けれど、ほとぼりが冷めたら戻るだろうと、それに、喧嘩後すぐに電話などしたら、なんとなく負けたような気分になってしまうと、まずはとにかく疲労している身体を寝具に放り込んで睡眠をとることにした。 精神的にも肉体的にも疲労していたのか、夕方に眠ったはずなのに、翌日の朝は普段のランニングを開始する時間よりも一時間も遅く起きてしまい、体内時計が狂ったのかと焦った。とりあえずは、冷蔵庫の中のもので適当な朝食を取り、ランニングは断念し、大学へ向かうことにした。 二限の必修がかぶっているために、鳳と顔を合わせたが、あいつの機嫌の良さそうな顔を見ただけで、今日は酷く腹立たしく、その上、疲れた。そうして、テニスサークルの合宿の日程などを決めろと向日さんに言われたが、それは他人に押し付けて――少なくともサークル内では、俺が妻子持ちだということは周知の事実なので、割合楽に役職を免れられる――塾の数学のクラスで過去問と塾のこれだけは入れろと指示された問題を織り交ぜて作った自作のテストを配り、次のクラスまでの休憩時間でザッと採点をしたが、絶対に出ると言った問題を軒並み間違えられて、さらに気が滅入る。あいつらは人の話を聞いているのか。絶対に出ると言った問題をなぜ間違えるのか。腹立たしいような気持ちで採点を休憩時間内ギリギリで終わらせると、次のクラスでやはり同学年の別のメンバーに数学を教え、最後に今日の記録だの生徒一人一人レポートの簡易版だののような日誌のようなものを書いていると、やはり、マンツーマンの塾の方が、楽かもしれないと思ってしまう。書きあがったそれを社員に手渡して帰宅した。 灯りがついていなかったため予想はしていたが、香奈と双子はまだ帰ってきていないらしい。 さすがに困る。 今回は、香奈は本当に怒っているようだ。俺はどうするべきか、香奈の家か、香奈の携帯かに連絡を入れるべきか考える。考えるが――どうしても、携帯の電話帳で香奈の番号を出すところで止まってしまう。言う言葉が見つからない。これが、俺が怒っていて香奈を追い出したのならば簡単なのだけれど。香奈は、普段は滅多に俺に対して怒らないために、俺の中での香奈の怒りに対応するパターンは、ほとんど同じものだった。違うパターンを出されると、困る。 悩んでいるうちに時間が過ぎ、結局、朝と同じように冷蔵庫の中のもので適当に夕食を取ると、普段と変わらずに床についた。今は夢を見たくないなと思う。きっと、情けない夢を見るだろう――否、そんなことを思う今のほうが情けないか。 さて、明日もまた香奈と双子が戻ってこなければ、どうにかしなくては。どうにかする内容はまた明日考えようと、俺らしくもなく判断を先延ばしにすることにした。部屋が広いとは思わなかったが、静かさには慣れていたはずなのに、今の家の静かさには不気味さを感じてしまうのは、たぶん、俺もほとほと困っているからだろう。 翌日は、今日は一限が同じ必修だった鳳に、まるで女のように「日吉、なやみごと?」などと聞かれ、放っておけと答えた数時間後には何故か忍足さんに、香奈が出て行ったところまでを無理矢理聞きだされた。 「女は追って欲しくて逃げるんや! 出てくんや! そこは絶対追いかけなあかんやろ!」 と物凄く力説されて、非常に腹立たしかった。鬱陶しさもあれば、人の問題に口を突っ込んでくる無神経さにも苛立つ。しかも、追って欲しいって何だよ。なら、そもそも逃げるなよ、と思う。 家庭教師のバイトを終えて、一人で自室で中国語の教材を聞きながらも、意識は集中できてはいない。怒ることが苦手なはずの香奈が、なぜあんなに怒ったのか、何をどう言えばこの喧嘩は収まるのかを考えていると、一瞬、本当に、このまま 思って、驚いた。 ちょっと待て、俺は今、結構危ない状態なんじゃないのか。舌打ちが出そうになった瞬間、家の電話が鳴っていることに気付き、慌ててヘッドフォンを耳から引き剥がしてそれに出た。 ナンバーディスプレイは、非通知であることを告げていたが、受話器から聞こえてきた声は、よく知ったものだった。 『おとーさん?』 「若菜?」 『ままー! おとーさん!』 受話器から、興奮気味のきんきんと高い声が聞こえてくる。耳が痛かったが、それを甘受して若菜に元気かどうかを問う。 『げんきー! あのね、若菜、ごはんたべた!』 と普段と変わらない、わけのわからない返答が帰ってきた。若菜は大抵の質問に「ごはんたべた」か「ちゃぽんした」か「あそんだ!」と言ってくる。 「何食べたんだ?」 『おさかな!』 「美味しかったか?」 『ふt……』 普通と言おうとしたらしいが、香奈の若菜を呼ぶ声が後ろから聞こえてきたかと思うと一瞬無音になり、そして次には龍星が『おとーさん?』となぜか怯えたような声で聞いてくる。その龍星の反応で、香奈が俺に対してまだ怒っているらしいことを知った。 結局、香奈自身が電話口に立つことはなく、今更ながらに携帯から香奈の携帯にかけてみたものの、しっかりと着信拒否されているようだった。結局、香奈からのアクションを待つしかないらしい。香奈の実家に、連絡を入れるべきか、悩む。 悩んだ末、なんとなく部屋の掃除やら、香奈の好きだった料理を見よう見まねに作ってみるやらをしてみた。今まで、香奈の機嫌をとるには、抱きしめるなり頭を撫でるなりをすればよかったのだが、今回は、俺の中で先ほど芽生えた危機感が、それだけでは足りないのではないかと、こんな行動にうつさせたのだと思う。 結局、俺は、香奈と離縁したくないと強く思うほどには、香奈が好きらしい。もちろん若菜も龍星も好きだ。――俺はつまり、この家族を、気に入っているのだと、今更なことに気付かされた。 それにしても、喧嘩は強く怒った方が絶対に勝ちだ。 それに対して、少々腹立たしくもあるが、あの香奈をここまで怒らせた俺にも、恐らく多少の非はあるのだろう。でなければ、こんなこと――家出――など理不尽だと、俺はきっともっと怒っていただろうから。たぶん、俺も悪い。 翌日、帰宅後に、恥を忍んで香奈の実家に電話をかけたが、電話に出たお義兄さんに『俺は若くんの味方だから誓って言うけど、香奈はうちには来てないよ。ま、馬鹿妹は変なところ頑固だけど、ちゃんと仲直りしてやってクダサイ』と、言われてしまった。 では、香奈はどこにいるのか。有田は留学しているはずだし、チビ助も同じはずだ。何日間か幼子二人を連れて泊まる事が出来、衣服などの心配も要らない場所など、あるのだろうか。 まさか、ホテルに泊まり、衣服は購入か洗濯かし、外食しているのだろうか。そこまで金を使えば、貯金を切り崩すか、お互いの両親に無心しなければ、生活費が危なくなる。 それとも、他に俺の知らない男の部屋でも――いや、いくら追い詰められているとは言え、今の自分の思考は最低だ。少し落ち着かなくてはいけない。自分がこんな下種な思考をしてしまったことに軽い衝撃を受けた。 台所でコップに水を注ぎ、あおる。 落ち着け。離縁するつもりならば、長期的に帰宅しないつもりならば、まず真っ先に香奈は実家を頼るだろう。あいつの性格はわかっている。少なくとも落ち着くまでは実家に身を寄せるだろうし、そこから自分で保育所やら勤務先を探すはずだ。そうしないということは、今のところ、これは、ただの喧嘩と家出でしかない。 やはり、香奈の方からのアプローチを待つしかないようだ。けれど、攻められる立場は、苦手だ。今の受身の状況は酷く居心地が悪い。 自動的に出た舌打ちを、それを打ち消すように、家のドアが開き、愛娘の「ただいまー!」という大声が聞こえた。 若菜のはしゃぎ方は半端でなく、俺のぼりという新しい遊びに必至になった上、何度も俺と風呂に入ろうとした。龍星は、香奈の不機嫌を敏感に感じ取っているのか、香奈の傍にぴったりとくっついており、おそらくはそれの原因となったことに、若干の申し訳なさも浮かんだ。 灯台下暗しというべきか、香奈らは俺の実家に身を寄せていたらしい。誰か一人くらい俺に連絡を取ろうとする人間はいなかったのだろうか。実家の人間が、すでに俺ではなく香奈の味方についていることに、やはり溜息が出るような心境だった。 泊まった部屋の活け花や掛け軸の様子や、祖父母やら俺の両親やら兄やら兄嫁やらによくしてもらったエピソードやら、古武術の練習の様子などを嬉しそうに自慢してくる若菜につられ、龍星もぽつぽつと俺に向けて話し始めた。その途中で、ふいに、二人が俺を“おとーさん”と呼んだ日の事を、思い出した。 帰宅した香奈は、子供たちに対しては普段どおりだったものの、俺に対しては言葉が少なく、固くなっていた。それでも、問えば答えたし、聞けば話した。そのことに心底から安堵してしまい、そのことが情けないと同時に、香奈に出て行かれた日から何度も気づいたことだが、やはり俺は本当に香奈がいまだに好きなのだなと強く実感する。 けれど、その素っ気のない態度に、俺も普段に輪をかけて素っ気なく振る舞った為、龍星も若菜も、少しおかしいと思ったのか、今日は、体力を消費するようなことなど何もなかったが、とても早く床についた。そんなことを悟らせてしまうのは、親としてはかなり悪い部類に入るだろうなと、何度目かの自己嫌悪をした。 けれど、“仲直りしろ”とでもいいたげな、その早い睡眠を無駄にする気はない。少し恰好悪い上に、勝負として判定した場合は、負けてしまうけれど、普段通りになるためには、そんな恰好悪い負けのきっかけでも、恐らく必要なのだと自分を納得させる。なしくずしにして、しこりを残しても後々面倒だろう、と負け戦をしに行くことへ気乗りのしない自分を叱咤した。 双子が寝てからは、ずっと、椅子に腰を下ろしてパソコンで無言のまま作業している香奈に声をかける。 香奈は、無視したが、まあ、学生の頃から俺たちの会話はテンポが悪かったので気にしないことにした。 そうして「悪かった」と言えば、香奈は肩を揺らして「何が?」と淡々としきれない声で返してくる。 「言葉惜しみして」 「何が?」 この当たりで、謝ってるだろとなげやりな気分になりそうだったが、息をひとつ吐いてそれはただの逆ギレだと自分を窘める。とりあえず、まずは思いついた謝罪を口にすることにする。心底反省しているとは言いがたいが、理解はしている。いまだに、あの時の俺は本当に疲れていたのだと、俺に気遣ってくれてもいいんじゃないのかと、若干反発するような気持ちもなくはなかったが、謝罪の時にその気持ちは不要だ。中途半端に行動しても意味がない。 そして、俺が心から香奈に機嫌を直して欲しいと思っていることは、現実なのだから、もしかすればこの気持ちは反省とは違うのかもしれないが、許しを請うという意味では、間違いなく謝罪では、ある。 「あの日、連絡を取らなくて悪かった」「最初にそれを言い忘れて悪か」とここまで言ったところで、急に香奈が口を開き「バイト大事にするのはいいことだよ。そういう責任感のあるところ好きだよ。でも、若の言い方、家族を大事にしてないみたいだった。連絡がないことも悲しいことも寂しいことも我慢して当然みたいな言い方だった。若が好きだよ。でも、あんな言い方されたらやだよ。不器用で楽ができない真面目で一所懸命な若が好きだよ。でも、若は私達が好きじゃないみたいな、私たちならぞんざいに扱っても平気だって思ってる言い方になってた。それがホントじゃなくても、でも、言葉って大事だよ。言葉なんて、ただの言葉だけど、でも言葉が嬉しかったり悲しかったり、感動したり、傷ついたりするんだよ。無理に約束守ろうとしてくれなくていいよ。いろいろあること、わかるもん。だから、今日みたいに家が綺麗だったり、ご飯作ってくれたり、やれるときに、若がやれるだけのことをしてくれたら嬉しいよ。約束破られたことは、若にとってそれだけの理由があったから仕方ないけど、でも、最初の言葉が仕事だったから仕方ないだろ、なんて言われ方、絶対やだし、移動中にでも、トイレに立つ間だけでも、一言でも連絡入れて欲しかった。若が携帯とか好きじゃないのは知ってるよ。でも、わけがわからないまま、若がいなくて、朝ビックリして泣いてる若菜ちゃんを慰めたりするのは辛かったよ。潮干狩り中は、そうでもなかったけど、でも龍星くんは若がいなくてずっと拗ねてたんだよ」 色々おかしいところもあったが、それでも香奈は振り向き、まだ俺と顔を突き合わせてきちんと会話してくれる。 「私も大人げなかったけど、でも、聞きたくなったよ。仕事と若菜ちゃんたちとどっちが大事なのって。働いてる私がだよ。言い方ってあるんだよ。私一人なら許せても、子供たちまでないがしろにするのは許せない」 俺自身には蔑ろにする気はなかったのだが、確かに言葉を惜しみ、それを選ぶ手間すらかけなかった、そして言ってもいないことを解れというのは、それは乱暴だ。香奈もあの時は異様に攻撃的だったが、そうしたのは、たぶん、俺なのだろうなと漠然と思う。だから、謝罪の言葉を重ねることにした。 「悪かった」「そんなんじゃやだ」 即座に言葉を投げてきた、その意図を察して小さく息を吐いてから、頭を下げる。ここまで来たら最後まで泥をかぶってやる。香奈が悪いのかどうかは、まだ判断がつかないけれど、交通事故で言えば六・四で、恐らく俺の方が悪い。おそらく。バイトをして疲れているところに香奈の攻撃を喰らったとしても、おそらく、俺が――悪くはなくとも、少なくとも今は隣にして欲しいのだから、謝る。 「すみませんでした」 言うと、急に、香奈が立ち上がり俺の後頭部に手を伸ばして抱きついてきた。 「……私、若のこと、すごく大好きなんだから。大好きなのに、こんな言葉いうの、こんなふうになるの、すごく、ヤだよ。あんなふうに言われるの、やだよ。だいすきなひとと、けんかするのって、嫌いなひととするよりずっと、つら、つらいんだから……わかしのおたんこなす! ちゃんと龍星くんと若菜ちゃんにあやまってよね! ふたりともすごく寂しそうだったんだから! バネさんたちが一所懸命二人と遊んでくれたんだから! 若のせいなんだからね! 好きな人に約束やぶられるのはすごく寂しいんだから! いきなりいなくなったら悲しいんだから! せめて破り方くらいやさしくしてくれなくっちゃ割に合わないよ」 途中まで喋っていた香奈の声が震えたかと思うと、それを強引に押さえつけるためにか、声を大きくして一気にまくしたてられた。しかし、おたんこなすをとっさに選び出す語彙はいかんともしがたい感じがする。 宥めるために肩から背を何度も撫でてやると、しばらくしてから香奈は頬を摺り寄せて、ふてくされて、俺の鎖骨のあたりに頭を押し付けて甘えてくる。ああ、普段通りだな、と思う。やっと、平常が戻ってきた。 昔から、一気に怒り、それを一気にまくし立てて放出しきってしまうと、甘えてくる。変わらない。ただ、今回の怒りは激しく、普段よりも長い時間俺と会いたくもなかったようだった。つまり――これが、離別の欠片か。光をはじくように存在を主張するそれを落としてやるように香奈の肩を、髪を、頬を、背を、腕を、撫でてやる。 この欠片でもって、俺を一生恨むほどの傷をつけることが、もしかすれば、出来るのかもしれない。けれど。それは、最終手段だ。 「あいつらには、あとでもう一度謝っておく」 「当たり前」 拗ねたような可愛くない声を出しながら香奈は腕を放して、ほんの少し数センチだけ、俺から離れた。しぐさだけは偉そうな猫のように、触らせてやってもいいぞとでも言うかのように、それ以上は離れない。 「これからはちゃんと連絡するから」 「それも当たり前。でも、できなかったときでも、ちゃんと謝ってくれたらいいんだよ。誰を私たちより優先してもいいよ。けど、誰よりも私たちにやさしくして。大事にして。その分、できなかったときは、ちゃんと我慢するから」 言葉を重ねると、香奈は、己の肩のあたりを撫でていた俺の手を拉致して、自分の頬に押し当てさせながらそんなことを言う。 そして最後に「怒ってごめんね」と言った。一番最初に予想していたそれを、今まで総ての予想を裏切られていたのに、最後の最後にそれだけが当たっていて、思わず笑いそうになった。 どうしようもない。やはり、俺は香奈が好きで、だから、謝ってやることも厭えない。 離れていた分を、取り戻すように柔らかく抱きしめてやると、俺の腕に大人しく捕らえられた香奈は、小さくため息をついた。それの意味を聞くような、藪をつつくような真似はせずに、ふわりとした香奈の頬に唇を軽く寄せると、もう一度香奈は大きくため息をついてから、困ったように笑う。 久々に見たその笑顔に、脈が速くなる程度には、俺はまだ香奈が好きなようだ。 |