別に、何も不満はなかった。
 出来婚だということを吹聴したくなかったし、私個人は授かり婚という言葉にも抵抗があったし、みんなで「可愛がってくれた親戚が長くないので結婚を急いでいる」という建前を作ったときも、別に何も不満はなかった。もちろん、若のご実家の世間体の問題もあったんだろうけれど、お義父さんたちはそういう建前を考えてくれて、誰かにしつこく聞かれたらそう答える。普段は何も言わない、というのを徹底していた。
 学校の先生にすら「子供が可愛くないから学校に来るんだろう」とか、ぼそっと言われたし。結婚する道具と見ているんだろう、みたいなことも言われた。これが世間の目なんだなと思うと悲しかったけれど仕方ないとも思った。
 避妊をしなかったんだろう……、周りから見ると、そうとしか思えないし。はしたない人間だと思われてしまうのは仕方のないことだった。仕方ないけれど、悲しかった。一番お腹が大きかった頃は春休みだったけれど、やっぱり、安定期に入れば気づく人もいた。
 しつこく聞かれれば、私はみんなで作った物語を、説明口調で話した。それでも、若のご実家にも、私の両親にも、主に親戚から批難がいった。ご近所は噂をして色々聞きたがった。
 私の両親は「それも含めて覚悟していたんでしょ」と言った。「私達は覚悟してたよ」とも。若のご家族も「仕方ない」と諦めていた。
 若い男女の同棲を許し、結婚を許す、そんな家なのだろう。子供も最低だが、親がおかしい。
 悲しかった。
 でも、仕方ないと割り切った。若やそのご家族や、私の家族に、申し訳ないとは思ったけれど。苦しいことがあっても子供達はかわいかったし、歳の近いお母さん方は年下の私を気にかけてくれる人が多かった。悪口を言う人もいたけれど、やっぱり、仕方のないことだと諦めていた。だって、私は子供達を堕胎する勇気もなかったから。子供達にだって苦労させてしまうとわかっていたのに、産みたがったのは私だから。
 仕方のないこと。
 そう割り切っていた。


 正義の味方と世界の味方

 どうしよう。これって小曾根に言うべきなのかな。この馬鹿が酔っ払ってべらべらしゃべってる話。
 小曾根が色々苦労してたのはなんとなく知ってるし、それがこいつの所為だったのかと思うと気持ち悪すぎてはらわたが煮えくり返る。別にそんなに小曾根と仲が良かったわけじゃないけど、デザフェスとかで、梱包が終わらないと自分のグループでなくても手伝ってくれたり、まあ、普通にいい子な感じで、俺の印象ではケサランパサランみたいな、なんかふわふわしてて何を考えてるのかわからないけど悪いことはしなさそう……て印象の子だった。
 一年の秋ごろから具合が悪そうにしていて、冬休みに入る前には傍目から見て妊娠してるんだなと言うことはわかったし、なんで休学なり退学なりしないのか不思議だったけど。たまに彼氏? 旦那? が迎えに来て、二人で手を繋いで歩いてる様子は微笑ましかった。だから、小曾根と仲良かったほとんどは応援してたんじゃないかなと思う。結構色々言ってた奴も多かったけど。
「でもさー、結婚するとは思わなくってー。てか堕ろせって言われて別れるかなってー」
 アルコールの過剰摂取でだらっだら喋ってるヤツを見て、殴りたいなと思った。しないけど。

 OB会は神保町のメキシカンバーで行われた。
 店内はカウンターに近づくほど薄暗く、テーブル周りは明るい光彩にしてあって、赤いライトが怪しげな雰囲気もかもしれいたけれど、手作り感の多いわりには、それが安っぽくない内装だった。大テーブルに料理を取りにいくビュッフェ方式で、これは主催のヤツが「居酒屋じゃ席が決まってみんな動かない!」という主張をしていたので、色んなやつと話すための措置だったんだろう。
 せめてこいつが料理取りに行って小曾根と会わないように気をつけないとなー……というか、こいつってこんなにクズだったっけ? 小曾根のことが好きだって言うのはうすうす感じてたし、消しゴムを小曾根にプレゼントされたとか、小曾根が自分にアピールしてくるとか、妄想を口に出してはみんなが内心でまた始まった……ってなるただの勘違いの妄想族だと思ってたけど。
 メキシコビールらしいテカテの瓶にライムを落とし入れて、瓶のままちびちび飲みながら、もう一度、殴っていいかなー、と思った。また妄言を吐いてる可能性もあるけれど、それにしてはツッこみに的確に返事がくる。こういうのって傷害罪とかになんのかなー……。
「いやでも結構ばれないモンだなー、穴あけてもー」
 死ね、と口に出しそうになってテカテを口に運ぶ。だるい。こいつと話してるのだるい。でも、今更こんなんバレたら小曾根可哀想。でも言うべき? わかんねー。わかんないー。せめてこいつがあっちこっち行かないようにここで相手してやるくらいしか出来ないよー。
「家捜しとか引く! マジ引く!」
 ヤツの隣の出来上がった熊男が「お前最低だ!」とだんだんテーブルを叩き始めた。おいおい、騒ぐなよ。小曾根に聞こえたら本当可哀想。あと泣くなよ。きもいよ。なにこのカウンターのメンバー。きもいよ。テカテはけっこう美味しい。でもコロナビールの方が舌にはなじむ。ヤツはテキーラを飲んでいる。メキシコといえばテキーラらしい。つーか、そんなもんカパカパ飲むからあっという間に出来上がるんだろう。アルコール中毒にでもなればいいのに。このヴァンパイアカクテルってなんだ。メキシコ人。
「トイレのすきにー寝室のサイドボード探したらあったんだもんー」
 ふつーひとんちの寝室とかはいんねーよ、探さねーよ、馬鹿。どうしよう、こいつきもい。思ったよりもずっとキモい。
「穴あけたのだって三つだし」
「ふざけるな!」
 おいおい熊ー。やめて、今更こんなのバレたら小曾根可哀想だから。俺はもう言わない方向で決めたよ。今幸せならそれでいいじゃん。今だよ、今。コイツの馬鹿というか犯罪行為を知らされたって小曾根困るだろ。もう喋るなよ。潰したい。度数高いのないか。熊もコイツもさっさと潰そう。テキーラ飲まそう。
 てか小曾根はわざわざグラス返却しに来なくていい……小曾根。え。え?
 ガン見してしまった。何故か真横にいる小曾根を。ていうか、いや、グラス返しに来たってのはわかるけど。あれ?
小曾根……今幸せですか?」
 急に熊が眉間に丸太を挟めそうな皺を作って小曾根に聞いた。彼女は急に変な口調の熊に離しかけられたことに驚いて、目をぱちぱちさせてから「うん」と微笑んだ。「そーかぁ……良かった! 良かったんですね!!」と熊は落胆したのかキレたのか喜んだのか何なのかわからないけど、まあ、それで会話は終わるはずだった。
 のに。
 馬鹿が。
「それって俺のおかげだしー感謝ー?」
 とかわけのわからないことを言いだした。俺と熊は少しわかる。でも、小曾根はさっきの熊に対するよりもおよび腰な雰囲気で軽く小首を傾げた。あ、小曾根、馬鹿のこと苦手なんだなと思った。
「何言ってんだよ。もーこいつら出来上がってるから小曾根は席もどれって。酔っ払いにはお手を触れないで下さい」「いまでもーピンクに黒いレースのゴムつかってるのー? ていうかあれだれのしゅみだよ」
 俺の言葉にかぶせながら、馬鹿がケタケタ笑いながら爆弾を投下した。
 小曾根は最初は意味がわからなかったのか首を傾げたまま固まってたけど、少し後に、暗い照明でもわかるくらい顔が紙のように白くなった。その瞬間、熊が馬鹿を殴った。俺は酔っ払っていたけれどそれプラス演技で「お前ら飲みすぎぃ〜」とおどけて甲高く言いながら「あれ! あれ旨いよ! 食べた? 食べた?」と頭の悪いガキみたいに小曾根を大テーブルまで引っ張って馬鹿どもから引き離した。
 紙と言うか死人みたいな土気色の顔をした小曾根は、それでも、おれがふざけてるのに合わせて、かすかに微笑んだ。うわ、可哀想。別に仲良くないけど。でも可哀想。
 俺達の背後のカウンターでは「やめろよ」とか「喧嘩すんな」とか騒然とした雰囲気にプラスしてふざけすぎみたいな引いた空気が漂った。
 でも、止めを刺したのは熊だった。あいつ、ぶっちゃけた。大声で。馬鹿がやったことを。糾弾するにしたって、それはねーよ。お前ら同罪だよ。コイツは最低だとか言ってるけど、それよりお前ら、この蒼白も土気色も通り越した蝋人形みたいな小曾根どーすんだよ。
 俺がおろおろしてる間に「ごめん、私帰るね。私がいると、飲む雰囲気じゃなくなっちゃいそうだし」と小曾根は主催に言って、でも主催は悪いのは馬鹿だからつまみ出すなら馬鹿と熊だと言った。そうだそうだ、その通りだ。
「うん、ありがとう。でもやっぱり、私もちょっと楽しめる気分じゃないから」
 そう言って出口に足を進めた小曾根の背中に「俺のおかげでかわいい子供が出来たんじゃん! 感謝されても殴られるりゆうはねーよ!」というとんでもない言葉がぶち当たった。いや、馬鹿は熊に言ったんだけど。
 こっから先は馬鹿糾弾大会になった。
 小曾根は女の友達と一緒に出てった。とりあえず追いかけた。
「OB会ダメにしちゃってごめん」
 なんで小曾根が謝るの。謝る理由一つもないじゃん。
「空気悪くしちゃったね」
 いや、悪くしたの小曾根じゃないじゃん。
「私のことは気にしなくて大丈夫だよ」
 でも気になるし。
 こういうとき、女はペラペラ言葉が出てすげーなと思う。うざったい時もあるけど、なんもないと気分が落ち込みすぎることもあるし。風は結構冷たかったけど、でもダウンとか着るほどじゃない感じで、小曾根の薄い上着がぺらりと揺れた。俺は本当ついてってるだけだった。女はこういう時、ほんとすごい。
 最寄り駅で、小曾根は女友達に礼を言ってから、俺にも「先輩もありがとうございます」て言ってくれた。俺役に立たなかったけど。

 ◆◇◆

 まず最初に思ったのは、若に申し訳ないということだった。

 あの時だってすごい大喧嘩をしたのに、まさか、あの時、まさか。駅のホームで、ベンチに座りながら、涙を堪えることに全神経を集中させた。ここは私の泣く場所じゃない。私の泣いていい場所は若の隣。そう決めてたから。
 でも、こんなこと、言えない。
 言えるわけがない。
 言ってはいけない。
 絶対に。
 若と双子にだけは知られちゃいけない。
 私だって、知りたくなかった。
 知りたくなかったよ。
 ごめんね、若、私が、私があの時、あの人を家に入れたから、だから、こんなことになってしまって。
 私が泣いたら、若は絶対に理由を聞く。理由を言わなくても、若はきっと私のことを気にしちゃう。泣けない。いえない。いいたくない。いっちゃいけない。なかったことにしたい。きかなかったことにしたい。いやだよ。どうしたらいいの。いやだよ。なんで。ひどい。ひどい。ひどい。あの人の所為で若の運命が人生が全て狂ってしまった。私が、あのとき、あの人を家に入れた所為で。
 ごめんね若。ごめんなさい。全部喋って謝ってしまいたい。でも、そんなこと出来ない。謝っても、私の罪悪感が薄れるだけで、自己満足なだけで、何も、何もいいことなんてない。若を苦しめるだけ。若にこの苦しさを半分押し付けるだけ。それだけの謝罪なんて、しちゃ、ダメ、だ。
 子供達はかわいい、双子達が産まれなければ良かったなんて、今でも思ってない。出会えて幸せ。産まれて来てくれて嬉しい。それでも、そのキッカケのことを思うと、子供達を愛しているならそれでいいじゃんなんて、そんな簡単に思えない。
 命を、生命なのに。魂なのに。生きているのに。そんな、そんな理由で。あの子達は、結果的に道具として作られて、つくらされて、ああ、もうわからない。頭の中が潰れた果物みたいにグシャグシャだ。
 ひどい。お義母さんにもお義父さんにも、お義祖母さんにも、若は頭を下げて私や子供達を大事にしてくれて、それが、全部。そんな。そんなのってひどい。みんな、辛い気持ちを押さえ込んで、中傷を受け止めて、苦しんでくれたのは、私の我侭のために。なのに。
 若に抱きしめて欲しいけど、言わないでいられる自信がない。でも、絶対に伝えたくない。絶対に伝えたらいけない。
 なんで? なんで今更。なんで今更。なんで……
 まどかちゃんに話を聞いて欲しくて、家に帰れなくて、駅のホームで電話したけど、出られないみたいで、次に赤也って思ったけど、こんな話を、大人しく聞ける人じゃないって思い直す。ママたちには言えない。パパは絶対になんかよくわからないけど大事にしそうで怖い。
 誰か助けて。苦しい。苦しいよ。もうやだ。なんで。

 若と私を別れさせるために、あの子達はあの人の悪戯によって生み出されたの?

 悪戯なんてレベルじゃ、ない。
 若も好き、あの子達も好き。わかってる。もうそんなことを考えたって仕方ないって。私は今幸せなんだから。そんなことを気にしても仕方ないって。もう全ては過ぎてしまって、もう全ては過去のことで。考えても悩んでも苦しんでも何も変わらない。
 でも、そうやって気にしないでいられるほど、私は大人じゃない。やだよ。こんなこと、知りたくなかった。
 不思議なタイミングだったって、宿命だったって、もう私たちが避妊していなかった、はしたなくていやらしい人間だったって思われてもいい。その方がずっといい。そうだったら良かったのに。そうだったら……そうだったらどんなに良かったか。
 ぐ、って喉が詰まって、苦しさにぱたりと涙が一滴落ちた。だめ、こんな所で泣けない。そう思って、必死に指で拭う。涙は頬から目尻に伸ばされて、でもまた溢れてしまう。
 いい大人なのに、こんな所で泣いていいはずがない。うつむいて、呼吸を整えながら、目をぎゅっと瞑る。ちかちかと白い光が目の裏で弾ける。
 若、若、若、ごめんね。貴方の人生が、こうなってしまったのは、全てが私の所為だった。運命も宿命も何もない。
 私があの人の悪意に気づけなくって、若はいつでも私を守ってくれていたのに、私は、いつも若を酷いほうへ辛いほうへ、付き合っているんだからと無理矢理一蓮托生にして、引きずり込んで、いつも、いつも。
「……ごめっ、ね……」
 喉から勝手に漏れたうめきは、小さくて小さくて苦しくて苦しくて辛くて辛くて悲しくて悲しくて悔しくて悔しくてもう、どうしようも、ない。もうどうしようも、ない。受け入れて、受け止めて、その上でなかったことにして、笑顔で、若には、笑顔を。子供たちには、お母さんの顔を。して、ないと。でも……涙が、なんで、ひどいよ。ひどい。
 お義父さんも、お義母さんも、お義祖父さんも、お義祖母さんも、パパも、ママも、若も、子供たちも、みんなを巻き込んで、あの人を私が家に入れた所為で。みんな、醜聞に、世間体に、近所の目に、親戚の目に、色んなものに、晒されて、それでも私の我侭で我慢してもらって、我慢してくれて、それが全部、全部、ただの悪意の悪戯から始まったもので。どうしたらいいの。どうしようもない。ごめんなさい。ごめんなさい。謝ることも出来ない。謝ったらいけない。少なくとも、若と子供たちには絶対に。絶対に。
 泣いたらダメ。いつもと同じ笑顔で帰らないと。ああ、でも私は、泣き上戸だって、若は知ってるからそれで、誤魔化せないかな。絶対に気づかれたくない。若まで、苦しませたく、ないよ。

 家に帰ったときの顔は酷いものだったらしく、玄関のドアを開けた若は変な顔をして私を見下ろして、いきなりおでこからほっぺたから鼻の頭からいろんな所にキスされた。私たちは、とても仲がいいって言われる。私たちは、いつもラブラブねって、言われる。付き合ってから、いろんなことがあった。とりとめもない日常もあって、とんでもない事件もあって、それでも私たちは、いつも一緒にいた。若はいつも一緒にいてくれた。結婚したとき、“私たち”って“私たち家族”って括れるようになったのが嬉しかった。私たちは、私たちは――
 零れた涙をちゅって吸ってくれた。マスカラまで飲んじゃったんじゃないのって心配だったけど、私の喉からはうぇぇぇええみたいな、ヤギの鳴き声みたいなのが出てくるだけだった。背後からはカチャリとチェーンロックがかけられた音がして、そのあとに、ぎゅうって抱きしめてもらえた。若の硬い胸に、顔が埋る。いつも、こうやって抱きしめてもらってた。この体温に、癒されて、助けられてた。
 泣き上戸なの知ってるのに『またか』とか『いい加減にしろ』とか突き放したりしないで、お酒の所為だとしても――若がそう思っていても――こうやって慰めてくれる。
 ごめんね、若。私、こんな大きな秘密を、でも、あなたには話せないの。話したら私は私が嫌いになる。話したら私は最低の人間になっちゃう。それだけなら、まだいいけれど、話したら、若が苦しくなる。私みたいに辛くなる。それは絶対に嫌なの。絶対に絶対に嫌なの。
 さらさらで、触れるとくすぐったくて、綺麗な色をした若の髪の毛と、冬の太陽みたいな若の香りと、ただ、ぽんぽんと撫でてくれる大きくて、昔ほどマメは目立たないけど、節のある手。大好きな手。私を抱きしめて、撫でて、涙を拭って、支えてくれていた、大好きな若の手。
「わ、わかっ……だ、だい、だいす、だい、だあい、だっ……すきー……すき、ぃ」
 ヤギの鳴き声の間に一所懸命若に伝える。一所懸命。知って欲しい。わかって欲しい。そういう気持ちもあったけど、大好きって言っていないと、謝ってしまいそうで、ごめんなさいが理性を振り切って溢れてしまいそうで。
「すき、なの……っ」
 若は何も言わない。言わないけど、私の頭に頬を寄せて、さっきよりぎゅっと抱きしめてくれる。私は彼の背中に手を伸ばして、縋りつくみたいに必死にシャツを握る。
 ねえ、若は今、幸せ?
 だったら、私、この秘密は、お墓まで持っていくね。
 若は幸せに生きてね。若には沢山苦労をかけさせてしまったけれど、これ以上辛い思い、しなくていいよ。
 ごめんね、私の所為だったの。
 みんなに、節度がないとか、頭が悪いとか、だらしないとか、いやらしいとか、はしたないとか、子供のことを考えていないのかとか、もうよく覚えていないけれど、ひどいこと、つらいこと、くるしいこと、くやしいこと、かなしいこと、せつないこと、いっぱい言われたよね。学生出来婚で、あの時の私たちは十代で、そんな頃にあなたの未来の大きな道筋を決めてしまった。全部、全部、私のうかつな行動の所為だったの。それに、若を巻き込んでしまった。
 でも、若は、きっとそう思ってないよね。自分で選んで自分で決めたっていうよね。そう思ってなくても、あなたは優しいから、私の前ではそうやって、大人の男の人になって、私を守るために、強くなってしまう。私と同じように辛い気持ちになるとしても、私が悲しんでいたら自分の辛さを後回しにしちゃう。でも、そんなの、ダメだよ。
 ごめんね、ごめんね。好きという言葉に、ごめんねを込めてしまって、ごめんね。
 私はどうでもいいの。若が幸せなら、それでいい。お願いだから、気づかないで。大好きだよ。大好きだよ。大好きだよ。幸せになってね。幸せに生きてね。お願いだから。貴方たちが幸せに生きてくれることが、それだけが、私の望みだから。大好きだよ、若。大好きだよ。ごめんね。大好きだよ。私が、若を好きじゃなかったら、もっと苦労しない生き方が出来たんだろうね。道連れにして、ごめんね。
 神様、私はどうでもいいから、どうか、どうか、この人と、この人の子供たちを幸せにしてあげてください。

 ◆◇◆

 変な酒の飲み方をしたのか、今日はやけに泣きじゃくっている。
 今も、ソファに座った俺の腰に両腕を巻きつけて、俺のことだ好きだと連呼しながら泣いている。
 正直に言うと若干以上に気持ち悪い。久々にドン引きした。
 髪を梳いてやりながらも、こいつはいつ泣き止むのかと少々うんざりした気持ちで、腰にまとわりつく香奈を見下ろす。あまり強く巻きついて頬まで寄せてくるので、俺の寝巻用の着古したシャツには香奈の化粧の肌色が擦り付いてしまっている。
 先ほど、どうしたんだ? と訊ねたところ、訊いたら駄目とより一層泣き声を大きくしたので、ほとほと困り果ててしまった。それからはもうただひたすら「若、大好き」の連呼だけだ。辛く苦しそうな顔は、嫌だとか怖いとかをわめいている方が似合う表情だが、香奈は大好き以外を発さない。
「あんまり泣いてるとやるからな」
「し、たくなぃー」
 泣いていても自分の意志は即座にはっきり伝えてくるところが、あまりに若菜にそっくりで思わず笑ってしまった。
 その瞬間、暗闇の中の猫のように、香奈の瞳が大きく開いた。どうした? と訊く変わりに頬を撫でてやる。
「若は、幸せ?」
 と、小さく震える声で訊いてきた。その拍子にころりと、また一滴香奈の頬を涙が伝う。
香奈と、子供たちがいて、不幸せだと思うのか?」
 訊き返すと、またくしゃりと顔を歪めてひっひっとしゃくりあげて泣き始めた。鬱陶しい女だ。
「これ以上泣いていたら、本当に抱くからな」「やだっ」
 即答だった。
 香奈は気分が乗らないときは絶対に抱かせない。抱かれることが出来ないことを知っていて言う俺も俺だが――下世話な話だが、強引にすると濡れることもない。酷い時は発作を起こして錯乱状態に陥り、過呼吸だの何だのでぶっ倒れることもあった。――「じゃあ、泣くのを止めろ」何の効力もない、この“じゃあ”に素直に従おうとする香奈はあまりに頭が悪い。
 また誰かのちょっとした一言を大きく拡大して思い込み、不安だの後悔だのに駆られているんだろう。
 今日は酒は飲まないと言っていたが、奈良漬けでさえ量によっては酔うのではないかと言うほどアレルギーに近いのではないかと思うほどアルコールに弱い香奈のこと、何か不用意に口にした可能性もある。
 必死に涙を止めようとする香奈に、化粧で目の周りを黒くしてしまっている顔に、諦観でもって彼女の頭を撫で、髪を梳いてやっていると、突然、双子が泣き出した。
 その声で我に返ったのか、香奈は一度くすんと鼻を啜ると子供達のいる寝室へと歩き出す。それを引き止めて風呂へ入るように言い、まだ本泣きではなくただぐずっている息子をベッドに腰を下ろしてあやす。
 風呂に入ると大分落ち着いたのか、香奈は湯上りの香りをさせたまま寝室にやってきて、気恥ずかしげにぎこちなく笑う。俺の腕の中で頬を涙にぬらす息子を見てから「龍星くんが泣き虫なのはママに似ちゃったのかも。ごめんね」などと言い、その小さな手のひらを食べるようなあやし方をして、見事に息子の機嫌を治してみせた。その顔は先ほどまでの泣きじゃくる子供のものから、少しだけ普段の香奈に近づいている。
 けれど、龍星を寝かしつけた後は、寝室のベッドに身を沈めた俺に、またも縋るように寄り添ってくる。
「ごめんね。酔っ払っちゃった」
 未だに挙動不審だが、それでも俺には何も言う気がなさそうなので、追求せずに強めに頭を撫でてやる。聞き出そうかと少し思ったが、今の酔い方だと余計に泣きそうな感じもする。あまり泣かれてひどい顔で外に出られると、俺が香奈に何かしたように思われそうで、それがわずらわしい。
 傍らの香奈は、ソファでそうしていたように、俺の腰から腹の辺りに手を置いて、ぬいぐるみでも抱くかのようにしている。
 しばらく、ただただそのままじっとしていると、香奈は震える声で「ねえ、若、今幸せ?」と聞いてきた。少し前に同じ質問をされたのに、とても前のことのように感じられた。
「ああ」
 目を瞑って、小さくそう答えてやる。
「……だったら良かった」
 その声にうっすらと目蓋を上げると、香奈は泣き出しそうな表情で、俺の腹を子供を寝かしつけるように軽く撫で叩いた。
 お返しにと、香奈の背を同じように撫で叩いてやると、彼女はゆっくり目蓋を落とし「私も幸せだよ」と淡く消え入りそうな声で伝えてきた。
 その声を聞いて、香奈の脇に手を突っ込み、強引に身体を引き上げ、顔が俺と同じ位置にくるようにする。香奈の、驚いた猫のように丸く見開かれた瞳に自分の顔が映っていることが見て取れる。
 その表情を眺めながら片方の腕を伸ばしてサイドボードの明かりを小さくすると、香奈は俺のシャツの肩の辺りを握って震えた声で訴えてきた。
「わたし、若と出会ったことも好きになったことも付き合ったことも子供を産んだことも結婚したことも、後悔してないよ」
「なら、笑え」
 暗い中でも、香奈が俺の言葉に表情を取り繕ったのがわかる。
 稀に頑固で意固地になりはするものの、昔から基本的には素直で、だから今もいびつに笑っているんだろう。
「若は、後悔してない?」
「さっきも答えた」
「何があっても?」
「何が、の内容による」
 怯えたような問いにうんざりしながら答えると、俺の返答に香奈が泣きそうになっていることだけがわかった。
 本当に面倒臭い女だ。そう思いはしても、無視をして寝ることもなく、こうやって頬をなでてやる俺は、彼女を甘やかしすぎている気もする。唯一の救いは香奈が甘やかされても図に乗り過ぎない点だけだ。
「俺といることを、香奈が、後悔していたら、後悔する」
 禅問答のような、意味が一聞ではわかりづらい俺の言葉の意味を脳内で反芻しているらしい香奈は、静かに呼吸だけを繰り返している。
 あまりに反応がなかったので、泣き疲れて眠ってしまったのだろうかと、俺も眠るかと目蓋を落としたとき「若を世界で一番幸せにしたげるから」と妙に意気込みすぎた宣言が耳に飛び込んできた。
「私は、幸せ、だから」
 俺の首に置かれた香奈の手には全く力は入っていなかったが、言葉だけは決意を決めたように強く硬い。
「だから、若も、幸せ、だから」
 もう一度、何を言われたのか聞き出すべきか悩んだが、喋って気が晴れる類のものと、喋ることで記憶を刺激して辛くなるものとの違いがわからず、ただうなづくにとどめた。寝て起きた時には酒も抜けていつものようにのほほんとした顔で俺の隣にいるように、願いをこめて軽く鼻先に口付けてやる。
 すると、また「若が好き」と呪文を唱え始めた香奈に、少々呆れながら「俺も同じ気持ちだからさっさと寝ろ」と言い、夜泣きするには大きすぎる子供をあやすことに集中した。
 結局、俺は香奈がアルコールの所為であろうとこうやって思いつめて泣いていれば慰めてやりたいと思うし、涙を止めてやりたいと思う。そうして、すぐにそうできる場所に自分がいて、すぐにそうしてやれる自分に満足しているのだろう。究極、俺は世界も正義も何もかもが関係なく、ただひたすらに香奈だけが平穏で笑っていればそれでいいのだろう。甲斐性のない男で、矮小な人間だと思ってみても、それでも。それでも。