リビングのソファに座って中国語の教科書を読んでいると、一つの緑茶と一つのミルクティーを手にした香奈が、俺の足元の床に腰を下ろして、目の前のローテーブルに二つの杯を置いた。どちらも、溶けかけた綿菓子のように淡い湯気の幕を空中に広げている。 軽く足を広げて、より深く腰掛け直すと、ピンと張られた革とステンレスの金属とが、乾いた音を立てた。 香奈は俺の爪先と爪先の間に、再度腰を下ろした。どうしてか知らないが、香奈はあまり、隣には座りたがらない。言えば、そろそろと腰を下ろすけれど。 「お茶ー」 言いながら差し出された湯飲みを「自分で取れる」と断る。香奈は気を悪くした様子もなく「そか」と頷くとローテーブルの上にそれを置き、自分のカップを手にすると、ちびちびと飲み始めた。 ローテーブルの上には、建設予定の商業施設の間取り資料が散らばっており、香奈は取りとめもなくそれをめくっては、別の資料を見、独り言を呟いている。 今年二十二になる香奈は現在我が家の大黒柱だ。生活の足しにと、配偶者控除を受けられる程度の金額を俺がバイト代でいれている。十六の時には、こんなことになるとは思いもよらなかった。 午前中に二時間の家庭教師のバイトを終え、昼食を辞退して帰ってきて、双子とともに香奈の作った食事をとった。双子は現在、昼寝中だ。午後四時からはテニススクールで二時間生意気な子供の面倒を見れば、俺の今日のバイトは終わりだ。漫画で見たなんとかと言う技を教えろだの、子供はいろいろ面倒で鬱陶しいことを言ってくるが、身体を動かすことは好きなので、それで相殺か。いや、テニスをすることも好きなのでどちらかといえばプラスか。どうしても、双子が生まれてから昔のようにテニスには打ち込めない。それはもう、仕方がないとあきらめたことだけれど。 天気は、世辞でもいいとはいえないが、雲間から所々まるで死人を天国にでも連れて行こうとしているのか、はたまたグレイがUFOで人間を吸い込もうとしているのかというような陽光が落ちてくる、暑くも寒くもない、運動するには丁度よい天気だった。 採光のために、遮光カーテンを留めた、今はレースカーテンのみ窓からは、細かい文字を読むにはあまり適してはいないけれど、問題はない程度の曖昧な白が室内を照らしていた。 「若」 声をかけられ、床に座っている香奈を見下ろすと、彼女は首を痛くなるのではないかというほどしならせて、俺を見上げていた。 「時間になったら起こしたげるから、寝ててもいいよ」 そんな状態で喋るものだから、いくら女とは言え、しっかりと喉仏が上下する様がうかがえた。何か、小型の生き物でもその細い咽喉に飼っているようだ。 「……いや、大丈夫だ。中途半端に寝ると余計眠くなる。むしろ、お前が寝たらどうだ?」 疲れているだろうとまでは言わず、その喉に指を下ろすと、猫の機嫌をとるようにくすぐり、撫でてやる。 「どうせ、会社のパソコンじゃないと作業できないんだろう?」 我が家の、香奈が専門で使う為に持ち込んだパソコンでは、必要なアプリケーション――というのだろうか――が入っていないらしいことは、少し前に香奈が嘆いていた。 「んーん、せっかく若と二人きりだから、起きてる」 「どうせお互い勉強と仕事だろ。起きてても無駄だ」 喉を辿っていた手を引き上げ、頬のあたりを撫でてやると、香奈は小さく首を振った。慣れてきた所為か、長く一緒にいる所為か、お互いの声に、感情らしい感情は感じられない。ただ、お互いがリラックスしていることだけは、わかる。 「んん。一通りコレ見終わったらお掃除と夕飯の仕込みするし」 「そうか。いつも悪いな」 頬を撫でていた手を更に引き上げて、香奈の額から頭部に向って撫でつける。現れた額は、というよりも生え際は、その産毛の生え方が若菜にそっくりだ。そんなちっぽけなことで、顔が緩みそうになるのも、十六の時には思いもよらなかった。 「んーん。でも春からは、若も頑張ってよね。お義父さんたちからの援助、なくなるんだから」 「それは、問題ない。運良く、氷帝中等部に行けることになったからな」 香奈が就職した時、既に香奈のご両親からの金銭的な援助はほとんど切り上げてもらった。俺の両親も、俺の学費程度しか援助してもらっていない。教育実習を母校が受け付けてくれたことにほっとしたが、まさか就職まで面倒見てもらえるとは思っていなかったので、本当に幸運だ。働き始めるまでは何の力もない学生だが、それは仕方がない。 新人の店舗デザイナーの香奈は、雑誌のアンケートページのちいさな絵のバイトもなんとか貰ってきたが、それでも生活は苦しい。もちろん、配偶者が職についていないこと、双子がいることを伝えてあるので、それなりの手当てのようなものを会社にはつけてもらっているらしいが、それでも、なかなか生活は難しい。 光熱費と家賃と食費で香奈の給料を消費し、俺のバイト代で双子に必要なものと多少の生活雑貨を買い、多少の余りが出る程度だが、実際には医療費だの、学費の貯金(今のところ保険ではない)何だので、かなりギリギリだった。マイナスだけは出さないようにしてはいるが。 最近、香奈はこんにゃくを凍らせて肉っぽくするのにはまっているらしく、俺を騙せるほどのものを作ろうと楽しそうに調理しているが、なんとなく、夫という立場を手に入れた人間としては、それがとても申し訳ない。 本当は双子を幼稚園にも入れてやりたかったのだが、今は、両家の親の都合が会わない時だけナーサリーに行かせている。双子はそれなりに楽しそうにしているが、俺が就職したら、幼稚園に行かせてやりたいと思う。 つらつらとそんなことを考えていると、香奈が「若」と、また声をかけてきた。 「くび、痛い」 そう言われ、自分がいまだ香奈の額に手を置いていたことを思い出して慌てて引く。香奈は、俺の手が離れると首をぐるぐると左右に交互に回した。 「何か考えごと?」 そして、そう言いながら、俺の膝に顎を乗せてくる。もう一度手を伸ばして、香奈の頬を撫でる。 「お前、そうしてると俺に仕える武士みたいだな」 「ちょ、武士って!?」 一瞬思ったことを言うと、香奈はがばっと勢いよく、頭を上げて文句を言ってくる。重力にしたがっていた髪の先は、遅れて香奈の後をふわりと追う。 「晒し首っぽいしな」 頬を撫でていた手を膝に置くと、香奈はすかさずその甲を軽くつねった。もちろん痛くないが、引き攣れるような感覚は少し不快だ。 けれど、香奈はすぐに抓っていた指を放すと、今度は膝の上の俺の手の甲に頬を乗せ、斜めがちに見上げてくる。そして、溜息を吐いた。 「でも、そうかも」 見上げるのが疲れたのか、俺の言葉を肯定すると、香奈は目を伏せた。伏せられた睫毛は、位置の所為か普段より長く見える。何とはなしにそれを眺めていると香奈がぽつりと言う。 「……打ち首にしないでよね」 その言い草に、最初に言ったのは自分なのに笑ってしまう。香奈も、俺の呼気に気付いたのか、小さく笑い声をもらした。 「さあ。香奈は嘘つきだしな……どうしようか」 そう言うと、香奈は顔を上げて、膝立ちになった。急のことに驚いていると、いきなり両頬をそれなりの力で抓られた。痛いので香奈の手を振り払う寸前「嘘なんて言ってないよ! なんでそんなこというの!」と眉間に皺を寄せた怒った顔で言われた。 別に俺は、嘘自体には善悪の感想を持たないので、香奈が怒った意味がわからない。何かやましいことでもあるのかと怒っている瞳を見つめ返したが、単純に怒っているようにしか見えない。なので、簡単に言葉は続けられた。 「辛いのに大丈夫だって言って倒れた上に、終わってない宿題を終わってると言ったな。それから、何も言わないと思ったら切原にだけ寂しいって愚痴ってたし――」 香奈は俺に払われた両手を、今度は俺の両膝に置いた。さわさわとした感触が少しだけくすぐったかった。 「そ、そんなの嘘じゃないもん! それに、最後のは、言わなかっただけで……嘘とは違うでしょ……心配させたくないし……全部昔のことじゃん……」 俺の反論には思ったよりも効果があったらしい。香奈はもごもごと言いながら顔を少しだけ俯けてしまった。頭頂部のつむじがよく見えた。人差し指で押してみる。香奈はそれを嫌がってぷるぷると、風呂に入ったあとの犬が水気を飛ばすように顔を振った。 「別に責めてない。けど、言いたいことは言ったらどうだ」 「若だって、言葉惜しみするじゃん」 「俺は必要なことは言う。香奈は言わない」 必要がないと思うから言葉を省くのだ。それで、誰に寡黙だの不機嫌だの勘違いされようが構わない。適当に始めた会話だったのだが、なぜか香奈は少々シリアスになっているようだった。 「だって――言い過ぎたら、若に鬱陶しいって思われるかなって」 「今でも充分鬱陶しいから安心しろ」 俺の言葉に、また香奈は不機嫌そうに下から睨んでくる。不良の睨み上げのような効果はなく、ただ、幼い子供が拗ねているような、それ。思わず笑いそうになるが、どうも、今日は俺と香奈のテンションが違うようなので、堪える。 「――それに、どうやって喋ろうかなとか、色々、考えると、なんかめんどくさくなっちゃうんだよね。うざくないように、とか、どんな言葉なら不愉快じゃないかな、とか、考えるのと喋るのの、速度が違ってて、喋ってるとわかんなくなっちゃったりするし――でも、それでも、若は自分に必要な分だけは言葉とか、態度とかで、拾ってくれるし、だから、それでいいかなって」 その言い分に、本当に、心底、とても、絶望的なほど、呆れた。眉間に力が入って皺が寄るのがわかる。 「香奈、お前な、俺がどれだけ、気を張ってお前を見てると思ってるんだ。お前が言わないから俺は察さなくちゃいけなくて疲れるんだよ」 思ったよりも、自分の声が強い調子だったので、驚く。これでは、駄々をこねているようではないか。落ち着け、と自分に唱えていると、香奈がむっとした顔で「それはお互い様です。私だって、若が言わないから、何考えてるのかなとか、何を我慢してるのかなとか、何が不安なのかなって考えるよ」とフリーフォールの天辺から落ちるように一気に言った。 「それは考えすぎだ」 「じゃ、若も考えすぎ」 俺が即座に断言すると、香奈も 香奈もそうだったようで、絡んでいた視線の糸が、ふっと緩む。 「年度末だから、四月終わりまで忙しいかも。もしかしたら、若にお迎え頼む日が多くなるかもだから、よろしくね」 「ああ」 「あと、今日はママからもらった 「何の為にうちにはパソコンがあるんだよ」 「あれ? 何の為だろうね。……チョコと蕎麦はもうちょっと待とうかなとは思ってるんだけど――蕗の薹は苦いから嫌がりそうだし、別にちょっと用意しておいた方が妥当かな」 「だろうな」 「ちゅーしてもらっていい?」 「嫌だ」 「けちー」 「ケチで結構」 「早く帰ってきてね」 「ああ」 「大好きだよ?」 「耳に 「うん、大好きー」 「うるさい黙れ馬鹿」 |